呪術
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呪術高専が抱える土地のある場所で、そいつはそこにいた。湧いて出たような不自然さはあるけれど、それを言及するよりも前に現状を把握しようとそちらばかりに意識が向いていた。
「……伏黒?」
真澄名前は、不思議なやつだった。多分、それはきっと変わっていないのであろう。
蜂蜜色の髪の毛は触らなくても分かるほど柔らかくて、軽くて、そのせいで風に遊ばれている。
頬についた擦り傷は絶えることがなく、いつだって一人だった。
「あの子、変なものが見えるらしいよ」「両親いなくて転々としてんでしょ?カワイソ〜」「妖怪?お化け?こわーい」からかい混じりに、好奇心を満たすためだけに掛けられる言葉を、この不思議な同級生は理解していない。
人間というものに期待していないと言った方が正しいのかもしれない。
だから。
「……俺のこと、覚えてんだな」
素直に驚いた。
中学時代の時の同級生から、自分の名前が出てくるという事実に。
久しぶり、と言っても卒業してまだ半年も経っていないから顔や名前は思い出せるほどの期間ではあろうけれど、本当に人のことなど興味がなくて、ぼうっと窓の外を眺めていることの方が多かったから。
なんの縁か、二年生の途中から転校してきた真澄とは三年生も同じクラスで席が近かった。
けれどそれも中学までの話だ。
「覚えてるよ。伏黒は綺麗だねってみんなが言っていたから」
「みんな」
「そう、みんな」
一人でいる姿しか見てこなかったから、みんなと言われてもクラスメイトが言っているのを聞いていたのかと思ってしまうが、恐らく違うのだろう。
だとしたら、みんなとは誰のことなのか。
「あ、そ」
「あと、とても不思議な力を持ってるって怯えてる奴らが沢山いたから」
「……おまえ」
「私にはわからない。けど、位の高いモノには分かるみたい。はっきりとではないけど、何かを感じるのかもね」
話していても、よく理解できない。
これが揶揄いの対象にされる理由なのかもしれないし、そうでなかったとしても恵は掴みどころのない奴ということは知っていた。
この世とは違う場所に、地についていない足はふわふわとその体をどこかに誘っていってしまう気がした。
「ああでも、時々感じるよ。伏黒から、言葉にできないようなモノの存在を」
呪霊とはまた違うナニカが、存在している。そして、彼女はそれを見ることができるのだろう。
自分には見えないナニカを。
「……俺は、お前に見えているモノの存在を一瞬でも感じることはなかった。不快な思いをさせたなら悪かった」
「不快?」
きょとんと目をまあるくして首を傾げる。
どこの高校だろうか、見たことのない制服に身を包む彼女は眩しいほどの白いカッターシャツを風で膨らませながら、たなびく髪を耳にかけた。
「私の知らないことはたくさんあるんだろうなあって思ってるけど、不快に思ったことなんてないよ」
「……そ、うか」
「うん」
薄い唇が、口の端だけ持ち上がる。じいっと恵を見つめる髪と同じ色の瞳が、猫のようにきゅうと細まった。
白い肌の、頬の部分だけにうっすら桃色が色づいていることに気がつき、何故だか見たらいけないようなものを見た気がしてそっと目を逸らした。
「伏黒は、確かに綺麗だね」
「は?」
「みんなが言っているのを聞いていただけだから、ちゃんと見たことがなかったんだけど」
「……は」
「本当、綺麗だね」
言葉を失った経験などあまりなかったが、地に足のついていない不思議な同級生が突然目の前に現れて、人間に興味のなかった同級生が自分のことを覚えていて綺麗だと言うのだ。
言葉を失う以外、できることがない。
相変わらず、不自然に彼女の髪の先が風に遊ばれている。
「……お前、変な奴だな」
「そうかな。……ふふ、見知らぬ土地に来ちゃってどうしようかと思ってたけど伏黒に会えて良かった」
「は!?」
確かに、よく見てみれば頭はボサボサで草や葉っぱが付いているし、制服は土などで汚れている。
しかも、この辺りに家や学校は自分の通っているところ以外はないはずだ。
おかしいと思っていたが、まさか迷子だとは思わないだろう。
「ここどこかわかる?」
迷子だというのに、随分とのんびりしている。
中学の時は知らなかった一面にため息をつきたい気持ちになって、そもそもどうやってここまで来たのか、そもそも今は何処に住んでいるのかを聞かずにはいられなかった。
「どうやって来たか、伏黒の想像にお任せするよ」と、交わされてしまったが。
「……ここは、俺が行ってる学校の近くだ。東京だが、都心からは距離があるから車が必要だぞ」
「ふうん、そっか。ありがとう」
「ありがとうって……どうやって帰る気だよ」
「どうにかなるよ。ここまで来れたんだから、帰れないはずがない」
いや、確かにそうかもしれない。そうかもしれないが、そうじゃない。
「会えて良かったよ。ばいばい」と手を振る細い指先を、思わず捕まえてしまったのは仕方のないことだ。そう、仕方ないのだ。
こんなに危なっかしくて、地に足のついていない奴を呪霊がうじゃうじゃと存在する森に放置するわけにはいかない。
突然掴まれた指先、突然縮まった距離に真澄名前がゆっくりと瞬きする。掴まれた指先を見つめて、恵の顔を見つめて、「どうしたの」と問いかける。
「駅まで送れば、そっからは帰れるか」
「多分……?」
「送るから、ちょっと待っとけ」
「……ここで待っとけばいい?」
「ああ。……いや、一緒に行くぞ」
大人しくこいつはここで待っとけるのか?いや、無理だろ。
一秒経たず、目の前の真澄名前という人間を分析して判断した後、握っている真澄の細い指先は心臓の横側をそわそわさせるため、握るところを手首へと変えた。
五条先生は、いないはず。あのバカ二人もいないはず。二年生は分からないが、いる確率はずっと低い。
車を出してくれそうな人を捕まえて頼んでみるか。
頭の中でこれからの行動を組み立てていると、「伏黒」と真澄が自分の名前を呼んだ。
「何だ」
「ごめんね。私、こうやっていろんな人に迷惑ばかりかけてしまうの」
「良い。俺が勝手にやってることだ」
「……ううん、違うよ」
「放っておくこともできたのに、それをしなかったのは俺の判断だ」
握っている手首が、震えた。
そうかなあ、と僅かに沈んだ声色が日の当たらない地面に落ちていく。
親戚を転々としているというのは、あながち間違いではない情報だったのかもしれない。そして、彼女は中学生の時とは違う家庭で、地域で暮らしているのだと思う。
全部、自分の勝手な推測だ。
恐る恐る持ち上がった真澄の視線は恵を捉えて、困ったように笑う。
「君は、優しいんだね」
静かな学内にホッとしながら、真澄を連れて歩く。偶然にも人とすれ違わず、補助監督や事務の人が常駐する部屋へ辿り着くと、見知った顔と目が合った。
恵が何か用があると思ったのか近づいて来て、すぐにその人は真澄の存在に気がつくとギョッとして慌てて近寄って来た。
「伏黒くん、違う学校の子を連れて来たら駄目っすよ!」
「すみません、色々事情があって。迷子になったみたいなんで駅まで車を出してもらいたいんです」
「迷子……?ま、まあ、君は考えなしに女の子を連れ込んだわけじゃないって信じるっすけど。……え、連れ込んでませんよね」
「中学の時の同級生です、連れ込んでません。迷子です」
わーお、綺麗な子だ。と新田はじいっと恵の同級生だったという女の子を見て、ふわふわとした不思議な雰囲気のあるのがまた良いなとそんなことを思った。
ボサボサの髪の毛に、葉や木の枝などが付いているし制服が汚れているのがますます謎。というか迷子ってなんだ?と疑問に思ったが新田は何も言わないでおいた。
ばっちり目が合うと、女の子は形の整った眉毛を下げて居心地悪そうに身じろぐ。
「すみません、迷惑でしたら自分で帰れるのでお気遣いなく」
「ここ、都心から結構あるっすよ。気にしなくて良いんで、行きましょうか」
「新田さんすみません、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
訳あり、なのかもしれない。
理由を聞かずに送っていくことが自分にできる最善だと、新田は車の鍵と免許証の入った鞄を机から取り、これから外出することと行き先を他の職員に伝えた。
良かった、任務が無くて。
「伏黒、ありがとう。とても助かった」
「別に。俺は車の運転できないし、免許も持ってないから結局大人に頼ってる。何もしてない」
「ううん、そんなことない。本当はね、ちょっとどうしようかなあって悩んでたから伏黒が見つけてくれて嬉しかったよ。ありがとう。駅から何とか帰ってみる」
「何とかって……」
若人二人の会話に耳を立てていると、別に疑っちゃいないが女の子の方は本当に迷子だったようで、それも帰り方もよくわかっていないというのだ。
根性論で押し切ろうとする女の子に伏黒くんが呆れているのがよく分かる。
不思議な子だな。
仕方ない、一度手助けすると決めたのだから最後まで面倒見てやりますか。大人っすからね。
「そういうことなら送るっすよ、家まで」
「!新田さん」
「いえ、そこまでしてもらう必要はありません」
「このあと特に任務もないし、仕事もあらかた終わったんで暇だったんすよ。子どもは大人を頼ってください」
「いえ、本当に……」
「真澄」
言い淀む真澄を遮る恵の声は、小さい子に言い聞かせるような静かな圧があった。
大人を頼ることに慣れていない。頼ることをよしとしない。一人で、どうにかしないと。真澄の、そんな心のうちがうっすら透けて見えるから、恵はいつもであればあまり人の手を借りようとしないという点においては真澄と同じ立場であるが、今だけは違った。
「新田さん、無理を承知で頼んでも良いですか」
「いいっすよ。言い出したのは私ですし、ええと真澄さん?も気にしなくて良いっすからね!君たちは大人をじゃんじゃん頼ることが仕事っすから」
「頼る……」
「ほら、お前からもちゃんとお願いしろ」
「ええと、……あらた、さん。真澄名前と申します。その、この度は迷子になってしまってここが何処かもわかっていません。正直、駅まで送ってもらってもそこからの帰り方が不安なので、ご迷惑かと思いますが家まで送っていただけないでしょうか……」
「律儀!!!」
居心地が悪そうにまた小さく動いて、綺麗な蜂蜜色の瞳をキョロキョロ動かす様は小さな子どものようだった。
真澄名前。綺麗な女の子の名前は、体に恥じない綺麗な名前だった。
「いいっすよ!どーんと任せてほしいっす」
「ありがとう、ございます」
「新田さん、ありがとうございます」
頼ることが少ない、そもそもしっかりとした伏黒恵と大人に頼ることが苦手な真澄名前。
兄妹のようだと、新田は思った。
「良かったな、真澄」
「うん、ありがとね伏黒」
小さくはにかむ真澄さんは、とてもとても綺麗な女の子だった。それを見て、口元を緩める伏黒くんは見たことがないほど優しい顔をしていた。だから。
「……一応確認ですけど、まじで連れ込んだわけじゃないっすよね?」
「違います」
すとんと抜け去った表情に思わず笑ってしまったのは許してほしい。
そっか、違うのか。ごめん。
話題は移り、真澄名前の住所を新田が尋ねると遠くも遠く、ど田舎もど田舎の地であり二人とも職種ゆえ聞いたことはあるが行ったことはない場所に愕然とした。
迷子と言っていたが、車も電車も使わずしてどうやってあそこまで来たのだと聞かずにはいられなかった。
「真澄さん、まじで、どうやってあそこまで来たんすか」
「……ええと、その、」
「真澄、俺と新田さんはお前には見えないものが見えてる。お前と一緒でな」
「私に、見えないもの」
「そうだ。だから別に、驚いたり気味悪がったりしねえよ」
長いまつ毛の色素が薄い。
耳が少し小さくて、真っ白な頬の上に桃色はない。
うーん、と悩む素振りを見せると真澄はそろそろ視線を上げて恵を見つめた。
大抵の人間が見えていないモノが見える、ということは見えていない者にとっての異常にあたる。数は常識も事実も揺るがすことができる。
それらにずいぶん長い間振り回されてきたのだろうと、恵は今の今までの反応で理解した。転々としてきた彼女の身には、どこの地に移ろうとも好奇と揶揄い、そして気味悪がる噂がついて回る。
変なモノが見えるらしいと。
うろうろと恵から視線を外して、窓の外に目を遣り、そしてまた恵を見つめた。
「……ようかい」薄い唇が、四つの音を模る。その四つの音を発する時、震える唇を恵は見逃せなかった。
「妖怪って、あの?」
「……そうです、イメージ通りのものであっていると思います」
「お前、妖怪に追いかけられてんのか」
「そうだね。伏黒の学校の近くまで行ってしまったのも、妖怪絡みで……」
妖怪、と聞いて危険性があまりないのだろうと安堵したのも束の間、詳しく聞けば「喰ってやる」と追いかけられることも珍しくはないと言うのだから口角が引き攣る。
「じゃあ、妖怪に連れてこられたのか」
「そういうことになるのかな」
「私らじゃ助けにはならないっすね…。そもそも見えないからなあ」
「いえ、大丈夫です。もう慣れてますから」
「慣れるものなのか、それ」
「こうして話を聞いてくれる人は、少ないの、本当に。
……それに、優しい妖怪もいるんだよ」
死ぬか、祓うか。
明日自分が生きている保証のない世界に身を置く自分とはまた違う世界にいる真澄は、柔らかく笑った。
中学生の時、彼女はこんなふうに笑っていだだろうか。思い出せない。そもそも、思い出せるほど関わりがあったわけではない。
妖怪専門の祓屋がいるが、自分は祓いもできないし封印もできない。けれど、なんとかなっているから平気だと笑う真澄は、恵たちの見える世界の話を聞きたがった。
それを少しだけ羨ましいと、恵は思ってしまった。
蜂蜜色を持つ元同級生は、恵と新田の話しを熱心に聞いては破顔する。
「世界には不思議なことも、知らないことも、この先きっと関わりがないんだろうなっていうこともたくさんあるんだね」
きっと、心優しい妖怪との出会いが彼女を支えているのだろうと思ったのだ。
ありがとうございましたと、何度も何度も頭を下げては恵を見て控えめに手を振る名前に、恵は口の端っこを少しだけ持ち上げた。
こちらがいかなければずっと頭を下げていそうな名前に、新田は笑いながら「じゃあ、気をつけて帰ってくださいよ。もう巻き込まれないようにね」とアクセルを踏んだ。
小さくなる姿は、結局恵と新田が乗る車が見えなくなるまでそこにいた。
懐かしい出会いは、殺伐とした世界に身を置く恵の心に、僅かではあるが新鮮な風が吹いた。
「世界には不思議なことも、知らないことも、この先きっと関わりがないんだろうなっていうこともたくさんあるんだね」と名前が言っていたことを思い出し、もしかしたら生活のどこかで、自分の見えない妖怪に触れているかもしれない可能性にふ、と笑みを浮かべた。
真澄、俺もそう思うよ。知らないことなんて、まだまだ山ほどあるのだから。
もう一年ほど前になるだろうか、懐かしい出会いを恵は思い出していた。
もう会うことはないだろうと思っていた特徴的な色を見かけて記憶が呼び起こされたのだ。
妖怪にちょっかいをかけられ、電車もバスも使わず車で三時間ほどかかる場所にいた名前を思い出し、恵は声をかけずにはいられなかった。
「真澄?」
声をかけられた本人は恵の姿を認識すると、目を丸くしてふわふわ笑う。
相変わらず、真っ白な肌。柔らかそうな髪に、あの時と同じような葉や小さな小枝が引っかかっている。
あの時と同じように、頬や額に小さな傷がついている。
あの日、名前と出会い、そして現在に至るまでの間、恵の周りは大きく変わった。身を置く環境も、世界も。これから先いなくなるのはもっと後であろうと思っていた人がいなくなった。風穴の空いた暗闇に光が差し込み、世界は変わろうとしている。
目まぐるしい変化の中で、変わらない真澄名前は恵の心を少しだけ落ち着けた。
「久しぶりだね、伏黒」
蜂蜜色の柔らかな髪が揺れる。
一年ほど会っていないというのに、二人の間には時間を感じさせない空気があった。むしろ、名前は以前よりも近い距離で気安く恵に近づく。
ふ、と暖かな日差しのような香りが恵の鼻をくすぐったかと思えば名前がすぐ近くにいた。
ぎく、と恵が肩を跳ね上げ距離を取ろうとするよりも前に名前が恵に手を伸ばす。
この一年間で、いろんなことがあった。本当に、言葉では説明できないことがたくさん。その一部に、名前は優しく触れたのだ。
「傷、……ふふ。おてんばさんなんだね」
「おてんば、……そういうんじゃない。近い、離れろ」
「伏黒、中学生の時おてんばさんだったもんねえ」
「……」
とりあえず黙る、を選択した恵にふふふと笑い、名前は「ところで」と首を傾げる。
「伏黒は何でこんなところにいるの?」
「何でって、俺は任務でここまで来たけど、……まさかお前また迷子か」
「違うよ。どっちかって言うと伏黒が迷子じゃないの?」
だってここは、普通の人は入ってこれないところだよ。と、名前は深く読み取れない柔らかな表情でそう言った。
「は?」
「伏黒、何か探し物をしているんでしょう。妖怪達がそれ奪われないために、ここに伏黒を閉じ込めたと言ってたのを聞いて来たの」
「……今もここにいるのか、妖怪は」
「ううん、いない」
随分と慣れている様子で、現状に取り乱すことなく「どうやって出ようかなあ」と入り口も出口もない暗闇をぐるりと見渡した。
……暗闇?いつのまに。
恵はすっかりと変わっている自分たちを囲う環境に、ため息をつきこめかみを揉んだ。
「慣れてんだな」
「そうかもね」
「……巻き込んだな、悪い」
「ううん。この前は助けてもらったし、お礼できるチャンスがあって良かったよ」
「助かる」
「困った時に助けてくれたのは伏黒だからいいのさ」
歩き始めた名前に慌てて着いて行き、「どうすればいい」「うーん……そうだな」考え込みながら歩みを止めないその横顔を見つめる。
妖怪、となれば専門外だ。この空間では呪力を練れそうにもない。試してはいないが、おそらく勘通りの結果になるだろう。
恵は言葉通り打つ手なしの状態のため名前を頼るほかない。
ぴたり。名前の歩みが止まった。
「伏黒は何を見つけようとしたの?」
「……祠だ」
「どんな?」
「特別なものじゃないが、小さなどこにでもあるようなもので、体のどこかが欠けているらしい」
「らしい?」
「ああ。俺もよくは知らない」
「それって、見つけられるの?」
「ああ。俺たちは、……真澄が妖怪を見ることができるように、俺は妖怪とは違う呪霊というものが見える」
「呪霊……」
「人の負の感情で生まれる呪霊は、多くの人間の生死に関わっている。俺が探しているのは、祠というよりもその祠を媒介としている呪霊だ。早く見つけないと被害が大きくなる」
「そういうことね、わかった」
「わかった、って」
「任せて。呪霊、は見えないけど負の感情ならなんとなく……わかる、きが、する。近寄りがたい場所ってね、ちゃんと存在するから」
知らない世界というものは、意外な形で繋がっている。
いや、当たり前だ。どちらも見えないだけで、確かにこの世界に存在しているのだから。
恵は目をまん丸にして、少しだけ笑った。
ぼんやりとした印象だった真澄名前が任せてと拳を握り、そしてそれは本当に心強かったから。
「本当に助かる、ありがとう」
ふ、と漏れた吐息を名前は拾い上げた。
わざわざ体ごと恵に向け、口元が綻ぶその様を名前はぱちぱちと瞬きを繰り返して見つめる。
ずいと寄せられる体と顔に「伏黒、ってさ」ちか、い!恵がもう一度苦情を挟む前に名前は近くにある、もうすでに笑顔を失った表情をまじまじと見つめて、そして、笑みを浮かべた。
「笑うと可愛いんだね」
「近い!」
言われた意味を理解するよりも前に、恵は片足を一歩引き体を名前から離す。
仕方ない、だって本当に近かったから。
こいつ、距離感おかしくなってないか?
恵は恋人でもなければ、友達というにしては希薄な関係にある名前との物理的な距離に困惑した。
当たり前だ、以前はそんなこと全然なかったのだから。
そして、次には言われた意味を理解する時間ができたせいでさらに恵は混乱した。
こいつ、こんな奴だったか?
「お前、いい加減に……」
「あ、伏黒!こっち来て、出れるよ」
「は、!?」
もう一度言う。いや、何度だって言う。こいつ、こんな奴だったか?
恵の言葉を遮ったかと思えば、恵の腕を掴んで指をさした場所に向かって走り始める自由そのものの後ろ姿を眺め、きゅうと目を細める。
こんな暗闇だというのに、蜂蜜色の髪はよく見える。ふわふわと揺れる。
恵は、指が指し示す場所を見てみたが何もわからなかった。きっと、名前にしか見えないものがそこにあるのだとやはり不思議な気持ちになりながら引かれる腕をそのままについていく。
マイノリティは、いつも自分だったから。
「伏黒は、沢山の人に大事にされてるんだね」
そうして、何をみたのか分からないが恵には何の変哲もない暗闇を前に名前はふくふく笑う。
何か、恵には見えないものが見えるらしい名前はその、見えないものを見て幸せそうに笑う。
なんだよ、それ。言葉にならず、けれど首の後ろ側がむずむずと痒くて少し気持ち悪かった。
そんな恵のことなんていざ知らず、名前はもう一度噛み締めるように言う。
「人を想う気持ちは、とても綺麗だね」
とろりと蕩ける瞳の色が、柔らかく滲んでいく。
その色があまりにも綺麗で、恵は思わず見惚れてしまいそうだった。
「だから、何だよそれ」
「私はジュレイがなにであるか、見えないしよくわからないけど人の気持ちから生まれたモノであることには間違いがないんだなって」
「……」
「そう思うと、人は誰かを殺しうる気持ちも、誰かを救うことができる気持ちも、相反する二つの感情を生み出すことができる不思議さに驚いてるんだ」
だからね、ほら。
名前が指をさす先に、やっぱり恵が何かを見ることはできなかったが名前の視界を癒すナニカがそこにあるのだろうと、ただ、受け入れることにした。
「伏黒が誰かを想って、そしてその人たちが伏黒を想ってる。だから、私はここから出れるんだよ。また、助けられちゃったね」
「……俺だけが、ここにいても俺には出方がわからないだろ。だから、お前のおかげだ」
名前はただ、恵のその言葉を聞いた後きょとんと目をまあるくして嬉しそうにふわふわ笑った。
「そっか、そうかもしれない」
光の波が名前の笑顔を、次には恵の視界ごと全てを飲み込んだせいで、恵はふわふわ笑う名前との再会が自分の妄想ではないのかと、そんなことを考えながら強すぎる光の波に目を閉じた。
多分、光の波が二人を飲み込まずとも、恵は眩しい笑顔に目を閉じていたことだろう。
何もかもがガラリと変化した恵にとって、変わらぬ名前の存在は耐え難かった。
理由は分からない。
だから、恵は何も言わずに目を閉じた。
次に目を開けたとき、恵は外に出れていた。探していた祠も見つかった。自信満々に胸を張る名前は、「ね?」と少しだけ勝気に笑う。
山奥、木々が生い茂る野道を二人で歩いた。高くそびえる木々が遮ることで、太陽の日差しは半分ほどしか入ってこない。
ぽつぽつと転がる陽の光を名前は掬い上げた。
「伏黒」
名前は木漏れ日の絡んだ指先で、明らかに一年前よりも近い距離で、恵の傷跡に触れる。
「またね」
恵は困ったような気持ちになって、眩しくもないのに瞼を下ろした。
ごう、と冷たくもない風が頬を撫でる。
傷跡に優しく触れる、質量のない感触は、真澄名前の存在を恵の記憶の棚から引っ張り出すのだ。
笑顔。
柔らかな髪。
揺れる。
暖かな香りが鼻を掠めたような気がして、恵は長いまつ毛を伏せた。
らしくもない。
そう、らしくもない思考に眉を顰めた。
蜂蜜色の髪の毛が、風にふわふわと揺れる。遊ばれる。
──そんなことばかりが何故か脳裏で再生されるから、恵は馬鹿馬鹿しいと、らしくもないのにと、自身の行動に舌を打った後勝手に進んでいく足に身を任せた。
高専の保有する土地、森。
広大な森の中で、目処なんてわかるはずもないのに足は進む。
「……真澄」
不思議なやつだった。
ミルクティー色の髪の毛は触らなくても分かるほど柔らかくて軽くて、そのせいでいつだって風に遊ばれていた。頬についた擦り傷は絶えることがなく、いつだって一人だった。
真澄名前は、ただ笑う。
「伏黒だ」
「……お前、またか」
「はは、来ちゃった」
「連れてこられたの間違いだろ」
笑顔で黙秘。
少しだけなりを潜めた名前の素直さに、恵は少しだけため息をついた。
桜が散る。
からかい混じりに、好奇心を満たすためだけに掛けられた過去を、この不思議な同級生は理解していない。
人間というものに期待していないと言った方が正しいのかもしれない。
だから。
「伏黒とこうしてまた会っていることが、すごい不思議」
「……偶然、だけどな」
「偶然は必然って言うでしょ?」
その、ミョウジの言葉には素直に驚いた。
本当に人のことなど興味がなくて、ぼうっと窓の外を眺めていることの方が多かったのだから。
だから。
──だから、自分と会うことが必然だなんて、得意げな顔をして言なんて想像できなかったのだ。
「……お前だけだろ」
「ううん。みんながね、伏黒と私が出会うのは必然だよって教えてくれたの」
「みんな」
「そう、みんな」
一人でいる姿しか見てこなかったから、みんなと言われてもクラスメイトが言っているのを聞いていたのかと思ってしまうが、恐らく違うのだろう。
あの時はわからなかったが、今ではわかる。
あの日、真澄名前の生きている世界、見えている世界に少しだけ触れた日を、今でも鮮明に思い出すことができる。
「みんなは伏黒のことを綺麗だって言うけど、私、やっぱり違うと思う」
言葉を失うという経験があまりなかったが、地に足のついていない不思議な同級生が現れて、人間に興味のなかった同級生が自分のことを覚えていて綺麗だと言うのだ。
言葉を失う以外できなかったけれど、今は違う。
恵は、根拠のない自信で胸を張る名前がなんだかおかしくて、面白くて。
口を開けて、目を細めて、大きく笑った。
相変わらず、不自然に髪の先を風で弄ばれている彼女はそんな恵の姿を見て、やはり自信満々に胸をさらに張る。
ほらね。と、名前は笑う。
恵は、何故あのとき名前の笑顔を直視できなかったのか、今ならわかる気がした。
「……伏黒?」
真澄名前は、不思議なやつだった。多分、それはきっと変わっていないのであろう。
蜂蜜色の髪の毛は触らなくても分かるほど柔らかくて、軽くて、そのせいで風に遊ばれている。
頬についた擦り傷は絶えることがなく、いつだって一人だった。
「あの子、変なものが見えるらしいよ」「両親いなくて転々としてんでしょ?カワイソ〜」「妖怪?お化け?こわーい」からかい混じりに、好奇心を満たすためだけに掛けられる言葉を、この不思議な同級生は理解していない。
人間というものに期待していないと言った方が正しいのかもしれない。
だから。
「……俺のこと、覚えてんだな」
素直に驚いた。
中学時代の時の同級生から、自分の名前が出てくるという事実に。
久しぶり、と言っても卒業してまだ半年も経っていないから顔や名前は思い出せるほどの期間ではあろうけれど、本当に人のことなど興味がなくて、ぼうっと窓の外を眺めていることの方が多かったから。
なんの縁か、二年生の途中から転校してきた真澄とは三年生も同じクラスで席が近かった。
けれどそれも中学までの話だ。
「覚えてるよ。伏黒は綺麗だねってみんなが言っていたから」
「みんな」
「そう、みんな」
一人でいる姿しか見てこなかったから、みんなと言われてもクラスメイトが言っているのを聞いていたのかと思ってしまうが、恐らく違うのだろう。
だとしたら、みんなとは誰のことなのか。
「あ、そ」
「あと、とても不思議な力を持ってるって怯えてる奴らが沢山いたから」
「……おまえ」
「私にはわからない。けど、位の高いモノには分かるみたい。はっきりとではないけど、何かを感じるのかもね」
話していても、よく理解できない。
これが揶揄いの対象にされる理由なのかもしれないし、そうでなかったとしても恵は掴みどころのない奴ということは知っていた。
この世とは違う場所に、地についていない足はふわふわとその体をどこかに誘っていってしまう気がした。
「ああでも、時々感じるよ。伏黒から、言葉にできないようなモノの存在を」
呪霊とはまた違うナニカが、存在している。そして、彼女はそれを見ることができるのだろう。
自分には見えないナニカを。
「……俺は、お前に見えているモノの存在を一瞬でも感じることはなかった。不快な思いをさせたなら悪かった」
「不快?」
きょとんと目をまあるくして首を傾げる。
どこの高校だろうか、見たことのない制服に身を包む彼女は眩しいほどの白いカッターシャツを風で膨らませながら、たなびく髪を耳にかけた。
「私の知らないことはたくさんあるんだろうなあって思ってるけど、不快に思ったことなんてないよ」
「……そ、うか」
「うん」
薄い唇が、口の端だけ持ち上がる。じいっと恵を見つめる髪と同じ色の瞳が、猫のようにきゅうと細まった。
白い肌の、頬の部分だけにうっすら桃色が色づいていることに気がつき、何故だか見たらいけないようなものを見た気がしてそっと目を逸らした。
「伏黒は、確かに綺麗だね」
「は?」
「みんなが言っているのを聞いていただけだから、ちゃんと見たことがなかったんだけど」
「……は」
「本当、綺麗だね」
言葉を失った経験などあまりなかったが、地に足のついていない不思議な同級生が突然目の前に現れて、人間に興味のなかった同級生が自分のことを覚えていて綺麗だと言うのだ。
言葉を失う以外、できることがない。
相変わらず、不自然に彼女の髪の先が風に遊ばれている。
「……お前、変な奴だな」
「そうかな。……ふふ、見知らぬ土地に来ちゃってどうしようかと思ってたけど伏黒に会えて良かった」
「は!?」
確かに、よく見てみれば頭はボサボサで草や葉っぱが付いているし、制服は土などで汚れている。
しかも、この辺りに家や学校は自分の通っているところ以外はないはずだ。
おかしいと思っていたが、まさか迷子だとは思わないだろう。
「ここどこかわかる?」
迷子だというのに、随分とのんびりしている。
中学の時は知らなかった一面にため息をつきたい気持ちになって、そもそもどうやってここまで来たのか、そもそも今は何処に住んでいるのかを聞かずにはいられなかった。
「どうやって来たか、伏黒の想像にお任せするよ」と、交わされてしまったが。
「……ここは、俺が行ってる学校の近くだ。東京だが、都心からは距離があるから車が必要だぞ」
「ふうん、そっか。ありがとう」
「ありがとうって……どうやって帰る気だよ」
「どうにかなるよ。ここまで来れたんだから、帰れないはずがない」
いや、確かにそうかもしれない。そうかもしれないが、そうじゃない。
「会えて良かったよ。ばいばい」と手を振る細い指先を、思わず捕まえてしまったのは仕方のないことだ。そう、仕方ないのだ。
こんなに危なっかしくて、地に足のついていない奴を呪霊がうじゃうじゃと存在する森に放置するわけにはいかない。
突然掴まれた指先、突然縮まった距離に真澄名前がゆっくりと瞬きする。掴まれた指先を見つめて、恵の顔を見つめて、「どうしたの」と問いかける。
「駅まで送れば、そっからは帰れるか」
「多分……?」
「送るから、ちょっと待っとけ」
「……ここで待っとけばいい?」
「ああ。……いや、一緒に行くぞ」
大人しくこいつはここで待っとけるのか?いや、無理だろ。
一秒経たず、目の前の真澄名前という人間を分析して判断した後、握っている真澄の細い指先は心臓の横側をそわそわさせるため、握るところを手首へと変えた。
五条先生は、いないはず。あのバカ二人もいないはず。二年生は分からないが、いる確率はずっと低い。
車を出してくれそうな人を捕まえて頼んでみるか。
頭の中でこれからの行動を組み立てていると、「伏黒」と真澄が自分の名前を呼んだ。
「何だ」
「ごめんね。私、こうやっていろんな人に迷惑ばかりかけてしまうの」
「良い。俺が勝手にやってることだ」
「……ううん、違うよ」
「放っておくこともできたのに、それをしなかったのは俺の判断だ」
握っている手首が、震えた。
そうかなあ、と僅かに沈んだ声色が日の当たらない地面に落ちていく。
親戚を転々としているというのは、あながち間違いではない情報だったのかもしれない。そして、彼女は中学生の時とは違う家庭で、地域で暮らしているのだと思う。
全部、自分の勝手な推測だ。
恐る恐る持ち上がった真澄の視線は恵を捉えて、困ったように笑う。
「君は、優しいんだね」
静かな学内にホッとしながら、真澄を連れて歩く。偶然にも人とすれ違わず、補助監督や事務の人が常駐する部屋へ辿り着くと、見知った顔と目が合った。
恵が何か用があると思ったのか近づいて来て、すぐにその人は真澄の存在に気がつくとギョッとして慌てて近寄って来た。
「伏黒くん、違う学校の子を連れて来たら駄目っすよ!」
「すみません、色々事情があって。迷子になったみたいなんで駅まで車を出してもらいたいんです」
「迷子……?ま、まあ、君は考えなしに女の子を連れ込んだわけじゃないって信じるっすけど。……え、連れ込んでませんよね」
「中学の時の同級生です、連れ込んでません。迷子です」
わーお、綺麗な子だ。と新田はじいっと恵の同級生だったという女の子を見て、ふわふわとした不思議な雰囲気のあるのがまた良いなとそんなことを思った。
ボサボサの髪の毛に、葉や木の枝などが付いているし制服が汚れているのがますます謎。というか迷子ってなんだ?と疑問に思ったが新田は何も言わないでおいた。
ばっちり目が合うと、女の子は形の整った眉毛を下げて居心地悪そうに身じろぐ。
「すみません、迷惑でしたら自分で帰れるのでお気遣いなく」
「ここ、都心から結構あるっすよ。気にしなくて良いんで、行きましょうか」
「新田さんすみません、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
訳あり、なのかもしれない。
理由を聞かずに送っていくことが自分にできる最善だと、新田は車の鍵と免許証の入った鞄を机から取り、これから外出することと行き先を他の職員に伝えた。
良かった、任務が無くて。
「伏黒、ありがとう。とても助かった」
「別に。俺は車の運転できないし、免許も持ってないから結局大人に頼ってる。何もしてない」
「ううん、そんなことない。本当はね、ちょっとどうしようかなあって悩んでたから伏黒が見つけてくれて嬉しかったよ。ありがとう。駅から何とか帰ってみる」
「何とかって……」
若人二人の会話に耳を立てていると、別に疑っちゃいないが女の子の方は本当に迷子だったようで、それも帰り方もよくわかっていないというのだ。
根性論で押し切ろうとする女の子に伏黒くんが呆れているのがよく分かる。
不思議な子だな。
仕方ない、一度手助けすると決めたのだから最後まで面倒見てやりますか。大人っすからね。
「そういうことなら送るっすよ、家まで」
「!新田さん」
「いえ、そこまでしてもらう必要はありません」
「このあと特に任務もないし、仕事もあらかた終わったんで暇だったんすよ。子どもは大人を頼ってください」
「いえ、本当に……」
「真澄」
言い淀む真澄を遮る恵の声は、小さい子に言い聞かせるような静かな圧があった。
大人を頼ることに慣れていない。頼ることをよしとしない。一人で、どうにかしないと。真澄の、そんな心のうちがうっすら透けて見えるから、恵はいつもであればあまり人の手を借りようとしないという点においては真澄と同じ立場であるが、今だけは違った。
「新田さん、無理を承知で頼んでも良いですか」
「いいっすよ。言い出したのは私ですし、ええと真澄さん?も気にしなくて良いっすからね!君たちは大人をじゃんじゃん頼ることが仕事っすから」
「頼る……」
「ほら、お前からもちゃんとお願いしろ」
「ええと、……あらた、さん。真澄名前と申します。その、この度は迷子になってしまってここが何処かもわかっていません。正直、駅まで送ってもらってもそこからの帰り方が不安なので、ご迷惑かと思いますが家まで送っていただけないでしょうか……」
「律儀!!!」
居心地が悪そうにまた小さく動いて、綺麗な蜂蜜色の瞳をキョロキョロ動かす様は小さな子どものようだった。
真澄名前。綺麗な女の子の名前は、体に恥じない綺麗な名前だった。
「いいっすよ!どーんと任せてほしいっす」
「ありがとう、ございます」
「新田さん、ありがとうございます」
頼ることが少ない、そもそもしっかりとした伏黒恵と大人に頼ることが苦手な真澄名前。
兄妹のようだと、新田は思った。
「良かったな、真澄」
「うん、ありがとね伏黒」
小さくはにかむ真澄さんは、とてもとても綺麗な女の子だった。それを見て、口元を緩める伏黒くんは見たことがないほど優しい顔をしていた。だから。
「……一応確認ですけど、まじで連れ込んだわけじゃないっすよね?」
「違います」
すとんと抜け去った表情に思わず笑ってしまったのは許してほしい。
そっか、違うのか。ごめん。
話題は移り、真澄名前の住所を新田が尋ねると遠くも遠く、ど田舎もど田舎の地であり二人とも職種ゆえ聞いたことはあるが行ったことはない場所に愕然とした。
迷子と言っていたが、車も電車も使わずしてどうやってあそこまで来たのだと聞かずにはいられなかった。
「真澄さん、まじで、どうやってあそこまで来たんすか」
「……ええと、その、」
「真澄、俺と新田さんはお前には見えないものが見えてる。お前と一緒でな」
「私に、見えないもの」
「そうだ。だから別に、驚いたり気味悪がったりしねえよ」
長いまつ毛の色素が薄い。
耳が少し小さくて、真っ白な頬の上に桃色はない。
うーん、と悩む素振りを見せると真澄はそろそろ視線を上げて恵を見つめた。
大抵の人間が見えていないモノが見える、ということは見えていない者にとっての異常にあたる。数は常識も事実も揺るがすことができる。
それらにずいぶん長い間振り回されてきたのだろうと、恵は今の今までの反応で理解した。転々としてきた彼女の身には、どこの地に移ろうとも好奇と揶揄い、そして気味悪がる噂がついて回る。
変なモノが見えるらしいと。
うろうろと恵から視線を外して、窓の外に目を遣り、そしてまた恵を見つめた。
「……ようかい」薄い唇が、四つの音を模る。その四つの音を発する時、震える唇を恵は見逃せなかった。
「妖怪って、あの?」
「……そうです、イメージ通りのものであっていると思います」
「お前、妖怪に追いかけられてんのか」
「そうだね。伏黒の学校の近くまで行ってしまったのも、妖怪絡みで……」
妖怪、と聞いて危険性があまりないのだろうと安堵したのも束の間、詳しく聞けば「喰ってやる」と追いかけられることも珍しくはないと言うのだから口角が引き攣る。
「じゃあ、妖怪に連れてこられたのか」
「そういうことになるのかな」
「私らじゃ助けにはならないっすね…。そもそも見えないからなあ」
「いえ、大丈夫です。もう慣れてますから」
「慣れるものなのか、それ」
「こうして話を聞いてくれる人は、少ないの、本当に。
……それに、優しい妖怪もいるんだよ」
死ぬか、祓うか。
明日自分が生きている保証のない世界に身を置く自分とはまた違う世界にいる真澄は、柔らかく笑った。
中学生の時、彼女はこんなふうに笑っていだだろうか。思い出せない。そもそも、思い出せるほど関わりがあったわけではない。
妖怪専門の祓屋がいるが、自分は祓いもできないし封印もできない。けれど、なんとかなっているから平気だと笑う真澄は、恵たちの見える世界の話を聞きたがった。
それを少しだけ羨ましいと、恵は思ってしまった。
蜂蜜色を持つ元同級生は、恵と新田の話しを熱心に聞いては破顔する。
「世界には不思議なことも、知らないことも、この先きっと関わりがないんだろうなっていうこともたくさんあるんだね」
きっと、心優しい妖怪との出会いが彼女を支えているのだろうと思ったのだ。
ありがとうございましたと、何度も何度も頭を下げては恵を見て控えめに手を振る名前に、恵は口の端っこを少しだけ持ち上げた。
こちらがいかなければずっと頭を下げていそうな名前に、新田は笑いながら「じゃあ、気をつけて帰ってくださいよ。もう巻き込まれないようにね」とアクセルを踏んだ。
小さくなる姿は、結局恵と新田が乗る車が見えなくなるまでそこにいた。
懐かしい出会いは、殺伐とした世界に身を置く恵の心に、僅かではあるが新鮮な風が吹いた。
「世界には不思議なことも、知らないことも、この先きっと関わりがないんだろうなっていうこともたくさんあるんだね」と名前が言っていたことを思い出し、もしかしたら生活のどこかで、自分の見えない妖怪に触れているかもしれない可能性にふ、と笑みを浮かべた。
真澄、俺もそう思うよ。知らないことなんて、まだまだ山ほどあるのだから。
もう一年ほど前になるだろうか、懐かしい出会いを恵は思い出していた。
もう会うことはないだろうと思っていた特徴的な色を見かけて記憶が呼び起こされたのだ。
妖怪にちょっかいをかけられ、電車もバスも使わず車で三時間ほどかかる場所にいた名前を思い出し、恵は声をかけずにはいられなかった。
「真澄?」
声をかけられた本人は恵の姿を認識すると、目を丸くしてふわふわ笑う。
相変わらず、真っ白な肌。柔らかそうな髪に、あの時と同じような葉や小さな小枝が引っかかっている。
あの時と同じように、頬や額に小さな傷がついている。
あの日、名前と出会い、そして現在に至るまでの間、恵の周りは大きく変わった。身を置く環境も、世界も。これから先いなくなるのはもっと後であろうと思っていた人がいなくなった。風穴の空いた暗闇に光が差し込み、世界は変わろうとしている。
目まぐるしい変化の中で、変わらない真澄名前は恵の心を少しだけ落ち着けた。
「久しぶりだね、伏黒」
蜂蜜色の柔らかな髪が揺れる。
一年ほど会っていないというのに、二人の間には時間を感じさせない空気があった。むしろ、名前は以前よりも近い距離で気安く恵に近づく。
ふ、と暖かな日差しのような香りが恵の鼻をくすぐったかと思えば名前がすぐ近くにいた。
ぎく、と恵が肩を跳ね上げ距離を取ろうとするよりも前に名前が恵に手を伸ばす。
この一年間で、いろんなことがあった。本当に、言葉では説明できないことがたくさん。その一部に、名前は優しく触れたのだ。
「傷、……ふふ。おてんばさんなんだね」
「おてんば、……そういうんじゃない。近い、離れろ」
「伏黒、中学生の時おてんばさんだったもんねえ」
「……」
とりあえず黙る、を選択した恵にふふふと笑い、名前は「ところで」と首を傾げる。
「伏黒は何でこんなところにいるの?」
「何でって、俺は任務でここまで来たけど、……まさかお前また迷子か」
「違うよ。どっちかって言うと伏黒が迷子じゃないの?」
だってここは、普通の人は入ってこれないところだよ。と、名前は深く読み取れない柔らかな表情でそう言った。
「は?」
「伏黒、何か探し物をしているんでしょう。妖怪達がそれ奪われないために、ここに伏黒を閉じ込めたと言ってたのを聞いて来たの」
「……今もここにいるのか、妖怪は」
「ううん、いない」
随分と慣れている様子で、現状に取り乱すことなく「どうやって出ようかなあ」と入り口も出口もない暗闇をぐるりと見渡した。
……暗闇?いつのまに。
恵はすっかりと変わっている自分たちを囲う環境に、ため息をつきこめかみを揉んだ。
「慣れてんだな」
「そうかもね」
「……巻き込んだな、悪い」
「ううん。この前は助けてもらったし、お礼できるチャンスがあって良かったよ」
「助かる」
「困った時に助けてくれたのは伏黒だからいいのさ」
歩き始めた名前に慌てて着いて行き、「どうすればいい」「うーん……そうだな」考え込みながら歩みを止めないその横顔を見つめる。
妖怪、となれば専門外だ。この空間では呪力を練れそうにもない。試してはいないが、おそらく勘通りの結果になるだろう。
恵は言葉通り打つ手なしの状態のため名前を頼るほかない。
ぴたり。名前の歩みが止まった。
「伏黒は何を見つけようとしたの?」
「……祠だ」
「どんな?」
「特別なものじゃないが、小さなどこにでもあるようなもので、体のどこかが欠けているらしい」
「らしい?」
「ああ。俺もよくは知らない」
「それって、見つけられるの?」
「ああ。俺たちは、……真澄が妖怪を見ることができるように、俺は妖怪とは違う呪霊というものが見える」
「呪霊……」
「人の負の感情で生まれる呪霊は、多くの人間の生死に関わっている。俺が探しているのは、祠というよりもその祠を媒介としている呪霊だ。早く見つけないと被害が大きくなる」
「そういうことね、わかった」
「わかった、って」
「任せて。呪霊、は見えないけど負の感情ならなんとなく……わかる、きが、する。近寄りがたい場所ってね、ちゃんと存在するから」
知らない世界というものは、意外な形で繋がっている。
いや、当たり前だ。どちらも見えないだけで、確かにこの世界に存在しているのだから。
恵は目をまん丸にして、少しだけ笑った。
ぼんやりとした印象だった真澄名前が任せてと拳を握り、そしてそれは本当に心強かったから。
「本当に助かる、ありがとう」
ふ、と漏れた吐息を名前は拾い上げた。
わざわざ体ごと恵に向け、口元が綻ぶその様を名前はぱちぱちと瞬きを繰り返して見つめる。
ずいと寄せられる体と顔に「伏黒、ってさ」ちか、い!恵がもう一度苦情を挟む前に名前は近くにある、もうすでに笑顔を失った表情をまじまじと見つめて、そして、笑みを浮かべた。
「笑うと可愛いんだね」
「近い!」
言われた意味を理解するよりも前に、恵は片足を一歩引き体を名前から離す。
仕方ない、だって本当に近かったから。
こいつ、距離感おかしくなってないか?
恵は恋人でもなければ、友達というにしては希薄な関係にある名前との物理的な距離に困惑した。
当たり前だ、以前はそんなこと全然なかったのだから。
そして、次には言われた意味を理解する時間ができたせいでさらに恵は混乱した。
こいつ、こんな奴だったか?
「お前、いい加減に……」
「あ、伏黒!こっち来て、出れるよ」
「は、!?」
もう一度言う。いや、何度だって言う。こいつ、こんな奴だったか?
恵の言葉を遮ったかと思えば、恵の腕を掴んで指をさした場所に向かって走り始める自由そのものの後ろ姿を眺め、きゅうと目を細める。
こんな暗闇だというのに、蜂蜜色の髪はよく見える。ふわふわと揺れる。
恵は、指が指し示す場所を見てみたが何もわからなかった。きっと、名前にしか見えないものがそこにあるのだとやはり不思議な気持ちになりながら引かれる腕をそのままについていく。
マイノリティは、いつも自分だったから。
「伏黒は、沢山の人に大事にされてるんだね」
そうして、何をみたのか分からないが恵には何の変哲もない暗闇を前に名前はふくふく笑う。
何か、恵には見えないものが見えるらしい名前はその、見えないものを見て幸せそうに笑う。
なんだよ、それ。言葉にならず、けれど首の後ろ側がむずむずと痒くて少し気持ち悪かった。
そんな恵のことなんていざ知らず、名前はもう一度噛み締めるように言う。
「人を想う気持ちは、とても綺麗だね」
とろりと蕩ける瞳の色が、柔らかく滲んでいく。
その色があまりにも綺麗で、恵は思わず見惚れてしまいそうだった。
「だから、何だよそれ」
「私はジュレイがなにであるか、見えないしよくわからないけど人の気持ちから生まれたモノであることには間違いがないんだなって」
「……」
「そう思うと、人は誰かを殺しうる気持ちも、誰かを救うことができる気持ちも、相反する二つの感情を生み出すことができる不思議さに驚いてるんだ」
だからね、ほら。
名前が指をさす先に、やっぱり恵が何かを見ることはできなかったが名前の視界を癒すナニカがそこにあるのだろうと、ただ、受け入れることにした。
「伏黒が誰かを想って、そしてその人たちが伏黒を想ってる。だから、私はここから出れるんだよ。また、助けられちゃったね」
「……俺だけが、ここにいても俺には出方がわからないだろ。だから、お前のおかげだ」
名前はただ、恵のその言葉を聞いた後きょとんと目をまあるくして嬉しそうにふわふわ笑った。
「そっか、そうかもしれない」
光の波が名前の笑顔を、次には恵の視界ごと全てを飲み込んだせいで、恵はふわふわ笑う名前との再会が自分の妄想ではないのかと、そんなことを考えながら強すぎる光の波に目を閉じた。
多分、光の波が二人を飲み込まずとも、恵は眩しい笑顔に目を閉じていたことだろう。
何もかもがガラリと変化した恵にとって、変わらぬ名前の存在は耐え難かった。
理由は分からない。
だから、恵は何も言わずに目を閉じた。
次に目を開けたとき、恵は外に出れていた。探していた祠も見つかった。自信満々に胸を張る名前は、「ね?」と少しだけ勝気に笑う。
山奥、木々が生い茂る野道を二人で歩いた。高くそびえる木々が遮ることで、太陽の日差しは半分ほどしか入ってこない。
ぽつぽつと転がる陽の光を名前は掬い上げた。
「伏黒」
名前は木漏れ日の絡んだ指先で、明らかに一年前よりも近い距離で、恵の傷跡に触れる。
「またね」
恵は困ったような気持ちになって、眩しくもないのに瞼を下ろした。
ごう、と冷たくもない風が頬を撫でる。
傷跡に優しく触れる、質量のない感触は、真澄名前の存在を恵の記憶の棚から引っ張り出すのだ。
笑顔。
柔らかな髪。
揺れる。
暖かな香りが鼻を掠めたような気がして、恵は長いまつ毛を伏せた。
らしくもない。
そう、らしくもない思考に眉を顰めた。
蜂蜜色の髪の毛が、風にふわふわと揺れる。遊ばれる。
──そんなことばかりが何故か脳裏で再生されるから、恵は馬鹿馬鹿しいと、らしくもないのにと、自身の行動に舌を打った後勝手に進んでいく足に身を任せた。
高専の保有する土地、森。
広大な森の中で、目処なんてわかるはずもないのに足は進む。
「……真澄」
不思議なやつだった。
ミルクティー色の髪の毛は触らなくても分かるほど柔らかくて軽くて、そのせいでいつだって風に遊ばれていた。頬についた擦り傷は絶えることがなく、いつだって一人だった。
真澄名前は、ただ笑う。
「伏黒だ」
「……お前、またか」
「はは、来ちゃった」
「連れてこられたの間違いだろ」
笑顔で黙秘。
少しだけなりを潜めた名前の素直さに、恵は少しだけため息をついた。
桜が散る。
からかい混じりに、好奇心を満たすためだけに掛けられた過去を、この不思議な同級生は理解していない。
人間というものに期待していないと言った方が正しいのかもしれない。
だから。
「伏黒とこうしてまた会っていることが、すごい不思議」
「……偶然、だけどな」
「偶然は必然って言うでしょ?」
その、ミョウジの言葉には素直に驚いた。
本当に人のことなど興味がなくて、ぼうっと窓の外を眺めていることの方が多かったのだから。
だから。
──だから、自分と会うことが必然だなんて、得意げな顔をして言なんて想像できなかったのだ。
「……お前だけだろ」
「ううん。みんながね、伏黒と私が出会うのは必然だよって教えてくれたの」
「みんな」
「そう、みんな」
一人でいる姿しか見てこなかったから、みんなと言われてもクラスメイトが言っているのを聞いていたのかと思ってしまうが、恐らく違うのだろう。
あの時はわからなかったが、今ではわかる。
あの日、真澄名前の生きている世界、見えている世界に少しだけ触れた日を、今でも鮮明に思い出すことができる。
「みんなは伏黒のことを綺麗だって言うけど、私、やっぱり違うと思う」
言葉を失うという経験があまりなかったが、地に足のついていない不思議な同級生が現れて、人間に興味のなかった同級生が自分のことを覚えていて綺麗だと言うのだ。
言葉を失う以外できなかったけれど、今は違う。
恵は、根拠のない自信で胸を張る名前がなんだかおかしくて、面白くて。
口を開けて、目を細めて、大きく笑った。
相変わらず、不自然に髪の先を風で弄ばれている彼女はそんな恵の姿を見て、やはり自信満々に胸をさらに張る。
ほらね。と、名前は笑う。
恵は、何故あのとき名前の笑顔を直視できなかったのか、今ならわかる気がした。
