呪術
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「私はね、早く死にたいだけなんだ」
それが、あいつの口癖だった。
ころころと小さな小石を蹴飛ばして、道路に飛び出て行った小石を追いかけようとしたあいつの左腕を掴んで引き止めた。
小さな小さな小さな石ころ。だから、小さな小石。
車一台分よりも少し幅があるだけの細い細道で、対向車が来ることを考えていない車がそこそこのスピードで走っていく。
細くて細くて仕方がない道。だから、細い細道。
「ああ、危ない。ありがとう」そう言って、やっぱり諦めきれないのか道路に飛び出した小石をじいっと見つめた。
立ち止まる。
馬鹿みたいに空は晴れ渡っていて、だけれども風が冷たい。春だな、とそう思った。冷たい風が服の隙間を掻い潜り素肌を舐めるのを躱すことも、避けることもできないから、ただただ時間が過ぎ去るのを待った。
あいつは、そうっと瞼を伏せて顔を上げた。
「行こうか」
諦めたみたいだった。
行こうか、なんて言われなくとも俺は一秒でも早く高専に戻りたいのだ。お前が足を止めたから待っていたんだ、と口の中で転がして、転がして、やっぱり言うのをやめた。
何となく。特に理由はない。
「伏黒、学校には慣れた?」
「慣れるも慣れないもないだろ」
「そうかな。新しい環境に適応することって、体力も気力も必要だよ」
「やることは今までと変わらない。ただ、中学生じゃなくなっただけ。学ぶ場所と環境が変わっただけだ」
「そういうものか。伏黒は、そうなのかもね」
学校に慣れたか、なんて随分と先輩のような立場でものを言う。同じ学年のくせに。
いや、ただ単にこの春から……数日前から顔を合わせて、これから同級生として任務をこなしていく人間を気にかけているだけかもしれない。
考えすぎだろうか。こいつは、あまり深く考えていないように思う。
失礼だろうか。だけれど、ぼうっとした言動を見ていればそういうった評価になるのも仕方がないのではないか。
同級生、──篁名前は、あまりにも地に足がついてない態度で、いつ見てもこいつの周りは己の時間だけが流れている。
超弩級のマイペースと、真っ黒の服を着る真っ白な髪の毛と真っ青な目を持つ最強の男は篁名前を見てそう言った。
「……お前は?」
「うん?」
もし、縦しんば自分のことを気にかけているのであったなら自分も篁名前のことを気にかけるのが、ここでは正しいこの会話の続きであろう。たとえそれが本心ではなくとも。
最近どう?と聞かれたらば、相手にも同じことを聞き返す。非術師に囲まれていた学生時代、友達は少なく人間関係が豊かとは言えないし、というよりもそもそも人間にストレスを感じる身であったが、最低限の会話の気遣いを知らないわけではないのだ。
ただ、篁名前がその気遣いを受け取るかはまた別の話。その気遣いに気づくかどうかは別の話。
何のことだと首を傾げて、伏黒恵の瞳をじいと見つめた。
「だから、」この流れで何で通じないんだよと、篁名前の視線から逃れんがためにふいとそっぽを向き歩幅を一つ、大きくした。
やはり、気づかないし受け取らなかった。
「篁こそ、学校には慣れたのか」
細い腕を、自分で掴んでおきながら振り払うようにして離した。
「ううん、そうだね。慣れた、のかな?」
「分かんねえのか」
「うん。ただ、今までとは違って伏黒恵っていう同じ歳の男の子がいて、少し歳上の先生がいて、一つ歳上の先輩がいて、さらに歳上の先輩がいて……。とても不思議な気持ちだよ」
「ああ、そう」
聞いておいて、やはりそこまで興味は出なかった。
恩師、のような保護者、のような男から篁名前の出自について軽く聞かされていたが、周りに同じ歳の人間がいなければこんなにも地に足がついていない人間になるのだろうかと、そんなふうに考えた。
家庭。家族。それが社会の中で一番小さな組織だ。
学校へ行き、クラスの中で、学年違いの人間の中で、形成されていく社会性はあいつにはないようであった。
「わあ、君って私と同じ歳なの?すごい、初めて見たよ」真っ白な手が、指が、伏黒恵の両手を重たそうに持ち上げる。よいしょ、と声が聞こえてきそうだった。
「何歳なの?お誕生日は?」真っ黒の瞳が、ぬらぬらと光っていた。床を這う影のように。伏黒恵の影と同じ色だった。
すごいねえ、すごいなあとはしゃぐあいつを止めたのは、教えられていた初めての授業開始時間よりも5分遅く教室の扉をくぐった男だった。
自分でどうにかすればよかったのに、何故だかできなかった。やめろ、とも近いから離れろ、とも言えなかったのだ。
ただ、重たそうに自分の両手を細い指先で持ち上げて、自分の扱う影と同じ色の瞳を持つこの同級生とどうやって関わればいいのかわからなかった。
「粗相をしていないかな、とそれだけが心配なんだ。伏黒、私は何か君に失礼なことをしていないかい?」
「大丈夫だろ」
投げやりだった。
「そう?なら、いいかな」
篁も、特に気にしていない様子だった。
ただ単に投げやりな恵の様子に気がついていないだけかもしれない。
恵は後者だろうな、と思った。
あの後、──初対面での質問攻めの後、篁名前は担任が連れて対面した一つ歳上の先輩たちに恵にしたように同じことをして、篁名前を新種の生き物だと面白がって囲い込んで騒ぐ二年生が出来上がっていた。
「ぱんだ」言いづらそうな音。その三文字を篁が数回舌に慣らしたところで、パンダという生き物が本当は喋らないし柵のないところで解き放たれていることはないこと、殆ど多くのパンダは動物園という場所にいるのだと説明する必要が恵にはあった。
悪い二年生が、目の前にいるパンダを本物のパンダだと篁名前に教え込んでいたからだ。
「伏黒、綺麗な夕陽だよ」
こいつは、太陽のことを夕陽だと言う。
昼時にほぼ真上に位置する太陽のことを、だ。
そして、山にかかるほど落ちていった太陽を、月だと言う。
夜の闇に浮かぶ月を、篁名前が果たして何と言うのか恵は知らない。
案の定、真っ白な指先の先を辿ると首を90度ほど曲げる必要があった。
影は小さい。
太陽が真上にいるからだ。
恵は、訂正しなかった。理由はない。何となく、だ。
「……そうだな」
「真っ赤に燃えてる。こうして植物に命を与えていると思うと、神様は何て素敵な世界をつくったのだろうと思うんだ」
時折、篁名前の進んでいる時計の針が自分と違うのではないかと思う。
神様なんて、信じていない。
人間なんて信じたい時に、縋りたい時に、都合の良いカミ様を探して信じて縋るのだから、信仰される側としては傍迷惑だろうよ。
そも、日本人は大抵が無神論だ。仏教もキリスト教も何教もごった混ぜにしてあるのだから。
だから、神様なんて単語を口から出して、あまつさえずうっと上から見下ろすだけの太陽を引き出して素敵な世界だなんて、伏黒恵の耳にはあまりにも都合が悪い。
ゆっくりと篁名前の時間が流れていく。
マイペースだね、と笑う担任はよくわからないがちょっとだけ困った顔をしていた。理由はわからない。どうだってよかった。
「神様な、信じてんのか」
「宗教に興味はないけれど、そうだね。きっとこの世界をつくったのは神様で、私たちを、動物を、食物連鎖という循環を、小石から大きな恵みをもたらす海や山、全て神様が一つ一つ、愛を込めておつくりになったんだと信じてるよ」
表向きは宗教系の学生である身で、宗教に興味はないと言うのだから、笑ってしまう。
恵自身も宗教に興味なんて全くないし、全く笑わなかったが。
「この世界をおつくりにったのは神様だけれど、今もなおいるのかはわからない。どっちだって、いいかな」
いても、いなくても。
そう言って、任務の帰りでへとへとであるはずなのに篁名前はにっこり笑い伏黒恵の手をそうっと握る。
「伏黒、伏黒の姉さんのお話聞かせて」
「この前もしただろ」
「いいじゃない、何年も一緒にいたら話は尽きないでしょう。私、伏黒の話を聞くのがとても楽しいから」
地に足がついていないこの人間は、こうして手を繋ぐことを好んだ。
自分よりも小さくて細こい指先に、むず痒いようなそんなおかしな気持ちになるのを感じながら、振り払うことはしなかった。
小さな子どもを世話しているような気分だった。
寝る前の絵本を強請るように、信頼し切った親の体温に触れたがるように、二人しかいない任務の帰りは決まって篁名前は恵の手を握り、姉の話をねだる。
会話が途切れることは少なかった。
篁名前は恵を信頼し切っていた。
恵を見つければ近くに駆け寄り、恵といなかった間どう過ごしていたのか、何があったのかを聞いて聞いてとねだる。他愛もない日常的な内容。特段身になったり驚きがあったりするわけではない。
会話の殆どは篁名前が始める。
おはようとおやすみを恵に言いたいからと、初めて見る携帯をわざわざ買って現在は使い方を一生懸命覚えているところだ。
初めて出会った、歳の近い人間だったから。
だから、篁名前は伏黒恵をこんなにも信頼しているのだと恵は信じている。考えている。
ため息を一つ、大袈裟についた。
面倒だなと思うことはあれど、嫌ではなかった。
「わかった。けど、高専に帰って傷治してからな」
「はあい」
解けそうなほど緩まった篁名前の指先の力。
捕まえ直して、今度は恵が彼女の手を包んだ。
二人は恋人ではない。ただの同級生だ。
それも、数日前に出会ったばかりの。
「伏黒、あのね」
「なんだ」
「私、やっぱり神様はいると思う」
「……それで?」
やはり、篁名前は自分とは違う時間の流れを抱えているのだろう。
平熱が低いのだろうなと思わせるこいつの手の温度は、時折橈骨にある脈が打っているかを確認しなければ安心できないほどであった。
「神様はね、自分の一部を千切って人間や動物をおつくりになったと聞いたことがあるんだ。なら、お腹を痛めて命を生み出すお母さまたちこそ、この世に舞い降りた神様じゃないのかな」
担任は言っていた。篁名前は大人ばかりに囲まれて、学校というものに通ったことがなく外を、世界を知らないのだと。
あまりにも純朴で、この世界で生きていくには知らないことが多すぎて、きっとこれから先困るだろうと思った。
困って仕舞えば良いと思った。
そうすれば、きっとこの先もずっと、この世界で生きていけるのだから。
「へえ。考えたこと、なかったな」
「私たちは神様の一部を与えられているんだよ。すごいことだね」
「……なら、」
なんでこんなにも世界は悪人がいて、負の感情を生み出す人間がいて、そんな環境があちこちに渦巻いているのか。
口の中で転がして、転がして、やっぱり言うのをやめた。
理由は特にない。何となく。
「なら?」
「別に。何でもない、さっさと帰るぞ」
大切に、大切に育てられてきたのだろうと思った。
でなければ、あんな風に母親をカミサマだと称する奴にはならない。
「名前は全然スレてねえな」
「それ、私も思った。あんな奴、まだこの世界にいるんだな」
「恵見つけたらすぐ駆け寄って、あいつァ親鳥だったのか?」
「やめてください。今まで、大人ばかりに囲まれていたから同じ歳の人間が珍しいだけですよ」
「恵、帰ってたのか」
狗巻先輩がいない。任務か。
もう一人の二年生は海外にいるから、二人きりで昼ごはんをつつく二年生を見下ろして、聞き捨てならない単語を否定する。
真希は恵を見て目を丸くして、それからニヤリと口角を上げた。
「名前、寂しがってたぜ」
「その本人がいないじゃないですか」
「なんだァ?やっぱお前も寂しかったのか」
「そういうのいいんで」
「冷てえな。名前は任務だよ、朝から元気いっぱいで出てったぜ」
「そうですか」
お前もすっかり親ヅラだなァなんて声は無視することにした。気になる存在の所在を知れたことだし、昨晩から今の今まで任務で動きっぱなしだった疲労を寮に戻って取るかと大きく伸びをした。
帰って来たらそのまま休みでいいよと許可を貰っているため、ありがたく甘えさせてもらうか。
ぴこんと携帯が鳴り、篁だろうなと思いながら確認すると案の定。お疲れ様、ゆっくり休んでねと絵文字のない字面が並んでいた。
お前こそ、気をつけろよ。指先ですいすい文字を並べ送ると、すぐに既読がついた。
「朝から元気いっぱいで出てった」と真希が言うのだからそうなのだろう。元気いっぱいの篁。想像して、口角が緩んだ。
返信はない。メッセージのやり取りは案外淡白で、気が楽だった。
「恵ぃ」
「……何ですか」
「生まれた時からこの世界にどっぷり浸かってる先輩からのありがたいお言葉だ」
「はあ」
何だその言い回し。
「ありゃ純粋すぎる、気をつけてやれよ」
「俺からも言っとくぞ、気をつけろよ」
「……何のことか分かりませんが、気をつけます」
漠然とし過ぎている警告。
どこをどういうふうに気をつければいいのか、全くわからない。
が、先輩たちの言いたいことも言わんとしていることも理解しているつもりだ。
「早く休め、顔色がひっでえ」
「ご苦労さん」
軽く頭を下げ、その場から去った。
俺たちの中に神様の一部があるならば、どうしてこんなにも争いが絶えない。何故、津美樹は呪われなければならなかった。善人を食い物にする悪人に、神様の一部があるならば、きっとそれはもう罪を犯したその時に砕け散ったに違いない。
伏黒、伏黒。床を這う影の色が、太陽に照らされてどろりと光る。粘稠度の高い液体がその瞳と同じ色で、ぐるぐる重くかき回される。
ねえ、私、神様はきっといると思うんだ。
「いねえよ」そんなもの。
「いるわけ、ねえだろ」
ああでも、こんなこと、言えるわけない。
あいつの母親は、カミサマのように清らかで美しい人間だったのだろうか。じゃなければ、そんなことを考えつかない。
そもそも、神様というのは清らかで美しいものなのだろうか。人間は、勝手に神様という偶像に理想を抱き過ぎてはいないか。
言いたくて、でも篁名前がそれを信じているということはこれまでずっと誰も言わなかったからだろうなと考えたから、やめた。
理由ではない。言い訳だ。
理由なんてない。何となく、何となくだ。
「ねえ、伏黒。見て、綺麗な月だ」そう言って、指差す先に何があるのか、伏黒は見なくてもわかる。そして、それが一般的に何と言われているのかを教えることも訂正することも、できなかった。しなかった。
そうすれば、きっとあいつの世界は霞んでしまうと思った。他の人たちも、きっとそうであったのだろう。だから。言わない。
言い訳に過ぎない。理由にすらならない。
何となく、なんて。
「伏黒、ただいま」
「……おかえり。すげえ汚れてんな」
「大きな水溜まりを見たのが初めてで、はしゃいでしまったの」
「また、小さい餓鬼みたいなことを……」
「とても楽しかった。見て、写真を撮ったんだ」
頬の擦り傷。指先が少し欠けていた。
お転婆娘には学生っぽい学生服を、とセーラー服を支給するあたり担任の男はこの超弩級のマイペース女を、えらく幼い子ども扱いしている気がしてならない。そのセーラー服は泥に塗れていて、伏黒恵を汚すことさえ考えていないであろう名前は濡れて泥だらけになった制服のまま恵に近寄った。
大きな大きな水溜まり。少しブレた写真は、これでも上達した方だと恵は感心した。もうすっかり兄のような、親のような心持ちだった。
親鳥だ、親ヅラだとニヤニヤする二年生を思い出し、眉間に皺を寄せないわけにはいかない。
「写真撮るの、上手になったな」言わずにはいられないくらい、本心だった。
嬉しそうに頷いて、「本当に大きい水溜まりだったの、伏黒にも見せてあげたかったな」とブレた写真を誇らしげに見せびらかす。
「最初は透明で、私が思い切り飛び込むと茶色く濁ってもう元には戻らなかった。そうしたら、月が茶色の空に浮かんで私、ようやく逢魔時まで遊んでいたことに気がついたの」
どんだけ水溜まりで遊んでたんだよ。
補助監督が、時折伏黒恵に篁名前について申し訳なさそうに言い募ることがあった。
曰く、長い時間、帳から出ないことがある。心配で心配で待ち続けていると、ようやく出てきた彼女は小さな子どもがあちこちの景色や物に興味を引っ張られて手当たり次第触って匂いを嗅いで口に含んで……とりあえず、小さな子どもが目一杯自然の中で遊んだような姿になって帰ってくるのだと。
決まって、「御免なさい、夢中になって蝶々を追いかけてしまって…」などと、本当に本当に申し訳なさそうな顔をしてしゅんとするものだから注意できない。それに、こういったことを除けばとても良い子だから尚更。
なぜ俺に言うのか。そう思ったが、どうやら担任が伏黒恵は篁名前のお守り役であると言いふらしているらしい。絶対にいつか殴ってやる。謎が解けた時、心に決めた。
「補助監督さんが困るからやめろってこの前も言わなかったか?」
「その、……大きな水溜まりを見た瞬間にそのことしか考えられなくって」
気まずそうに、誇らしげに頬を桃色に染めていた篁名前は気まずそうに顔色を変えて俯いた。
小さな子どものようであった。
全てを肯定されて生きてきたのだろうか。でなければ、こんなふうに生きていけることなど不可能だ。
と、いうよりも。
はたと気がついた。
「水溜まり」
五文字の音が口から滑り、小さくて大きな違和感に眉を顰めていると「ああ、あのね」恥ずかしそうに俯いて、「五条先生が、教えてくれたのさ」と呟いた。
思い出すのは、入学して二日経った日のこと。前日に雨が降ったせいで、グラウンドは水溜まりがポツポツとあちこちに姿を現していた。それを見て、こいつは何と言ったんだったか。
聞き馴染みのない、確か──。
「にわたつみ」
篁はぱっと顔を上げてぎゅうと眉に皺を寄せた。
「何で教えてくれなかったの?先生に、流石箱入り娘ってすごい揶揄われた」
「同じ意味だろ」
多分。
きゅっと口を結んで、篁は不満そうに「違うよ」と詰めた。
幼い子どものような仕草。どんな環境で育ったのか、聞かずとも分かる気がした。
子どもの人格形成において、育つ環境は最も関わりが深く重要であるとされているが、素直で、禪院真希の言葉を借りればスレていない篁は、理由のない否定をする大人がおらず一つ一つの疑問や主張に真摯に向き合ってくれる環境があったのだと思う。
何故なら、篁名前は人の意見に耳を傾ける。否定しない。理由を聞いて、その人の考えを聞いて、自分の意見を伝えて、そうしてじっくり考える。補助監督から評判がいい理由の一つ。
篁名前はごめんなさいとありがとうございますをしっかり伝える。
篁名前はよく笑う。控えめに、だけれど上がる口角や細まる瞳が柔らかく空気を変化させる力があった。
だから。
「にわたつみ、……ええと、水溜まりを濁して映り込んだ月の光で、きっと私は死んでしまえると思ったの。あんなにも美しいにわたつみを泥水に変えてしまった罰を、受けることができると思った」
死にたいと、冗談かのような声色で、本気にしていないような柔らかい表情で言うものだから、どうすれば良いのかわからずにいた。
「……そんなことで、罰を受けなきゃいけないんだったら大抵の人間がそうなってる」
「そうなのか?……そっか、そうなんだね」
「そうだ、そうなんだよ」
残念そうに項垂れた。
悲壮に満ちた声色で、泣いてしまいそうな目元が苦しげにまつ毛を揺らすものだから、何だか可哀想で苦しくて、馬鹿げた口癖をもう二度と望まなければいいのにと思った。
「早く、死んでしまいたい」
地面に転がっていく口癖は、いつも恵をどう反応すればいいのか分からず困らせた。
何故、そう思うのか。何故、死んでしまいたいのか。
理由を聞くことはできなかった。
「伏黒、聞いて。私と同じ歳の女の子が入学してくると、先生が言ってたの」
「良かったな」
「うん。初めて同じ歳の同性に会うから、変なことをしないようにしないと」
「じゃあ、水溜まりを見て足元を汚したり初めて見る虫を見て追いかけたりするなよ」
昨日も、泥まみれになって帰ってきていた。
理由は大きな蜘蛛の巣に引っかかった蜂と蜘蛛の戦いを近くで見ようと少しずつ少しずつ近づいて、道ですらない森の坂から転げ落ちたのだと、爆笑して使い物にならない担任が言っていた。
言葉が返ってこない。
昨日のことを思い出し、恥じているのか小さな傷が幾つも残る頬を赤く染める。「だって、」と篁名前は数日前に覚えたばかりの言い訳というものを適切に使おうとする。
「命って、ああして巡っているのだと思うと何だか不思議だったんだ。何一つ無駄なんてなくて、真摯に生きることに向き合ってて……もっと、見ていたかった」
「篁は本当に、……」
純粋?素直?スれていない?
何かを言おうとして、何かを伝えようとして、口を閉じた。何もかも、言うべきではないと思った。
小さな子どもというよりも、世界を知らないと言った方がしっくりくる。
大きな好奇心と、小さなことにまで向けられる興味は際限がなく、純粋ゆえに誰よりも残酷なことをできる時がある。無知であるから、自身の行為に責任がついてまわることを知らないのだ。
もし、蜘蛛の巣に篁名前の手が届いていたならば。
考えて想像して、恵はゾッとしたように感じた。
「伏黒?」
「、……何だ」
「喋り途中なのに黙るから、どうしたのかなと思った」
「いい、何でもない」
「そう」不思議そうな顔で、頷いていたがやはり何も気にしていないのだと思う。
篁名前は、大抵のことを気にしない。そう思うのは仕方のないことだ。
こいつは本当に、真っ白で、純粋で、この世界で生きるには知らないことが多すぎる。
「伏黒、あのね」
花の香りよりも、若葉の香りが漂う季節になった。
いつも、360度周囲を見渡して全てに興味を注いでいた瞳が伏黒恵だけを見つめた。
全ての色を混ぜ合わせた色。ぬらぬらと、地面を這う影の色。
自分の術式と同じ色が、なんの感情も持たず自分を見つめていた。
「なんだ」
「この世界に、もう、神様はいらっしゃらないんだな」
ぱたりと、篁名前は大人になった。
急激な変化は周囲を戸惑わせ、けれど『大人ばかりに囲まれ生きてきて、しかも外を知らなかったあの子の遅めの成長であろう』と多くは受け入れた。
けれど。
伏黒恵は、受け入れることができなかった。
「水溜まりあるから、気を付けろよ」
「うん、ありがとう」
「……」
「どうしたの?」
「いや、」
「何でもない」と飲み込まなくてもいい言葉を飲み込んでしまって、ぶつ切りになった会話に篁は首を傾げた。
にわたつみ。
恥ずかしげにその五つの音を並べる篁はどこかに行った。小さな子どもが、水溜まりに足を突っ込み泥だらけになるように、水面に夕陽が映るまで時を忘れてにわたつみではしゃいでいた篁は、どこに行った。
「今日、晴れて良かったね。ぴかぴかの太陽だよ」
そう言って、見上げる先には太陽が存在していて、恵は言われるがままに青い空に鎮座する正しい名称を目視したことを後悔した。
太陽。
太陽だ。
夕陽じゃない。
自分が指摘しなかった間違いを、誰かが正した。
たったそれだけのこと。
けれど、だが。
「夕陽、」──じゃ、ないのか。
もう、二人が出会って三週間が経とうとしている。
補助監督からの苦情も無くなった。
泥だらけで帰ってくることも、任務とは無関係でこさえる小さな傷も無くなった。
ただ、ひとつだけ。
「早く、死んでしまえたらなあ」
縋るように、「ピカピカの太陽だ」と笑っている篁は以前と変わりなく同じ願い事を太陽に告げた。
本気なのだろうか。そんなことは、自分の知ったところではないし、知ったところで何かできるのかと言われればきっと何も出来ない。
だから、だからこんなにも悩んでいるのだ。
生きて欲しいと願うのは、死んで欲しくないと願うのは、自分の我儘でしかなく篁名前を縛るだけの呪いにしかならないということは理解している。
どうして、なんで、も変わってしまったあいつには届かない。変わって欲しくないと思っているのは、おはようとおやすみをちゃんと言いたいからと初めて手にした携帯で今もなお、……変わった篁名前が続けるからだ。そうに違いない。
「ねえ」こつん、とたまたま小さな小石を篁が蹴った。道路に飛び出した小石を、目で追いかけることはない。
「伏黒、学校には慣れた?」
「慣れるも慣れないもないだろ」
「そうかな。新しい環境に適応することって、体力も気力も必要だよ」
「やることは今までと変わらない。ただ、中学生じゃなくなっただけ。学ぶ場所と環境が変わっただけだ」
「そういうものか。伏黒は、そうなのかもね」
「ここの道は、細いねえ」目を細めて、細い細い細道を我が物顔の速度で駆け抜ける車を追いかけた。
ああ、どうか。
口の中がカラカラになって、心臓がばくばくと脈を打つ。
「……お前は?」
「うん?」
首を傾げて、「なんて言ったの?」と篁は立ち止まり、恵は彼女の、地に足がついた態度を見るたびに不愉快に似た感情がトグロを巻いていくことを知った。
「お前は、どうなんだ」
「うーん、……ちょっとずつ、慣れてきたかな」
ああ、ほら。
もう、篁名前は変わっていった。
二人だけの任務の帰り道だというのに、自分の熱しか感じない。
「五条先生、篁知りませんか」
任務からまだ帰ってきてなくて、連絡も取れなくて、とそう言おうとして、担任で最強で昔から面倒見てくれた男の、いつもとは違う様子に口をつぐんだ。
ああ、きっと。
「恵、落ち着いて聞いて」
そんなことをうだうだと考えているうちに、篁名前が月のことをどう呼ぶのかをもう、永遠に知ることはできなくなった。
「あの子は、天使のようだと思いませんか」
言葉にならないのは、その家の中があまりにも異様だったからだ。
何故、ここにいるのかなんて自分自身あまり覚えていないのだから救いようがないと苦い苦い食べ物を口に含んだ顔をつくり、「篁名前さんの同級生の伏黒です」と感情が入りきらないお悔やみを次いで述べた。
「名前の家族さあ、家から全く出ようとしないんだよねえ。だからさ、名前の私物持っていってくれない?」と伏黒の是非を伺おうともしない、決まりきった件を疑問符を付けて話すなよと思い出して、いつもながら腹を立てた。
そんなこんなであれよあれよというままに荷物を押し付けられ車に乗せられ、山奥の薄暗くてでかい屋敷の扉を叩いたのだ。
己の身分を明かし、家の中へ通されたと思えば冒頭の台詞を浴びせられ、訳が分からなかった。いまだ、理解が追いついていない。
それに拍車をかけるように、異常な家の中はじめじめと湿気ばかりがすごくて靴下の裏側が廊下の床を踏み締めるたびに水分を吸っているような気がしてならない。
大人ばかりの環境。外を知らない。
この二つの情報から想像した養育環境と、実際のそれが遠く乖離しているのだろうと理解した途端、胃の中を巡る吐き気に口元を抑え込んだ。
びっちりと、窓や外に通じる扉の四隅を覆うガムテープ。そして、ガラス越しでさえ外の世界を見ることができないように真っ黒の社交性の高い布が窓から入るわずかな光すら許さないとばかりに窓や扉を隙間なく覆う。
息が詰まるようであった。
この中に入れば、どんなに強い生命力を持った虫であろうとも数分で死に至る。
外からやってきた命は、あいつの視界に入る前に死ななければならなかった。何が何だか分からないのに、そんなことを考えた。
靴下の裏側はもうとっくに濡れていて、素肌にねっとりと張り付いているような気がしてならない。嫌だった。嫌で嫌で仕方がなかった。
「どうぞ。すぐ、お茶を持って来させます」すすめられた座布団に行儀よく座り、そっと足の裏を確認した。濡れてない。ただ、その事実が伏黒恵を安心させた。
「これは、篁名前さんの私物です。本来であれば担任が来て、お話をするのが一般的でありましょうが特級呪術師のため時間を割くことができませんでした。言い訳になってしまいますが、ご了承ください。代わりになってしまいますが、申し訳ありません」
「いいえ。私たちは篁名前の死亡を連絡してもらうことで満足でしたので、わざわざこうして足を運んで頂けるとは思ってもいなかったのです。お忙しい中、有り難う御座います」
「いえ、……その、篁さんとは仲良くさせていただいていたので、ここに来たのは自分の我儘です。こちらこそ、お忙しい中すみません」
大きな屋敷だと言うのに、物音ひとつしない。
目の前にいる、この女以外人間が見当たらない。
「遅くなりましたが、私は名前の母です。お世話になったみたいで、ありがとうございます。……何か、お話が聞きたいと五条悟様から言伝があったのですが、どのようなお話が聞きたいのですか」
「……」
聞いてないぞ、五条先生!
ぴきりとこめかみに血管が浮き上がるんじゃないかと思うほど、初耳案件が篁名前の母親の口から飛び出す。
聞きたいこと、とは。ぐるぐると、回転のいい思考が急速に動く。
太陽を指して、夕陽だと言う。夕陽を指して、月だと言う。小さな子どものように、全てにはしゃぎ、目を輝かせて楽しいね、凄いなと口にする。
神様は、きっとまだこの世界にいると言う。いなくてもいてもどっちでもいいと言いながら、きっと神様は母親なのだろうと言う。
伏黒恵は、篁名前がどのようにして死んだのかをしらない。五体満足なのか、四肢が欠損していたのか、果たしてどうなのかを、一つも知らないのだ。
「スレてねえな」と、ひとつ年上の先輩が言っていた。この世界で、あれだけ真っ直ぐに純粋に育ってきていたならば、さぞかし──そう、善い大人に囲まれて育ってきたのだとそう思ったのだった。
「……先ほど、名前さんを天使のようだと言いましたね。それは、どういう意味でしょうか」
けれど、分からない。分からなくなった。
そもそも、知らなかったのだ。勝手な自分の、妄想にしか過ぎないのだから。
言ってから、自分の娘を天使のようだと言っていた意味を問いただすことは、失礼に値しないだろうかと気がついた。
けれど、気に障った様子はなく母親は一度瞬きをしてうっすら笑った。
気味の悪い、じめじめした笑顔。また、靴下の裏側が気になってきた。
「そのままの意味です」理解してもらわなくても結構だと、声が、態度が伝えてくれる。
似ていないな、と思った。篁はいつも笑顔だったから。日向が似合う。だから、光さえ通さないこの家で生まれ、過ごしてきたという事実にぎゅうと眉間に皺が寄る。
「私たちの家では、祈りを捧げ崇拝することでその対象が力を宿し、私たちを良い道へ導いてくれると信じられています」
「その対象とは、この家独自の神のようなものですか?」
「いいえ。私たちはあらゆる既存の神を信じていません。この一家独自の神もいません。身内の中から選ぶのです」
「……それが、篁名前さんだったと?」
「ええ。生死は関係ありません。あの子がこの世で生きていくための肉体を手放し、人間としての生を終えたならばそれは完全なる人間からの脱却を意味しています。天使のよう、と言いましたが天使は崇拝の対象とはならない。どれだけ祈りを捧げても願いを告げても、そこに神がいなければどんな祈りもどんな願いも捧げようと告げようと意味はない」
ですが。
色のない薄い唇が、曲線を描くことをやめた。
無表情となったが、どうだっていい。笑顔でいようと無表情でいようと、気味が悪かった。暗かった。じめじめしていた。
「あの子は死んだ。天使のような人間ではなくなった。どれほど天使に近くても人間の体であるならば天使にはなれない。人間の体でなくなったのなら、天使ではなく神として、崇拝の対象としてこれからもこの世界にいてもらわなくてはいけません」
「……天使のような、ただの人間を今の今までバカみたいに崇めていたと?」
「はい。私たちには捧げる祈りもなく、告げる願いもありません。いえ、ありませんでした。それは、崇拝するべきものがいなかったから。今は違います。祈り、願い、懇願する。助けを、救いを。今は、崇拝するべきものがいますから」
「祈りが、ないなら。……願いが、ないなら、そこに意味はあったのですか」
「祈りがなくとも、願いがなくとも、天使のようなあの子はきっと、神として祀るに相応しい存在だと、私たちは考えていましたから」
「……なんの、ために」
「ですから、私たちの崇拝の対象とするために」
「篁名前は、生前早く死にたいと口に出していました。なぜだと、思いますか」
「私たちの祈りが通じたのでしょう」
「祈り?祈りはないと、……祈ったところで聞き届けてくれるものはいないでしょう」
「そうでした。祈りではありません。願っていたのです」
「願い?願いはないと、……願ったところで叶えてくれるものはいないはずでしょう」
「間違えました。願いではありません。私たちは、祈りがなくとも願いがなくとも、夢や欲を持つ哀れな人間です。祈りが持てないのも、願うことすらできないのも、全ては神がいないから。これが原因です」
なら、なら。
あの、口癖は。
真昼間に、空高く上る陽を指差して夕陽だと教えてくれるあいつの口癖は。
意味もしらずに、己を縛るだけの
「崇めていれば、信じていれば、そこに神は宿る。神は昔からあるのではなく、人間が信じて崇めているからこそ産まれたのです」
「それは、あなたの考えですか」
「いいえ、篁家の考えです。でなければ、人間の交わりでできた人間を神と同等に扱おうだなんて思わないでしょう」
だろうな。
篁名前は、違った。家の考えとは違った。
神は、人間や動物を己の一部を千切り、与え、つくったと言った。神は、この世の全てをつくったと言った。
神は、母親であろうと言った。
──目の前の、神は言う。
「あの子は、死んだことによって神になったんです」
神は、篁名前だと。
篁名前は一体、どのようにして死んだのか。
伏黒恵の耳に、その情報が入ってくることは一度もない。
篁名前が、月をどのように呼ぶのか。
伏黒恵が、知ることはできない。
「この世界に、神なんているわけねえよ」
だって、伏黒恵に母はいない。
あの時言えなかった言葉を、漸く吐き出せた。
手のかかる、小さな子どものような同級生はもういない。
あいつが、神はもういないのだと気がついたあの日、何があったのだろうか。分かるわけがない。
仕方がないだろう、あいつは何も教えてくれなかったのだから。
おやすみと、翌日の朝を迎えることのないメッセージを眺め、名前を呼んだ。返事はない。当然だ。
じめじめしたあの家で、祈りを捧げられ、願いを請われ、神として崇拝されていると思うと気がおかしくなるような気がした。
篁名前は、神でも天使でもない。
あそこに、神も天使もいない。
祈りも願いも、届かない。
篁は母親を神だと言い、母親は篁名前を神だと言った。おかしかった。意味が分からなかった。
「篁は、呪術師だ」
伏黒恵に理解できるのはただそれだけだ。
