肉体
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そういえば、あいつはいつもなにかと言っていた。
ありがとう、と。口癖のようなそれにはその言葉に込められる意味も感情もなかった気がしてならない。
「ありがとう」は、感謝を伝える時に使う言葉だというのに、名前は「おはよう」と同じ程度にそれを扱い、そしてその意味を忘れていった。
研磨は、それを知っていた。知っていて、何も言わなかった。なにも。
音が鳴る。
耳の奥で、脳味噌のど真ん中で。
音が鳴る。
辿り着いた先は風呂場で、僅かに開いている窓から冷たい風がそっと入ってくる。
空っぽの浴槽に身を沈める名前を、研磨は酷く冷静な頭で見下ろした。
息が、し辛い。
喉の奥がぎゅうとしまって、酸素を吸うという行為を思い出せない。思い出せないまま絞り出した声は、外から侵入する風にさえかき消される。
小さな声で、それでも絞り出した。
「きゅ、うきゅうしゃって何番だっけ、」
ぐるぐると、考えても何一つ出てこない。
やっと出てきた言葉はなんの役にも立たない冷え切った音。
常識であるその番号でさえ、今は脳から追い出され、何もできない役立たずの孤爪研磨という存在がうみだされる。
震える指で、画面を打つ。かじかむ指先が、熱を貪られた指先で、三つの数字を打てば。…………何が変わるというのだろう?
「……すみません、あの」
触らずとも分かる名前の肌の体温は、触れたらこちらまで凍ってしまうようなほど冷たいのだろう。響く自分の声に、研磨は言い知れぬ嫌悪感を肚に抱えた。
目の前で、冷水を吸った体温が転がる中で、一人。研磨だけがその足で立って平然と電話をして誰かに助けを請うている。
その事実が、その事実に、ぞっとした。急激に体温が下がり、鳥肌が立つ。寒くて冷たくて、名前へと伸ばした指先が止まることを知らない。
肚の奥底で音が鳴る。濡れているタイルは、靴下に冷たい水分を含ませる。ひやりと足の裏から体温をどっと抜かれた。
色のないくちびるは、もう動かない。喋ることに疲れたあいつには、丁度良いのかもしれない。
「……」
異様な光景だ。
彼は、そう思った。
息があるのかも脈があるのかも確かめずに、真っ先に連絡した百十九番。三つの数字。
けれど研磨は、確かめずともその答えを知っていた。
指先が冷たい。凍えてしまう。
固く閉じたまぶたは、一生開くことは無い。
足には、ローファーが二つ。しっかりと靴下もローファーも履いていて、正しく制服を身につけている。
いつも通りの、すがた。かっこう。
ここが、目黒の家なだけ。学校の椅子じゃなく風呂場の浴槽に座り込んでいるだけ。
「目黒、」
目黒、
その先にまだ何かを言えるはずなのに、出てくる空気は人間には必要ない二酸化炭素で、それが勝手に、静かに排出されるだけだった。
咄嗟に口についた苗字。あいつの、苗字。
何か言いたいのに。言いたかった筈だというのに。
冷え切った指先と、回らない頭が少しだけ震えるから何も言えなくなる。
俺は、こうなることを知っていて、ここまで来た。
研磨は、こうなることを知っていて、ここまで来た。
自分の手で救急車を頼み、二つに分かれた岐路を見届けることを研磨は望んで来た。
名前の母親に電話しようと思ったが、携帯の中に残された連絡先はまっさらだった。履歴も、何もかも。メッセージアプリは消されていて、そちらからの連絡も叶わない。
何故、目黒は俺に自分の脱け殻を最初に見せたのだろう。
何故、俺なのだろう。
疑問、とも呼べない答えの分かっている自惚れを、音を手放した肉塊は正解を教えてくれない。
「ありがとう、孤爪」そう言って笑うあいつを、俺は、確かに大事に思っていた。
「ありがとう」だって。ねえ、それってどういう気持ちで言ってたの?
音が鳴る。
耳の奥で。脳味噌のど真ん中で。
音が鳴る。
聞こえる。あの時の、目黒のこえが。
「ありがとう、孤爪」
「どういたしまして」
今朝見せたばかりの予習が大いに役立ったらしく、英語の授業を終えると終了の挨拶で立ち上がったその状態のままで、目黒は笑顔だった。
早々に座った俺は、肩をすくめてちらりとだけ返事する。
名前の笑顔は、研磨はあまり好きではなかった。理由はない。何となく。
いつも、彼女が笑顔でいるから、いつも、研磨は集中できないゲーム画面へと目を落とす。かじかむ指先とは違い、ぼうっとする頭はずっとついている暖房の効きすぎが原因だった。
「孤爪、飴食べれる?」
「あめ?」
「そう、飴」
漸く椅子に腰をかけた目黒に、顔だけ向ける。
好んで食べていることは知っているが、唐突な質問に少しだけ考える時間を要した。
暖房の効きすぎは、こんな単純な質問に答えることさえできなくする。ゆっくりと噛み砕き、脳があめを、飴だと認識すると研磨はこれまたゆっくりと口を開いた。
「何味?」
「パイン。あとレモンもあるよ」
「れもんの方が好き」
「じゃあ、はい。レモン味。見せてくれたお礼」
「……いいのに、別に」
今日は珍しく、移動教室が一つもない日だった。
手に乗っけられた透明の包装。
れもんと書いてある。
「ありがとう」と、呟いた声は目黒に聞こえていて、「どういたしまして」と返す声に息をついた。
胸が、つっかえる。
息がし辛い。
いつもならこの時間になるとお腹の虫が騒ぎ出すというのに、今日は何故だか静かだった。
研磨はもらったあめを制服のポケットに入れた。
わざわざ五十分のために教室を移動することがないのは、とても楽でいい。移動しないといけない教科が続けてあったら面倒で仕方ない。
そう考えると、やっぱり今日はものすごく楽だ。何せ、午後の授業も教室にいるだけでいいのだから。
欠伸を一つ。
やっぱり、暖房効きすぎだと思う。
「目黒はさ、」
「ん?」
顔ごと俺の方へ向くと、目黒はしっかり二度瞬きをした。
ぐ、とつっかえる。
何を言おうとしたっけ。
その先にまだ何かを言えるはずなのに、出てくる空気は人間には必要ない二酸化炭素で、言いたかったはずの言葉を飲み込む。
咄嗟に口についた苗字。目の前にいるクラスメイトの苗字。
何か言いたいのに。言いたかった筈だというのに。冷え切った指先と、ぼうっとする頭が少しだけ震えるから思い出せない。
「孤爪?」
「……何でもない」
「そ。次の時間、寝ないようにしないと怒られるよ〜。孤爪、朝から眠そうだから」
片側だけの口角を引っ張り上げて笑うその顔は、そんなに嫌いではない。
貰ったあめは、昼食の後にでも食べよう。
次の時間、寝ないようにしないと。
化学の先生は居眠りに厳しいから。
重たい目蓋を擦り、鳴り始めたチャイムの音にまだ準備していなかった教科書を鞄から取り出す。
「こづめ」
「ん、なに?」
「本当、英語助かった。ありがとう」
「……うん、どういたしまして」
飲み干した言葉を、思い出せない。
また、あの嫌いな顔で目黒が笑うから。
研磨はそっと、名前から目を離した。
冷えた指先が、化学の教科書を引っ掴んだ。
ありがとう、と。口癖のようなそれにはその言葉に込められる意味も感情もなかった気がしてならない。
「ありがとう」は、感謝を伝える時に使う言葉だというのに、名前は「おはよう」と同じ程度にそれを扱い、そしてその意味を忘れていった。
研磨は、それを知っていた。知っていて、何も言わなかった。なにも。
音が鳴る。
耳の奥で、脳味噌のど真ん中で。
音が鳴る。
辿り着いた先は風呂場で、僅かに開いている窓から冷たい風がそっと入ってくる。
空っぽの浴槽に身を沈める名前を、研磨は酷く冷静な頭で見下ろした。
息が、し辛い。
喉の奥がぎゅうとしまって、酸素を吸うという行為を思い出せない。思い出せないまま絞り出した声は、外から侵入する風にさえかき消される。
小さな声で、それでも絞り出した。
「きゅ、うきゅうしゃって何番だっけ、」
ぐるぐると、考えても何一つ出てこない。
やっと出てきた言葉はなんの役にも立たない冷え切った音。
常識であるその番号でさえ、今は脳から追い出され、何もできない役立たずの孤爪研磨という存在がうみだされる。
震える指で、画面を打つ。かじかむ指先が、熱を貪られた指先で、三つの数字を打てば。…………何が変わるというのだろう?
「……すみません、あの」
触らずとも分かる名前の肌の体温は、触れたらこちらまで凍ってしまうようなほど冷たいのだろう。響く自分の声に、研磨は言い知れぬ嫌悪感を肚に抱えた。
目の前で、冷水を吸った体温が転がる中で、一人。研磨だけがその足で立って平然と電話をして誰かに助けを請うている。
その事実が、その事実に、ぞっとした。急激に体温が下がり、鳥肌が立つ。寒くて冷たくて、名前へと伸ばした指先が止まることを知らない。
肚の奥底で音が鳴る。濡れているタイルは、靴下に冷たい水分を含ませる。ひやりと足の裏から体温をどっと抜かれた。
色のないくちびるは、もう動かない。喋ることに疲れたあいつには、丁度良いのかもしれない。
「……」
異様な光景だ。
彼は、そう思った。
息があるのかも脈があるのかも確かめずに、真っ先に連絡した百十九番。三つの数字。
けれど研磨は、確かめずともその答えを知っていた。
指先が冷たい。凍えてしまう。
固く閉じたまぶたは、一生開くことは無い。
足には、ローファーが二つ。しっかりと靴下もローファーも履いていて、正しく制服を身につけている。
いつも通りの、すがた。かっこう。
ここが、目黒の家なだけ。学校の椅子じゃなく風呂場の浴槽に座り込んでいるだけ。
「目黒、」
目黒、
その先にまだ何かを言えるはずなのに、出てくる空気は人間には必要ない二酸化炭素で、それが勝手に、静かに排出されるだけだった。
咄嗟に口についた苗字。あいつの、苗字。
何か言いたいのに。言いたかった筈だというのに。
冷え切った指先と、回らない頭が少しだけ震えるから何も言えなくなる。
俺は、こうなることを知っていて、ここまで来た。
研磨は、こうなることを知っていて、ここまで来た。
自分の手で救急車を頼み、二つに分かれた岐路を見届けることを研磨は望んで来た。
名前の母親に電話しようと思ったが、携帯の中に残された連絡先はまっさらだった。履歴も、何もかも。メッセージアプリは消されていて、そちらからの連絡も叶わない。
何故、目黒は俺に自分の脱け殻を最初に見せたのだろう。
何故、俺なのだろう。
疑問、とも呼べない答えの分かっている自惚れを、音を手放した肉塊は正解を教えてくれない。
「ありがとう、孤爪」そう言って笑うあいつを、俺は、確かに大事に思っていた。
「ありがとう」だって。ねえ、それってどういう気持ちで言ってたの?
音が鳴る。
耳の奥で。脳味噌のど真ん中で。
音が鳴る。
聞こえる。あの時の、目黒のこえが。
「ありがとう、孤爪」
「どういたしまして」
今朝見せたばかりの予習が大いに役立ったらしく、英語の授業を終えると終了の挨拶で立ち上がったその状態のままで、目黒は笑顔だった。
早々に座った俺は、肩をすくめてちらりとだけ返事する。
名前の笑顔は、研磨はあまり好きではなかった。理由はない。何となく。
いつも、彼女が笑顔でいるから、いつも、研磨は集中できないゲーム画面へと目を落とす。かじかむ指先とは違い、ぼうっとする頭はずっとついている暖房の効きすぎが原因だった。
「孤爪、飴食べれる?」
「あめ?」
「そう、飴」
漸く椅子に腰をかけた目黒に、顔だけ向ける。
好んで食べていることは知っているが、唐突な質問に少しだけ考える時間を要した。
暖房の効きすぎは、こんな単純な質問に答えることさえできなくする。ゆっくりと噛み砕き、脳があめを、飴だと認識すると研磨はこれまたゆっくりと口を開いた。
「何味?」
「パイン。あとレモンもあるよ」
「れもんの方が好き」
「じゃあ、はい。レモン味。見せてくれたお礼」
「……いいのに、別に」
今日は珍しく、移動教室が一つもない日だった。
手に乗っけられた透明の包装。
れもんと書いてある。
「ありがとう」と、呟いた声は目黒に聞こえていて、「どういたしまして」と返す声に息をついた。
胸が、つっかえる。
息がし辛い。
いつもならこの時間になるとお腹の虫が騒ぎ出すというのに、今日は何故だか静かだった。
研磨はもらったあめを制服のポケットに入れた。
わざわざ五十分のために教室を移動することがないのは、とても楽でいい。移動しないといけない教科が続けてあったら面倒で仕方ない。
そう考えると、やっぱり今日はものすごく楽だ。何せ、午後の授業も教室にいるだけでいいのだから。
欠伸を一つ。
やっぱり、暖房効きすぎだと思う。
「目黒はさ、」
「ん?」
顔ごと俺の方へ向くと、目黒はしっかり二度瞬きをした。
ぐ、とつっかえる。
何を言おうとしたっけ。
その先にまだ何かを言えるはずなのに、出てくる空気は人間には必要ない二酸化炭素で、言いたかったはずの言葉を飲み込む。
咄嗟に口についた苗字。目の前にいるクラスメイトの苗字。
何か言いたいのに。言いたかった筈だというのに。冷え切った指先と、ぼうっとする頭が少しだけ震えるから思い出せない。
「孤爪?」
「……何でもない」
「そ。次の時間、寝ないようにしないと怒られるよ〜。孤爪、朝から眠そうだから」
片側だけの口角を引っ張り上げて笑うその顔は、そんなに嫌いではない。
貰ったあめは、昼食の後にでも食べよう。
次の時間、寝ないようにしないと。
化学の先生は居眠りに厳しいから。
重たい目蓋を擦り、鳴り始めたチャイムの音にまだ準備していなかった教科書を鞄から取り出す。
「こづめ」
「ん、なに?」
「本当、英語助かった。ありがとう」
「……うん、どういたしまして」
飲み干した言葉を、思い出せない。
また、あの嫌いな顔で目黒が笑うから。
研磨はそっと、名前から目を離した。
冷えた指先が、化学の教科書を引っ掴んだ。
