高校二年生、出会う
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水着を買いに行く。
江がそう話していたのはいつだったか。
そして、その水着を買いに行く日はいつだったか。
思い出そうとしても一向に思い出せない上に、目の前の揉み合いは激しさを増すばかりで、どうしようかと頭を悩ませてみるが良い解決方法は出てこない。
「いいや。お前は俺のために泳ぐんだ」
それは。
心臓が、一度だけ大きく動いた。
その後は浅く速く鼓動し、目の前がぐらぐらと揺れている気がする。
息を飲んで、碌な働きもしない脳みそに舌を打った。
ここから離れなければ。
意識の外側、判断をする脳みそを介さずに体を突き動かす衝動は勝手に手足を動かしてしまう。
息がしづらい。
肺に十分な酸素が入っていかない。
視界に入る赤が、今は嫌だった。
「凛……」
もう、二人の声は聞こえない。
姿も見えない。
どれだけの距離を走ったのか、記憶が曖昧で。けれど、それくらいがちょうどよかった。
頭が痛い。
思考がいつもより鈍く、重い。
寝不足。
答えのわかりきった問題ほど面白みのないものはない。
そして、寝不足の原因も当然デカデカと回答があるのだから余計に面白くない。
チラチラと赤色が視界に入るのが気に食わない。髪を結んで、今日はできる限り鏡を見ないように徹する。今決めた。
リビングで、鏡も使わず髪の毛を整える。
「あら、凛と喧嘩したの?」
「え」
「ふふ、昔から変わってないわね」
固まった私を見て、母が笑みを深くして「ほどほどにね」と言う。
そんなんじゃない、とすぐに言えないあたりあの日のことを思ったよりも引きずっているのだから救えない。
無理矢理ピンで留めた髪が、いくつか逃げ出す。
チラリと視界に入り込むからまた留め直す。
こんなことしても現状に変化はなく、そもそも勝手にモヤモヤしているだけなのだから、自分のこの態度は自分を中心に回っている環境の中でしか昇華されない。
私の代わりに怒る凛は、ここにはいない。
「あれ?お兄ちゃんと喧嘩したの?」
「……違う」
凛はいないが、自分の一人相撲には強制的に土俵に立たざるを得ない凛の虚実を自覚して、心の中で謝った。
ああでも、今は謝りたくない。
一人で撤回した謝罪をリビングに置いて、家を出た。
本当に、頭が痛い。
眠気のピークはとうに過ぎ、けれど頭痛は変わらず存在を示す。
「じゃあまたね」
「うん、また明日」
今日は早く寝よう。
重たい瞼にそう言い聞かせて、帰路に着いた。
はずだった。
「七瀬、遙……」
「っおい!」
「お姉ちゃん、遙先輩!?」
今、会いたくない人物のランキングを作るとしたらダントツでトップを飾る二人のうち一人が、何故かいた。
自分がよく使う駅に。
その青色は。その人は。
脳みそが認識する前に、体は走ることを選択していた。
まただ。
この頃、自分の体は自分の言うことを聞いてくれない。
ちらつく赤色は、胸をざわつかせるだけ。
まただ。
この頃、自分の体は自分の言うことを聞いてくれない。
見上げた先にある青色は、私の胸をざわつかせる。
「松岡!」
頭が痛い。
瞼が重い。
ローファーは走りにくい。
靴下がずれていくのが不快。
教材が多く入った鞄は重く、振動で体にぶつかる度痛くて仕方がない。
息が。
逸る鼓動、喘ぐように息をする。
赤。
短い髪は、どれだけピンで留めても結えた束からいくつか逃げ出す。
赤。
鏡の前に立てば、松岡名前を模る色がそこに映る。
赤。
赤、が。
「松岡名前!」
変わっていった景色が急激にスピードを落とし、止まる。
「は、っ、なんで、逃げるんだ……」
手首を一周する手。
落ちて散らばる教材。
息が上がって、肺に十分な酸素が入らずに苦しい。
それなのに、名前はただ目の前に広がる色に囚われた。
その色は、片割れを捉えて離さない。
一瞬だけ、目に入っただけ、それだけなのに。
「……あお」
「は」
青色。
空のような。
海のような。
凛がいる、プールの中のような。
「おい、松岡」
「!」
は、と意識が青色から解放された瞬間、名前の時間が動き始めた。
驚き、無意識のうちに引いた腕を七瀬遙は見逃さず、より近く引き寄せられる。
凛とも、江とも、母とも違う匂いが鼻腔に流れ込み、脳みその皺を削り取っているかのような錯覚を覚える。
「ちょ、っ近いし手を離して欲しいんだけど」
「松岡が逃げないことを約束してくれるなら」
「わかったから、早く離して離れて」
身長が高いことをこれ程までに呪ったことはない。
七瀬遙の顔が近い。
首筋が、近い。
ほとんど無臭に近いくせに、鼻腔を満たさんとするのはどう考えても七瀬遙の匂いと分かるのが余計に嫌だった。
「それで、なに」
随分な言いようだと、自覚はしている。
「松岡が俺を見て走って逃げていくから追いかけた」
「なにそれ」
視線を逸らして後悔した。
視界に青が広がる。
水面を揺らす太陽の陽はないけれど、水中まで潜り込むような濃い夕陽がある。
反抗にもならない反抗は、目的も意味も、誰も知らない。誰にも教えられない。
あの日のことが忘れられない。
ただそれだけ。
家族から喧嘩だと片付けられてしまうこの態度は、私の中で忙しく松岡名前を荒らしているというのに。
「気になった、ただそれだけだ」
「……」
「それで、理由は教えてくれないのか」
七瀬遙は、凪いでいる。
静謐な海の底のようだった。
音も遠い世界の底で、光すら届かない世界の底で、ただコチラを見つめているようだった。
──これが、海の匂いなのか。
七瀬遙の瞳の色が視界に広がり、凛の心中を察することのできない自分自身がじわじわと沁みていく。
海には、あまり近寄らなかった。
興味がなかったから。
泳ぐことに対して、積極的ではなかったから。
プールには、近寄ることがなかった。
泳ぐことに対して、興味がなかったから。
水泳に時間を割くことはなかった。
青色が、私の心を癒すことなど決してないから。
海の底。プールの水面。ひたひたに濡れている世界を支配するその色は、私を癒すことはない。
「……」
七瀬遙は、凪いでいる。
名前の目を見つめ、離そうとしない。
からからに渇いた口内が、言葉の水分を吸い込んでしまう。
乾涸びた言葉は、音を失い、意味を失う。
私を癒すことのない青色に、何故囚われるのだろう。
「七瀬は、……綺麗だね」
七瀬遙はたじろぎ、ただ沈黙を選んだ。
「凛は七瀬に昔から惹かれてた。嘘じゃない」
「そんなこと言われても、俺は」
「七瀬がどう思うかは分からないけど、……凛がどうしたいのか、私にはわからなくなったけど、私は」
海の音。
波の音。
視界の端で、水面が揺らぐ。
水面が輝く。
目の前にいる男の瞳には、名前と凛を捉えて癒すことのない青がある。
「自由で、いて欲しかった」
囚われたら、身動きができない。
捉えてしまったら、身動きは許されない。
───フリー。
いつか、凛が言っていた。
ずっと前の、何にも囚われず、自由だった時の凛が私の手を握って、そう言っていた。
「凛が自由かなんて、あいつが決めることだ。俺は知らない」
「違う」
七瀬遙の言葉を遮り、名前はあおいあおい目を見つめ返した。
飲み込まれるような、錯覚。
「私は、七瀬に自由でいて欲しいんだよ」
「は」
「凛は自由に泳ぐ七瀬遙が好きなんだと、私は思ってた。凛は確かに、七瀬に囚われてる。でもそれはね、昔から」
言ったでしょう、と昔の私が臍を曲げてそっぽをむく。
「昔から、凛は君に夢中だって」
七瀬遙がたじろいだのが分かる。
「松岡、おまえ」
「なに」
「凛のこと」
「思ってない」
「まだ何も言ってない」
「何言われるかわかってる」
「……ふ」
「笑わないで」
水も海も青も、離れていけばいい。
昔の私が拗ねてそう言う。
そうだね、と青く深く染まった七瀬遙の瞳を見つめながら私は頷く。
七瀬の指が手首から離れ、次いで髪に触れた。
松岡名前を模る赤色に触れ、目尻がわずかに弛んだ。
「俺の代わりに笑うんだと、あいつは言ってた」
「……」
「……俺は、泳ぐ。県大会に行かないといけない」
「そう」
視界に赤が入り込む。
「お前は、来ないのか」
「……行こうかな」
力が抜けていく気がした。
離れていく七瀬遙の指を捕まえた後、あまり使われることのない表情筋がきしりと動く。
「凛が執着するほどの泳ぎ、私も見てみたいから」
もう、髪を結ばなくてもいいや。
江がそう話していたのはいつだったか。
そして、その水着を買いに行く日はいつだったか。
思い出そうとしても一向に思い出せない上に、目の前の揉み合いは激しさを増すばかりで、どうしようかと頭を悩ませてみるが良い解決方法は出てこない。
「いいや。お前は俺のために泳ぐんだ」
それは。
心臓が、一度だけ大きく動いた。
その後は浅く速く鼓動し、目の前がぐらぐらと揺れている気がする。
息を飲んで、碌な働きもしない脳みそに舌を打った。
ここから離れなければ。
意識の外側、判断をする脳みそを介さずに体を突き動かす衝動は勝手に手足を動かしてしまう。
息がしづらい。
肺に十分な酸素が入っていかない。
視界に入る赤が、今は嫌だった。
「凛……」
もう、二人の声は聞こえない。
姿も見えない。
どれだけの距離を走ったのか、記憶が曖昧で。けれど、それくらいがちょうどよかった。
頭が痛い。
思考がいつもより鈍く、重い。
寝不足。
答えのわかりきった問題ほど面白みのないものはない。
そして、寝不足の原因も当然デカデカと回答があるのだから余計に面白くない。
チラチラと赤色が視界に入るのが気に食わない。髪を結んで、今日はできる限り鏡を見ないように徹する。今決めた。
リビングで、鏡も使わず髪の毛を整える。
「あら、凛と喧嘩したの?」
「え」
「ふふ、昔から変わってないわね」
固まった私を見て、母が笑みを深くして「ほどほどにね」と言う。
そんなんじゃない、とすぐに言えないあたりあの日のことを思ったよりも引きずっているのだから救えない。
無理矢理ピンで留めた髪が、いくつか逃げ出す。
チラリと視界に入り込むからまた留め直す。
こんなことしても現状に変化はなく、そもそも勝手にモヤモヤしているだけなのだから、自分のこの態度は自分を中心に回っている環境の中でしか昇華されない。
私の代わりに怒る凛は、ここにはいない。
「あれ?お兄ちゃんと喧嘩したの?」
「……違う」
凛はいないが、自分の一人相撲には強制的に土俵に立たざるを得ない凛の虚実を自覚して、心の中で謝った。
ああでも、今は謝りたくない。
一人で撤回した謝罪をリビングに置いて、家を出た。
本当に、頭が痛い。
眠気のピークはとうに過ぎ、けれど頭痛は変わらず存在を示す。
「じゃあまたね」
「うん、また明日」
今日は早く寝よう。
重たい瞼にそう言い聞かせて、帰路に着いた。
はずだった。
「七瀬、遙……」
「っおい!」
「お姉ちゃん、遙先輩!?」
今、会いたくない人物のランキングを作るとしたらダントツでトップを飾る二人のうち一人が、何故かいた。
自分がよく使う駅に。
その青色は。その人は。
脳みそが認識する前に、体は走ることを選択していた。
まただ。
この頃、自分の体は自分の言うことを聞いてくれない。
ちらつく赤色は、胸をざわつかせるだけ。
まただ。
この頃、自分の体は自分の言うことを聞いてくれない。
見上げた先にある青色は、私の胸をざわつかせる。
「松岡!」
頭が痛い。
瞼が重い。
ローファーは走りにくい。
靴下がずれていくのが不快。
教材が多く入った鞄は重く、振動で体にぶつかる度痛くて仕方がない。
息が。
逸る鼓動、喘ぐように息をする。
赤。
短い髪は、どれだけピンで留めても結えた束からいくつか逃げ出す。
赤。
鏡の前に立てば、松岡名前を模る色がそこに映る。
赤。
赤、が。
「松岡名前!」
変わっていった景色が急激にスピードを落とし、止まる。
「は、っ、なんで、逃げるんだ……」
手首を一周する手。
落ちて散らばる教材。
息が上がって、肺に十分な酸素が入らずに苦しい。
それなのに、名前はただ目の前に広がる色に囚われた。
その色は、片割れを捉えて離さない。
一瞬だけ、目に入っただけ、それだけなのに。
「……あお」
「は」
青色。
空のような。
海のような。
凛がいる、プールの中のような。
「おい、松岡」
「!」
は、と意識が青色から解放された瞬間、名前の時間が動き始めた。
驚き、無意識のうちに引いた腕を七瀬遙は見逃さず、より近く引き寄せられる。
凛とも、江とも、母とも違う匂いが鼻腔に流れ込み、脳みその皺を削り取っているかのような錯覚を覚える。
「ちょ、っ近いし手を離して欲しいんだけど」
「松岡が逃げないことを約束してくれるなら」
「わかったから、早く離して離れて」
身長が高いことをこれ程までに呪ったことはない。
七瀬遙の顔が近い。
首筋が、近い。
ほとんど無臭に近いくせに、鼻腔を満たさんとするのはどう考えても七瀬遙の匂いと分かるのが余計に嫌だった。
「それで、なに」
随分な言いようだと、自覚はしている。
「松岡が俺を見て走って逃げていくから追いかけた」
「なにそれ」
視線を逸らして後悔した。
視界に青が広がる。
水面を揺らす太陽の陽はないけれど、水中まで潜り込むような濃い夕陽がある。
反抗にもならない反抗は、目的も意味も、誰も知らない。誰にも教えられない。
あの日のことが忘れられない。
ただそれだけ。
家族から喧嘩だと片付けられてしまうこの態度は、私の中で忙しく松岡名前を荒らしているというのに。
「気になった、ただそれだけだ」
「……」
「それで、理由は教えてくれないのか」
七瀬遙は、凪いでいる。
静謐な海の底のようだった。
音も遠い世界の底で、光すら届かない世界の底で、ただコチラを見つめているようだった。
──これが、海の匂いなのか。
七瀬遙の瞳の色が視界に広がり、凛の心中を察することのできない自分自身がじわじわと沁みていく。
海には、あまり近寄らなかった。
興味がなかったから。
泳ぐことに対して、積極的ではなかったから。
プールには、近寄ることがなかった。
泳ぐことに対して、興味がなかったから。
水泳に時間を割くことはなかった。
青色が、私の心を癒すことなど決してないから。
海の底。プールの水面。ひたひたに濡れている世界を支配するその色は、私を癒すことはない。
「……」
七瀬遙は、凪いでいる。
名前の目を見つめ、離そうとしない。
からからに渇いた口内が、言葉の水分を吸い込んでしまう。
乾涸びた言葉は、音を失い、意味を失う。
私を癒すことのない青色に、何故囚われるのだろう。
「七瀬は、……綺麗だね」
七瀬遙はたじろぎ、ただ沈黙を選んだ。
「凛は七瀬に昔から惹かれてた。嘘じゃない」
「そんなこと言われても、俺は」
「七瀬がどう思うかは分からないけど、……凛がどうしたいのか、私にはわからなくなったけど、私は」
海の音。
波の音。
視界の端で、水面が揺らぐ。
水面が輝く。
目の前にいる男の瞳には、名前と凛を捉えて癒すことのない青がある。
「自由で、いて欲しかった」
囚われたら、身動きができない。
捉えてしまったら、身動きは許されない。
───フリー。
いつか、凛が言っていた。
ずっと前の、何にも囚われず、自由だった時の凛が私の手を握って、そう言っていた。
「凛が自由かなんて、あいつが決めることだ。俺は知らない」
「違う」
七瀬遙の言葉を遮り、名前はあおいあおい目を見つめ返した。
飲み込まれるような、錯覚。
「私は、七瀬に自由でいて欲しいんだよ」
「は」
「凛は自由に泳ぐ七瀬遙が好きなんだと、私は思ってた。凛は確かに、七瀬に囚われてる。でもそれはね、昔から」
言ったでしょう、と昔の私が臍を曲げてそっぽをむく。
「昔から、凛は君に夢中だって」
七瀬遙がたじろいだのが分かる。
「松岡、おまえ」
「なに」
「凛のこと」
「思ってない」
「まだ何も言ってない」
「何言われるかわかってる」
「……ふ」
「笑わないで」
水も海も青も、離れていけばいい。
昔の私が拗ねてそう言う。
そうだね、と青く深く染まった七瀬遙の瞳を見つめながら私は頷く。
七瀬の指が手首から離れ、次いで髪に触れた。
松岡名前を模る赤色に触れ、目尻がわずかに弛んだ。
「俺の代わりに笑うんだと、あいつは言ってた」
「……」
「……俺は、泳ぐ。県大会に行かないといけない」
「そう」
視界に赤が入り込む。
「お前は、来ないのか」
「……行こうかな」
力が抜けていく気がした。
離れていく七瀬遙の指を捕まえた後、あまり使われることのない表情筋がきしりと動く。
「凛が執着するほどの泳ぎ、私も見てみたいから」
もう、髪を結ばなくてもいいや。
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