高校二年生、出会う
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リビングの机の上に広がる写真たち。
その時の周囲環境は分からないが、声が聞こえそうなほど一瞬の時間を閉じ込めている。
写真、撮るの上手だな。
「お姉ちゃん、何見てるの?」
「これ、江だろ」
「それね!部活の合宿の時に撮ったんだよ。上手に撮れてる?」
「うん。写真、見てるだけで声が聞こえてきそう」
「えへへ」
一枚一枚、写真を見る。
青い空、青い海。
海の音、波の音。
────七瀬、遙。
「お姉ちゃん、一枚いる?」
「は」
「遙先輩、とか」
「は?」
「お兄ちゃんも撮ってるよ!」
「……凛のもらう」
「遙先輩、追加してもいいよ」
「うるさい、要らない」
ニヤニヤしている妹の顔を押しやり、多くある中の一枚を指先で手繰り寄せる。
凛。
連絡は相変わらずない。
この写真、撮って送りつけてやろうか。
「欲しくなったら言ってね」
「いらない」
「そう?」
遠慮しないでね、と懲りない江の頬を強めの力で引っ張った。
…
目が、覚めた。
「……」
あれから動くことのないメールの受信欄。
机の上には、写真立てに入った凛がいる。
服を湿らす程度の寝汗が不快だった。
額に滲む汗を拭い、眉間に寄った皺を揉みほぐす。
「……凛、おはよ」
衝動に駆られて、理由も意味も用事もないのに電話をかけた。
暗い。
暗い部屋で、思い出すことさえできない夢の断片を追いかけるために目を閉じる。
電話の発信音を聴きたくなくて、少し耳から遠ざけていれば「なんだよ」と掠れた声が機械の奥から聞こえてきた。
ああ、そうか。
まだ、こんな時間だったんだ。
「ごめん、寝てたか」
「いや、さっき起きたとこだ」
「そう、ならいいや」
「……用事は」
「凛が、……寝付けてないのかなって思ったから」
窓を見やる。
朝日が早く出てくるようになった季節だというのに、まだ外は暗い。
ひたりと、熱い布団から抜け出して冷たい床に足底をくっつける。
窓を開ければ、熱を持たない空気が頬を撫でた。
思考の淵にある僅かな眠気は次第に大きくなっていくような気がして、眠気に比例しない欠伸を噛み殺した。
「寝つけてねえのはお前だろ」
「……確かに。でも、間違ってないでしょ」
「はいはい。それで、心配して電話かけてきたってか」
「そうだよ」
ちらちらと赤色が視界に入って来る。
穏やかな時間だ。
湿気も熱もない空気は、気管を痛めつけない。
穏やかな、凛の声。
きっと、追いつけるはずだった夢の断片を諦め、名前は幼い過去の自分を見つめることにした。
「凛、聞いて欲しいことがあるんだけど」
「ん、なんだよ」
「昔から凛に甘えすぎてたんだって、最近気がついたんだよ、私」
「は?」
「七瀬遙に似てるってよく言ってたでしょ。それ、なんとなく分かってきた」
「……は」
「それとね、私は凛のことが大切だよ。覚えてて」
目を閉じる。
青い色が、ゆらゆら揺れる。
水面を撫でる夕陽、私を見つめる青い色。
電話の先で、がたがたと騒々しい凛の様子を無視して名前は続ける。
痛いと電話の向こうで凛が呻こうと、名前を呼ばれても、静止をかけられても、名前はただ胸の奥が清々しいような気持ちでいっぱいだった。
「七瀬遙に嫉妬してた、小学生の時。私の凛を奪いやがってって思ってたけど、多分、そういうところも七瀬遙に似てるのかもね」
「おい、名前」
「朝早くにごめん、じゃあまた」
「は?おい!ちょ、」
少しずつ明るくなってきた空を見上げ、ごちゃごちゃと何か言っている電話を切る。
肺いっぱいに空気を吸い込む。
夏の匂い。
凛の季節だ。
そして、今日は。
「は!?おま、名前、なんでここに」
「……凛こそ、なんでいるんだよ。今日試合だろ」
「なんでそれを、いや、江か。……じゃねえよ!」
「うるさい」
「というか今朝の電話、……ああもう、後で聞くからな」
「はいはい」
父さんの墓の前。
見晴らしの良い場所であるここを、名前は気に入っていた。
受験の前、受験の後、一人になりたい時、悩んだ時、名前はここに来て、微かな記憶にある父の顔や声、笑顔を思い浮かべながら広がる海を見つめた。
凝縮された青ではない色。
空の色が溶け込み、遠く、遠く、伸びていく様は僅かに傷を癒してくれるような気がしたのだ。
だから、普段と同じことをしただけだった。まさかそこに、片割れがいるとは思ってもみなかっただけで。
名前の顔を見て驚愕する凛を無視し、名前は口を開く。
ひくりと、凛の口角が引き攣った。
「私、夏は凛の季節だと思ってる」
「は?」
「春もね」
「ハル!?」
「季節の春」
「あ、……そうかよ」
「……凛がどうしたいのか、何を考えているのか、何を思ってるのか、私には分からない」
今もね、と付け加えれば、凛は目を逸らして黙った。
緑が萌え、青空は美しい。
何かが、変わる。変わっている。
遠く、遠く伸びていく空の色を、見つめた。
「凛に嫌われたくなくて黙ってた。口を出すこともなかった。今は、凛が前に進むためなら凛と喧嘩したって良い。凛に、……嫌われたって良い」
「……」
「たくさん悩んで、たくさん喧嘩して、……自分の気持ちには素直になって。傷ついて、しんどくなって、どうしようもなくなったら、私が代わりに泣く。私が代わりに怒る。それでしんどいことも辛いことも軽くなるなんて思わないけど、私は凛のそばにいたい」
凛はただ、黙っている。
同じ色の髪の毛が揺れる。
自分よりも高い位置にある肩に、経過した時間を思い知る。
長い前髪が凛の表情を隠し、窺い知れないがそれでも良いと思った。
名前は、訪れた季節と、訪れた変化の外で、自分自身の変化を、夏の早朝を包み込む空気のようだと思った。
そしてそこには、片割れがいて欲しいと。
気づいて欲しいと、願った。
「……あとで、絶対ぇ話きくからな」
「うん、待ってる」
「先、降りてろ。どうせ会場来るんだろ、一緒に行くぞ」
「分かった」
大きくなった私達を見て、父さんはなんて言うかな。
……馬鹿馬鹿しい、笑ってしまった。
一緒にいた年数の方が短いのだ。笑顔も声も、自分の記憶の中にある父さんは、補正がかかっているだろうに。
それに。
きっと私は幼い頃の父の顔ばかり、思い出す。
…
江が、帰って来ない。
連絡をすれば、七瀬遙の家にいるのだと言うから迎えに行く途中、見なかったフリのできない人間が海岸にいた。
足を止めて、予想した人物で合っているのか恐る恐る確かめる。
高校生が出歩くには少し遅い時間帯だ、人違いの可能性の方が高い。そう当たりをつけたが、外れだった。
青い。
潮風が揺らす髪の毛は湿っているような気がして、伸ばしかけた指先は不意に振り向いた男のせいで名前の体の横に戻るしか無くなった。
視線を落とす。
なんて声を、掛けようか。
「……七瀬、何してんの」
「松岡」
結局、大した案も浮かばないまま名前は海岸に腰掛ける七瀬遙の横、一人分空けた距離に座る。七瀬遙は名前から目を逸らし、暗くなった空を見上げる。
青い瞳が、深く濃く染まっていく。
「……俺はもう、凛とは泳げない」
「凛が、そう言ったの」
「……」
「そう」
街灯の少ない街は、夜空の星をよく見せてくれる。
夏といえど海水に乗った風は冷たく、肌寒い。
名前は、今朝の凛を思い出していた。
「私、七瀬には自由でいて欲しいって言ったと思う」
「……ああ」
「自分の気持ちには自由で、素直になれよ」
「お前は、……松岡は、なんで俺に」
名前は、するりと流れて行っただけの、七瀬遙の言葉に指を伸ばした。
半分だけ、距離が近くなる。
乗り出した体、相手が逃げないように七瀬遙の手首を握る。
「今日、初めて見たけど」と、名前は瞼の裏に焼きつくほど鮮烈な遙の泳ぎを思い出す。
「七瀬は、綺麗に泳ぐんだね」
七瀬遙は、固まって黙った。
寡黙ではあるが、意外にも表情の動きがあることはなんとなく察していた。
そして、目の奥に感情が煮詰まっていることも。
多分、凛は知っている。
「お前も、そんなことを言うのか」
「凛の双子だから、感性が似てるんだろ」
「……凛にそんなこと言われたことはない」
「言わないだけでしょ」
「……」
「じゃあ、私そろそろ行くね」
一人分よりも近い距離で、握った手首の熱から逃れるように、名前は体を引いた。けれど、名前が立ち上がるよりも前に七瀬遙は逆にその細い手首を捕まえた。
引き寄せて、やはり近い距離でその瞳を覗き込む。
赤い目に、青色が入りこむ。
「七瀬、この前もだけど近い」
「俺は、……いや、もう少し、いてくれないか」
返事になっていない返事に、許可は含まれていないのだろう。離れそうにもない、けれど振り払えば離れていきそうな力。
名前は笑った。
先ほどよりも近い距離で、隣に座った。
「七瀬の泳ぎ、もう少し早く見ておけばよかった」
「……」
「凛、あんな風に泳ぐんだね。知らなかった」
「ああ」
「小学生の頃の凛とは、違う?」
「……どうだろう」
七瀬遙は目を閉じて、見えもしない空に顔を上げる。
喜色で満ち足りた凛と、青く濃く色を濡らす七瀬遙が瞼の裏に浮かび上がる。
七瀬遙と同様、名前も目を閉じた。
目を閉じて、見えもしない夜空を見上げた。
──水の音。
塩素の匂い。観客のざわめき、拍手。水面に揺らめく陽の光。
昂った。
心臓は速く、自身の鼓動が脳みそさえも揺らした。
そして。
名前は、目を開ける。
視界いっぱいに広がる、夜空。
ずっと遠くにある、手を伸ばしても届かない時間に存在する星のカケラが宙を漂う。
宙。
紺紺と、濃く。
色濃く、濡れる。
こんな時間に広がる空でさえ、────綺麗な青だと名前は思った。
手首に回る七瀬遙の手から抜け出し、隣から正面へ。空の色が、海の色が、私を捉える。
男の頬は柔らかくない。
空ばかり見上げる顔を、両手で捕まえた。
「私、凛と七瀬が出会ってくれて嬉しいよ」
湿っている髪が指先に触れる。
ああやっぱり。
七瀬遙には、水が似合う。
「髪、濡れてる。早く帰らないと風邪ひくよ」
七瀬遙が何かを言う前に、名前はすばやく言葉を重ねる。
瞳の奥を覗こうとした。
そこには何もないというのに。
「……もう少し、ここにいる。お前は早く江を迎えに行ってやれ」
「わかった」
七瀬遙は何も言わなかった。
頬を捉える名前の手に自分の手を重ねた後、一度だけ、軽く擦り寄った。
ぐ、と手のひらを握り込まれ、次の瞬間には七瀬遙の頬から名前の手は滑り落ちる。
七瀬遙の太ももの上で、名前は手のひらと手のひらが合わさるように動いた。
大きな手だった。
少しだけ戸惑っていた指先が、名前の熱を閉じ込めるように動いた。
…
「お姉ちゃん!」
「江、遅くなってごめん」
「あ!江ちゃんのお姉ちゃんだ。はじめまして、葉月渚です。眼鏡をかけてるのが龍ヶ崎怜ちゃんで、もう一人がまこちゃんだよ」
「松岡名前です」
「橘真琴です、はじめまして。夜遅くにすみません」
「いえ、大丈夫です。むしろこんな遅い時間まで、すみません。ありがとうございます」
「いやいや、女の子を一人にする方が心配だから気にしないでください」
「それでも、ですよ。本当にありがとうございます」
「お姉ちゃん?どうしたの?」
「なんでもない。じゃあ、帰ろっか」
「うん。では、また部活で。今日は本当にお疲れ様でした」
隣で頭を下げる江。
────青く。
青い水の中、水面に弾ける陽の光。
照らされた肌に水が滴り、水を掻く指先に水が壊れていく。
先ほどまで近くにあった、塩素の匂い。
名前は、胸が熱くなった。
「あの、今日の試合、とても良かったです。観ていて楽しかった、本当に。お疲れ様でした」
「え、名前ちゃん本当に!?」
「はい」
「また観にきてくれる?僕、次はもっと速く泳げるように頑張るから」
「楽しみにしてます」
「では、僕ももっと美しく泳げるように精進します!」
「ふふ、良かったあ。お姉ちゃん、また観に来てね」
「うん、ぜひ。……じゃあ、そろそろ帰ります。本当に、お疲れ様でした」
凛は、本当に意地っ張りだ。
その時の周囲環境は分からないが、声が聞こえそうなほど一瞬の時間を閉じ込めている。
写真、撮るの上手だな。
「お姉ちゃん、何見てるの?」
「これ、江だろ」
「それね!部活の合宿の時に撮ったんだよ。上手に撮れてる?」
「うん。写真、見てるだけで声が聞こえてきそう」
「えへへ」
一枚一枚、写真を見る。
青い空、青い海。
海の音、波の音。
────七瀬、遙。
「お姉ちゃん、一枚いる?」
「は」
「遙先輩、とか」
「は?」
「お兄ちゃんも撮ってるよ!」
「……凛のもらう」
「遙先輩、追加してもいいよ」
「うるさい、要らない」
ニヤニヤしている妹の顔を押しやり、多くある中の一枚を指先で手繰り寄せる。
凛。
連絡は相変わらずない。
この写真、撮って送りつけてやろうか。
「欲しくなったら言ってね」
「いらない」
「そう?」
遠慮しないでね、と懲りない江の頬を強めの力で引っ張った。
…
目が、覚めた。
「……」
あれから動くことのないメールの受信欄。
机の上には、写真立てに入った凛がいる。
服を湿らす程度の寝汗が不快だった。
額に滲む汗を拭い、眉間に寄った皺を揉みほぐす。
「……凛、おはよ」
衝動に駆られて、理由も意味も用事もないのに電話をかけた。
暗い。
暗い部屋で、思い出すことさえできない夢の断片を追いかけるために目を閉じる。
電話の発信音を聴きたくなくて、少し耳から遠ざけていれば「なんだよ」と掠れた声が機械の奥から聞こえてきた。
ああ、そうか。
まだ、こんな時間だったんだ。
「ごめん、寝てたか」
「いや、さっき起きたとこだ」
「そう、ならいいや」
「……用事は」
「凛が、……寝付けてないのかなって思ったから」
窓を見やる。
朝日が早く出てくるようになった季節だというのに、まだ外は暗い。
ひたりと、熱い布団から抜け出して冷たい床に足底をくっつける。
窓を開ければ、熱を持たない空気が頬を撫でた。
思考の淵にある僅かな眠気は次第に大きくなっていくような気がして、眠気に比例しない欠伸を噛み殺した。
「寝つけてねえのはお前だろ」
「……確かに。でも、間違ってないでしょ」
「はいはい。それで、心配して電話かけてきたってか」
「そうだよ」
ちらちらと赤色が視界に入って来る。
穏やかな時間だ。
湿気も熱もない空気は、気管を痛めつけない。
穏やかな、凛の声。
きっと、追いつけるはずだった夢の断片を諦め、名前は幼い過去の自分を見つめることにした。
「凛、聞いて欲しいことがあるんだけど」
「ん、なんだよ」
「昔から凛に甘えすぎてたんだって、最近気がついたんだよ、私」
「は?」
「七瀬遙に似てるってよく言ってたでしょ。それ、なんとなく分かってきた」
「……は」
「それとね、私は凛のことが大切だよ。覚えてて」
目を閉じる。
青い色が、ゆらゆら揺れる。
水面を撫でる夕陽、私を見つめる青い色。
電話の先で、がたがたと騒々しい凛の様子を無視して名前は続ける。
痛いと電話の向こうで凛が呻こうと、名前を呼ばれても、静止をかけられても、名前はただ胸の奥が清々しいような気持ちでいっぱいだった。
「七瀬遙に嫉妬してた、小学生の時。私の凛を奪いやがってって思ってたけど、多分、そういうところも七瀬遙に似てるのかもね」
「おい、名前」
「朝早くにごめん、じゃあまた」
「は?おい!ちょ、」
少しずつ明るくなってきた空を見上げ、ごちゃごちゃと何か言っている電話を切る。
肺いっぱいに空気を吸い込む。
夏の匂い。
凛の季節だ。
そして、今日は。
「は!?おま、名前、なんでここに」
「……凛こそ、なんでいるんだよ。今日試合だろ」
「なんでそれを、いや、江か。……じゃねえよ!」
「うるさい」
「というか今朝の電話、……ああもう、後で聞くからな」
「はいはい」
父さんの墓の前。
見晴らしの良い場所であるここを、名前は気に入っていた。
受験の前、受験の後、一人になりたい時、悩んだ時、名前はここに来て、微かな記憶にある父の顔や声、笑顔を思い浮かべながら広がる海を見つめた。
凝縮された青ではない色。
空の色が溶け込み、遠く、遠く、伸びていく様は僅かに傷を癒してくれるような気がしたのだ。
だから、普段と同じことをしただけだった。まさかそこに、片割れがいるとは思ってもみなかっただけで。
名前の顔を見て驚愕する凛を無視し、名前は口を開く。
ひくりと、凛の口角が引き攣った。
「私、夏は凛の季節だと思ってる」
「は?」
「春もね」
「ハル!?」
「季節の春」
「あ、……そうかよ」
「……凛がどうしたいのか、何を考えているのか、何を思ってるのか、私には分からない」
今もね、と付け加えれば、凛は目を逸らして黙った。
緑が萌え、青空は美しい。
何かが、変わる。変わっている。
遠く、遠く伸びていく空の色を、見つめた。
「凛に嫌われたくなくて黙ってた。口を出すこともなかった。今は、凛が前に進むためなら凛と喧嘩したって良い。凛に、……嫌われたって良い」
「……」
「たくさん悩んで、たくさん喧嘩して、……自分の気持ちには素直になって。傷ついて、しんどくなって、どうしようもなくなったら、私が代わりに泣く。私が代わりに怒る。それでしんどいことも辛いことも軽くなるなんて思わないけど、私は凛のそばにいたい」
凛はただ、黙っている。
同じ色の髪の毛が揺れる。
自分よりも高い位置にある肩に、経過した時間を思い知る。
長い前髪が凛の表情を隠し、窺い知れないがそれでも良いと思った。
名前は、訪れた季節と、訪れた変化の外で、自分自身の変化を、夏の早朝を包み込む空気のようだと思った。
そしてそこには、片割れがいて欲しいと。
気づいて欲しいと、願った。
「……あとで、絶対ぇ話きくからな」
「うん、待ってる」
「先、降りてろ。どうせ会場来るんだろ、一緒に行くぞ」
「分かった」
大きくなった私達を見て、父さんはなんて言うかな。
……馬鹿馬鹿しい、笑ってしまった。
一緒にいた年数の方が短いのだ。笑顔も声も、自分の記憶の中にある父さんは、補正がかかっているだろうに。
それに。
きっと私は幼い頃の父の顔ばかり、思い出す。
…
江が、帰って来ない。
連絡をすれば、七瀬遙の家にいるのだと言うから迎えに行く途中、見なかったフリのできない人間が海岸にいた。
足を止めて、予想した人物で合っているのか恐る恐る確かめる。
高校生が出歩くには少し遅い時間帯だ、人違いの可能性の方が高い。そう当たりをつけたが、外れだった。
青い。
潮風が揺らす髪の毛は湿っているような気がして、伸ばしかけた指先は不意に振り向いた男のせいで名前の体の横に戻るしか無くなった。
視線を落とす。
なんて声を、掛けようか。
「……七瀬、何してんの」
「松岡」
結局、大した案も浮かばないまま名前は海岸に腰掛ける七瀬遙の横、一人分空けた距離に座る。七瀬遙は名前から目を逸らし、暗くなった空を見上げる。
青い瞳が、深く濃く染まっていく。
「……俺はもう、凛とは泳げない」
「凛が、そう言ったの」
「……」
「そう」
街灯の少ない街は、夜空の星をよく見せてくれる。
夏といえど海水に乗った風は冷たく、肌寒い。
名前は、今朝の凛を思い出していた。
「私、七瀬には自由でいて欲しいって言ったと思う」
「……ああ」
「自分の気持ちには自由で、素直になれよ」
「お前は、……松岡は、なんで俺に」
名前は、するりと流れて行っただけの、七瀬遙の言葉に指を伸ばした。
半分だけ、距離が近くなる。
乗り出した体、相手が逃げないように七瀬遙の手首を握る。
「今日、初めて見たけど」と、名前は瞼の裏に焼きつくほど鮮烈な遙の泳ぎを思い出す。
「七瀬は、綺麗に泳ぐんだね」
七瀬遙は、固まって黙った。
寡黙ではあるが、意外にも表情の動きがあることはなんとなく察していた。
そして、目の奥に感情が煮詰まっていることも。
多分、凛は知っている。
「お前も、そんなことを言うのか」
「凛の双子だから、感性が似てるんだろ」
「……凛にそんなこと言われたことはない」
「言わないだけでしょ」
「……」
「じゃあ、私そろそろ行くね」
一人分よりも近い距離で、握った手首の熱から逃れるように、名前は体を引いた。けれど、名前が立ち上がるよりも前に七瀬遙は逆にその細い手首を捕まえた。
引き寄せて、やはり近い距離でその瞳を覗き込む。
赤い目に、青色が入りこむ。
「七瀬、この前もだけど近い」
「俺は、……いや、もう少し、いてくれないか」
返事になっていない返事に、許可は含まれていないのだろう。離れそうにもない、けれど振り払えば離れていきそうな力。
名前は笑った。
先ほどよりも近い距離で、隣に座った。
「七瀬の泳ぎ、もう少し早く見ておけばよかった」
「……」
「凛、あんな風に泳ぐんだね。知らなかった」
「ああ」
「小学生の頃の凛とは、違う?」
「……どうだろう」
七瀬遙は目を閉じて、見えもしない空に顔を上げる。
喜色で満ち足りた凛と、青く濃く色を濡らす七瀬遙が瞼の裏に浮かび上がる。
七瀬遙と同様、名前も目を閉じた。
目を閉じて、見えもしない夜空を見上げた。
──水の音。
塩素の匂い。観客のざわめき、拍手。水面に揺らめく陽の光。
昂った。
心臓は速く、自身の鼓動が脳みそさえも揺らした。
そして。
名前は、目を開ける。
視界いっぱいに広がる、夜空。
ずっと遠くにある、手を伸ばしても届かない時間に存在する星のカケラが宙を漂う。
宙。
紺紺と、濃く。
色濃く、濡れる。
こんな時間に広がる空でさえ、────綺麗な青だと名前は思った。
手首に回る七瀬遙の手から抜け出し、隣から正面へ。空の色が、海の色が、私を捉える。
男の頬は柔らかくない。
空ばかり見上げる顔を、両手で捕まえた。
「私、凛と七瀬が出会ってくれて嬉しいよ」
湿っている髪が指先に触れる。
ああやっぱり。
七瀬遙には、水が似合う。
「髪、濡れてる。早く帰らないと風邪ひくよ」
七瀬遙が何かを言う前に、名前はすばやく言葉を重ねる。
瞳の奥を覗こうとした。
そこには何もないというのに。
「……もう少し、ここにいる。お前は早く江を迎えに行ってやれ」
「わかった」
七瀬遙は何も言わなかった。
頬を捉える名前の手に自分の手を重ねた後、一度だけ、軽く擦り寄った。
ぐ、と手のひらを握り込まれ、次の瞬間には七瀬遙の頬から名前の手は滑り落ちる。
七瀬遙の太ももの上で、名前は手のひらと手のひらが合わさるように動いた。
大きな手だった。
少しだけ戸惑っていた指先が、名前の熱を閉じ込めるように動いた。
…
「お姉ちゃん!」
「江、遅くなってごめん」
「あ!江ちゃんのお姉ちゃんだ。はじめまして、葉月渚です。眼鏡をかけてるのが龍ヶ崎怜ちゃんで、もう一人がまこちゃんだよ」
「松岡名前です」
「橘真琴です、はじめまして。夜遅くにすみません」
「いえ、大丈夫です。むしろこんな遅い時間まで、すみません。ありがとうございます」
「いやいや、女の子を一人にする方が心配だから気にしないでください」
「それでも、ですよ。本当にありがとうございます」
「お姉ちゃん?どうしたの?」
「なんでもない。じゃあ、帰ろっか」
「うん。では、また部活で。今日は本当にお疲れ様でした」
隣で頭を下げる江。
────青く。
青い水の中、水面に弾ける陽の光。
照らされた肌に水が滴り、水を掻く指先に水が壊れていく。
先ほどまで近くにあった、塩素の匂い。
名前は、胸が熱くなった。
「あの、今日の試合、とても良かったです。観ていて楽しかった、本当に。お疲れ様でした」
「え、名前ちゃん本当に!?」
「はい」
「また観にきてくれる?僕、次はもっと速く泳げるように頑張るから」
「楽しみにしてます」
「では、僕ももっと美しく泳げるように精進します!」
「ふふ、良かったあ。お姉ちゃん、また観に来てね」
「うん、ぜひ。……じゃあ、そろそろ帰ります。本当に、お疲れ様でした」
凛は、本当に意地っ張りだ。
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