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新たな春を迎えた。
私は二年生に進級し、凛は鮫柄学園二年生に編入。そして、江が高校生になった。
なんだか、とても感慨深い。
自分と同じ高校では無いけれど、江が決めたところならばどこでもいい。高校に入学してまだそんなに経っていないが、とても毎日を楽しそうに過ごしていてお姉ちゃんは本当に嬉しいです。
凛は、寮に入っているので家にはいない。
会いに行こうと思えば行ける距離だから、別に寂しくはない。本当。
「……」
「名前?何してんの、早くしないと電車乗り遅れるよ」
「今行く」
ローファーに足を差し込んで、下駄箱を閉めた。
短い髪がうなじを撫でる。
まだ少し冷たい風が春だということを知らしめる。
無事に電車に乗ると、友達の葵と二人で空いていた席に座った。
「明日早く来るからさ、数学教えてくれない?」
「いいよ。数B?」
「いや、数IIがいい」
「ん」
「理系選択したけど、ついていけるか不安なんだよね」
葵が、ため息と共に吐き出した言葉に大丈夫だと返す。
「分からなくなったら、一緒に頑張ろう。私も、分からないとこあったら葵に教えてもらう」
「……そうだね、名前いるし。ありがとう」
「いいえ」
流れる景色は、少しずつ少しずつ変わっていく。春になると、水田に小さな緑が宿る。それが段々と大きくなって緑色の絨毯があちらこちらで見れる。秋になると、コンバインや鎌で黄金色に成長した稲が刈り取られ、段々と寂しくなる。冬になると、色味の無くなった景色が視覚から寒さを訴えかけるのだ。
放課後、ギリギリまで残っていたせいか日は落ちて、電車の中も、人は少ない。
がたん、と緩やかに止まった電車。
同時に、葵が立ち上がる。
見上げれば、普段よりも少し眠そうな顔でぼんやりと笑っているのが分かった。
「じゃあ、また明日」
「ん、また明日」
「詳しいことは後で連絡するから」
「分かった」
軽く手を振り、一度も振り返ることなく改札を通るその背中を見つめ、再び動き出す外の世界に目をやった。
何か、変わればいい。
ずっとずっと、凛が帰ってきてからそう思っている。
スピードを徐々に落とし始めた電車に、ようやく自分が降りる駅が近づいたのだと気がついた。
家に帰ると、それを見計らったように電話が鳴る。
「ただいま」
言いながら、玄関に座り込み携帯を取り出して画面を見ると凛からだった。
珍しい。
リビングからおかえりと母さんの声が聞こえてくるのを確認しながら携帯を耳に当てた。
「もしもし、凛、なに?」
「晩飯食い終わってからでいいから、スイミングクラブ来れるか?帰りは送るから」
「スイミングクラブって……。凛が昔行ってたところ?」
「おう」
「いいけど」
「ん、あんがとな。じゃあ、後で」
「ん」
まあ、突然なこと。
暗くなった画面を見つめ、首を傾げる。真っ黒の中から自分と目が合った。使い方を忘れた表情筋がこの顔の中にあるのだと思うと少し可笑しかった。それでも、ぴくりとも動かない筋肉は錆び付いているに違いない。
ようやく靴を脱ぎ、リビングへ入った。
いい匂いがする。
ちょうどご飯ができたようで、テーブルの上におかずが盛り付けられた皿が置いてある。美味しそう。
お腹の虫がぐるぐると鳴る。
「さあ、食べましょうか。名前、江呼んできてくれない?」
「わかった、行ってくる」
表情筋が死んでいようとも、腹は減る。
江に声を掛けるとすぐに降りてきた。
「お姉ちゃん、おかえりなさい」
「ただいま」
「お腹空いたー」
母さんは既に席に座っていて、私達を待っていた。
座って、三人両手を合わせていただきますを唱える。白米はぴかぴか光っていて、豚汁から湯気と共に美味しいを詰め込んだ匂いがしてたまらない。
「美味しい……」
「ふふ、今日のハンバーグ、手を加えたのよ」
「本当にお母さん料理上手だよね、全部美味しい!」
「二人がいつも美味しそうに食べてくれるから、作り甲斐があるわ」
ポテトサラダには、シャキシャキの林檎が入っていて、食感と味覚で幸せが二乗になる。あれもこれも美味しくて、箸が止まらない。
今日あったことを報告し合い、美味しいご飯を口に入れる。
そこで、あ、と思い出した。凛のことを。
「そう、さっき凛から電話あって、ちょっとこの後出掛けてくる」
「え!!!」
「……何、江」
「い、いや、何でもない」
「そう」
「本当に、凛と名前は仲が良いわねえ」
出掛けることを伝えると、あからさまに何か知っているらしい江は視線をうろうろさせて、目を合わせようとしない。
ここで追求しても仕方がない。それに、悪いことではないのだろうし。
嘘の付けない良い子に育ったなあと、白米を噛みしめながら思った。
最後の一口を惜しみつつ、飲み込み、手を合わせて感謝の言葉。
「ご馳走様でした」
「お粗末様」
「じゃあ、行ってくる。帰り、何時になるか分からないから先にお風呂入って寝てて。凛が送ってくれるし」
「そう、分かった。気を付けてね」
「お姉ちゃん、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
食器も片付けた。携帯と鍵は持っている。
簡単に着替えて、さあ出発だ。
少し遠いから、自転車に乗ることにした。
風が耳元でひゅんひゅんと鳴る。
ばちばち当たる風に、髪が後ろに引かれる。
人気は殆ど無く、車もあまり通っていない。
上を見ると、深い藍色の上で星がきらきらと輝いていた。
耳をすませば、海の音。肺いっぱいに息を吸えば、潮の味。この時間を楽しむには、このスピードでは勿体無いとブレーキを少しだけかけて、ペダルを踏み込む力を弱めた。
ひゅんひゅんなる風は、やはり少し冷たいけれど、気分を高揚させるには丁度良い。
待ち合わせ場所に着くと、適当に自転車を止めた。辺りを見やれば、直ぐに目的の人物を見つけた。
「凛」
「名前。悪いな、こんな時間に」
「別に、気にしなくて良い。それで、どうした?」
「ああ、いや、……着いてきて欲しいだけだ」
「ん、分かった」
どこに、とは聞かない。
あのおまじないは、しなくなった。
凛にはもう、必要ないのかもしれない。
だけれど、ぎこちない距離で手を伸ばされると理由も聞かずに来てしまう。都合の良い女のような思考に、我ながら呆れる。
隣に並んで歩き、ぽつりぽつりと会話した。
「自転車で来たのか」
「ああ、うん。凛は?」
「そんなに遠くねえから走ってきた」
「元気だね」
「普通だろ」
「普通なのか」
「おう」
着いたのは、木の下だった。
立派な木。
「ここ?」
「ああ、掘り返してえ物があってよ」
「スコップは?」
「ん」
「準備が良いな」
「直ぐ終わるから、ちょっと待ってろ」
ザクザクと、特に苦戦するわけでも無く順調に掘り進めていく音がする。
凛が掘っている姿を見ながら、ぼんやりと昔のことを思い出した。そういえば、私が結局行けなかった大会で優勝したんだっけ。その時のトロフィーが何とかかんとかで……。
曖昧な記憶の中で、あの頃の幼い凛が満面の笑みで喋っている。いつの間にか、七瀬がハルになり、他にも聞いたことのない名前が幾つか出てきた。
懐かしい。
「名前、終わったぞ」
「ん。……トロフィー?」
「おー。ここに埋めたんだ、あいつらと」
「そう。……?」
凛の言葉に頷いていると、少し遠くの方で声がした。若い、男の声が複数。
多分こちらへ向かっている。こんな時間に、何のようだ?
凛もその声に気付いたらしく、ぱっと顔をそちらへ向けて僅かに顔へ落とした影が、私にその声の主が凛と関係ある人なのだろうと予測させた。
「私、ここで待ってるから」
「……」
悪い、と幾ばくかの沈黙の後、凛は小さな声でそう言った。去っていく背中を見つめ、やはり私は、凛にとって良い変化があることを期待した。何か、変われば良い。
今年の春は、そんな私の期待を許してくれた。
葵からの連絡を確認し、明日の予定を立てる。
いつもより一本早い電車に乗ろう。
いつもより少し早く起きよう。
いつもよりしっかり寝よう。
勉強を頑張る自分と葵の為に、お菓子を持って行こう。
湧き立つ期待を抑えるように、何度も何度も、予定とは言い難いそれを頭の中で繰り返す。
いつもより、いつもより。
寒さを誤魔化す為に、腕を摩る。寒くない寒くない。蹲み込んだ先で小さく転がる石を見つめた。
今頃、喋れているかな。
目を閉じると、真っ黒な世界が広がる。
耳を澄ますと、木々の葉を揺らす風の音が鳴る。来る時とは違う、音と世界。
不安そうな顔をしていた。
ずっと、ずっと。
多分、凛は一人でもここに来た。
だけれど、それを選ばなかった。
帰ってきてから、──日本に帰ってきてから、ずっと不安でたまらないと顔を歪ませていた。凛の顔をしっかり見ないとわからない程度の、小さくて消えそうな不安。
閉じていた目を開けた。
歩く足音が近づいてきたから。
蹲み込んだまま、顔も上げずに口を開く。
「七瀬遙には、会えた?」
「……ああ」
「そう。良かったな」
「良くねえよ」
「……そう」
苛々している声、それでいてどこか嬉しそうな気配が潜んでいる。
七瀬遙に会えたんだ、良かったね、凛。
言ったらまた、そんなことはないと返すから心の中で言う。良かったね。
来た時と同じように、ぽつりぽつりと会話する。
「二人乗りする?」
「おう」
「じゃあ、宜しくお願いします」
「ったく、仕方ねえな」
勿論、凛が前だ。
鍵を渡すと、サドルを上げていた凛がため息と共にそれを受け取る。
「わーい、二人乗りだ」
「顔と言ってることとテンション違いすぎてお前訳わかんねえよ、黙っとけ」
「凛、本当に、背伸びたな」
「話の逸らし方下手くそかよ。……成長期だからな」
「私ももう少し伸びないかな。……あ、そうだ、実はピアス開けたんだ」
「はあ!?!?!?!?」
耳をすませば、海の音。肺いっぱいに息を吸えば、潮の味。凛の背中に額を当てて、鼓動を聞く。
ちょっと、むしゃくしゃして、ピアス開けました。
何も引いていないから尻が痛い。
あと、凛うるさい。
「むしゃくしゃってお前……馬鹿だろ」
「なんか、……開けたらすっきりするかなあって思ったんだけど、別に変わらなかった」
「当たり前だろ……」
さあ、今のうちに凛を補充しておこう。
凛は未だにぶつぶつと何かを言っているが、全部聞き流す。ぐりぐりと背中に額を押し当てると、ぶつぶつが少しだけ静まった。
ピアスを開けてまだ一ヶ月も経っていないせいか、耳の患部が少しだけ痛い。
寂しいのは、きっと自分だけではない。
多分。
僅かに落ちたスピードが、それを物語る。
「自転車、乗って帰る?流石に遠いだろ」
「あー……そうだな。借りていく」
「取りに行く時連絡する。ちゃんと見てよ」
「おう」
着いてしまった。
のろのろ降りると、凛が私の頭に手を置いて雑に撫でる。ボサボサになるが、気にしていられない。
「名前、今日は付き合ってくれてありがとな」
「こちらこそ、送ってくれてありがとう」
「おやすみ」
「凛も、おやすみ。気をつけてね」
小さくなる後ろ姿を見つめ、冷たい風に頬を当てた。
潮の匂いが遠い。海の音が遠い。
変われ、変われば良い。
どうか、凛に何かが起きますように。
海を指先ですくってもいないのに、冷たくなった指先からは潮の匂いがした。
さあ、寝よう。寝る時間だ。
私は二年生に進級し、凛は鮫柄学園二年生に編入。そして、江が高校生になった。
なんだか、とても感慨深い。
自分と同じ高校では無いけれど、江が決めたところならばどこでもいい。高校に入学してまだそんなに経っていないが、とても毎日を楽しそうに過ごしていてお姉ちゃんは本当に嬉しいです。
凛は、寮に入っているので家にはいない。
会いに行こうと思えば行ける距離だから、別に寂しくはない。本当。
「……」
「名前?何してんの、早くしないと電車乗り遅れるよ」
「今行く」
ローファーに足を差し込んで、下駄箱を閉めた。
短い髪がうなじを撫でる。
まだ少し冷たい風が春だということを知らしめる。
無事に電車に乗ると、友達の葵と二人で空いていた席に座った。
「明日早く来るからさ、数学教えてくれない?」
「いいよ。数B?」
「いや、数IIがいい」
「ん」
「理系選択したけど、ついていけるか不安なんだよね」
葵が、ため息と共に吐き出した言葉に大丈夫だと返す。
「分からなくなったら、一緒に頑張ろう。私も、分からないとこあったら葵に教えてもらう」
「……そうだね、名前いるし。ありがとう」
「いいえ」
流れる景色は、少しずつ少しずつ変わっていく。春になると、水田に小さな緑が宿る。それが段々と大きくなって緑色の絨毯があちらこちらで見れる。秋になると、コンバインや鎌で黄金色に成長した稲が刈り取られ、段々と寂しくなる。冬になると、色味の無くなった景色が視覚から寒さを訴えかけるのだ。
放課後、ギリギリまで残っていたせいか日は落ちて、電車の中も、人は少ない。
がたん、と緩やかに止まった電車。
同時に、葵が立ち上がる。
見上げれば、普段よりも少し眠そうな顔でぼんやりと笑っているのが分かった。
「じゃあ、また明日」
「ん、また明日」
「詳しいことは後で連絡するから」
「分かった」
軽く手を振り、一度も振り返ることなく改札を通るその背中を見つめ、再び動き出す外の世界に目をやった。
何か、変わればいい。
ずっとずっと、凛が帰ってきてからそう思っている。
スピードを徐々に落とし始めた電車に、ようやく自分が降りる駅が近づいたのだと気がついた。
家に帰ると、それを見計らったように電話が鳴る。
「ただいま」
言いながら、玄関に座り込み携帯を取り出して画面を見ると凛からだった。
珍しい。
リビングからおかえりと母さんの声が聞こえてくるのを確認しながら携帯を耳に当てた。
「もしもし、凛、なに?」
「晩飯食い終わってからでいいから、スイミングクラブ来れるか?帰りは送るから」
「スイミングクラブって……。凛が昔行ってたところ?」
「おう」
「いいけど」
「ん、あんがとな。じゃあ、後で」
「ん」
まあ、突然なこと。
暗くなった画面を見つめ、首を傾げる。真っ黒の中から自分と目が合った。使い方を忘れた表情筋がこの顔の中にあるのだと思うと少し可笑しかった。それでも、ぴくりとも動かない筋肉は錆び付いているに違いない。
ようやく靴を脱ぎ、リビングへ入った。
いい匂いがする。
ちょうどご飯ができたようで、テーブルの上におかずが盛り付けられた皿が置いてある。美味しそう。
お腹の虫がぐるぐると鳴る。
「さあ、食べましょうか。名前、江呼んできてくれない?」
「わかった、行ってくる」
表情筋が死んでいようとも、腹は減る。
江に声を掛けるとすぐに降りてきた。
「お姉ちゃん、おかえりなさい」
「ただいま」
「お腹空いたー」
母さんは既に席に座っていて、私達を待っていた。
座って、三人両手を合わせていただきますを唱える。白米はぴかぴか光っていて、豚汁から湯気と共に美味しいを詰め込んだ匂いがしてたまらない。
「美味しい……」
「ふふ、今日のハンバーグ、手を加えたのよ」
「本当にお母さん料理上手だよね、全部美味しい!」
「二人がいつも美味しそうに食べてくれるから、作り甲斐があるわ」
ポテトサラダには、シャキシャキの林檎が入っていて、食感と味覚で幸せが二乗になる。あれもこれも美味しくて、箸が止まらない。
今日あったことを報告し合い、美味しいご飯を口に入れる。
そこで、あ、と思い出した。凛のことを。
「そう、さっき凛から電話あって、ちょっとこの後出掛けてくる」
「え!!!」
「……何、江」
「い、いや、何でもない」
「そう」
「本当に、凛と名前は仲が良いわねえ」
出掛けることを伝えると、あからさまに何か知っているらしい江は視線をうろうろさせて、目を合わせようとしない。
ここで追求しても仕方がない。それに、悪いことではないのだろうし。
嘘の付けない良い子に育ったなあと、白米を噛みしめながら思った。
最後の一口を惜しみつつ、飲み込み、手を合わせて感謝の言葉。
「ご馳走様でした」
「お粗末様」
「じゃあ、行ってくる。帰り、何時になるか分からないから先にお風呂入って寝てて。凛が送ってくれるし」
「そう、分かった。気を付けてね」
「お姉ちゃん、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
食器も片付けた。携帯と鍵は持っている。
簡単に着替えて、さあ出発だ。
少し遠いから、自転車に乗ることにした。
風が耳元でひゅんひゅんと鳴る。
ばちばち当たる風に、髪が後ろに引かれる。
人気は殆ど無く、車もあまり通っていない。
上を見ると、深い藍色の上で星がきらきらと輝いていた。
耳をすませば、海の音。肺いっぱいに息を吸えば、潮の味。この時間を楽しむには、このスピードでは勿体無いとブレーキを少しだけかけて、ペダルを踏み込む力を弱めた。
ひゅんひゅんなる風は、やはり少し冷たいけれど、気分を高揚させるには丁度良い。
待ち合わせ場所に着くと、適当に自転車を止めた。辺りを見やれば、直ぐに目的の人物を見つけた。
「凛」
「名前。悪いな、こんな時間に」
「別に、気にしなくて良い。それで、どうした?」
「ああ、いや、……着いてきて欲しいだけだ」
「ん、分かった」
どこに、とは聞かない。
あのおまじないは、しなくなった。
凛にはもう、必要ないのかもしれない。
だけれど、ぎこちない距離で手を伸ばされると理由も聞かずに来てしまう。都合の良い女のような思考に、我ながら呆れる。
隣に並んで歩き、ぽつりぽつりと会話した。
「自転車で来たのか」
「ああ、うん。凛は?」
「そんなに遠くねえから走ってきた」
「元気だね」
「普通だろ」
「普通なのか」
「おう」
着いたのは、木の下だった。
立派な木。
「ここ?」
「ああ、掘り返してえ物があってよ」
「スコップは?」
「ん」
「準備が良いな」
「直ぐ終わるから、ちょっと待ってろ」
ザクザクと、特に苦戦するわけでも無く順調に掘り進めていく音がする。
凛が掘っている姿を見ながら、ぼんやりと昔のことを思い出した。そういえば、私が結局行けなかった大会で優勝したんだっけ。その時のトロフィーが何とかかんとかで……。
曖昧な記憶の中で、あの頃の幼い凛が満面の笑みで喋っている。いつの間にか、七瀬がハルになり、他にも聞いたことのない名前が幾つか出てきた。
懐かしい。
「名前、終わったぞ」
「ん。……トロフィー?」
「おー。ここに埋めたんだ、あいつらと」
「そう。……?」
凛の言葉に頷いていると、少し遠くの方で声がした。若い、男の声が複数。
多分こちらへ向かっている。こんな時間に、何のようだ?
凛もその声に気付いたらしく、ぱっと顔をそちらへ向けて僅かに顔へ落とした影が、私にその声の主が凛と関係ある人なのだろうと予測させた。
「私、ここで待ってるから」
「……」
悪い、と幾ばくかの沈黙の後、凛は小さな声でそう言った。去っていく背中を見つめ、やはり私は、凛にとって良い変化があることを期待した。何か、変われば良い。
今年の春は、そんな私の期待を許してくれた。
葵からの連絡を確認し、明日の予定を立てる。
いつもより一本早い電車に乗ろう。
いつもより少し早く起きよう。
いつもよりしっかり寝よう。
勉強を頑張る自分と葵の為に、お菓子を持って行こう。
湧き立つ期待を抑えるように、何度も何度も、予定とは言い難いそれを頭の中で繰り返す。
いつもより、いつもより。
寒さを誤魔化す為に、腕を摩る。寒くない寒くない。蹲み込んだ先で小さく転がる石を見つめた。
今頃、喋れているかな。
目を閉じると、真っ黒な世界が広がる。
耳を澄ますと、木々の葉を揺らす風の音が鳴る。来る時とは違う、音と世界。
不安そうな顔をしていた。
ずっと、ずっと。
多分、凛は一人でもここに来た。
だけれど、それを選ばなかった。
帰ってきてから、──日本に帰ってきてから、ずっと不安でたまらないと顔を歪ませていた。凛の顔をしっかり見ないとわからない程度の、小さくて消えそうな不安。
閉じていた目を開けた。
歩く足音が近づいてきたから。
蹲み込んだまま、顔も上げずに口を開く。
「七瀬遙には、会えた?」
「……ああ」
「そう。良かったな」
「良くねえよ」
「……そう」
苛々している声、それでいてどこか嬉しそうな気配が潜んでいる。
七瀬遙に会えたんだ、良かったね、凛。
言ったらまた、そんなことはないと返すから心の中で言う。良かったね。
来た時と同じように、ぽつりぽつりと会話する。
「二人乗りする?」
「おう」
「じゃあ、宜しくお願いします」
「ったく、仕方ねえな」
勿論、凛が前だ。
鍵を渡すと、サドルを上げていた凛がため息と共にそれを受け取る。
「わーい、二人乗りだ」
「顔と言ってることとテンション違いすぎてお前訳わかんねえよ、黙っとけ」
「凛、本当に、背伸びたな」
「話の逸らし方下手くそかよ。……成長期だからな」
「私ももう少し伸びないかな。……あ、そうだ、実はピアス開けたんだ」
「はあ!?!?!?!?」
耳をすませば、海の音。肺いっぱいに息を吸えば、潮の味。凛の背中に額を当てて、鼓動を聞く。
ちょっと、むしゃくしゃして、ピアス開けました。
何も引いていないから尻が痛い。
あと、凛うるさい。
「むしゃくしゃってお前……馬鹿だろ」
「なんか、……開けたらすっきりするかなあって思ったんだけど、別に変わらなかった」
「当たり前だろ……」
さあ、今のうちに凛を補充しておこう。
凛は未だにぶつぶつと何かを言っているが、全部聞き流す。ぐりぐりと背中に額を押し当てると、ぶつぶつが少しだけ静まった。
ピアスを開けてまだ一ヶ月も経っていないせいか、耳の患部が少しだけ痛い。
寂しいのは、きっと自分だけではない。
多分。
僅かに落ちたスピードが、それを物語る。
「自転車、乗って帰る?流石に遠いだろ」
「あー……そうだな。借りていく」
「取りに行く時連絡する。ちゃんと見てよ」
「おう」
着いてしまった。
のろのろ降りると、凛が私の頭に手を置いて雑に撫でる。ボサボサになるが、気にしていられない。
「名前、今日は付き合ってくれてありがとな」
「こちらこそ、送ってくれてありがとう」
「おやすみ」
「凛も、おやすみ。気をつけてね」
小さくなる後ろ姿を見つめ、冷たい風に頬を当てた。
潮の匂いが遠い。海の音が遠い。
変われ、変われば良い。
どうか、凛に何かが起きますように。
海を指先ですくってもいないのに、冷たくなった指先からは潮の匂いがした。
さあ、寝よう。寝る時間だ。