呪術
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この世で、一番嫌いな女がいる。
「だずけ、で、ぇ゛」
「まじ?まだ生きてんのこいつ?」
「ゴキブリかよ、きめぇな」
ぎゃらぎゃらと笑う男たちの声に耳を澄まし、目の前に転がる汚い女を見つめた。
痛みも、感情も、大抵の人間が持っている人間たらしめるものを捨て置いたとばかり思っていたが、こうして命乞いをする程までにはまだ人間らしい。
まあ、この女がどこの誰なのかは知らないけど。
「名前、どうする〜?」
「助けてだって、まじうけんだけど」
縋る目は、もう見えているのかさえ分からない。
命を燃やせと、この国のために死に逝けと歌ったあの日に見た桜を、きっとこの女が見ることはない。思い出すこともない。
覚えているかもわからない。
そもそも、この女が私が探している女かさえも分からない。
か細くて荒い呼吸の音。
肺が潰れてしまったのだろうか。
さぞ、息がしにくいだろう。
「しらねぇ。好きにすれば」
この世で一番、嫌いな女がいる。
「名前、また遊んできたの?憂太に怒られるよ」
何でいるんだよ。
うんざりとした言葉を、わざわざこの男に伝えてもただ喜ばせるだけで、こういう時は無視が一番であると身をもって学んでいる。
任務はしっかりこなしているし、学業を疎かにもしていない。そもそも、知り合ってまだ一年と経たない男にあれこれ言われても何も響かない。
もやし、とクラスメイトの女に称されるほどヒョロヒョロで、軽く押しただけでひっくり返りそうな、意志の弱くてお人好しの男を思い出して、──思い出さなければよかった。イライラする。
クソボロい寮の談話室にあるソファにでかい図体を溢れさせている男に声をかけられ、クソ真面目に入り口から入ってきたことを後悔した。
「ねえ、無視は良くないと思うよ」
「……」
「も〜、名前ってば本当に意固地なんだから」
「先生こそ、さっさとおやすみになったら良いのでは。夜中ですよ、今」
「名前の帰りが遅くて心配だから、こうして待ってたんだよ?」
「そりゃどうも」
大男は声もでかい。
態度もでかい。
要らぬ心配だと分かっている上で、こうして何度も何度も帰りを待たれたり心配しているのだと直接的な言葉と態度を与えられたりする。
どんだけ嫌がらせに長けているのだろうか。名前にとって、誰かから心配されるということ自体が不快なものでしかなかった。
それに心配だから、なんて思ってもいないくせに恩着せがましく伝えてくるあたり本当に性格が悪い。
「楽しかった?」にっこりと笑う、この男の言う『遊び』は、オトモダチと仲良くおててを繋いでテーマパークに行ったり買い物に行ったり映画を観たりすることではない。
「血、ちゃんと落としとかないとね?」
それをわかった上で『遊び』と片付けるこの男の気狂いは楽でしかないのだが、この男は憂太、と呼ばれる化け物が少々どころか過剰に干渉してくることを優が鬱陶しく思っていることを知っていてわざと、あのもやしの名前を出してくるのだから、本当に性格が悪い。それは決まって、名前が『遊んで』帰って来た時、開口一番。
性格が悪い男は、うるうるの唇の端をにんまりと持ち上げ、「ここについてる」右頬の真ん中あたりを指で叩き教えてくれる。
「……」
「てかさあ、まだそんなに遊び足りないの?呪霊と呪詛師じゃ物足りない?」
「さあ、どうですかね」
「階級高いのに、問題行動ばっかりだから上がうるさいんだよ」
「そうなんですね」
「呪力使ってないし、殺してはないんだろうけど……ねえ?本来は守るべき対象にある非術師を痛めつけてるのは、僕としても擁護できない。そういうお年頃ってことを加味しても、なんにもしてない一般人に手を出すのはいかがと思うけど」
のろのろと、教師を名乗るこの男に目線を合わせた。
この男が言う『遊び』について、もともと苦言を呈されていたが、止めるつもりはないし止める努力もしようとは思わない。
が、そうか。『遊び』足りないから一般人に手を出していると思われていたのか。だから、最近呪詛師討伐と階級の高い呪霊の任務が多かったのか。破壊衝動を他のものにぶつけて昇華させれば、この『遊び』も収まるだろうと、そういうことだったのか。
ここ最近の謎が解けてしまえば、──特に気にしてもいなかった事柄だったが──ここにいる必要もない。
「そうですね」
名前はもうすでに、男の話を聞いていなかったし、眠くもない身体をどうやって眠りにつかせようかとそればかりに頭を使っていた。
明日も朝から学校。午後から任務。だるい。
上の連中とやらに向けられた深い懐疑的な眼差しはここにくる前までいろんな人間から向けられていたものに似ている。というより、それそのものだ。
不良、非行とうたわれる素行を繰り返し、いつしかそれが日常となれば扱いにくい、言うことの聞いてくれない子供は周りから敬遠される。名前は、その不良と呼ばれる人間にカテゴライズされている。
力を持っている問題児言うことを聞かない人間は、さぞかし扱いにくいことだろう。目の前にある男なんて、その筆頭だ。
学生時代どのように過ごしていたのかなんて、聞かなくとも想像できる。
この世で一番、嫌いな女がいる。
その女を殺すまで、この『遊び』は止めるつもりはない。
「あーもう、憂太に怒られても知らないよ?」
「あんなもやし、どうでもいいです」
こうやって、結局最後に持ち出される名前に吐き気がする。踵を返して男に背中を向けると「キスマーク見えてるよ〜」ありがたいお言葉が飛んでくる。無視。
言うことを聞く気がない名前に、男はため息をつき僕が学生の頃ってこんなに生意気だったかしらなんて、頬についた血を拭うことなく去っていく背中を見つめた。
ま、性に奔放なのは何にも言えないけど。
「ほーんと、憂太と名前って相性悪いよね。ま、憂太ママに任せよーっと」
名前、遊んで帰ってきたよと目的の男にメッセージを入れ、長い足を組み替えて五条悟はひっそりと笑った。
上がうるさいのも、非術師を、それも善良とカテゴライズされる人間に手を出している行為を是としないのも事実であるが、わざわざ時間のない自分がこうして待ち構えて、直接言うにはあまりにも取るに足らない出来事でしかない。
では何故、取るに足らない問題をこの男が誰の手にも渡さず扱っているのかは、単純明快である。面白いから。だから、この世界で一番忙しいと言っても過言ではない男が任務の合間を縫い、いつ帰ってくるのかも分からない問題児を待ち続ける。
心配されることも、憂太の名前を出されることも、帰りを待たれることも、全てを嫌がる名前を見るために、わざと心配するし憂太の名前を口にするし、こうして帰りを待つ。
そもそも、五条悟が名前を心配する理由はどこにもない。初めて呪力というものに触れるというのに、こちらの世界に来て直ぐ力の使い方をマスターした高邑名前は弱くない。
呪力操作も、体術も、獲物の扱いも、何においても一級品であった。五条悟は術師としての名前を高く評価しているから、心配することなど何一つないと言い切る。
しかし、呪霊関係ではなく、非術師のフリをしている時に何かあってもそれは、今までやってきたことの因果応報であり自業自得であるからして、五条悟は一切の心配を名前に持ち合わせていなかった。
可愛くて生意気で、問題行動が目立つ、他の一年生とは気色が全く違う名前という存在は、良い意味でも悪い意味でも五条悟にとって心配する必要のない面白い生徒である。
それに、憂太がせっせと口を出して教育しようとしているみたいだし、なによりも名前と関わりたい憂太と、憂太と関わりたくない名前を見るのが面白くて良い。
返ってきたメッセージの送り主が、画面の先でどんな気持ちになっていて、どんな顔をしているのか想像に難くないのがまた、面白い。
「僕の言うこときいてくれないし、憂太なら適任でしょ」
こういうところが、名前に疎まれる原因である。
「非術師が、守るべき対象ねえ。……テキトーなこと言い過ぎた」
脳裏をよぎるのは、唯一の親友。
反省しないとな、僕も。
テーブルに置いていた最後の一つのチョコを口に放り込み、帰路についた。
憂太のこと嫌がっても無駄って、いつ気づくんだろ。
だって憂太は、あんなにも名前のことだーい好きなのに。
問題児が一等嫌いな男の笑みが溢れているこの夜を、どうか彼女も楽しんでくれる と嬉しいな。
真希から、お前名前に何したんだとメッセージが来て喜んだのはきっと僕だけ。
名前は、乙骨憂太が苦手とする、というよりも乙骨憂太を虐めていた人間と同じカテゴライズの中にある。
といっても盗んだバイクで走り出してはいないし、授業も真面目に受け、制服を派手に着崩すことも髪を派手に染め上げることも、教師に歯向かうこともしていない。
しかし、学校での良しとされる生活態度では覆い隠すことができない素行故に、名前は周りから敬遠されていた。
未成年でタバコを吸い、喧嘩をして、授業を崩壊させ、規則を破り好き勝手してくれた方がまだ可愛いと思われるほど、──実際に、好き勝手していた不良たちでさえ近づこうとしない女が高邑名前である。
高専に入るまで、呪術師になるまで、『遊んで』いたところを五条悟に捕まってそのまま成り行きで今に至る。現在も、その『遊び』を続けており中学生からの交友関係も続いている。
同級生は乙骨憂太を除き全員が呪術家系であるから、名前と価値観が合うはずもないし、なにより同級生も名前も互いに合わせるつもりがない。唯一の一般家系の乙骨は、眉を寄せ他の同級生には見せない顔で名前に詰め寄ってくる上に、あれはだめだこれもだめだと言うから、名前は心底乙骨憂太を嫌っていた。
名前を呼ばない、近づくだけで眉を顰める。真希や棘、パンダは、名前に詰め寄る憂太にまたかと笑ったり呆れたり反応はざまざまだが、誰一人、二人の関係に手も口も出さない。
面白い、というのもあるが憂太ママがどこまで名前を更生させることができるのかを三人で賭けていたりするからだ。
名前は、生まれた時、物心ついた時から既に、この世界でいう呪霊の姿が見えていた。
あれは何か、を考える前よりも自分に向けられた殺意に反応する身体が、気がついた時にはその呪霊と呼ばれるモノを喰い散らかしていた。
初めてソレを飲み込んだその時、名前は、思い出したことがある。瑛名前と呼ばれるその日々を。いつのまにか頬を伝う涙は、熱くてたまらなかった。
「えいせい、様」
私の王様。
「政さま」
ああ、どうか、私も貴方様の夢を共に果たしたかった。
「名前!生きろ!っくそ、しっかりここを押さえていろ、今医者を」
「良いのです、もう、私は政様をお守りできたことがなによりも嬉しいのです」
「っ、共に、共に夢を果たそうといったではないか」
「いつまでも、貴方のおそばに」
「っ名前、名前。……ずっと、そばにいてくれ」
「はい。政さま、ずっと、お慕いしております」
暗転。
咄嗟に政さまを庇い、斬られてそのまま死んだはず。
そうか、そうだった。
声に出した、大事な、大切な人の名前は苦しくてつらくて、どうしようも無く愛おしい。
常に気丈な彼の方が自分のために取り乱し、綺麗な掌を私の血で汚れることも気にせず懸命に手を取り、頬を撫でてくださったことを不思議なことに、鮮明に思い出すことができる。
国のトップである身で、剣を振るうその掌は分厚く、そして硬い。その掌の感触でさえ、しっかりと思い出すことができる。
気が狂ったのかもしれない。
こんな、訳の分からない記憶かどうかも怪しいものに涙して、愛おしいと思うなんて。
けれども、確かに、気づいた頃からポッカリと空いていた穴を寸分の狂いなく埋めてくれる大切な記憶であると名前は確信した。
中華を統一すると言う大きな夢に向かう大王のために、共に夢を見たいと願ったから必死で武を身につけ戦に出た。途中で死んでしまったが、きっと彼の方ならやり遂げているに違いない。
「また、お会いできたら……」
弾けた呪霊の肉片の中で、名前はあまりにも尊く愛おしい記憶に縋り涙した。
この日から、名前は模範的で善良な人間ではなくなった。
前世でできなかったことをするために、この世で一番嫌いな女を殺すために、もともと持ち合わせていなかった良心の欠片が余ることなく全て消失した。
「名前ー、つまんねえ授業抜け出して遊びに行こうぜ」
「放課後にまた来い、授業の邪魔。帰れ」
「えー、つめてぇな」
「せっかく名前に会いに来たのに」
「ま、いっか。じゃあ迎えにくるわ」
「またね、名前ちゃん」
「先生すみません、どうぞ続けてください」
授業中だとか、他校生だとか、注意できないままでいるのは学校での生活態度が、成績が、学校外での行動を見逃せと囁いたからだ。
真ん中で分けられた前髪は、冷たい瞳を隠さない。感情の起伏が乏しく、また誰に対しても表情や態度が変わることなく友達はいない。それでも、話しかければちゃんと返事があり任された仕事はしっかりとこなしていた。
また、成績も運動神経も良く絵に描いたような優等生、才能に満ち溢れた生徒であった。
なにより、高邑名前は容姿に恵まれていた。本人からしてみれば、前世と何ら変わりのないものであるが、長い手足も日に焼けない素肌も、消えてしまいそうなほど儚い少女を体現したのが名前であった。大切に囲われて生きてきたかのような、誰かの保護下でなければすぐに溶けて消えてしまいそうな美しさのある少女であった。
街中ですれ違えば近寄りたくないような不良、と呼ばれる男たちとなぜ関わり始めたのか、彼らに臆することなく言葉を投げ捨て、何もなかったかのように授業の続きを促す名前に、あの日、変わってしまった時から誰も近寄ろうとはしない。
名前は、この世で一番嫌いな女がいる。
黒くて長い髪、平凡な顔、間抜けそうな女、お人好しで馬鹿な女、──なによりも大切で愛おしい彼の人の子供を身に宿した身の程知らず。
なにも、無差別に痛めつけているわけではない。ただ、前世にできなかったことを、したくても許されなかったことを今やっているだけ。対象が子供であろうとクラスメイトであろうと成人女性であろうと関係はない。
前世は、大王様の子供を身籠もっていたから殺すことができなかったし、ひとりの人間を殺したことであの人のそばを離れるなんて考えたくもなかった。
本当は、腹にいる子諸共殺してやりたかった。
しかし、その欲が実現することはなかった。
だから。
「ねえ、放課後付き合ってくれない」初めては、記憶を取り戻した翌日。
一人目は黒くて長い髪を団子にして、間抜けで平凡で馬鹿な女。人通りの少ない、路地裏で誰にも使ったことのない拳を振るった。
いも虫のように地面を這い、謝罪と許しを求める人間に、名前は死を求め、硬く握った拳が壊れるまで振いつづけた。吐き気がするほど憎い女を殴る感触を、無感動に受け止めた。
初めの頃は、誰もその女子生徒の言い分を信じなかった。美しく、頭が良くて運動のできる、何一つ欠陥の見当たらない高邑名前が平凡な女子生徒に暴力を奮っただなんて──当初は、鼻で笑っておしまいであった。
非の打ちどころのない優秀な高邑名前に嫉妬したのだと、そう言ってその件は片づけられた。しかし、以降2回目3回目と被害者の名前が連なり他所の学校からの噂が流れてくると、とうとう高邑名前という人物像が壊れて行き、噂は噂でしかないと一切の聞く耳を持たなかった担任でさえ顔を真っ青にしてそれを事実だと認めた。認めるしかなかった。
高邑、という名前だけで被害にあった女子生徒は頭を守るように抱え謝罪と許しを求め続けた。暴力に支配された後の現場では、バラバラに切られた黒髪の女子生徒がペンキや白い粉、砂などに塗れて細く息をしているのが常だった。
止まることのない暴力行為に、たまらず教師は高邑名前を被害者のいる病院へ呼び出し、被害者と名前を対面させた。生徒が安心して通えることが義務であり、保護者から責任を迫られている現状で、学校としてなにかをしなければ、対策を取らねば、と躍起になっていた。
病室の引き出しに仕舞われている被害届を、何としても今週に提出するためには証言が必要であった。しかし、被害者も名前も何もされていない、していないという一点張り。
「……ねえ、わたし、貴方に何かした?」うっすらと笑う名前は、恐怖で震える被害者にいつもそうやって問いかける。日に焼けない真っ白な肌が、余計に人間味を消した。
「なにも、されていません」可哀想になるほど、震える声で呟く女子生徒のその言葉が嘘であることは分かっているのに、誰も、その場に居合わせた全員がその女の子を守る術を持っていなかった。
そうして、また、引き出しに仕舞われていた紙はゴミ箱の中へと消えていく。
学校が誇る優秀で美しい生徒は、たちまち問題児の一言で片付けることのできる人間ではなくなった。欠陥のない優秀な生徒は、なにものでも補えない、隠しきれない大きな欠陥があった。
早く卒業してくれ、と思わない人間は名前の通った中学にはいなかった。美しい容姿と、それにそぐわぬ素行が更に人の目を惹きつけ恐怖で震えさせた。
──高邑名前には、大きな地雷がある。
「コウ!ねえ、まってよ〜!」
「……」
「名前ちゃーん、どったの?」
「あの女、どこの学校行ってんだろうな」
「ターゲット?調べるわ」
「明後日までに」
「りょうかーい」
コウ、という名前。
その名前一つで、普段は変わらない表情が、態度がら憎しみのみで飲み込まれていく。
すれ違った女は、黒くて長い髪で平凡な顔の女に近寄り「コウ」と呼ぶ。
殺してやりたい。それが、名前の願いだ。
「名前ちゃん、悪ーい顔してる」
「うるせえな」
「まあ待っとけよ、すぐ捕まえてやるから」
小さな虫一匹の命でさえ慈しみ、花を愛でていそうなその手で、好きな男の好きな女に似ているという理由だけで明確な殺意を持ち、人を死にたいと言わせるまで追い詰める狂った女を、不良と呼ばれる三人の男は好んでいた。
滅多にお目にかかれないほどの美しい顔が、血で汚れ憎しみで歪むその様を知ってしまえば、後には戻れない。
だから、高校生である彼らは偶然知り合った中学生の女の『お遊び』に付き合い、協力している。それに、もう少しすれば、その身体を暴けるのだから悪いことなんて一つもない。
「明後日が楽しみだなぁ、名前」
少し先の未来にある、甘美な行為に首を長くして待っているのは、男のサガだと美しく残忍な女に笑いかけた。
その日、名前は任務で少しヘマをした。
昨日、『遊び』過ぎていたこともあって注意力が散漫していることと与えられた情報と違う等級の呪霊、さらに呪詛師がいたことでかなり手こずってしまった。
「舐めた真似しやがって」
等級の誤報告も情報ではなかった呪詛師の存在も慣れていたからどうだっていい。
吐いた毒の行き先は、近づく気配に対してだ。
応援を呼んだ、相手の選別を行ったであろうあの忌々しい男はきっと今頃ニヤニヤと笑っているに違いない。
「名前ちゃん!っえ、もう終わったの!?」
やっぱりオマエか。
「うるせえな、見たらわかるだろ」
「強いのは分かってたけど……もう、あんまり無理しちゃ駄目だよ」
「あっそ。てか離せよ、腕」
「ご、ごめん!」
何度も言ってきたが、名前と憂太は相性が悪い。というより、名前が憂太を一方的に疎ましくというか鬱陶しくというか、はっきり言って憂太のことが嫌いだ。
胡散草教師が面白いもの見たさで、──最近、この二人の掛け合いを娯楽として扱っていることに名前は気がついている──なにかと、こうして憂太単体で名前の元へ送り込み、その日の夜、寮の談話室ではたまたメッセージアプリでわざわざ必ず聞くのだ。憂太どうだった?と。
恐らく、必ず、予想するまでもなく、今日の晩もニヤニヤを隠しもせずにあの男が待ち構えていると思うと、うんざりする。
腕を掴む乙骨の手を振り払い、さっさと帰ろうして、──再び手首を掴まれた。
この男といると、神経を逆撫でされる。こういうやつは人の神経を逆撫でしていることに一ミリたりとも気がつくことなく、100パーセントの善意で更に撫でくりまわすのだから、本当に心の底から鬱陶しい。
こういう反応がまた、あの胡散草教師を喜ばせているのだが、嫌なものは嫌で、我慢できないものは我慢できない。
「怪我、してる」目の下に伸ばされる指を叩き落とし、心配ですとでかでか書かれた顔面に普段使うことのない表情筋がぴくりと怒りで震える。
心配されること自体を厭う名前が、嫌いな男から寄越されたソレを我慢できるはずもない。
眉を下げ、女の身体にできた傷を、痛みを気遣っているだけで、手をはたき落とされて睨まれてもなお、乙骨憂太は怒らない。こういうところがまた、名前を苛立たせるのだが。
「触んじゃねえよ」
「ごめん。でも怪我してるんでしょ。治すから、じっとして」
「いらねえ。耳あんのか」
「だめ。名前ちゃんに痛い思いして欲しくないし、僕が治したいんだ」
「私はお前に治して欲しくなんかない」
振り払おうにも、できない力の強さにイライラが蓄積していくが、言うこと一つすら聞こうとしない名前に乙骨も不満があるのかゆっくりと影を落としていく表情に、舌を打った。
ほんとうにくそだるい。
こうなった乙骨が話題に上げるのは一つしかない。
「また、あの人たちと会ったんだって?」
「は、」
ほら、きた。
そういうところが全部うぜえんだって、いつになったらわかるんだよ。
「そういうこと、するの良くないって言ったよね」
「テメェにあれこれ言われる筋合い、っ」
引き寄せられた先に乙骨の顔があって、気づいた時には唇が重なっていた。注ぎ込まれる呪力が傷を治していくのがわかる。がっと頭に血が上り、勢いよく重なっている唇に噛み付けば鉄の匂いが鼻をつき、それが嫌いな男のものであれば尚更腹が立った。
「っはなせ、治せなんか頼んでねえだろ!」
「僕さ、そういうの良くないと思うんだ」
「あ?」
「大事な人には怪我なんかしてほしくないし、……ねえ、名前ちゃん。好きでもない人とエッチしたらダメって言ったよね?」
「テメェに関係ねえ」
「ある。誰でもいいなら、僕とだけにしてよ」
そう言って、光の消えた目が、静かにこちらを捉えている。
中学を卒業し、すぐにあいつらとセックスしたが別に理由はない。ヤリたいヤリたいと猿のように盛っていて面倒だったからではあるし、これからできる大切な人のためにに取っておこうとか好きな人としかヤらないなど思っていないから。
それに、本当に捧げたかった人はこの世界にいない。
というかなぜこの男が知っているのかはわからないが、どうせあの胡散草教師だろ。
「誰がテメェとするかよ」
「……そうだね、気持ちの伴ってない行為に意味なんかないもんね」
きっしょ。
「だから、名前ちゃんもあの人たちとエッチするのやめて」
「私のすることに口出すな」
「出す。女の人を意味もなく痛めつけるのも、やめてっていったよね」
「悪いけど、お前があれこれ言ったところで私の何かが変わることはねぇ。あいつらとセックスするのも、死ぬほど嫌いな女を嬲るのも、これからも続ける」
下唇を噛み、なんで分かってくれないのと小さくつぶやいた乙骨を名前は冷めた目で一瞥すると、さっさと歩き出し、補助監督が待つ車へと乗り込んだ。
「あれ、乙骨さんは?」
「そんな人間いましたか、記憶にないです」
「もー、本当に仲悪いっすね」
仲が悪い、とその言葉で片付けられるのが癪。
座席に深くもたれかかり、目を閉じた。疲れた。さっさと帰って寝たい。
「すみません、待たせてしまって」そう言って乗り込んできた男の気配を遮断しようと強く目を瞑り、話しかけてこようとした憂太に「寝るから話しかけんな」と吐き捨てた。
悲しげに俯いてしまった憂太を、ミラーで見て補助監督は聞こえないように最善の注意を払いながら、ため息をついた。
なんでこんなに嫌って、嫌われてるんですかねえ。
三ヶ月で特級に返り咲く男が、化け物じゃないわけがない。
名前は、乙骨憂太のことを嫌えどもその実力は正しく評価していた。嫌いだからと言ってコミュニケーションを取らないという自己中心的な子供の我儘を持っていれど、狭いこの世界でモノを言う実力は否定しない。
自分は、嫌いな男よりも下であることをしっかりと自覚していた。
「名前ちゃん、君が僕の忠告を聞いてくれないなら、僕にも考えがあるんだ」
面白がって、同級生とあのクソ教師が乙骨にいらないことを吹き込んでいることも知っている。
[#ruby=余計なこと_更生する手伝い]を吹き込まれた乙骨憂太はいつもより何倍も面倒でしつこくてだるいことはわかっている。
だから、名前は眉間に深い皺を生やしながらその場を離れようとした。
が、それを許すほど乙骨憂太は優しくない。
お人好し、だけで片付けられる人間がこの世界で特級まで上り詰めることなど到底出来ない。常識人の面を深く被り込んだその実体は、自称教師 となんら変わりないイカれ具合に決まっている。
「手合わせしようよ。それで、僕が勝ったら言うことを一つきいてほしいんだ」
穏やかに微笑む憂太に、名前は心底うんざりした。
さっさと寝たい。なにせ、今ちょうど帰ってきたところ(朝帰りとも言う)。
ということは、乙骨憂太が最も嫌う──自分ではない男と高邑名前の性行為を指し示し、乙骨憂太は少々、かなり、腹の虫が肝を全て貪り尽くすほど機嫌が悪かった。
「僕が負けたら、口うるさく言うのは控えるよ」
「は?」
負けるだと?この男が?私に?
ありえない、ことはないが可能性が低い賭け事に身を投じるほど名前は馬鹿じゃない。先程も言ったが、名前は乙骨憂太の実力は、実力だけは、認めている。
自分より格上の男が、殆ど名前に希望のない勝利をちらつかせて甘言を垂れるなど、──馬鹿にしている。
いつもであれば聞き流し、見えすいた誘いに乗ることなどないのだが、名前は朝帰りであり、朝一番に見た一番嫌いな男の挑発が、嫌いな男だけに向ける怒りを増幅させ頭が茹だっていた。
目の前に、黒髪の女がいる。平凡で間抜けでお人好しな馬鹿。腹の中に、彼の人の子がいる。被る。乙骨憂太とあの女が。
昨日、痛めつけた女よりも似ていないのに、昨日よりも激しい怒りと憎悪が全身を巡り、「コウ」この世で一番嫌いな女の名を口に出した。
大王様が、心を許した女。気を許した女。
守られるだけの存在のくせして、邪魔になるだけの存在のくせして────ああ、殺してやりたい。
その時、名前は思考を放棄していた。
前世に感情をトリップさせたような気分であった。
新鮮な怒りと憎しみ、殺意がざらざらと血管を這いずり回り、気がついた時には返事もろくにせず憂太に切り掛かっていた。
「コウ、ってだれ?」
易々と剣を受け止め、憂太は小さな名前を拾い上げた。
その名が、自分の地雷なのか彼女の地雷なのかを確かめるために、自分だけに向けられる強い感情が支配する目の奥を覗き込んだ。
ぶるりと、背が震える。歓喜、興奮。
戦いに意味を見出さない男の背筋を震わすのは、自分だけに向けられる特別。
ああ、だけど、コウが誰か分からないと、本心で喜べない。
刹那、小さく歪んだ名前の表情に、──憂太の口角が勝手に持ち上がる。
乙骨憂太は、彼女の感情の希薄の程度を知っていた。
ただ一人のためだけに用意された忠誠心、愛情、悲哀、尊び、興味、関心、感動。今を生きる理由でさえ、きっと名前も顔も知らないその人間である。故に、高邑名前は滅多なことでは興味も関心も寄せない。
そして、ある人に寄せられた怒り、憎しみ、殺意。暴発していくそれらを止める術などなく、呪力を使わずして人間を追い詰める、痛めつける方法を知っているから余計にややこしく、困難なものであった。
もうひとつ。乙骨憂太は、自分に向けられる強い怒りと苛立ちに気がついている。名前に何をしたのかなんて分からない。わかることは、何もしていないということ。
けれど、それでも良い。
名前の近くにおそらく存在しない特別な人間と、名前が探し求めている殺したい女以外で、周りに興味のない優が自分にだけ激しい感情を持ってくれるなんて、心臓が喜びで打ち震えるのは当たり前のこと。
「鬱陶しいんだよ、テメェの声は」
ああ、[#ruby=名前ちゃんの地雷だったんだ_僕が気になる男じゃないんだ#]。
ぐん、と跳ね上がった名前の呪力と濃度に、ますます乙骨憂太は笑顔になった。
コウ、って言う人が名前ちゃんの嫌いな女の人の名前なんだね。
憂太と距離をとると手のひらを上に向け、名前は誘い込むかのように指を曲げ詠った。
「『全ての花よ咲け』」
辺り一面に咲く花は瞬きを一つ終えた時、既にそこは花弁の一枚たりとも落ちておらず荒廃しきった野原が一帯を支配した。逃げ去る真っ白な蝶々を名前が踏み潰した。
ぐしゃり。
感情のない目が、憂太を捉えもう一度詠った。
「『雪げ』」
「っ、え、」
吐く息が、白い。
白銀の世界で、憂太は立ちすくんでいた。
これが、精神に働きかける呪術だとしたら簡単に抜け出せるがどうにも違う。
高邑名前の術式は、精神に働きかけるものではない。
幻覚を見せるものかと思ったが、それも違う。
高邑名前の術式は幻覚を見せるものではない。
「簡易領域……?」
驚き、呟いた乙骨に名前は興味がなかった。
「『十二の女を呼び込め』」
瞬間、上がる名前の呪力量。
引き抜いた剣をどうせ止められるであろうが、乙骨の首を狙い横に思い切り振った。
がぎ、と鉄の音が白銀の世界に響き渡る。
ここが、仮に簡易領域だとすれば呪力の消費が危ぶまれる名前に畳み掛けるのは今しかない。そう、思った。
なにも、乙骨憂太は名前の力を軽んじ、自分よりも階級が下だからと決まりきった勝負を持ちかけたわけではない。
名前の実力は本物だ。階級なんて、信用に値しない。
事実、4級の真希には体術であの頃に比べればやられっぱなしということは無くなったにしても、未だに苦戦を強いられる上に、4回に1度一本取れたら良い方だ。真希は、4級でおさまる呪術師ではない。
体術、呪力操作、獲物の扱い、術式の理解とその活用、全てにおいてあの五条悟に一級品だと言わしめるくらいに、名前は術師として優れている。
術式を名前が使うことはほぼない。五条悟曰く、びっくりするくらい綺麗なモノらしいが、大抵の呪霊および呪詛師は呪具でどうにかできる名前は、面倒な祝詞を使わなくて良いという理由で術式を使わない。
だから、今のこの状況はラッキーである、とここにはいない最強の男は笑う。
「……私の術式は、ある一つの感情を受けたモノ、ぶつけたモノに由来する。山ノ神は醜い己の容姿を僻み、女が山に入ることを嫌った」
「!」
「山の祭りに女が参加することを嫌った。百花仙子を妬んだ神による命で勝手に花を咲かせた精霊及び百花仙子は神界から追放された。ここは、──私が創り上げた彼女たちの世界」
嫉妬、妬み、僻み。
それらにまつわる術式など、人生を新しく歩み、国同士の争いのない世界で息をするくせして前世に縋り付く私に、大王様の子を宿した女を殺そうと生きている高邑名前に、ピッタリだ。
勝手に花を咲かせた罪を、恥辱を雪ぐ雪。
一年に十二人の子を産む山ノ神が厭う12と女を掛け合わせ、山ノ神に嫌われることで12の剣を使い切るまで私自身の呪力が上がる。
ふわりと、女が空を漂う。
『貴方の顔貌がどれだけ美しくとも、心は私と同じ。醜くて、ひどい臭いがするわ』
そしてもう一つ、名前が術式を使うのを面倒がる理由があった。
これだ。山ノ神にぐちぐちと言われるしつこさは、名前が嫌いとする乙骨憂太を思い出しうんざりするからだ。
山ノ神は、美しく醜いこの女が大嫌いだった。
しかし、名前はどうだってよかったし気にしてもいない。所詮、山ノ神は名前が創り出したニセモノ。力は本物であろうと呼び出さなければ何もできないこの神と、名前は話し合うつもりもないし仲良くするつもりもない。
無視に限る。
「私が勝ったら、口出すのをやめろ」
『貴方、何様の分際でこの私を無視しているの!』
山ノ神が激怒するのも、いつものこと。山ノ神が怒れば怒るほど、名前を厭うほど高邑名前の呪力は増幅する。だから、名前は本気で本当に、山ノ神なんてどうでもいい。
山ノ神が力を貸すのを拒んだとして、それは無駄な足掻きで、文字通り名前の創り上げた依代に勝手に顕現したニセモノであるからだ。
力を名前に与えるためだけに用意された依代で、その契約を反故にすることは、己の存在意義を否定することであり、そして、神の身でありながら慈しむべき人間を蔑ろにすることを意味し忌むべき行為であるからだ。
『高邑名前、貴方本当に……!!』
「おい、さっさと答えろ。私が勝ったら、今後一切口出すんじゃねえぞ」
「え、と……うん、わかった」
仮にも神である山ノ神を堂々と無視し、聞く耳どころか自分で顕現させておいて存在を丸ごと透明のように扱う名前と、怒りのボルテージが沸々と上がっていく山ノ神を見比べ、憂太は困った顔をした。
「──ぶっ殺す」
また、知らないうちに名前の地雷を的確に正確に上手に踏み抜いたが乙骨憂太はそんなこと、気付きもしない。
殺意に塗れた、同級生に向けるには似合わない視線を飛ばされ、憂太は転校してきたばかりの日を思い出した。
乙骨憂太は、初めて高邑名前を見た時、衝撃が走った。
強烈な感情が身体を駆け巡り、────なによりも、初めて抱いた理解のできない欲に、自分自身のことを嫌悪した。
「ああ、そこの柄の悪い子は高邑名前ちゃんって言いま〜す!名前と憂太、一般家系出だから仲良くできるんじゃないかな?ね、名前」
「そうですね」
「わ〜、名前ちゃん本当に冷めてるぅ」
「おい悟、名前をいちいちイラつかせんな」
「そうだぞ、またご乱心になるからな」
「しゃけしゃけ」
高邑、名前。
表情の変わらない名前だが、自分と仲良くするつもりなんてさらさらないことは、初対面の憂太にもすぐにわかった。
──けれど。
わちゃわちゃとした空気の中で、一人異様なほどに浮いているように感じるのは、きっと気のせいではない。
頬杖をつき、窓の外をぼうっと眺める横顔が何よりも綺麗で、ますます、欲しく、なった。
高邑名前が欲しい。
これが、初めて高邑名前に出会った乙骨憂太の体を走り抜けた、あまりにも純度の高い欲であった。
「綺麗事が好きなんなら、名前に近付かない方がいい。あいつ、まじでイカれてやがるから」
忠告してくれた真希さんの言葉の真意を知るのも、名前ちゃんのしていることを知るのも、そこから僕が名前ちゃんにかなり、……かなり、嫌がられることになるのもすぐあとだったりする。
ずっと、きっと初めて会った時から心は惹かれていた。あまりにも過激な欲に、理性が追いつかなかったけれど全身で名前ちゃんに惹かれていたのだと。今ならわかる。
だから、好きでもない男と、名前にとってどうでもいい男と名前がセックスすることが、憂太は嫌で嫌で仕方ない。どうでもいい男とするなら、僕としてよ。
なんで。
もやもやとする心を吐き出してみても軽くならない。
本人に言ってみても、改善されるどころか以前よりも酷くなり、あからさまになった気がする。嫌いな男が嫌う行為をすることで、相手の表情が歪む様を見てきっと笑っているに違いない。手を大きく叩いて、口を大きく開けて、爆笑しているに違いない。
実際、表情の乏しい名前が笑うことはないが。
少し前の名前ちゃん、本当によそよそしかったな……。
切なくなる気持ちがぐるぐると回るが、感傷に浸らせてくれる相手はいない。
「おい」
喉元を真っ直ぐ狙う刃先を受け止め、下から睨み上げてくる視線の鋭さに、苦笑。
名前ちゃん、本当に僕のこと殺そうとしてる気がする……。
「考えごととは余裕だな」
「まさか。名前ちゃんにどうすれば勝てるかかんがえてたんだ、よ!!」
名前と戦って少しわかることがあった。
見る限り、名前独自の世界に相手を引き込むことで、自分自身の呪力の引き上げ、一定条件下で硬度な武器の使用と呪力を可能にしていることがわかる。簡易領域ではない。ただの世界。
けれど、なんて────戦いにくい。
名前を弾き飛ばし、互いに距離を取ると息をわずかに飲み込み、
「お前らあああ!!!」
雪が溶けていく。
白銀の世界に太陽が差し、ゆらゆらと陽炎のように水になる。
手にしていた剣が、溶けていく。
「どうされたんですか、学長」
犯人は学長ただ一人。
眉を吊り上げ、いかにも怒っているとなんとも分かりやすい表情に、名前は消えていく自分の世界と共に怒りも落ち着いていくのがわかった。
「学校で私闘は禁止だ。言い訳は許さん」
「あ、あの、僕が名前ちゃんに」
「すみませんでした、以後気をつけます」
「っ、すみませんでした!」
「……どうせ、悟に何か言われたんだろう。次からは気をつけるように。それと、高邑」
美しく消えてしまいそうな生徒の一人を、夜蛾はじっくり見つめて、見下ろした。
一級呪術師であり、あの男に太鼓判を貰っているその実力は間違いない。目を引く、良くも悪くも整いすぎた容姿と、そぐわぬ激しい暴力的な一面は、余計に目立って仕方がない。
「なんですか」
「あまり、大人を舐めない方がいい」
「……ご忠告、ありがとうございます」
去っていく学長の背中を見つめて、憂太は憂太の最も嫌いな男の姿を思い描いてみた。
「名前ちゃん」
わたしの、王様。
政さま、えんせいさま。
貴方様が、夢を遂げるその時までずっと近くにいたかった。少しでも、貴方のお力になれることを願っていた。死ぬ時は、どうか貴方様をお守りする時でありますようにとあんなにも、多くの星に縋り力をつけたというのに。
「ねえ、君の心を離さない男は、だれなの?」
箒星が、私を見捨てたように、私は私の希望を捨てて生きるしかない。
「テメェになんか教えるかよ」
この二人が──名前が憂太を嫌っているのは、根本的に性格が合わないこともあるが、誰かのために力を使う乙骨憂太と、一人だけのために力を使っていた高邑名前では似ていれど全くの別物であり、高邑名前が力を使う理由はこの世界にはいない。
黒髪で、お人好しで間抜け。乙骨憂太が女であれば今すぐにでも殺してやりたいほど、この男は名前の嫌う女に似ている。
友達のために、大切な人のために?糞食らえだ。
高邑名前が闘う理由は全て前世に置いてきた。金のために、それから周囲が高邑名前が任務へ行くことを望んでいるから力を使っているだけ。
外れた首輪は、名前が求める人物以外に付けることのできるものはいない。
「じゃあ、」
引き寄せられた身体。
仄暗く、こちらを見据える瞳の奥には苛烈な色が轟々と燃えていた。
「君の怒り、全部僕にちょうだいよ」
「だずけ、で、ぇ゛」
「まじ?まだ生きてんのこいつ?」
「ゴキブリかよ、きめぇな」
ぎゃらぎゃらと笑う男たちの声に耳を澄まし、目の前に転がる汚い女を見つめた。
痛みも、感情も、大抵の人間が持っている人間たらしめるものを捨て置いたとばかり思っていたが、こうして命乞いをする程までにはまだ人間らしい。
まあ、この女がどこの誰なのかは知らないけど。
「名前、どうする〜?」
「助けてだって、まじうけんだけど」
縋る目は、もう見えているのかさえ分からない。
命を燃やせと、この国のために死に逝けと歌ったあの日に見た桜を、きっとこの女が見ることはない。思い出すこともない。
覚えているかもわからない。
そもそも、この女が私が探している女かさえも分からない。
か細くて荒い呼吸の音。
肺が潰れてしまったのだろうか。
さぞ、息がしにくいだろう。
「しらねぇ。好きにすれば」
この世で一番、嫌いな女がいる。
「名前、また遊んできたの?憂太に怒られるよ」
何でいるんだよ。
うんざりとした言葉を、わざわざこの男に伝えてもただ喜ばせるだけで、こういう時は無視が一番であると身をもって学んでいる。
任務はしっかりこなしているし、学業を疎かにもしていない。そもそも、知り合ってまだ一年と経たない男にあれこれ言われても何も響かない。
もやし、とクラスメイトの女に称されるほどヒョロヒョロで、軽く押しただけでひっくり返りそうな、意志の弱くてお人好しの男を思い出して、──思い出さなければよかった。イライラする。
クソボロい寮の談話室にあるソファにでかい図体を溢れさせている男に声をかけられ、クソ真面目に入り口から入ってきたことを後悔した。
「ねえ、無視は良くないと思うよ」
「……」
「も〜、名前ってば本当に意固地なんだから」
「先生こそ、さっさとおやすみになったら良いのでは。夜中ですよ、今」
「名前の帰りが遅くて心配だから、こうして待ってたんだよ?」
「そりゃどうも」
大男は声もでかい。
態度もでかい。
要らぬ心配だと分かっている上で、こうして何度も何度も帰りを待たれたり心配しているのだと直接的な言葉と態度を与えられたりする。
どんだけ嫌がらせに長けているのだろうか。名前にとって、誰かから心配されるということ自体が不快なものでしかなかった。
それに心配だから、なんて思ってもいないくせに恩着せがましく伝えてくるあたり本当に性格が悪い。
「楽しかった?」にっこりと笑う、この男の言う『遊び』は、オトモダチと仲良くおててを繋いでテーマパークに行ったり買い物に行ったり映画を観たりすることではない。
「血、ちゃんと落としとかないとね?」
それをわかった上で『遊び』と片付けるこの男の気狂いは楽でしかないのだが、この男は憂太、と呼ばれる化け物が少々どころか過剰に干渉してくることを優が鬱陶しく思っていることを知っていてわざと、あのもやしの名前を出してくるのだから、本当に性格が悪い。それは決まって、名前が『遊んで』帰って来た時、開口一番。
性格が悪い男は、うるうるの唇の端をにんまりと持ち上げ、「ここについてる」右頬の真ん中あたりを指で叩き教えてくれる。
「……」
「てかさあ、まだそんなに遊び足りないの?呪霊と呪詛師じゃ物足りない?」
「さあ、どうですかね」
「階級高いのに、問題行動ばっかりだから上がうるさいんだよ」
「そうなんですね」
「呪力使ってないし、殺してはないんだろうけど……ねえ?本来は守るべき対象にある非術師を痛めつけてるのは、僕としても擁護できない。そういうお年頃ってことを加味しても、なんにもしてない一般人に手を出すのはいかがと思うけど」
のろのろと、教師を名乗るこの男に目線を合わせた。
この男が言う『遊び』について、もともと苦言を呈されていたが、止めるつもりはないし止める努力もしようとは思わない。
が、そうか。『遊び』足りないから一般人に手を出していると思われていたのか。だから、最近呪詛師討伐と階級の高い呪霊の任務が多かったのか。破壊衝動を他のものにぶつけて昇華させれば、この『遊び』も収まるだろうと、そういうことだったのか。
ここ最近の謎が解けてしまえば、──特に気にしてもいなかった事柄だったが──ここにいる必要もない。
「そうですね」
名前はもうすでに、男の話を聞いていなかったし、眠くもない身体をどうやって眠りにつかせようかとそればかりに頭を使っていた。
明日も朝から学校。午後から任務。だるい。
上の連中とやらに向けられた深い懐疑的な眼差しはここにくる前までいろんな人間から向けられていたものに似ている。というより、それそのものだ。
不良、非行とうたわれる素行を繰り返し、いつしかそれが日常となれば扱いにくい、言うことの聞いてくれない子供は周りから敬遠される。名前は、その不良と呼ばれる人間にカテゴライズされている。
力を持っている問題児言うことを聞かない人間は、さぞかし扱いにくいことだろう。目の前にある男なんて、その筆頭だ。
学生時代どのように過ごしていたのかなんて、聞かなくとも想像できる。
この世で一番、嫌いな女がいる。
その女を殺すまで、この『遊び』は止めるつもりはない。
「あーもう、憂太に怒られても知らないよ?」
「あんなもやし、どうでもいいです」
こうやって、結局最後に持ち出される名前に吐き気がする。踵を返して男に背中を向けると「キスマーク見えてるよ〜」ありがたいお言葉が飛んでくる。無視。
言うことを聞く気がない名前に、男はため息をつき僕が学生の頃ってこんなに生意気だったかしらなんて、頬についた血を拭うことなく去っていく背中を見つめた。
ま、性に奔放なのは何にも言えないけど。
「ほーんと、憂太と名前って相性悪いよね。ま、憂太ママに任せよーっと」
名前、遊んで帰ってきたよと目的の男にメッセージを入れ、長い足を組み替えて五条悟はひっそりと笑った。
上がうるさいのも、非術師を、それも善良とカテゴライズされる人間に手を出している行為を是としないのも事実であるが、わざわざ時間のない自分がこうして待ち構えて、直接言うにはあまりにも取るに足らない出来事でしかない。
では何故、取るに足らない問題をこの男が誰の手にも渡さず扱っているのかは、単純明快である。面白いから。だから、この世界で一番忙しいと言っても過言ではない男が任務の合間を縫い、いつ帰ってくるのかも分からない問題児を待ち続ける。
心配されることも、憂太の名前を出されることも、帰りを待たれることも、全てを嫌がる名前を見るために、わざと心配するし憂太の名前を口にするし、こうして帰りを待つ。
そもそも、五条悟が名前を心配する理由はどこにもない。初めて呪力というものに触れるというのに、こちらの世界に来て直ぐ力の使い方をマスターした高邑名前は弱くない。
呪力操作も、体術も、獲物の扱いも、何においても一級品であった。五条悟は術師としての名前を高く評価しているから、心配することなど何一つないと言い切る。
しかし、呪霊関係ではなく、非術師のフリをしている時に何かあってもそれは、今までやってきたことの因果応報であり自業自得であるからして、五条悟は一切の心配を名前に持ち合わせていなかった。
可愛くて生意気で、問題行動が目立つ、他の一年生とは気色が全く違う名前という存在は、良い意味でも悪い意味でも五条悟にとって心配する必要のない面白い生徒である。
それに、憂太がせっせと口を出して教育しようとしているみたいだし、なによりも名前と関わりたい憂太と、憂太と関わりたくない名前を見るのが面白くて良い。
返ってきたメッセージの送り主が、画面の先でどんな気持ちになっていて、どんな顔をしているのか想像に難くないのがまた、面白い。
「僕の言うこときいてくれないし、憂太なら適任でしょ」
こういうところが、名前に疎まれる原因である。
「非術師が、守るべき対象ねえ。……テキトーなこと言い過ぎた」
脳裏をよぎるのは、唯一の親友。
反省しないとな、僕も。
テーブルに置いていた最後の一つのチョコを口に放り込み、帰路についた。
憂太のこと嫌がっても無駄って、いつ気づくんだろ。
だって憂太は、あんなにも名前のことだーい好きなのに。
問題児が一等嫌いな男の笑みが溢れているこの夜を、どうか彼女も
真希から、お前名前に何したんだとメッセージが来て喜んだのはきっと僕だけ。
名前は、乙骨憂太が苦手とする、というよりも乙骨憂太を虐めていた人間と同じカテゴライズの中にある。
といっても盗んだバイクで走り出してはいないし、授業も真面目に受け、制服を派手に着崩すことも髪を派手に染め上げることも、教師に歯向かうこともしていない。
しかし、学校での良しとされる生活態度では覆い隠すことができない素行故に、名前は周りから敬遠されていた。
未成年でタバコを吸い、喧嘩をして、授業を崩壊させ、規則を破り好き勝手してくれた方がまだ可愛いと思われるほど、──実際に、好き勝手していた不良たちでさえ近づこうとしない女が高邑名前である。
高専に入るまで、呪術師になるまで、『遊んで』いたところを五条悟に捕まってそのまま成り行きで今に至る。現在も、その『遊び』を続けており中学生からの交友関係も続いている。
同級生は乙骨憂太を除き全員が呪術家系であるから、名前と価値観が合うはずもないし、なにより同級生も名前も互いに合わせるつもりがない。唯一の一般家系の乙骨は、眉を寄せ他の同級生には見せない顔で名前に詰め寄ってくる上に、あれはだめだこれもだめだと言うから、名前は心底乙骨憂太を嫌っていた。
名前を呼ばない、近づくだけで眉を顰める。真希や棘、パンダは、名前に詰め寄る憂太にまたかと笑ったり呆れたり反応はざまざまだが、誰一人、二人の関係に手も口も出さない。
面白い、というのもあるが憂太ママがどこまで名前を更生させることができるのかを三人で賭けていたりするからだ。
名前は、生まれた時、物心ついた時から既に、この世界でいう呪霊の姿が見えていた。
あれは何か、を考える前よりも自分に向けられた殺意に反応する身体が、気がついた時にはその呪霊と呼ばれるモノを喰い散らかしていた。
初めてソレを飲み込んだその時、名前は、思い出したことがある。瑛名前と呼ばれるその日々を。いつのまにか頬を伝う涙は、熱くてたまらなかった。
「えいせい、様」
私の王様。
「政さま」
ああ、どうか、私も貴方様の夢を共に果たしたかった。
「名前!生きろ!っくそ、しっかりここを押さえていろ、今医者を」
「良いのです、もう、私は政様をお守りできたことがなによりも嬉しいのです」
「っ、共に、共に夢を果たそうといったではないか」
「いつまでも、貴方のおそばに」
「っ名前、名前。……ずっと、そばにいてくれ」
「はい。政さま、ずっと、お慕いしております」
暗転。
咄嗟に政さまを庇い、斬られてそのまま死んだはず。
そうか、そうだった。
声に出した、大事な、大切な人の名前は苦しくてつらくて、どうしようも無く愛おしい。
常に気丈な彼の方が自分のために取り乱し、綺麗な掌を私の血で汚れることも気にせず懸命に手を取り、頬を撫でてくださったことを不思議なことに、鮮明に思い出すことができる。
国のトップである身で、剣を振るうその掌は分厚く、そして硬い。その掌の感触でさえ、しっかりと思い出すことができる。
気が狂ったのかもしれない。
こんな、訳の分からない記憶かどうかも怪しいものに涙して、愛おしいと思うなんて。
けれども、確かに、気づいた頃からポッカリと空いていた穴を寸分の狂いなく埋めてくれる大切な記憶であると名前は確信した。
中華を統一すると言う大きな夢に向かう大王のために、共に夢を見たいと願ったから必死で武を身につけ戦に出た。途中で死んでしまったが、きっと彼の方ならやり遂げているに違いない。
「また、お会いできたら……」
弾けた呪霊の肉片の中で、名前はあまりにも尊く愛おしい記憶に縋り涙した。
この日から、名前は模範的で善良な人間ではなくなった。
前世でできなかったことをするために、この世で一番嫌いな女を殺すために、もともと持ち合わせていなかった良心の欠片が余ることなく全て消失した。
「名前ー、つまんねえ授業抜け出して遊びに行こうぜ」
「放課後にまた来い、授業の邪魔。帰れ」
「えー、つめてぇな」
「せっかく名前に会いに来たのに」
「ま、いっか。じゃあ迎えにくるわ」
「またね、名前ちゃん」
「先生すみません、どうぞ続けてください」
授業中だとか、他校生だとか、注意できないままでいるのは学校での生活態度が、成績が、学校外での行動を見逃せと囁いたからだ。
真ん中で分けられた前髪は、冷たい瞳を隠さない。感情の起伏が乏しく、また誰に対しても表情や態度が変わることなく友達はいない。それでも、話しかければちゃんと返事があり任された仕事はしっかりとこなしていた。
また、成績も運動神経も良く絵に描いたような優等生、才能に満ち溢れた生徒であった。
なにより、高邑名前は容姿に恵まれていた。本人からしてみれば、前世と何ら変わりのないものであるが、長い手足も日に焼けない素肌も、消えてしまいそうなほど儚い少女を体現したのが名前であった。大切に囲われて生きてきたかのような、誰かの保護下でなければすぐに溶けて消えてしまいそうな美しさのある少女であった。
街中ですれ違えば近寄りたくないような不良、と呼ばれる男たちとなぜ関わり始めたのか、彼らに臆することなく言葉を投げ捨て、何もなかったかのように授業の続きを促す名前に、あの日、変わってしまった時から誰も近寄ろうとはしない。
名前は、この世で一番嫌いな女がいる。
黒くて長い髪、平凡な顔、間抜けそうな女、お人好しで馬鹿な女、──なによりも大切で愛おしい彼の人の子供を身に宿した身の程知らず。
なにも、無差別に痛めつけているわけではない。ただ、前世にできなかったことを、したくても許されなかったことを今やっているだけ。対象が子供であろうとクラスメイトであろうと成人女性であろうと関係はない。
前世は、大王様の子供を身籠もっていたから殺すことができなかったし、ひとりの人間を殺したことであの人のそばを離れるなんて考えたくもなかった。
本当は、腹にいる子諸共殺してやりたかった。
しかし、その欲が実現することはなかった。
だから。
「ねえ、放課後付き合ってくれない」初めては、記憶を取り戻した翌日。
一人目は黒くて長い髪を団子にして、間抜けで平凡で馬鹿な女。人通りの少ない、路地裏で誰にも使ったことのない拳を振るった。
いも虫のように地面を這い、謝罪と許しを求める人間に、名前は死を求め、硬く握った拳が壊れるまで振いつづけた。吐き気がするほど憎い女を殴る感触を、無感動に受け止めた。
初めの頃は、誰もその女子生徒の言い分を信じなかった。美しく、頭が良くて運動のできる、何一つ欠陥の見当たらない高邑名前が平凡な女子生徒に暴力を奮っただなんて──当初は、鼻で笑っておしまいであった。
非の打ちどころのない優秀な高邑名前に嫉妬したのだと、そう言ってその件は片づけられた。しかし、以降2回目3回目と被害者の名前が連なり他所の学校からの噂が流れてくると、とうとう高邑名前という人物像が壊れて行き、噂は噂でしかないと一切の聞く耳を持たなかった担任でさえ顔を真っ青にしてそれを事実だと認めた。認めるしかなかった。
高邑、という名前だけで被害にあった女子生徒は頭を守るように抱え謝罪と許しを求め続けた。暴力に支配された後の現場では、バラバラに切られた黒髪の女子生徒がペンキや白い粉、砂などに塗れて細く息をしているのが常だった。
止まることのない暴力行為に、たまらず教師は高邑名前を被害者のいる病院へ呼び出し、被害者と名前を対面させた。生徒が安心して通えることが義務であり、保護者から責任を迫られている現状で、学校としてなにかをしなければ、対策を取らねば、と躍起になっていた。
病室の引き出しに仕舞われている被害届を、何としても今週に提出するためには証言が必要であった。しかし、被害者も名前も何もされていない、していないという一点張り。
「……ねえ、わたし、貴方に何かした?」うっすらと笑う名前は、恐怖で震える被害者にいつもそうやって問いかける。日に焼けない真っ白な肌が、余計に人間味を消した。
「なにも、されていません」可哀想になるほど、震える声で呟く女子生徒のその言葉が嘘であることは分かっているのに、誰も、その場に居合わせた全員がその女の子を守る術を持っていなかった。
そうして、また、引き出しに仕舞われていた紙はゴミ箱の中へと消えていく。
学校が誇る優秀で美しい生徒は、たちまち問題児の一言で片付けることのできる人間ではなくなった。欠陥のない優秀な生徒は、なにものでも補えない、隠しきれない大きな欠陥があった。
早く卒業してくれ、と思わない人間は名前の通った中学にはいなかった。美しい容姿と、それにそぐわぬ素行が更に人の目を惹きつけ恐怖で震えさせた。
──高邑名前には、大きな地雷がある。
「コウ!ねえ、まってよ〜!」
「……」
「名前ちゃーん、どったの?」
「あの女、どこの学校行ってんだろうな」
「ターゲット?調べるわ」
「明後日までに」
「りょうかーい」
コウ、という名前。
その名前一つで、普段は変わらない表情が、態度がら憎しみのみで飲み込まれていく。
すれ違った女は、黒くて長い髪で平凡な顔の女に近寄り「コウ」と呼ぶ。
殺してやりたい。それが、名前の願いだ。
「名前ちゃん、悪ーい顔してる」
「うるせえな」
「まあ待っとけよ、すぐ捕まえてやるから」
小さな虫一匹の命でさえ慈しみ、花を愛でていそうなその手で、好きな男の好きな女に似ているという理由だけで明確な殺意を持ち、人を死にたいと言わせるまで追い詰める狂った女を、不良と呼ばれる三人の男は好んでいた。
滅多にお目にかかれないほどの美しい顔が、血で汚れ憎しみで歪むその様を知ってしまえば、後には戻れない。
だから、高校生である彼らは偶然知り合った中学生の女の『お遊び』に付き合い、協力している。それに、もう少しすれば、その身体を暴けるのだから悪いことなんて一つもない。
「明後日が楽しみだなぁ、名前」
少し先の未来にある、甘美な行為に首を長くして待っているのは、男のサガだと美しく残忍な女に笑いかけた。
その日、名前は任務で少しヘマをした。
昨日、『遊び』過ぎていたこともあって注意力が散漫していることと与えられた情報と違う等級の呪霊、さらに呪詛師がいたことでかなり手こずってしまった。
「舐めた真似しやがって」
等級の誤報告も情報ではなかった呪詛師の存在も慣れていたからどうだっていい。
吐いた毒の行き先は、近づく気配に対してだ。
応援を呼んだ、相手の選別を行ったであろうあの忌々しい男はきっと今頃ニヤニヤと笑っているに違いない。
「名前ちゃん!っえ、もう終わったの!?」
やっぱりオマエか。
「うるせえな、見たらわかるだろ」
「強いのは分かってたけど……もう、あんまり無理しちゃ駄目だよ」
「あっそ。てか離せよ、腕」
「ご、ごめん!」
何度も言ってきたが、名前と憂太は相性が悪い。というより、名前が憂太を一方的に疎ましくというか鬱陶しくというか、はっきり言って憂太のことが嫌いだ。
胡散草教師が面白いもの見たさで、──最近、この二人の掛け合いを娯楽として扱っていることに名前は気がついている──なにかと、こうして憂太単体で名前の元へ送り込み、その日の夜、寮の談話室ではたまたメッセージアプリでわざわざ必ず聞くのだ。憂太どうだった?と。
恐らく、必ず、予想するまでもなく、今日の晩もニヤニヤを隠しもせずにあの男が待ち構えていると思うと、うんざりする。
腕を掴む乙骨の手を振り払い、さっさと帰ろうして、──再び手首を掴まれた。
この男といると、神経を逆撫でされる。こういうやつは人の神経を逆撫でしていることに一ミリたりとも気がつくことなく、100パーセントの善意で更に撫でくりまわすのだから、本当に心の底から鬱陶しい。
こういう反応がまた、あの胡散草教師を喜ばせているのだが、嫌なものは嫌で、我慢できないものは我慢できない。
「怪我、してる」目の下に伸ばされる指を叩き落とし、心配ですとでかでか書かれた顔面に普段使うことのない表情筋がぴくりと怒りで震える。
心配されること自体を厭う名前が、嫌いな男から寄越されたソレを我慢できるはずもない。
眉を下げ、女の身体にできた傷を、痛みを気遣っているだけで、手をはたき落とされて睨まれてもなお、乙骨憂太は怒らない。こういうところがまた、名前を苛立たせるのだが。
「触んじゃねえよ」
「ごめん。でも怪我してるんでしょ。治すから、じっとして」
「いらねえ。耳あんのか」
「だめ。名前ちゃんに痛い思いして欲しくないし、僕が治したいんだ」
「私はお前に治して欲しくなんかない」
振り払おうにも、できない力の強さにイライラが蓄積していくが、言うこと一つすら聞こうとしない名前に乙骨も不満があるのかゆっくりと影を落としていく表情に、舌を打った。
ほんとうにくそだるい。
こうなった乙骨が話題に上げるのは一つしかない。
「また、あの人たちと会ったんだって?」
「は、」
ほら、きた。
そういうところが全部うぜえんだって、いつになったらわかるんだよ。
「そういうこと、するの良くないって言ったよね」
「テメェにあれこれ言われる筋合い、っ」
引き寄せられた先に乙骨の顔があって、気づいた時には唇が重なっていた。注ぎ込まれる呪力が傷を治していくのがわかる。がっと頭に血が上り、勢いよく重なっている唇に噛み付けば鉄の匂いが鼻をつき、それが嫌いな男のものであれば尚更腹が立った。
「っはなせ、治せなんか頼んでねえだろ!」
「僕さ、そういうの良くないと思うんだ」
「あ?」
「大事な人には怪我なんかしてほしくないし、……ねえ、名前ちゃん。好きでもない人とエッチしたらダメって言ったよね?」
「テメェに関係ねえ」
「ある。誰でもいいなら、僕とだけにしてよ」
そう言って、光の消えた目が、静かにこちらを捉えている。
中学を卒業し、すぐにあいつらとセックスしたが別に理由はない。ヤリたいヤリたいと猿のように盛っていて面倒だったからではあるし、これからできる大切な人のためにに取っておこうとか好きな人としかヤらないなど思っていないから。
それに、本当に捧げたかった人はこの世界にいない。
というかなぜこの男が知っているのかはわからないが、どうせあの胡散草教師だろ。
「誰がテメェとするかよ」
「……そうだね、気持ちの伴ってない行為に意味なんかないもんね」
きっしょ。
「だから、名前ちゃんもあの人たちとエッチするのやめて」
「私のすることに口出すな」
「出す。女の人を意味もなく痛めつけるのも、やめてっていったよね」
「悪いけど、お前があれこれ言ったところで私の何かが変わることはねぇ。あいつらとセックスするのも、死ぬほど嫌いな女を嬲るのも、これからも続ける」
下唇を噛み、なんで分かってくれないのと小さくつぶやいた乙骨を名前は冷めた目で一瞥すると、さっさと歩き出し、補助監督が待つ車へと乗り込んだ。
「あれ、乙骨さんは?」
「そんな人間いましたか、記憶にないです」
「もー、本当に仲悪いっすね」
仲が悪い、とその言葉で片付けられるのが癪。
座席に深くもたれかかり、目を閉じた。疲れた。さっさと帰って寝たい。
「すみません、待たせてしまって」そう言って乗り込んできた男の気配を遮断しようと強く目を瞑り、話しかけてこようとした憂太に「寝るから話しかけんな」と吐き捨てた。
悲しげに俯いてしまった憂太を、ミラーで見て補助監督は聞こえないように最善の注意を払いながら、ため息をついた。
なんでこんなに嫌って、嫌われてるんですかねえ。
三ヶ月で特級に返り咲く男が、化け物じゃないわけがない。
名前は、乙骨憂太のことを嫌えどもその実力は正しく評価していた。嫌いだからと言ってコミュニケーションを取らないという自己中心的な子供の我儘を持っていれど、狭いこの世界でモノを言う実力は否定しない。
自分は、嫌いな男よりも下であることをしっかりと自覚していた。
「名前ちゃん、君が僕の忠告を聞いてくれないなら、僕にも考えがあるんだ」
面白がって、同級生とあのクソ教師が乙骨にいらないことを吹き込んでいることも知っている。
[#ruby=余計なこと_更生する手伝い]を吹き込まれた乙骨憂太はいつもより何倍も面倒でしつこくてだるいことはわかっている。
だから、名前は眉間に深い皺を生やしながらその場を離れようとした。
が、それを許すほど乙骨憂太は優しくない。
お人好し、だけで片付けられる人間がこの世界で特級まで上り詰めることなど到底出来ない。常識人の面を深く被り込んだその実体は、
「手合わせしようよ。それで、僕が勝ったら言うことを一つきいてほしいんだ」
穏やかに微笑む憂太に、名前は心底うんざりした。
さっさと寝たい。なにせ、今ちょうど帰ってきたところ(朝帰りとも言う)。
ということは、乙骨憂太が最も嫌う──自分ではない男と高邑名前の性行為を指し示し、乙骨憂太は少々、かなり、腹の虫が肝を全て貪り尽くすほど機嫌が悪かった。
「僕が負けたら、口うるさく言うのは控えるよ」
「は?」
負けるだと?この男が?私に?
ありえない、ことはないが可能性が低い賭け事に身を投じるほど名前は馬鹿じゃない。先程も言ったが、名前は乙骨憂太の実力は、実力だけは、認めている。
自分より格上の男が、殆ど名前に希望のない勝利をちらつかせて甘言を垂れるなど、──馬鹿にしている。
いつもであれば聞き流し、見えすいた誘いに乗ることなどないのだが、名前は朝帰りであり、朝一番に見た一番嫌いな男の挑発が、嫌いな男だけに向ける怒りを増幅させ頭が茹だっていた。
目の前に、黒髪の女がいる。平凡で間抜けでお人好しな馬鹿。腹の中に、彼の人の子がいる。被る。乙骨憂太とあの女が。
昨日、痛めつけた女よりも似ていないのに、昨日よりも激しい怒りと憎悪が全身を巡り、「コウ」この世で一番嫌いな女の名を口に出した。
大王様が、心を許した女。気を許した女。
守られるだけの存在のくせして、邪魔になるだけの存在のくせして────ああ、殺してやりたい。
その時、名前は思考を放棄していた。
前世に感情をトリップさせたような気分であった。
新鮮な怒りと憎しみ、殺意がざらざらと血管を這いずり回り、気がついた時には返事もろくにせず憂太に切り掛かっていた。
「コウ、ってだれ?」
易々と剣を受け止め、憂太は小さな名前を拾い上げた。
その名が、自分の地雷なのか彼女の地雷なのかを確かめるために、自分だけに向けられる強い感情が支配する目の奥を覗き込んだ。
ぶるりと、背が震える。歓喜、興奮。
戦いに意味を見出さない男の背筋を震わすのは、自分だけに向けられる特別。
ああ、だけど、コウが誰か分からないと、本心で喜べない。
刹那、小さく歪んだ名前の表情に、──憂太の口角が勝手に持ち上がる。
乙骨憂太は、彼女の感情の希薄の程度を知っていた。
ただ一人のためだけに用意された忠誠心、愛情、悲哀、尊び、興味、関心、感動。今を生きる理由でさえ、きっと名前も顔も知らないその人間である。故に、高邑名前は滅多なことでは興味も関心も寄せない。
そして、ある人に寄せられた怒り、憎しみ、殺意。暴発していくそれらを止める術などなく、呪力を使わずして人間を追い詰める、痛めつける方法を知っているから余計にややこしく、困難なものであった。
もうひとつ。乙骨憂太は、自分に向けられる強い怒りと苛立ちに気がついている。名前に何をしたのかなんて分からない。わかることは、何もしていないということ。
けれど、それでも良い。
名前の近くにおそらく存在しない特別な人間と、名前が探し求めている殺したい女以外で、周りに興味のない優が自分にだけ激しい感情を持ってくれるなんて、心臓が喜びで打ち震えるのは当たり前のこと。
「鬱陶しいんだよ、テメェの声は」
ああ、[#ruby=名前ちゃんの地雷だったんだ_僕が気になる男じゃないんだ#]。
ぐん、と跳ね上がった名前の呪力と濃度に、ますます乙骨憂太は笑顔になった。
コウ、って言う人が名前ちゃんの嫌いな女の人の名前なんだね。
憂太と距離をとると手のひらを上に向け、名前は誘い込むかのように指を曲げ詠った。
「『全ての花よ咲け』」
辺り一面に咲く花は瞬きを一つ終えた時、既にそこは花弁の一枚たりとも落ちておらず荒廃しきった野原が一帯を支配した。逃げ去る真っ白な蝶々を名前が踏み潰した。
ぐしゃり。
感情のない目が、憂太を捉えもう一度詠った。
「『雪げ』」
「っ、え、」
吐く息が、白い。
白銀の世界で、憂太は立ちすくんでいた。
これが、精神に働きかける呪術だとしたら簡単に抜け出せるがどうにも違う。
高邑名前の術式は、精神に働きかけるものではない。
幻覚を見せるものかと思ったが、それも違う。
高邑名前の術式は幻覚を見せるものではない。
「簡易領域……?」
驚き、呟いた乙骨に名前は興味がなかった。
「『十二の女を呼び込め』」
瞬間、上がる名前の呪力量。
引き抜いた剣をどうせ止められるであろうが、乙骨の首を狙い横に思い切り振った。
がぎ、と鉄の音が白銀の世界に響き渡る。
ここが、仮に簡易領域だとすれば呪力の消費が危ぶまれる名前に畳み掛けるのは今しかない。そう、思った。
なにも、乙骨憂太は名前の力を軽んじ、自分よりも階級が下だからと決まりきった勝負を持ちかけたわけではない。
名前の実力は本物だ。階級なんて、信用に値しない。
事実、4級の真希には体術であの頃に比べればやられっぱなしということは無くなったにしても、未だに苦戦を強いられる上に、4回に1度一本取れたら良い方だ。真希は、4級でおさまる呪術師ではない。
体術、呪力操作、獲物の扱い、術式の理解とその活用、全てにおいてあの五条悟に一級品だと言わしめるくらいに、名前は術師として優れている。
術式を名前が使うことはほぼない。五条悟曰く、びっくりするくらい綺麗なモノらしいが、大抵の呪霊および呪詛師は呪具でどうにかできる名前は、面倒な祝詞を使わなくて良いという理由で術式を使わない。
だから、今のこの状況はラッキーである、とここにはいない最強の男は笑う。
「……私の術式は、ある一つの感情を受けたモノ、ぶつけたモノに由来する。山ノ神は醜い己の容姿を僻み、女が山に入ることを嫌った」
「!」
「山の祭りに女が参加することを嫌った。百花仙子を妬んだ神による命で勝手に花を咲かせた精霊及び百花仙子は神界から追放された。ここは、──私が創り上げた彼女たちの世界」
嫉妬、妬み、僻み。
それらにまつわる術式など、人生を新しく歩み、国同士の争いのない世界で息をするくせして前世に縋り付く私に、大王様の子を宿した女を殺そうと生きている高邑名前に、ピッタリだ。
勝手に花を咲かせた罪を、恥辱を雪ぐ雪。
一年に十二人の子を産む山ノ神が厭う12と女を掛け合わせ、山ノ神に嫌われることで12の剣を使い切るまで私自身の呪力が上がる。
ふわりと、女が空を漂う。
『貴方の顔貌がどれだけ美しくとも、心は私と同じ。醜くて、ひどい臭いがするわ』
そしてもう一つ、名前が術式を使うのを面倒がる理由があった。
これだ。山ノ神にぐちぐちと言われるしつこさは、名前が嫌いとする乙骨憂太を思い出しうんざりするからだ。
山ノ神は、美しく醜いこの女が大嫌いだった。
しかし、名前はどうだってよかったし気にしてもいない。所詮、山ノ神は名前が創り出したニセモノ。力は本物であろうと呼び出さなければ何もできないこの神と、名前は話し合うつもりもないし仲良くするつもりもない。
無視に限る。
「私が勝ったら、口出すのをやめろ」
『貴方、何様の分際でこの私を無視しているの!』
山ノ神が激怒するのも、いつものこと。山ノ神が怒れば怒るほど、名前を厭うほど高邑名前の呪力は増幅する。だから、名前は本気で本当に、山ノ神なんてどうでもいい。
山ノ神が力を貸すのを拒んだとして、それは無駄な足掻きで、文字通り名前の創り上げた依代に勝手に顕現したニセモノであるからだ。
力を名前に与えるためだけに用意された依代で、その契約を反故にすることは、己の存在意義を否定することであり、そして、神の身でありながら慈しむべき人間を蔑ろにすることを意味し忌むべき行為であるからだ。
『高邑名前、貴方本当に……!!』
「おい、さっさと答えろ。私が勝ったら、今後一切口出すんじゃねえぞ」
「え、と……うん、わかった」
仮にも神である山ノ神を堂々と無視し、聞く耳どころか自分で顕現させておいて存在を丸ごと透明のように扱う名前と、怒りのボルテージが沸々と上がっていく山ノ神を見比べ、憂太は困った顔をした。
「──ぶっ殺す」
また、知らないうちに名前の地雷を的確に正確に上手に踏み抜いたが乙骨憂太はそんなこと、気付きもしない。
殺意に塗れた、同級生に向けるには似合わない視線を飛ばされ、憂太は転校してきたばかりの日を思い出した。
乙骨憂太は、初めて高邑名前を見た時、衝撃が走った。
強烈な感情が身体を駆け巡り、────なによりも、初めて抱いた理解のできない欲に、自分自身のことを嫌悪した。
「ああ、そこの柄の悪い子は高邑名前ちゃんって言いま〜す!名前と憂太、一般家系出だから仲良くできるんじゃないかな?ね、名前」
「そうですね」
「わ〜、名前ちゃん本当に冷めてるぅ」
「おい悟、名前をいちいちイラつかせんな」
「そうだぞ、またご乱心になるからな」
「しゃけしゃけ」
高邑、名前。
表情の変わらない名前だが、自分と仲良くするつもりなんてさらさらないことは、初対面の憂太にもすぐにわかった。
──けれど。
わちゃわちゃとした空気の中で、一人異様なほどに浮いているように感じるのは、きっと気のせいではない。
頬杖をつき、窓の外をぼうっと眺める横顔が何よりも綺麗で、ますます、欲しく、なった。
高邑名前が欲しい。
これが、初めて高邑名前に出会った乙骨憂太の体を走り抜けた、あまりにも純度の高い欲であった。
「綺麗事が好きなんなら、名前に近付かない方がいい。あいつ、まじでイカれてやがるから」
忠告してくれた真希さんの言葉の真意を知るのも、名前ちゃんのしていることを知るのも、そこから僕が名前ちゃんにかなり、……かなり、嫌がられることになるのもすぐあとだったりする。
ずっと、きっと初めて会った時から心は惹かれていた。あまりにも過激な欲に、理性が追いつかなかったけれど全身で名前ちゃんに惹かれていたのだと。今ならわかる。
だから、好きでもない男と、名前にとってどうでもいい男と名前がセックスすることが、憂太は嫌で嫌で仕方ない。どうでもいい男とするなら、僕としてよ。
なんで。
もやもやとする心を吐き出してみても軽くならない。
本人に言ってみても、改善されるどころか以前よりも酷くなり、あからさまになった気がする。嫌いな男が嫌う行為をすることで、相手の表情が歪む様を見てきっと笑っているに違いない。手を大きく叩いて、口を大きく開けて、爆笑しているに違いない。
実際、表情の乏しい名前が笑うことはないが。
少し前の名前ちゃん、本当によそよそしかったな……。
切なくなる気持ちがぐるぐると回るが、感傷に浸らせてくれる相手はいない。
「おい」
喉元を真っ直ぐ狙う刃先を受け止め、下から睨み上げてくる視線の鋭さに、苦笑。
名前ちゃん、本当に僕のこと殺そうとしてる気がする……。
「考えごととは余裕だな」
「まさか。名前ちゃんにどうすれば勝てるかかんがえてたんだ、よ!!」
名前と戦って少しわかることがあった。
見る限り、名前独自の世界に相手を引き込むことで、自分自身の呪力の引き上げ、一定条件下で硬度な武器の使用と呪力を可能にしていることがわかる。簡易領域ではない。ただの世界。
けれど、なんて────戦いにくい。
名前を弾き飛ばし、互いに距離を取ると息をわずかに飲み込み、
「お前らあああ!!!」
雪が溶けていく。
白銀の世界に太陽が差し、ゆらゆらと陽炎のように水になる。
手にしていた剣が、溶けていく。
「どうされたんですか、学長」
犯人は学長ただ一人。
眉を吊り上げ、いかにも怒っているとなんとも分かりやすい表情に、名前は消えていく自分の世界と共に怒りも落ち着いていくのがわかった。
「学校で私闘は禁止だ。言い訳は許さん」
「あ、あの、僕が名前ちゃんに」
「すみませんでした、以後気をつけます」
「っ、すみませんでした!」
「……どうせ、悟に何か言われたんだろう。次からは気をつけるように。それと、高邑」
美しく消えてしまいそうな生徒の一人を、夜蛾はじっくり見つめて、見下ろした。
一級呪術師であり、あの男に太鼓判を貰っているその実力は間違いない。目を引く、良くも悪くも整いすぎた容姿と、そぐわぬ激しい暴力的な一面は、余計に目立って仕方がない。
「なんですか」
「あまり、大人を舐めない方がいい」
「……ご忠告、ありがとうございます」
去っていく学長の背中を見つめて、憂太は憂太の最も嫌いな男の姿を思い描いてみた。
「名前ちゃん」
わたしの、王様。
政さま、えんせいさま。
貴方様が、夢を遂げるその時までずっと近くにいたかった。少しでも、貴方のお力になれることを願っていた。死ぬ時は、どうか貴方様をお守りする時でありますようにとあんなにも、多くの星に縋り力をつけたというのに。
「ねえ、君の心を離さない男は、だれなの?」
箒星が、私を見捨てたように、私は私の希望を捨てて生きるしかない。
「テメェになんか教えるかよ」
この二人が──名前が憂太を嫌っているのは、根本的に性格が合わないこともあるが、誰かのために力を使う乙骨憂太と、一人だけのために力を使っていた高邑名前では似ていれど全くの別物であり、高邑名前が力を使う理由はこの世界にはいない。
黒髪で、お人好しで間抜け。乙骨憂太が女であれば今すぐにでも殺してやりたいほど、この男は名前の嫌う女に似ている。
友達のために、大切な人のために?糞食らえだ。
高邑名前が闘う理由は全て前世に置いてきた。金のために、それから周囲が高邑名前が任務へ行くことを望んでいるから力を使っているだけ。
外れた首輪は、名前が求める人物以外に付けることのできるものはいない。
「じゃあ、」
引き寄せられた身体。
仄暗く、こちらを見据える瞳の奥には苛烈な色が轟々と燃えていた。
「君の怒り、全部僕にちょうだいよ」
