セレフィナスの魔女 -それは、祈りを紡ぐ魔法-
魔女との出会い
風が高層の屋上を吹き抜けていく。
街の明かりは夜の底でちらつき、ネオンの川が地上を流れていた。
少年は、その縁に立っていた。両の手はポケットに。前を向いたまま、何も言わない。ただ、靴の先がほんの少し、宙に出ている。
誰にも見つからずに終わることを願っていた。誰にも気づかれず、音も立てず、ただ夜の隙間に落ちていけたなら、それがいいと。けれど。
「死ぬには、少し寒すぎる夜だが。」
その声に、彼は振り向いた。誰もいないはずの屋上に、ひとりの女がいた。
白銀の髪が空気を滑り、透き通る青の瞳がまっすぐ少年を見つめている。美しいというより、幻想めいていた。まるで絵の中から歩き出してきたようだった。
「……誰?」
ラセルは驚きもせず、ぶっきらぼうに尋ねた。
「ただの通りすがりだ。自由になろうとしているようだが、君にはまだ、それは必要ないように見える。」
「そんなこと、あんたに何が分かるの?」
「君の足はまだ、地を離れていない。」
その一言で、少年の肩がぴくりと動いた。
それは、彼が死を望みながらも、“まだ本気ではない”ことを、まるで見透かしているようだった。
「名前は?」
「……ラセル。」
「ラセル。私はセレフィナスの魔女だ。」
「なにそれ、厨二?笑える」
ラセルは、ほんの少しだけ笑って足元を見た。
街の光が遠い。手を伸ばしても、誰の腕もそこにはない。
この高さ、この寒さ、この静けさ――それが、彼の世界だった。
「死ねるって、いいことじゃないの?」
セレフィナスの魔女は少しだけ目を伏せた。
「別に良いことではない。ただ普通のことだ。」
「……だったら、僕を止めないでよ。」
「だがな、ラセル。」
彼女の声は風に混じり、夜の端に消えていきそうなほど淡かった。
「本当は……まだ、今でなくてもいいと思っているんだろう?」
ラセルの喉が動いた。何か言おうとしたが、声にならない。言葉にするには、気持ちがバラけすぎていた。
「いっそのこと死にたいって思ってんだ。」
「あぁ。」
「死ぬのが怖いんじゃなくって。」
それは、うまく言えない感情の、ぎりぎりの言葉だった。
“生きたい”とも“生きたくない”とも言えない少年の、崩れかけの芯だった。
魔女の手が、わずかに震えた。
「そうか。迷っているとこか。」
言いながら、自分の胸にも確かに響いていた。
「…どうしたら良い?誰も教えてくれないんだ。学校だと一方的に、僕が頭がおかしいみたいに言われちゃって。」
ラセルが問いかけた声には、怒りも諦めもなくて、ただどうしようもなく、“途方”があった。
セレフィナスの魔女はその場に膝をついた。高さを合わせて、同じ目線に立つように。そしてそっと腕を伸ばした。手のひらを見せるだけで、掴めとは言わない。死ぬことに対する最後の権利を、彼から取り上げることはなかった。
「では私についてくるか?私は人に終幕を送る魔女だ。人の死を通して、自分を見つめ直すのも良いだろう。死ぬ準備ができたら、私が送ってやる。」
「他人の死なんて、どうてもいいんだけど。」
ラセルは吐き捨てるように言って、しばらく黙っていた。
その沈黙こそが、彼の中で続いていた闘いの時間だった。
そしてほんのわずかに、後ろへ一歩。突然現れた、全く現実味のない女についていこうと思えるほど、彼は人生を諦めていた。
指先が、セレフィナスの魔女の袖に触れる。
「……魔女ってさ」
少年がぽつりと呟いた。
「やたら人のこと、見透かしてくるんだね。」
「どうだかな。」
そのときビルの谷間から、朝の気配が顔を出した。
ごく薄く、淡く、それでも確かに空の色が変わりはじめていた。ラセルは袖を軽く握ったまま、ぽつりと問う。
「生きるって、どうやるの?」
彼女は少しだけ笑った。けれど、からかいじゃない。思わずこぼれた、悲しみとあたたかさの混じった笑みだった。
「さぁな。でも君が今、留まった一歩は、その一部になりうるだろう。」
彼女はゆっくり立ち上がり、ラセルの手を引いた。
ラセルは何も言わなかった。けれどその表情には、ほんの少しの“決意”があった。
死に惹かれていた少年が、死にたさの奥にある何かを、自分自身の手で探そうとしはじめたこと。その始まりに、言葉は必要なかった。
ふたりは屋上を後にした。
白み始めた空が、遠くの雲をやわらかく照らしていた。
セレフィナスの魔女は振り返らなかった。
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