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寒い、寒い冬の日。
ぽかんと空いた席は、いつも通りと言えばいつも通りで、そうでないといえばそうではなかった。
居着いてしまった冬が、端からゆっくりと温かな熱を齧っていく。寒い。そうやって口に出すけれど、元凶はきょとんと首を傾げるだけ。
──不意に、携帯の入っているポケットが震えた。見ると、通知。そういえば少し前にあいつからもメッセージが来ていたと、今更ながらに思い出す。
今きたばかりのメッセージではなくあいつのそれを先に見て、──それから一つ、息を飲み込んだ。
そうして、取り出したばかりの携帯をポケットに無理やり押し込み、急く脳味噌が早く動けと固まりそうな身体に命令を出す。
「クロ、今日部活やすむ」
「は?ちょっ、研磨!?」
雑に鞄へと荷物を押し込み、迎えに来ていた幼馴染みへ声を掛けて返事も聞かずに床を蹴った。
震える指先は、冬のせいか。
平らげてしまった熱は、どこにも見つからない。きっと、春がくるまで見つからない。深い深い肚の底で、ゆっくりと消えていってしまうから。
何故こんなにも、胸騒ぎがするのだろうか。
あいつが嫌いな冬がまだ頑固にも去ろうとしないから?普段から簡単な言葉やスタンプしか送らない上に、画面上での無機質なやり取りに対して消極的なあいつから連絡が来たから?
上がる熱を、美味しそうに頬張るだけで座り込んでしまったそいつはゆっくりと己の領域を広げていく。
寒い。冷たい。
なんで、今日に限って運動靴を履いてこなかったのだろうか。走りにくい足元に、冷たい空気に、顔を歪めた。ローファーが、邪魔をする。もっと早く走りたいのに、なんで。
マフラーも手袋も、付ける暇はなく、──付けていたとしても取っていたのだろうけど──鞄の中を幅広く占領している。
「っ、は、」
鞄が走るたび体に当たって痛い。ローファーは走りにくい。それでも、地面を蹴る足は止められない。
杞憂だったら、いいけど。心配させたことは、許してやるものか。
大きく息を吐き出してそう誓った研磨は、やっと着いた目黒名前の家を見上げる。
一度しか来たことはないのに、よく覚えていたものだ。他人事のように己を評価し、ざわざわと煩い心臓を、服の上から握る。
冷たい空気に頭がツンとして痛い。鼻の奥が感覚を失い、それは、泣く時のあの感じに似ている。
鞄を背負い直して、荒い息を噛み殺しながら冷たい空気が溜まるポケットに手を突っ込んだ。
「なん、だっけ、ポスト……?」
確かめるために、来ていたメッセージ画面に目を落とすと、ポストの中を見ろとの旨がそこには書かれてあった。
簡潔なそれを見るのは二度目になるが、心臓の辺りがざわざわする。気持ちが悪い。何か、何かがおかしいのだと、執拗に訴えかける血管を這い上がるそれに、寒くて仕方がないだけだと無視を決め込む。
冷え切った指先でポストの中を覗くと、カバーが外された携帯と七桁の数字が書き込まれた紙が一枚。カバーのないあいつの携帯本体を見たのは初めてで、携帯本体は黒色だったのかとどうしようもない思考が転がる。
震える掌で冷たい携帯を握り、七桁の数字を打ち込むと姿を現す、恐らく変えていない以前のままのホーム画面が姿を現した。
────ああ、もう、いないんだろうな。
研磨は、ただぼんやりとそう思った。
仲がいいと言っていた、妹の画像。お揃いの服にお揃いの靴。後ろ姿で表情は見えないし、そもそも名前はその画像の中にいないが、楽しんでいることだけは伝わる。
この写真を撮ったのは紛れもなく名前であろうのに、今この瞬間、彼女はいない。魔法のように人は消えていく。
彼女が『いた』という事実だけが取り残される。
もう、いないんだろう。
冷たい風が熱を持つ頬を叩くのでさえ気づかないほどに、ぼんやりと、研磨はそう思った。
次のメッセージへと目を落とせば、メールを見て欲しいと書いてある。何もかもを纏めてすっきりとしているホーム画面は、ちりちりと凍り付いていきそうなほどの温度で掌に汗を握らせる。
メールを開けば、題名にイショと漢字で書かれているものがあった。
ごくりと飲み込んだ唾液が、はっきりとした意志を持って二十五センチの食道をつたっていく。
その間に一通り目を通したが、通したはずだが、どうしてか研磨は内容を理解出来なかった。頭に入ってこなかった。
二十五センチでは、名前の最期の言葉を理解するには短く、頭の中身を整理するにはあまりにも足りていない。
「寒い」
漸く出てきた言葉は、もはや関係のないもので、掌に汗を握っていながらずっと寒い。ちぐはぐな身体と心は、あいつに熱を齧られたせいでずっとさむい。
恐る恐る玄関に手をかけると、違和感もなく自然と、まるでずっと最初からこの扉は閉まったことがないかのような口振りで開いた。
……勝手に入ったら駄目だよね、流石に。
自分の家とは違う匂い。家の造り。靴の並び。玄関の戸を開けたまま数秒考え込み、戸惑いながらも踏み込んだ家の中は、外よりも冷たい空気が浮いている。
研磨はセーターで凍えそうな汗と共に躊躇を拭うと、「お邪魔します」と小さな声で告げて隅に鞄を置いた。
急く気持ちが余計に足を絡ませる。バランスを崩す間近な状態で、漸く脱げた靴を乱雑に整えると、一度だって侵入したことのない名前の領域へと踏み込む躊躇いが、隅に置いたはずの鞄とともに視界へと入ってくる。
生きる為に吸い込んだ酸素が冷たい。
踏み込んだ領域は、冬の温度を吸ってすっかりそれらしい顔つきをしていた。
他人の家に、しかも無断で入り込む罪悪感にそわそわと体を揺らすが、土足で上がったのだろうか、足の形に散らばる土が廊下に続いているのを見つけて研磨は小さく息を飲んだ。
肚に溜め込んだ熱を、冬は返してくれそうにもない。
だらりと垂れ下がった手に握りしめる携帯の中身を、見る勇気も気力も無くなった。震えて丸くなる指先を押さえつけるように壁につたわせながら、うっすらと転がる土の跡を追う。
追いながら、「おはよう」と笑う目黒の声に耳を澄ませた。冬が、始まるあの日に。じっくりと耳を澄ませば、その日に戻れる気がした。
ほら、聞こえる。「おはよう」と。
「……おはよ」
朝練が終わり、教室に入ると一番に視界に入るその人物に研磨は挨拶をした。
今日は来たんだ。
そんな意味も含めて、来ていれば必ず朝に勉強している背中にそっと声をかける。
「おはよう、孤爪。朝練お疲れ様」
「ん、ありがと」
躊躇いはするが、研磨が挨拶を自分からするのはクラスの中で名前だけだった。
机と向き合っていた顔を研磨の方へと向け、彼女はにっこり笑う。それを見るのが、密かな研磨の楽しみだった。
冬が嫌いな名前は、誰よりも早く持ってきた少し大きめの毛布を膝に掛けていた。 彼女は研磨へ挨拶すると、何か、きっと良いことを思い出したかのようにその笑みを深めて口を開いた。
「冬休み、近いね」
「……まだ先じゃん」
バレー部に、冬休みというものが存在しているのかどうかなど言わなくても分かるだろうに。研磨は軽く肩をすくめて早々にこの会話を打ち切った。
目黒を見たのは、二日ぶりだろうか。
ちょくちょく休むこいつとはいつの間にか仲良くなっていた。
いつからだろう。覚えていない。
目が離せない。消えていきそうで、何処かに行ってしまいそうで。
「孤爪、英語の予習やってる?」
「一応」
「よっしゃ、見せてください」
しょうがないな、って呟いたら「ありがとう」と、小さくお礼。
お礼は言うが、はやくだせと言わんばかりの生意気な手に英語のノートを置いた。
寒い。いくら着込んでも、こいつらはするするとまとわりついてくる。乾燥しきった空気は、ひどくねっとりしていて肌から離れない。
「おわ、綺麗なノート」
「……返して」
「照れたん?いやでも、本当に見やすい。ありがとう」
「普通でしょ。いいから、さっさと写しなよ」
「うん」
本当、ありがとうって、ぺらりぱらりと楽しそうに英語の文字を追う目黒の目。
付けたばかりの暖房が、上から暖かい空気を垂れ流して名前の髪をふわふわ揺らす。研磨の髪も、ふわふわ揺らす。
静かな教室で、二人きりの空間には、名前によって炭素が紙に擦り付けられて、剥がれていく音がよく響く。
彼女の筆跡は何だかとてもはっきりしていて、名前とは違って見える。今にも、透明になっていきそうな名前自身の生存願望とは、大違いだ。
本人から悩み相談などされたことはないが、彼女が生きるということに積極的ではないと気づく程度には、研磨は彼女を知っていた。
「もうちょっとで終わる……」
「分かった」
隣の席の目黒に返事をしながら、ゲーム画面に目を落とした。
ちっとも集中できない。
つけたばかりだというのに、ゲームの電源を落として頬杖をつく。寒い。眠い。
がらり、と開いたドアから冷たい空気が土足で侵入してくる。
そのおかげで、ふと思い出すのだ。
ああ、今は冬だったのかと。
「おはよー」
「桃ちゃんだ、おはよー」
少しだけ、顔を上げて確認した友人の名前と挨拶を用意されていた吹き出しに入れて、目黒は声を発した。
パソコンに喋らせた方が何十倍も愛想がいいのではないかと思うが、目黒は友達が多い。しかし、何故だかいつも見ると、誰との会話にも入らずぼーっとしていることの方が多い。
それでも、彼女の周りには人が集まった。
「ね、孤爪」
「……なに?」
「今日も寒いね」
切り取られた吹き出しに、機械的な文字が浮かぶ。さむいね、って。
こんなのだから、研磨は目黒の字を知らない。
こんなのだから、研磨はいつも忘れていく。
彼女の嫌いな冬は、肚の底の熱を吐き出さない。
笑顔の名前に、研磨は少しだけ表情を崩しただけだった。
ぽかんと空いた席は、いつも通りと言えばいつも通りで、そうでないといえばそうではなかった。
居着いてしまった冬が、端からゆっくりと温かな熱を齧っていく。寒い。そうやって口に出すけれど、元凶はきょとんと首を傾げるだけ。
──不意に、携帯の入っているポケットが震えた。見ると、通知。そういえば少し前にあいつからもメッセージが来ていたと、今更ながらに思い出す。
今きたばかりのメッセージではなくあいつのそれを先に見て、──それから一つ、息を飲み込んだ。
そうして、取り出したばかりの携帯をポケットに無理やり押し込み、急く脳味噌が早く動けと固まりそうな身体に命令を出す。
「クロ、今日部活やすむ」
「は?ちょっ、研磨!?」
雑に鞄へと荷物を押し込み、迎えに来ていた幼馴染みへ声を掛けて返事も聞かずに床を蹴った。
震える指先は、冬のせいか。
平らげてしまった熱は、どこにも見つからない。きっと、春がくるまで見つからない。深い深い肚の底で、ゆっくりと消えていってしまうから。
何故こんなにも、胸騒ぎがするのだろうか。
あいつが嫌いな冬がまだ頑固にも去ろうとしないから?普段から簡単な言葉やスタンプしか送らない上に、画面上での無機質なやり取りに対して消極的なあいつから連絡が来たから?
上がる熱を、美味しそうに頬張るだけで座り込んでしまったそいつはゆっくりと己の領域を広げていく。
寒い。冷たい。
なんで、今日に限って運動靴を履いてこなかったのだろうか。走りにくい足元に、冷たい空気に、顔を歪めた。ローファーが、邪魔をする。もっと早く走りたいのに、なんで。
マフラーも手袋も、付ける暇はなく、──付けていたとしても取っていたのだろうけど──鞄の中を幅広く占領している。
「っ、は、」
鞄が走るたび体に当たって痛い。ローファーは走りにくい。それでも、地面を蹴る足は止められない。
杞憂だったら、いいけど。心配させたことは、許してやるものか。
大きく息を吐き出してそう誓った研磨は、やっと着いた目黒名前の家を見上げる。
一度しか来たことはないのに、よく覚えていたものだ。他人事のように己を評価し、ざわざわと煩い心臓を、服の上から握る。
冷たい空気に頭がツンとして痛い。鼻の奥が感覚を失い、それは、泣く時のあの感じに似ている。
鞄を背負い直して、荒い息を噛み殺しながら冷たい空気が溜まるポケットに手を突っ込んだ。
「なん、だっけ、ポスト……?」
確かめるために、来ていたメッセージ画面に目を落とすと、ポストの中を見ろとの旨がそこには書かれてあった。
簡潔なそれを見るのは二度目になるが、心臓の辺りがざわざわする。気持ちが悪い。何か、何かがおかしいのだと、執拗に訴えかける血管を這い上がるそれに、寒くて仕方がないだけだと無視を決め込む。
冷え切った指先でポストの中を覗くと、カバーが外された携帯と七桁の数字が書き込まれた紙が一枚。カバーのないあいつの携帯本体を見たのは初めてで、携帯本体は黒色だったのかとどうしようもない思考が転がる。
震える掌で冷たい携帯を握り、七桁の数字を打ち込むと姿を現す、恐らく変えていない以前のままのホーム画面が姿を現した。
────ああ、もう、いないんだろうな。
研磨は、ただぼんやりとそう思った。
仲がいいと言っていた、妹の画像。お揃いの服にお揃いの靴。後ろ姿で表情は見えないし、そもそも名前はその画像の中にいないが、楽しんでいることだけは伝わる。
この写真を撮ったのは紛れもなく名前であろうのに、今この瞬間、彼女はいない。魔法のように人は消えていく。
彼女が『いた』という事実だけが取り残される。
もう、いないんだろう。
冷たい風が熱を持つ頬を叩くのでさえ気づかないほどに、ぼんやりと、研磨はそう思った。
次のメッセージへと目を落とせば、メールを見て欲しいと書いてある。何もかもを纏めてすっきりとしているホーム画面は、ちりちりと凍り付いていきそうなほどの温度で掌に汗を握らせる。
メールを開けば、題名にイショと漢字で書かれているものがあった。
ごくりと飲み込んだ唾液が、はっきりとした意志を持って二十五センチの食道をつたっていく。
その間に一通り目を通したが、通したはずだが、どうしてか研磨は内容を理解出来なかった。頭に入ってこなかった。
二十五センチでは、名前の最期の言葉を理解するには短く、頭の中身を整理するにはあまりにも足りていない。
「寒い」
漸く出てきた言葉は、もはや関係のないもので、掌に汗を握っていながらずっと寒い。ちぐはぐな身体と心は、あいつに熱を齧られたせいでずっとさむい。
恐る恐る玄関に手をかけると、違和感もなく自然と、まるでずっと最初からこの扉は閉まったことがないかのような口振りで開いた。
……勝手に入ったら駄目だよね、流石に。
自分の家とは違う匂い。家の造り。靴の並び。玄関の戸を開けたまま数秒考え込み、戸惑いながらも踏み込んだ家の中は、外よりも冷たい空気が浮いている。
研磨はセーターで凍えそうな汗と共に躊躇を拭うと、「お邪魔します」と小さな声で告げて隅に鞄を置いた。
急く気持ちが余計に足を絡ませる。バランスを崩す間近な状態で、漸く脱げた靴を乱雑に整えると、一度だって侵入したことのない名前の領域へと踏み込む躊躇いが、隅に置いたはずの鞄とともに視界へと入ってくる。
生きる為に吸い込んだ酸素が冷たい。
踏み込んだ領域は、冬の温度を吸ってすっかりそれらしい顔つきをしていた。
他人の家に、しかも無断で入り込む罪悪感にそわそわと体を揺らすが、土足で上がったのだろうか、足の形に散らばる土が廊下に続いているのを見つけて研磨は小さく息を飲んだ。
肚に溜め込んだ熱を、冬は返してくれそうにもない。
だらりと垂れ下がった手に握りしめる携帯の中身を、見る勇気も気力も無くなった。震えて丸くなる指先を押さえつけるように壁につたわせながら、うっすらと転がる土の跡を追う。
追いながら、「おはよう」と笑う目黒の声に耳を澄ませた。冬が、始まるあの日に。じっくりと耳を澄ませば、その日に戻れる気がした。
ほら、聞こえる。「おはよう」と。
「……おはよ」
朝練が終わり、教室に入ると一番に視界に入るその人物に研磨は挨拶をした。
今日は来たんだ。
そんな意味も含めて、来ていれば必ず朝に勉強している背中にそっと声をかける。
「おはよう、孤爪。朝練お疲れ様」
「ん、ありがと」
躊躇いはするが、研磨が挨拶を自分からするのはクラスの中で名前だけだった。
机と向き合っていた顔を研磨の方へと向け、彼女はにっこり笑う。それを見るのが、密かな研磨の楽しみだった。
冬が嫌いな名前は、誰よりも早く持ってきた少し大きめの毛布を膝に掛けていた。 彼女は研磨へ挨拶すると、何か、きっと良いことを思い出したかのようにその笑みを深めて口を開いた。
「冬休み、近いね」
「……まだ先じゃん」
バレー部に、冬休みというものが存在しているのかどうかなど言わなくても分かるだろうに。研磨は軽く肩をすくめて早々にこの会話を打ち切った。
目黒を見たのは、二日ぶりだろうか。
ちょくちょく休むこいつとはいつの間にか仲良くなっていた。
いつからだろう。覚えていない。
目が離せない。消えていきそうで、何処かに行ってしまいそうで。
「孤爪、英語の予習やってる?」
「一応」
「よっしゃ、見せてください」
しょうがないな、って呟いたら「ありがとう」と、小さくお礼。
お礼は言うが、はやくだせと言わんばかりの生意気な手に英語のノートを置いた。
寒い。いくら着込んでも、こいつらはするするとまとわりついてくる。乾燥しきった空気は、ひどくねっとりしていて肌から離れない。
「おわ、綺麗なノート」
「……返して」
「照れたん?いやでも、本当に見やすい。ありがとう」
「普通でしょ。いいから、さっさと写しなよ」
「うん」
本当、ありがとうって、ぺらりぱらりと楽しそうに英語の文字を追う目黒の目。
付けたばかりの暖房が、上から暖かい空気を垂れ流して名前の髪をふわふわ揺らす。研磨の髪も、ふわふわ揺らす。
静かな教室で、二人きりの空間には、名前によって炭素が紙に擦り付けられて、剥がれていく音がよく響く。
彼女の筆跡は何だかとてもはっきりしていて、名前とは違って見える。今にも、透明になっていきそうな名前自身の生存願望とは、大違いだ。
本人から悩み相談などされたことはないが、彼女が生きるということに積極的ではないと気づく程度には、研磨は彼女を知っていた。
「もうちょっとで終わる……」
「分かった」
隣の席の目黒に返事をしながら、ゲーム画面に目を落とした。
ちっとも集中できない。
つけたばかりだというのに、ゲームの電源を落として頬杖をつく。寒い。眠い。
がらり、と開いたドアから冷たい空気が土足で侵入してくる。
そのおかげで、ふと思い出すのだ。
ああ、今は冬だったのかと。
「おはよー」
「桃ちゃんだ、おはよー」
少しだけ、顔を上げて確認した友人の名前と挨拶を用意されていた吹き出しに入れて、目黒は声を発した。
パソコンに喋らせた方が何十倍も愛想がいいのではないかと思うが、目黒は友達が多い。しかし、何故だかいつも見ると、誰との会話にも入らずぼーっとしていることの方が多い。
それでも、彼女の周りには人が集まった。
「ね、孤爪」
「……なに?」
「今日も寒いね」
切り取られた吹き出しに、機械的な文字が浮かぶ。さむいね、って。
こんなのだから、研磨は目黒の字を知らない。
こんなのだから、研磨はいつも忘れていく。
彼女の嫌いな冬は、肚の底の熱を吐き出さない。
笑顔の名前に、研磨は少しだけ表情を崩しただけだった。
