排球
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夏のある日、彼女が死んだ。
発見が早かったらしい。だから、まだ見れるのだと。
橋の下、浮かぶ水面は重力とは無関係の世界にあるような気がした。
夏の太陽の下が似合う彼女は、陽の当たらない場所で死んでいた。じめつく湿気は、同じ場所を漂うことしかできない汚濁した川のせい。
ボウフラが浮かぶ。
ばちん。大きな音を立てて、命を一つ殺した。こんな小さな命のために、自分の血を吸われることすら今は腹立たしい。
想像してみよう。命がなくなった彼女を。
ぷかぷかと浮かぶ俺の好きな子は、何を思っていたのだろうかと。人の目につかない場所で死んでいったあの子が最期に見たものはなんだったのだろうかと。
暑い夏が今年も来た。一年前のことを今でも鮮明に思い出せる。こんな、無駄な行為をもう幾度となく行なっている。
「松川、おい、松川!」
「ん?ごめん、ぼうっとしてた」
「いや、それは別に……。大丈夫か?その、……」
「ああ、……大丈夫だよ。まだ悲しいし色々整理はつかないけどさ、彼女のお母さんが気を遣ってくれて部屋の片付けとか一緒にさせてくれてんの。思い出話楽しいよ」
「そうか。なら、……でも、無理はすんなよ」
「いつでも話聞くぜ。その思い出話、俺らにも教えてくれよ」
「はは、そうだね。またしようよ」
高校生からの付き合いだったから、花巻や岩泉は彼女のことをよく知っている。だからこそ、余計に心配をかけているのだろう。
いつも通りに振る舞おうと、けれど気にかけてもくれる優しい友人に、自分がどれほど周囲の人間に恵まれているかを思い知る機会となった。
強めの力で叩かれた肩を摩りながら、安堵したような顔の友人に笑いかける。
そして、少しずつ少しずつ、自分の中であの子のいない人生を受け入れている自分を知る。あの子の死を、受け入れている。
それはとてもおかしなことだった。全然おかしなことではないと理解しているが、受容する恐怖は強く根底に絡みついて離れてくれない。
「晩飯食いに行かね?奢るぜ」
「ごめん、今日は行くところがあるんだよね」
「佐藤のとこ?」
「うん、名前の家。今日は詩織ちゃんも帰ってくるらしくて、一緒に部屋片付けようねって約束してたから。ごめん」
「ああ、佐藤の妹か。なら行かないとな」
「俺らはいつでも行けるしな」
「ありがと」
手を振って別れる。
外に出れば強い日差しが肌を焼いて、コンクリートを燃え上がらせる。ちかちかと吸い込んだ酸素が肺を焼き、服に吸い込まれていく熱が汗を吸ったせいでうまれた湿気を吹き飛ばす。
そしてまた、熱気のせいで汗が吹き出す。
この繰り返しだ、ずっと。
死後、水に浸かっている時間が長ければ長いほど遺体は膨れ上がるらしい。
見たことがないのだから分からない。
けれど、彼女が死んだ時「綺麗な方ですよ、顔も体も」と言っていた男は綺麗ではない、見れないほどの遺体を見たことがあるのだろう。
「名前、どうして…」泣き崩れる彼女の母親の声を聞きながら、俺はそんなどうでもいいことを考えていた。
色のない、熱のない、魂が抜け去った身体はもう彼女じゃなかった。ここにはもう、肉塊しかない。
涙は出なかった。目の前にあったモノは、抜け殻でしかなかったから。
「松川くん、いらっしゃい」
「あ!一静くん来た!入って入って、早く二階行こうよ」
「お邪魔します、今日もお願いしますね」
家の玄関も、家の中も、彼女の生前では見慣れることがなかったというのに今ではこうして、どこに何があるのかを把握してしまうほど頻繁に通っている。
もとより彼女の家族とは仲が良かったが、皮肉なことに彼女の死後、より一層仲が良くなった。
ごちゃごちゃと、理解できないことばかりに脚がもつれる。何故なのだろうと疑問に思うことが沢山あるのに、その疑問を言語化して理解して解決しようとするとふっと消えていく。
なんで俺は、彼女がいなくなってから、彼女の部屋に訪れているのだろうか。
そんなことも、二階に上がる頃には消えてなくなっている。留めておけないものに興味がなかった。
他愛のない話、思い出話。
俺が見ていた佐藤名前という人物とは違う一面を明かされるたび、これから知っていくはずだったのだろうかと重たくて苦い唾液を無理やり飲み込むしかできなかった。
そんなことを考えていても彼女は戻らない。
彼女の字で埋め尽くされる数学や古文のノートを紐でまとめていく。
「あら、こんなとこにテスト隠してる」
「見せて見せて!」
「名前ちゃん、頭良かったから点数低いのが許せなかったんでしょうね」
「本当だ、珍しいね。お姉ちゃんもこんな点数取るんだ」
「ふふ、プライド高いから悔しかったのね」
紙一枚で、彼女の性格をなぞらえて話すことができる。
丸っこい字、懐かしいな。
一枚の、変色している上に字も擦れて薄くなっている紙を三人集まって眺めた。
これを受け取った時、どんな顔をしていたんだろうな。
悔しかったんだろうな。だって、いつもは見て見てと嬉しそうに点数を見せびらかしに来ていたから。
ふふふ、と三人して笑った。目元が似ているまゆみさんと、声が似ている妹の詩織ちゃん。
なんで、今更名前の家族と仲が良いんだろう。だってここに名前はいないのに。
どうせまた忘れていく違和感。
縛り付けておくのも面倒で、冷房が効いているはずなのに吹き出した汗を服の袖で拭った。
ほら、もう忘れて行った。
「ノートと教科書類、まとめ終わりましたよ」
「ありがとう。やっぱり男手があると助かるわね」
「だいぶスッキリしたね、めっちゃ疲れたけどさ」
「あとは運ぶだけだから、もう今日は終わりにしましょうか」
意味もなく開いたノートの隅に描かれた落書きを見つけた。何となく取ったシャーペンの蓋、逆さまにしてみると大量に出てきたシャー芯に笑った。筆箱の中身には消しゴムがない。そういえば、なんて誰かが口を開いたら溢れる笑い声に、彼女は本当に愛されていたのだと何度も何度も確かめる。
綺麗になった彼女の部屋からは生活感がさっぱりと消え失せ、ベッドと机、それからぬいぐるみだけが鎮座している。
片付けのためにこの家を訪れるたび、綺麗になっていく部屋を見るたび、こうして彼女の部屋に来れるのはあと何回だろうかと数えた。彼女の思い出に触れることができるのはあと何回だろうかと指を折った。
きっと、今日が最後だ。
「松川くんも、今まで手伝ってくれてありがとね」
意識して出しているのだろう、優しい声が予感を現実へ変える。
やっぱり、今日で最後なんだ。
「いえ、俺がしたくてしたことです。それに、……手伝えて良かったです。心の整理がつきました」
「私たちも、随分と長い間ここの部屋に手をつけれなかったから。……松川くんがいてくれて良かった」
優しい目元は、彼女に似ている。
厳密に言えば彼女の目元がまゆみさんに似ているのだろうけれど、俺はこの先も、まゆみさんを見た時に彼女を思い出す。
名前に似た目元だなあ、と。
少しだけ困った笑顔で、名前の母親は「しんみりしちゃったね、一階でお菓子でも食べましょうか」と、俯いてしまった詩織ちゃんの頭を撫でた。
見慣れたリビング。
違和感。
座り慣れた椅子。
違和感。
聞き慣れた、まゆみさんがキッチンで作業をする音。
違和感。
嗅ぎ慣れた紅茶の匂い。
違和感。
最近好きになったお菓子。
違和感。
頭が茹っていく感覚は慣れない。
「どうぞ、いつも変わり映えのないものでごめんね」
「いえ、いつもすみません。ありがとうございます」
ここに、詩織ちゃんはいない。
触れないのは互いのためだと、暗黙の了解があちこちに線を引いてまわって、つま先が一ミリでも越えないのかを監視し合っている。
傷のつき方が違う。恋人と言っても結局は赤の他人の俺と、血が繋がっていて十数年共に生活をしてきたまゆみさんたちでは、傷のつき方も深さも違う。
同じ尺度で測り、比較したところで何も生み出さない。
だから、傷の舐め合いにはもってこいだったのかもしれない。恋人、友達に見せる顔をまゆみさんたちは知りたがった。
俺は、家族に見せる顔を知りたかった。
知らない彼女を埋めていって得られたのは、橋の下に浮かぶ彼女を鮮明に想像できるようになったことだけだった。
引き上げられた姿しか知らない。あそこには、汚濁した水とボウフラしかいない。彼女はいない。
俺の知らない彼女は、あそこにいる。橋の下に。浮かんでいる。俺の知らない場所で。
大きな大きな違和感。忘れていく。
飲んだ紅茶は、いつも通り美味しい。
紅茶なんて普段は飲まないけれど、彼女が死んでから飲むようになった。
また、違和感が食道をつたっていく。
「美味しいです、ありがとうございます」
「良かったわ。大学生の男の子に紅茶はどうかな、って思ってたんだけど…松川くんは優しいね」
「いえ。僕も、周りの奴らも飲みますよ、紅茶」
「あら、そうなの。最近の子はおしゃれね」
よく効いた冷房は汗をかいた肌の上をよく滑る。
寒いくらいの設定温度。
腕をさするまゆみさんが口を開く。「あの子はね」続きの言葉はきっと、とても暑がりだった、だ。
「すごい暑がりだったから、冷房の設定温度は低いし扇風機は独り占めするしで大変だったのよ」
一年経ってるのに、あの子に合わせたままの設定温度ねと寂しそうに笑った。
ほら、合ってる。みんなより少しだけ早く半袖になって、寒いくらいかかった冷房が丁度いいと笑う彼女は、確かにいつも体温が高かった。
ああでも、冷房と扇風機の方は知らなかったな。
下敷きで風を仰いでいるとハンディファンを貸してくれていたし、「あおいであげる」と大袈裟に腕を振って髪がぐちゃぐちゃになる程、強い風をくれるような子だったから。
「そうですね、確かに。……すごい、暑がりでした」
「ふふ、そうでしょう?」
和やかに、柔らかい時間が流れていく。
一年前では、想像できなかったことだ。
「もう、一年になるのね」
早いね、と音として紡がれなかった言葉の続きにただ首肯した。
早い。時の流れは、早い。
あと少しで、彼女の命日が来る。
「命日、都合がよかったらぜひ」
「もちろん行きます」
すぐに頷いて、即座に返事をすれば、まゆみさんが目を伏せて唇を硬く結んだ。
なぜなのか理由はわかっていた。
まゆみさんの今の顔は、……俺が家に来るたびに傷ついたように申し訳なさそうに俯く顔は、自分の母親のそれによく似ていた。
名前の家に行くと母親に伝えるたび「また、行くの?」傷に触れていいのか、どうやって関わろうか、どう伝えたら俺が傷つかないのかを慎重に慎重に考えているのが分かる顔。
前を向いて欲しい、もう忘れて欲しいと思っていることを分かっていたがそれに応えることはなかった、今までずっと。
「……松川くん、あのね」
この言葉の先を、俺は聞かなくとも分かってしまう。
「長いこと付き合ってもらって、本当に申し訳ないことしたと思っているの。……ずっと名前のことを思っていてくれるのはとても嬉しいことよ、もちろん名前自身もそう思ってるはず」
そうだろうか。
「だけどね、松川くんはまだ大学生よ?もう、充分してもらったもの。自分の人生を楽しまないとね」
一年だ。たった一年、彼女のことを考えていただけだ。
人生100年時代と言われる中でのたった一年、青春を共にした彼女に時間を捧げたところで何の枷にもならない。
けれど、周りは放っておいてくれない。
引きずっている、縋り付いているように見えるのだと言う。
「これだけ想ってもらえるなんて、名前は幸せ者ね」
太陽の下がよく似合う君は、そう言ってくれるだろうか。
死人に口はない、いくら家族といえども名前の気持ちは誰にもわからない。
慰めの言葉で気持ちが軽くなることはなかった。
「だと、いいんですけど」
四十九日の間、死んだ人は好きな場所に行くことができるという。それなら、ずっと俺の近くにいて欲しい。離れないで欲しい。そう願っていたけれど、きっとあの子はどこにも行っていない。
橋の下、太陽に光が当たらない橋の下で、自分の死体を見つめていたんだろう。
あの日以降、名前の家に行かなくなった。
名前の家に行くことが無くなると、それに比例して彼女のことを思い出す時間が次第に減っていった。
時間とは有限で偉大だ。
埋まらないと思っていた穴は埋まっていく、忘れたくないと思っていても忘れていく。あれだけあの子の死を受容する恐怖に身動きできなくなっていたというのに、名前の思い出に触れる機会が減っただけで簡単にその恐怖から抜け出すことができた。
そんなものだと理解している自分が、無理やり埋まった穴をぼんやりと眺める。
違和感。
命日は、来週の今日だ。
「最近佐藤の家行ってねえの?」
「ああ、うん。もう片付け終わったから。……そろそろ前向けって言われちゃったんだよね」
「そうか。ま、自分のタイミングでいいだろ」
ふ、と軽く笑う岩泉の顔を久しぶりに見た気がした。
あの家に行かなくなって、彼女のことを思い出す時間が減って、そうなれば必然と周囲に目が向くようになった。
蝉が鳴いてると呟けば、気がつくの遅えよと笑われる。
陽炎が揺れる。真っ白な入道雲が、青い空を覆い尽くす。蝉が鼓膜を揺らした。
夏なんだ、今。
彼女が死んで迎える初めての夏。
「なあ、高校行ってみようぜ」
花巻のその誘いに二つ返事で乗った放課後。
懐かしい校門をくぐり、懐かしい校舎を見た時に制服を着た名前がいるように感じてしまうのは、まだ心のどこかで佐藤名前という女の子を生かしているからだろう。
……生きてないよ、死んでる。あの子は、一年前に。
ゆっくりと静かに自分の中に落とし込む。落とし込めば、じわじわと液状化していくアイスみたいに制服姿の名前が消えていく。
「本当、懐かしい」
「な。言っても卒業して半年経ってないんだけどな」
下駄箱。
グラウンド。
体育館。
名前が死んでから卒業するまでの間、自分がどうやって学校生活を送っていたのかを思い出せないけれど、あちこちに彼女との思い出が転がっている。
思い出として、思い出すことができている。
弾けた花巻の笑い声につられた口角が上を向く、楽しい。懐かしい。
「体育館行こうぜ、今練習中だろ」
「いいね、行こうか」
足を踏み出して地面を足底で強く感じれば、今、名前のことを綺麗で大切な思い出の状態へ昇華できたように感じた。
…………のに。
「松川先輩!」大きな声で呼ばれた自分の名前。同じ苗字の違う人間を呼んでいるのかもしれないが反射で振り向いてしまった。
きっと、横にいた花巻も同じだったのだろう。
振り向いて、「佐藤、?」思わず溢れた花巻の声を遠いところで聞いていた。ずっとずっと遠い所で聞いていた。
「違う」
違うよ。
名前は死んだんだよ。
笑顔で駆け寄ってくる、名前も顔も知らない女の子。
「誰、君」
橋の下、ぷかぷか浮かぶ君は、最期に何を見たのだろう。
「一静」
快活でよく笑う名前の声はよく通った。
名前がいれば空気が明るくなって笑い声が飛び交うから、教室が違ってもどこにいるのかなんて大体わかる。
陽の下がよく似合う。太陽がよく似合う。夏がよく似合う。
「私ね」
浮かぶ。
じめつく粘稠した空気。
笑顔がだんだん影で見えなくなっていく。
「本当は」
ボウフラが浮かぶ。
陽の光はない。
太陽の光はここにはない。
浮かぶ。
カビの臭い。
あの子の、身体。
浮かぶ。
冷たい台に横たわる名前は知っている。
棺桶の中で、綺麗に化粧を施してもらって綺麗な服を着て綺麗な花に囲まれている名前は知っている。
熱なんてあるはずのない頬は、あたたかい気がした。
俺が知らないのは、名前の体から魂が抜けた瞬間だけ。
「松川」
難しい顔をした花巻が、眉間に皺を寄せていかにも不満ですという表情を全面に押し出し、訴えてくる。
またか、とややうんざりしてしまうのは何度言っても話が噛み合わないからだ。
あの日、母校に顔を出してからなんでか、名前も顔も知らないあの女の子を俺が誑かしてると思われているらしい。
多分それは、あの女の子が名前と似ているからだと思う。どこが似ているのかはわからないが、似ているのだと。まだ名前を引きずっている俺が、名前の代わりに利用しているのだと。
そう思われても、仕方ないのかもしれない。
だって、俺は今でも名前が好きだから。
「松川、あの子は佐藤じゃない」
「分かってる」
「分かってねえだろ」
「分かってるって。恋人にはなれないって言ってるし、まだ名前のことを忘れられないからって伝えてある。それなのにしつこく迫ってこられて、こっちが困ってんだよ」
運命だと思ったんです、だって。
初対面の時に、小さな手が俺の両手を包み込んでそんなことを言うものだから思い切り振り払ってしまった。
ばちん。
ボウフラが浮かぶ。
「松川、先輩?」
命を一つ殺した。
自分の血液を吸い取られることに対する怒りは、あの日から消えない。
──は、と時間の流れが頭を揺さぶり起こしてくれる。
太陽の下、暑い暑い日差しが肌を焼く。
太陽の似合う彼女は、ボウフラが浮かんで、命を殺す俺はあの日からぷかぷかと漂う水面に重力を感じなくて、怒りが湧いた。
熱気は肺を焼く。
気管が熱くて、溺れていく。
「……なに?」
「私、何度でも言います。松川先輩が好きです。いつか私のことを好きになってもらえるように頑張ります」
喘ぐように絞り出した後の返答は、笑ってしまうほどまっすぐで、暑苦しかった。
夏の日差しみたい、暑苦しいね。
鬱陶しいね。
ああ、本当に、……彼女には夏が似合う。
いつか、と言うがいつになるかはわからないのに適当なことを言って大切な時間を消費するのは若気の至りだろうか。
若いな、と思う。でも、それを言ったら自分も若いということになるのだろうか。高校生の時に付き合った名前をわすられないのは、若いからなのだろうか。
「花巻、松川は佐藤とあの子を重ねたりはしねえだろ。落ち着け」
「…………俺、……ごめん、松川」
「いいよ。この一年心配かけたし、そう思われても仕方ないでしょ」
「違う、俺が勝手に、……頭冷やしてくるわ」
「おーおー、行ってこい行ってこい」
しょんぼりと肩を落とした花巻の背中に、岩泉が声をかけた後、俺の顔を見て笑う。
「あいつ、最近お前のことばっか気にしてんだよ。……ま、最近じゃねえか。一年前からな。花巻、佐藤とお前が付き合った時一番喜んでたんだよ。だから余計にな」
恩着せがましく感じないのは、岩泉の人柄故だろうか。
さっぱりとした口調にふ、と笑みが漏れて「ごめん、ありがとう」「謝んなよ」「そうだな、さんきゅ」変わっていない友人の優しさ、戻っていく日常に胸の内がくすぐったい。
「それにしても、その子があんまひでえようなら言うか?」
「いいよ。どうせすぐ飽きて他の男のとこに行くでしょ」
「そうには見えないけど」
「だとしても、俺はまだ名前のことが好きだしあの女の子には興味ないから」
「惚気かよ」
今は、他の女の子と付き合うとか考えれないけど、ずっと名前だけを好きなんて、そんなことを言い続けるほど子どもにはなれない。
彼女は死んでいて、どんなに頑張ってもどれだけ思っていても戻ってくるわけじゃない。
わかっている、理解した上で今でも名前が好きだ。彼女のことを考える時間が減っていっても、戻ってこないとしても、名前が好き。
────ばちん。
頭の片隅、意識の外側でぷかぷか浮かぶ。
じめついた空気が、肌を撫でた。
同じ夢を見る。
明晰夢だった。意識は明瞭で、自分の形を捉えている。
「一静」
快活でよく笑う名前の声はよく通った。
名前がいれば空気が明るくなって笑い声が飛び交うから、教室が違ってもどこにいるのかなんて大体わかる。
陽の下がよく似合う。太陽がよく似合う。夏がよく似合う。
「私ね」
浮かぶ。
じめつく粘稠した空気。
ボウフラが浮かぶ。
陽の光はない。
浮かぶ。
カビの臭い。
あの子の、身体。
「本当は」
浮かぶ。
「松川先輩!」
「……誰だっけ、君」
「酷いです、前学校で会ったじゃないですか!」
「そうだっけ」
そう言われたらそんな気がしてくるが、思い出せないものは思い出せないしわからないものはわからない。
じやじわと首筋に汗が浮かんでいくのがわかる。鬱陶しくて、ただひたすらに不快。
強い日差しに手のひらを翳し、制服姿の女の子を見つめた。
タイミングが悪く、今は花巻も岩泉もいない。俺一人だけ。舌を打ちたいのを我慢して、額に滲む不快な汗を乱暴に拭った。
「あの時の返事、考えてくれましたか」
「返事?」
「私と付き合ってくださるかどうかです」
「ああ、」あの子か。
「それさ、言ったけど」
「私も言いましたよね」
被せられた声は夏の日差しみたいに強くて、息が詰まる。
暑い。
「何度でも言います。松川先輩が好きなんです」
反吐が出そうだった。人から寄せられる好意というものは、こんなにも気持ち悪いものだったろうか。
苛立ちが止まらないのは、暑い夏のせいだからだろうか。それとも、名前が死んだ季節だからだろうか。それとも、名前を忘れて自分を好きになれと迫られているからだろうか。
「俺も前に言ったと思うけど、名前のことがまだ好きだし今は他の人と付き合うことは考えてない」
「今は、ですよね」
「大体、名前のことがなくても君を好きになるかなんてわからないよ」
「一静」笑う顔が、すごく好きだった。髪の上を光がするする滑るから、無意識に頭を撫でていてその度に恥ずかしそうに俯くところが可愛かった。いつも明るくて笑顔ばかりなのに、俺の前では困った顔、泣きそうな顔、恥ずかしそうな顔、色んな顔を見せてくれるのが嬉しかった。
目の前にいる名前を覚えれない女の子が着ている制服。その制服を身につけている名前のことなんて、すぐに思い出せる。
可愛いんだ、すごく。
好きなんだ、今でも。
「名前のこと、すごく好きなんだ。付き合う前も付き合ってる時も、もちろん今も。ごめんだけどさ、君のこと全然興味も湧かない」
溶けていく。
死んだから。
あの子はもう、生きていないから。
言ったことは本心で、一つとして嘘なんかついていない。暑くて、いつもより余裕がなかった。だから普段は選ぶ言葉も口調も、遠慮がないものになった。
これで怒るなり傷つくなりして俺に対しての好意なんてすり潰されればいい、高校の制服を見るのはうんざりだ。好意をぶつけられるのも、鬱陶しくてたまらない。
早く日陰に入りたい。早く涼しいところに行きたい。
「それでも」顔を上げた女の子の目は、傷ついていなくて腹の奥底が茹だりそうだった。
「それでも、いいです。ずっと前から松川先輩が好きでした。松川先輩は覚えてないと思いますが、私、同じ中学校なんです」
「へえ、覚えてないな」
「はは、そういうところも好きですよ」
俺は全然、君のこと好きにならないしなれない。
「じゃあさ」翳していた手のひらを体の横に垂らし、前へと足を進めた。
暑い、耐えられない。
慌てて後ろをついてくる女の子を見向きもせず、木陰に入った。
蚊が、飛んでいる。
「じゃあさ、君が俺に飽きるまで何回か一緒に出掛けようよ」
「!本当ですか!」
「ただ、約束を守れるなら」
「なんでもします!」
ばちん。殺した命を地面に落として、苦笑い。
本当、若いね。
ひとつ、俺と会っていることを誰にも言わない
ふたつ、喋りかけない話しかけない
みっつ、恋人にはならない
提示した条件に対して不満はあれど拒むつもりはないのか、苦々しい表情で三つの条件を飲み込んだ馬鹿な女の子と、名前と行った場所を巡った。
カフェ。海。美術館。女の子は最初から最後まで口を開くことはない。
思い出の場所を巡れば、この違和感の正体がわかるかと期待したが、名前の笑顔と声があちこちで弾けてじわじわ消えていくだけだった。
違和感の正体は、名前の家にばかりあると思っていたから、彼女の家に行かなくなった今でも留めることのできない違和感が転がる現状はなんとなく、居心地が悪い。
埋まった穴、受容した彼女の死。
彼女の死に姿が鮮明に浮かぶ。
ぎしり。ベットが音を立てる。
「名前」
好きだよ。今も。
目の前にいる、名前じゃない女の子を彼女の名前で呼ぶ。
初めては松川先輩がいいと、名前さんの代わりでいいからセックスして欲しいと強気に交渉してきた女の子の家にいて、部屋のベットの上で、ただ形だけのセックスをしている。
キスも、セックスも、心が無くたってできる。
そういうものだ、男も女も。
もう、幾度となくセックスをした。何回もこの場所で。
けれど部屋に何があるのか、どんなレイアウトなのか覚えられない。興味がない。
「名前、っ」
「あんたって、合理的で理性的だから名前ちゃんのこともすぐ受け入れんのかなって思ったけどそうじゃないの、なんか意外だった」悪い意味じゃないわよ、良い意味。
そう言って笑う姉が、「名前ちゃん、私も好きだったよ」と、長いまつ毛を伏せて震える声を出しているのを思い起こす。
自分でも意外だった。人に言われるくらいだ、自分のことなんて自分がよく理解している。
腰を振る。得られる快楽よりも脳内で再生される姉の言葉と、自分の性格を照らし合わせながら彼女の名前を呼ぶ。
目の前のこの女は名前じゃない。分かっているけれど、確かめるように呼ぶ。
呼んだところで、自分が脳みそを丸ごと騙してあたかも目の前に名前がいるように思い込むのは到底無理なことだと知っている。理解した上での行為だ。
「ぃ、っ……は、」
「は、名前、名前……」
好き。好きだよ、ずっと。
これからも、は保証できないけど、今のところずっと好き。
名前じゃないと分かっていてもバカみたいに名前を呼んで、重ねれもしないくせに思い込めもしないくせに名前とのセックスを思い出しながら体を重ねる。
年齢より上に見えるのは、容姿だけが理由じゃない。同年代よりも落ち着いた言動が上に見せているんだと、周りから言われる。自覚はある。
けれど、今ここにいるのは、今ここで無駄な体力を使って無駄な時間を消費している自分は、高校生の時に付き合っていた大好きな彼女との記憶に触れたいだけのただのガキだ。
「名前……っ、」
わからなくなる。今、自分が何をしているのか。
それが言語化できないような不快さを伴って、脳みそを侵していく。
理解している自分。理解したくない自分。
受け入れている自分。受け入れたくない自分。
もう少しで、夏が来る。
去年よりももっと、名前のことを過去にした自分で夏を迎えるのだろう。
「はー、疲れた……」
行為後、眠る女の子を気にかけることなく最低限身を整えてから家を出る。
何度来ても慣れない家から解放されると、肩の荷が降りる。
激しすぎない、丁度いい運動による疲労は体と心を落ち着かせてくれた。
空を見上げると陽が、傾いていた。
じわりと汗をかくと夏が近いのだと、実感する。
夏。
湿気が多くてじめつく夏。
きっともう少ししたら、ボウフラが浮かぶ。
蚊が、飛び始める。
「……名前、」
いるかな。あそこに。橋の下に。
引き寄せられるように、足が彼女の死に場所へと向かっていく。
汗を拭う。
長くなった影を踏む。
橋の下。じめついた空気を肺にいっぱい吸い込んだ。
流水のない川のほとり、汚濁した水が同じ場所にとどまっていた。
浮かぶ。
「一静」彼女の笑顔。
浮かぶ。
「……あ、」
そういうことか。
何かが腑に落ちた。
俺は、まだ知らないことがある。
いつもは消えていくだけの違和感が、動きを止めてじっとその場に留まった。
埋まっていない穴がある。
知らない名前がいる。
「そっか、そういうことか」
あの子はまだ、ここに浮かんだままだ。
夏が来た。
蝉が遠くで鳴いている。
「ここ、名前が死んだ場所なんだ」
喋るなという約束を律儀に守っているせいで音もなく声もなく、女の子が驚いているのがわかった。二人で出かけている間、そこに会話はなかったからだ。女の子は喋らないという約束を守っているし、俺は俺で名前も顔も覚えれない女の子と話す気などさらさらなかったから、会話がなくて当然の環境だった。
だというのに、俺が女の子に対して話しかけたから、だから驚いているのだろう。
橋の下。太陽の光が当たらない場所。
流水が乏しい。
より一層じめつく空気が肌を嬲る。
「名前、元気いっぱいの明るい子でさ。だからこんなじめついた太陽の光も届かないような場所がにあわないなって思った」
あの日から、ここに浮いてるあの子を想像する。
「でも、もしかしたら俺の知らない名前はこういう場所が好きだったのかもしれない」
暑い夏がきた。
あの子が死んだ夏。
俺の知らない所で、俺の知らない間に死んでいた。
最期に見たものは?何を考えていたの?
まだ、知らないことがある。まだ、埋まっていない穴がある。違和感が留まる。
大きく見開かれる目に、無表情の自分がゆらゆら揺れている。
首を傾げて、たしかめるように声を出した。
「好きな子の最期、俺は見れなかったんだよね」
それって、とても悲しいことだと思わない?
暑い夏。
彼女の命日は、彼女の思い出をいろんな人と共有する大切な時間だと認識した日だった。
「自殺したんだって」
あの子と同じ。
ぷかぷか浮かぶ。涸れ川にボウフラ。
橋の下は昼でも暗いから顔がよく見えないのだと知った時に、ぷうんと蚊が飛ぶ。
「名前」
君の考えていることが、少し分かった気がするよ。
「名前、」
顔を隠す髪の毛をそっと避けて頬に手を添えてみれば、冷たい体温が彼女はもうここにいないのだと教えてくれる。
「好きだよ、ずっと」
穴が埋まった。
違和感はさっぱり消え去った。
この日から、彼女の死に姿を想像することは無くなった。
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