我妻善逸
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草木が芽吹き、花が美しく咲く。生命に溢れるこの季節は、何度通っても輝かしくてたまらない。
団子を頬張る善逸に、名前は話しかけた。
隣には、いつだって自分には眩しくて仕方のない存在がいるのだと彼女が気付いたのは、彼と過ごす初めての春のことだ。
「善逸、知ってるかい?昔はね、一年を二十四に分けていたんだよ」
「へえーー。そうなの?」
「ああ。一年間を冬至、夏至、春分、秋分の四つに分けて、またさらにそれぞれを六つに等分すると二十四になるんだ」
「ふうん?」
「あ、興味ないな、お前」
「だって、難しいことは分かんねえもん」
途端にぶはっと笑う名前を見て、善逸は眉を寄せた。
そんな笑わなくたっていいだろ。これだから顔がいい奴は……。
そっぽを向いてしまった善逸に、彼女は未だに緩む口元をそのままに「善逸」と彼の名前を呼んだ。
穏やかな音。穏やかな声。
名前と出会ってまだ一月ほどしか経たないが、彼女はいつも春陽のように穏やかだった。出会ってから、ずっとそうだった。
「善逸と出会ったのは確か、金木犀の香りがしたころだったなと思い出したんだ。あの時は秋分で、今の季節は清明って言うんだよ」
「へえ、綺麗な名前だね」
「ふふ、そうだろう」
善逸の言葉に満足げに笑い、頷くと、名前は「金木犀の香りが懐かしいなあ」と迚も焦がれるような声色で呟いた。
善逸と名前が出会った季節。
遠くても、どの花より匂いを運ぶ金木犀の季節。
善逸は指を折り、彼女と出会い共にいる時間を数えてみた。
半年は、経っている。
時間が過ぎる早さに驚き、それと同時に彼女とそれだけの時を共にいるという事実に、かぶりついた団子がより美味しく感じた。
「さあて、私、今日は少し遠い地の任務だからそろそろ行くね」
「ええ、行くの?俺を置いて?本当に?」
「生きて帰ってくるから、大丈夫。帰ってきたら連絡するよ」
立ち上がった名前を見上げ、善逸は微かに潤む目をそのままに、笑う彼女から目を離さない。
泣いてなんかいないのに、優しく目尻を親指の腹で撫でられると文句の一つすら出てこなくなる。一緒に行きたい。けれど、怖い。死にたくない。でも、名前が死ぬのはもっと嫌だ。
矛盾ばかりの心が、どくどくと動く。
それに、きっとついて行っても強い彼女の邪魔になってしまうだけだ。
こんなにも生命に溢れる季節なのに、こんなにも死に近い。
どれだけ花が咲き乱れようと、柔らかな日に当たろうと、善逸達は死に近い場所でもがいている。
「……行ってらっしゃい。あの人、人使い荒いんだから気を付けてよ」
「ふふ、師範はそんなに人使い荒くないよ。大丈夫。大丈夫だよ、善逸」
目尻を未だに撫でる指を取り、自分のに絡めた。行かないで欲しい。ずっと、ずっと、自分の側から離れて欲しくなかった。
ぎゅっと一度だけ強く握ると、ゆっくりゆっくり離した。
二人でいる時はあんなにも暖かくて、嬉しいのに。逃げることのできない任務が伝えられる度に、今生の別れをどこかで考えている。
名前は、沈んだ善逸の様子に困ったように眉を寄せて、出来る限り善逸が安心するようにと明るい声を出した。
「ほら、何暗い顔をしているの。私は風柱の継子だよ、そう簡単に死にません」
「……うん」
「美味しいもの、食べに行こうね。じゃあ、行ってきます」
手を何度か振ると、背を向け歩き始めた名前の背中を見つめて、残り一つの団子を口に放り込んだ。
「……美味しくない」
名前の背が見えなくなるまでの間、彼女との出会いを善逸は思い出していた。
金木犀の香りと、ああそういえば、彼岸花が咲き乱れていた気がする。
「君、我妻善逸?」
出会いは、語るほど大したことがないものだった。
宇髄さんとこで、ちょいとお世話になったことがあってね。君のことよく話で聞いていたんだと笑う、自分と同じ歳の髪の短いその子がゆらゆらと揺れた。
秋分が終わりを告げる、夕暮れ時だった。
「そ、そうだけど……。君、誰?」
「あ、ごめん。先に名乗るべきだったね。私は椿名前っていうんだ。風柱のとこの継子をさせてもらってるよ。宜しくな」
軽々しく、図々しく勝手に自己紹介を始める彼女に最初は頭を抱えた。
男か女の子か分からないような、けれど迚も綺麗な顔をした名前と名乗る人。
女の子といえば女の子に見える。男といえば男に見える。
……うん、どっちだ。
難しい顔をしている善逸を見て、何を考えているのかわかった名前がからからと笑う。
彼女にとって、男か女か間違われるのはよくあることだ。
「女だよ。こんななりしているがね」
「……綺麗な顔、してるんだな」
「そうかい?照れるなあ、ありがとう」
「……ふっっっざけんな!!!なんだお前!!!」
「えっ」
短い黒髪が、艶やかに揺れる。
善逸よりも、少し高い位置にある肩。
綺麗な顔を睨みつけ、善逸は宇髄天元を思い出していた。
あいつといい、こいつといい、なんなの。
綺麗な顔しやがって!!!!
初対面にも関わらず、名前に善逸が掴みかかったのは、金木犀が香る秋分のある一日のことだった。
今でも、金木犀の香りが忘れられない。
今も偶に思い出して、不思議になる。初対面で突っかかってしまった俺が悪いけれど、あんな絡み方をしてよく嫌われなかったな……。いや、本当に思う。よく嫌われなかったな……。
名前の姿が見えなくなってしまった町に、ため息をついた。
名前は戻ってきてくれる。生きて、帰ってきてくれる。
善逸は何度も何度も自分に言い聞かせて、その言葉を飲み込むと、団子の上に乗っていた餡子の味がした。
「……帰ろ」
一人で帰る。
二人で来たのに。
隣に、名前はいない。
初めは隣にいたのに。
追いついた背丈に、どれほど喜んだかあいつは知らないのだろうなあ。
目を閉じて、どんなに耳を澄ませても聞こえない名前の音に少しだけがっかりしたが、優しく木々の葉を揺らす風、擦れ合う葉や揺れる花、楽しそうに笑う人の声が、善逸の耳に触れる。
清明。清く、明るい季節。
命を降り注ぐ太陽が、一番優しく慎重になる季節。
だから、こんなにも和やかなんだね。
思い切り、息を吸った。
なんだか、なんでだろうね、涙が出た。
別れてから、十日後に名前は戻ってきた。
突然、ひょこりと現れて善逸を驚かせる。
善逸の耳の良さをすり抜けて、彼女はいつの間にか彼の目の前に来ては「やあ、久しぶり。帰ってきたよ」などと宣うのだから、感動の再会になるはずも無い。
会えた喜びも、会えなかった期間の寂しさも善逸から全て吹っ飛んだ。
「あのさ、連絡するって言ってたよね!?!?」
「いやあ、師範から逃げてきたからそんな暇なかったんだよ」
「えっ、何したの」
「色々あってね。……さて、どこか行くにはちと遅いな。お話しないかい?」
「いいけど、……えっ、話逸らした?」
「この前の話の続きしようよ」
「えっ?」
名前は、風柱の継子だ。
馬鹿にされないように、継子として舐められないように、髪を短く切って伸ばさない。いつも背筋を伸ばし、しゃんと前を向いている。任務の話は一切しない。辛い、しんどい、苦しい、悲しい、と彼女の口から聞いたことがない。涙を、見たことがない。
いつも穏やかだから、風柱の継子だなんて、最初は信じられなかった。怖い印象しかない彼の継子?本当に?嘘だろ。そう思った。
けれど、実際、彼女は風柱の継子だ。迷いなく、力強く放たれる剣筋は明らかに風の呼吸のそれだ。
弱音を、苦しさを、何も分けてくれない。それが、ひどく寂しくて仕方がない。
十日ぶりに見た名前の顔は、傷だらけだった。嫁入り前の女の子なのに、と叫び出したい気持ちに駆られたが、──実際、駆られて叫んだこともあったが、名前は名誉の傷だと笑うだけだった──名前は、気にもしないのだと思う。
今回は、激しい闘いだったのだろうか。
聞きたいことをぐっと飲み込み、惚ける名前に手を引かれるまま縁側にことりと座る。二人の間にあいた掌一枚分には、善逸の恐れが座りこんだ。
踏み込みすぎたら、嫌われてしまうのではないかという、善逸の恐れが。
人の感情に敏感である名前は、二人の間にある掌一枚分に気がつくと、ゆっくりと腰を上げて座り直すことによって埋めた。
「善逸、大丈夫だったろう?私は生きているよ。いつもお前は気にしているけど、いつ死ぬか分からないのなら、なるだけ笑顔でいたいんだ。だから、そう気にしないで」
「……お前は、いつも、何も言わなさすぎなんだよ」
「そうかなあ。善逸には、色んなことを喋っている方だけど、足りない?」
「足りない。……もっと、名前が背負ってるもん分けて欲しい。俺、お前が大切なんだ」
びっくりしたことで吹っ飛んだ諸々が、ゆっくりゆっくり戻ってくる。会えて嬉しい。生きてて、良かった。でも、でもね、寂しかった。こうして、いつもこさえた怪我を見ることしかできない自分が酷く、不甲斐ないのだと思い知らされる。
こんなにも、愛おしくてたまらないのに。
大切で仕方がないのに。
朗らかに笑う名前の眉が下がった。
「泣かないで、善逸。ごめんな、ごめん。違うんだよ。お前といる時はいつも楽しくて、嬉しくて、任務が辛いことも苦しいこともどうだってよくなるんだ。善逸が私に笑いかけてくれるだけで、全部全部、我慢できるんだ」
俯く善逸を下から覗き込み、両頬を包んで涙を親指で拭う。
ぼろぼろと流れ続ける涙に、名前は益々眉毛を下げた。
すると、ぱらぱらと雨が降り始めた。
優しい雨音がする。
ああ、気が付けば季節が変わっていたのか。
「ぐずっ、そんなこと言われても、ぜっだいほだざれないからな!おれだっで、名前といると嬉しくてじがだないのに、なんで、なんでだよおおお」
「わっ」
腕を引かれると、善逸の腕の中でぎゅうぎゅうと抱きしめられた。
ぐすぐす泣きながら、名前の首筋に頭を擦り付けて、回した腕の力を強くする。
あったかい。穏やかな音。名前の音。
寂しくて仕方がなかったから、名前が言っていた二十四節気を調べた。涙まじりの声のまま、善逸は「今は、穀雨っていうんだろ」と呟いた。
優しい春の雨が降る季節。
皆が田畑の準備をする季節。
そうだよ、お前がいない間に季節は変わっていたんだよ。
「そうだよ。ふふ、調べたの?」
「……そうだよ、調べた」
「ほらほら、そろそろ泣き止んで」
「このまま、抱きしめさせていてくれるんだったら、考える」
「仕方ないなあ。いいよ」
仕方ないだって。名前、全然仕方なさそうじゃない。寧ろ、喜んでる音がする。
ぱちぱちと弾ける雨音は、青く萌える山々を想像させた。
「またもう少ししたら立夏になる。夏に入るね」
「立夏の次は、小満だろ?それから芒種、夏至、小暑、大暑」
「そうそう。そうしたら秋が来る。立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降」
「冬が来たら、立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒で一年が終わる」
「よく覚えてるね、善逸。凄い」
「ふふん。凄いでしょ」
「うん、凄いよ」
凄いね。凄いよ。
この時だって、名前はゆったりと太陽の光を一心に受けて輝く海のように、綺麗で美しい音をさせていた。
「好きだよ、善逸」
「俺も、好き。名前のことが、好き」
ああ、なんて、幸せなのだろう。
爽やかな風が吹く。
緑が萌える。
振り向けば、名前がいることで、善逸は胸が踊った。
嬉しくて嬉しくて、吸い込んだ空気を肺一杯に溜め込んだ。美味しい。美味しいなあ。君がいるだけで、空気が美味しくなるんだ。
柔らかな眼差しを向けられて、完成した花冠を彼女の頭に乗せた。
「名前、どうぞお」
「ありがとう。善逸は本当に花冠を作るのが上手だなあ。ふふ、ほら見てご覧。私の花冠はぐちゃぐちゃになってしまった」
「風柱の継子様もできないことがあるんだな」
「はは、そりゃあね。ちっぽけな人間だからねえ」
剣を握っていない名前の手は、何故だか小さく見える。
確かに、彼女が作った花冠の出来栄えは上手とは言えない。それを手の中に落ち着かせ、じっと見つめる名前が、どこかに消えていきそうだった。
鍛錬を欠かさず、厳しい任務をこなし、弱音を吐かない彼女が手にした力。最高位の柱に見染められた剣の能力を持ちながら、彼女はまだ力を欲していた。
名前は、炭治郎のように、鬼殺隊の多くの人のように、大事な人を亡くした訳ではない。
善逸と同じく、捨て子だった。
家族を知らない。
愛情を知らない。
善逸は、震える手で名前に抱きついた。
「名前、俺が花冠の作り方教えてあげる」
「?ありがとう。ふふ、善逸は教えるのが上手だからなあ。宜しくお願いします」
「任せろって」
爽やかな風が吹く。
緑が萌える。
お前が隣にいてくれるだけで、私は幸せなんだよ。
夏が始まるね。
「善逸、幸せだね」
「……うん。幸せだな、名前」
自分が作った花冠を頭に乗せ、ゆらゆらと揺らめく愛しい人の笑顔の美しさに、胸が詰まった。
絡めあった指先には、確かに愛があったんだ。
ぐずりと、鼻が鳴る。
涙が止まらない。
二日経っても目を覚さない名前が横たわる布団から、動けなかった。目を瞑り、眠っている。何度も何度も、呼吸をしているか確かめたくて耳をすませた。
彼女の師範である不死川実弥曰く、ヘマしたらしい。どんなことがあってこんな重症になったのか、聞いても名前は教えてくれないのだろう。
「ゔゔっ、名前、起きてよお……」
小満になったんだよ。
花が迚も綺麗で、散歩するのが楽しいんだよ。
ねえ、一緒にお散歩しようね。
べそべそと泣く善逸が、名前の手を握る力を強めた。
泣いてばかりいる。
彼女のそばにいると、自分は泣いてばかりだった。
名前は、笑ってばかりだというのに。
「ん、……あれ、ぜんいつ?」
「!名前っ、そう、善逸だよ!やっと、やっと起きた……!!!起きて良かった、良かったよおお」
仰向けの名前に抱きつき、おいおい善逸が泣くと彼の背中に名前が腕を回してぽんぽんと優しく叩く。
大丈夫。大丈夫だよ。
何も大丈夫じゃないのに、彼女は優しくそう言う。
「名前、お散歩しようね。ぐずっ……美味しいもの、食べに行こうね。二人で、いたいよお」
「うん、うん。行こうか。善逸がしたいこと、私もしたい。善逸が食べたいもの、私も食べたいなあ。私も、善逸と二人で時間を過ごしたい」
「そんなに泣いてばかりいたら、いつか目が溶けてしまう」と、善逸が泣く原因が言う。お前のせいだ、馬鹿野郎。そう言いたかったのに、うっかり飲み込んだその言葉が、もう口からは出てこない。出てこなかった。
代わりに、善逸は包帯だらけの名前の頬をそっと撫で、唇を落とした。涙の味がする。
額を合わせて、唇を離すと名前が善逸の頬を掌で包み込んだ。ぽたりと、彼の涙が名前の目の近くに落ちる。
小満になったね。
小満は、太陽の光を浴びて、命が満ちる季節って言われているんだ。
こうして、お前が手を握ってくれるだけで、私の幸せは手から溢れるほど増えるんだよ。
傷だらけの掌が、普通の女の子とは違う、かたくて傷跡ばかりの指先が、善逸の頬を、目尻を撫でる。
「名前、好きだよ。好き」
「私も、善逸が好きだよ。愛おしくて、たまらないんだ」
太陽の光を浴びて、命が満ちる季節、小満。ああ、だけれども、どうしたって名前達は太陽の光を浴びようとも、死が満ちる夜で足掻くしかなかった。
夜が光を飲み込む。
こんな世界、全て夢ならばいいのにね。
梅雨に入った。
このごろずっと、雨が降っている。
一年で一番昼が長くて、夜が一番短い日。
雨の音。雨が地面に落ちて弾ける音。水溜りの一部になる音。耳を澄ませて聞こえてくる音を楽しみながら、名前の足音を探す。もうそろそろで、帰ってくる筈なんだ。
善逸は、巡る二十四の季節の移り変わりをいつの間にか楽しんでいた。季節が変わるたびに彼女に会えることを期待して、夏が始まると美しく萌える緑に目を張り、芒種になり農家が忙しなく田植えをする一面に広がる水田を眺め、梅雨入りすると雨の音を聞いた。
「夏至だあ」
「夏至だね」
「…………はっ!?!?名前!?!?」
「名前だよ。それはそうと善逸、腕の具合はどうだい?」
「だあから!!!!……はあ、もういいや。痛い、凄い痛い」
「ん、大丈夫そうだな」
「どこがだよ!!!?」
「善逸、元気そうで良かった」
伸びた善逸の髪の毛に指を通し、ふふふと笑う。相変わらず短いままの名前の黒髪が、揺れた。
耳が良い筈なのに、何故名前が来ることに気が付かないのか。善逸は、またひょっこりと現れた名前に考えるだけ無駄だと、思考を放棄することにした。
それに、今は嫋やかに微笑む彼女を見つめていたい。
「久しぶり、だな。……怪我、してない?」
「ああ。この通りさ。この頃何かと任務が入ってしまってね。一緒にいる時間が減ってすまない」
「……寂しかった。腕痛いし、全然、……会えなかったし」
「私も、寂しかったよ。善逸が怪我してるって聞いたから、急いで帰ってきたんだ」
「ぇ、」
何もなくて、よかった。
元気そうで、良かった。
任務が終わると、すぐに任務が入るの繰り返しをして欠伸が止まらなくなった頃、知らせは来た。頭が真っ白になった。耳がキーンと鳴る。
駄目だ、それは駄目だ。引っ掴まれた心臓が痛くて、思わず壁についた手が震えていて笑ってしまった。
失いたく無いものなんて、作るべきじゃあない。失いたく無いものなんて、無かった。皆に、周りの人に馴染めなかったから、ただ剣の才があったから、ここにいる。本当は、本当はね、善逸。全部全部、どうだっていいんだよ。誰が死んだって、喰べられたって、泣き叫んだって、どうでもいい。私はここにいる人達のように、誰かの為にと生きていくことはできない。ただ居場所がなくて、それでも生きていくために鬼の頸を刎て給金を貰っていただけ。
とんだ薄情者だ。
なのに、なあ。宇髄さんからお前の名前が出てきて、話を聞いたら会ってみたくて仕方がなくなったんだ。そうしたら、お前がいた。きいろい頭が嬉しそうに揺れていたから、思わず覗き込んだ先で善逸が美味しいそうに団子を頬張っていて笑ってしまった。
声をかけるつもりなど無かったのに、かけてしまった。光に集まる虫のように、我妻善逸という眩しくて暖かい光に寄っていく、死に行くしかない自分が酷く滑稽で、それでもどうしたって彼に関わることをやめられなかった。
その結果、これだ。
好意を伝え、恋仲になった。
善逸が怪我をしただけで、この動揺っぷり。
「馬鹿だな、お前」と、嘲った声が響いて、その声がまた震えていて笑うことしかできなかった。
名前が、ぎこちなく笑う。善逸の頬を包んで、目尻を撫でる。彼は泣いてなどいないのに。
だから、それをされたら文句一つ出てこないんだって。
「名前、大丈夫。大丈夫だよ。俺は、怖かったし痛かったけど、……ほら、生きてるし」
いつも、彼女が善逸に言っている言葉を、名前に言い聞かせるように、ゆっくりと口に出す。
大丈夫。大丈夫だよ。
右腕が折れてしまっているから、左手を彼女の後頭部に回して額と額を合わせた。
夏至だね、名前。雨ばかりで嫌になる。だけど、雨の音は好きなんだ。はは、おかしいだろ。俺も、そう思う。
それに、夜が一番短い日なんて最高だ。お前と、こうしていられる時間が増えるんだから。あいつらに、任務に邪魔されない。
深い緑色が、揺らめく。ぐっと寄せられた眉が、徐々に緩むと首筋に顔を埋められた。
「え、なに!?ど、どうしたの、名前?」
「怖かった。……駄目だ、お前は、善逸は失いたくない。頼む、頼むから……」
「名前……?」
痛々しい音が、びきびきと何かが割れる音が、鼓膜を揺らす。初めて聞いた音。聞いているこっちが悲しくなるような、泣きたくなるような音。
顔は見えないけれど、名前が泣いている気がした。慌てて彼女の頭を撫でて、艶やかな髪の毛に指を通し名前を二、三度呼んでやる。
「泣かないで、泣かないでよお……」
「泣いてない」
「嘘つくなよぉ、なあ、名前、俺は生きてるよ、泣かないでってばあ……」
貰い泣きをし始めた善逸の、折れた腕を気にしつつ名前は背中に手を回して抱きしめた。暖かい。生きている。
夏至だな、善逸。どうか、どうかお前は死なないでくれ。
「名前、名前、好き、大好きだよ」
「私も、好きだよ」
ああ、この時間を、君を失いたくない。
私の神様は、出会った頃から善逸なんだよ。
縁側に座り、しゃくりと音を鳴らして西瓜にかぶりつく。甘くて水々しい西瓜に、目を細めては空を見上げて夏を実感する。汗が垂れて、腕で拭った。
「暑いいいいい」
「ほら、汗拭いて」
「ん、む、ありがとう」
しゃくりしゃくり。
額の汗を拭ってくれる名前にお礼を言い、またかぶりつく。美味しいなあ。
善逸の横に座り、西瓜が美味いとにこにこ笑う善逸の横顔を見つめて名前がふふふと笑う。可愛いなあ。愛おしいなあ。
なんて、幸せな時間なのか。
青い空が、にっこり笑う。
小暑になったよ、善逸。
西瓜、美味しいね。
「ふふ、善逸蝉みたいだな。暑い暑い言う善逸と、ミンミン鳴く蝉。うん、似てるよ」
「……どこがだよ!!ほんっと、いきなり訳わかんないこと言わないでくれる!?」
「そうかい?」
「似ているけどなあ」と首を傾げる名前にもう一度「似てないから!」と善逸が目を見開いて反論する。
肩をすくめて西瓜を食べ始めた名前を横目に、善逸は西瓜を抱えた手を膝の上に置き空を見上げた。青い青い空。雲一つなく、青色とちかちか輝く太陽だけの空。
「善逸?食べないのかい?」
「食べるよ。ちょっとぼうっとしてただけ」
「そう?」
小暑だね、名前。
新しい季節をお前と迎えられることが、嬉しくてたまらないよ。
「善逸、では行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
「もう、ほら、大丈夫さ。大丈夫だから」
「……」
目尻を指の腹がなぞる。
結えている善逸の髪に気が付いた名前が、酷く嬉しそうな顔でにっこりと笑う。
「髪、伸びたんだな。ふふ、髪紐、贈ってもいいかい?」
「……くれるのか?俺に」
「ああ。どんなのにしようかなあ」
「名前がくれるんだったら何でも嬉しい。ずっと、毎日付ける。俺も名前に何か贈りたいんだけど何がいい?」
「私は、お前がいてくれるだけでいいんだ」
「もおおおお!そういうことじゃなくてさあああ!」
「ふふ、ごめんごめん。そうさなあ、……善逸が決めてくれ。私に何を贈りたいのか決めて」
「えっ……難しいこと言うなよ……」
途端に考え始めた善逸を、優しく見つめて、名前は口角を緩める。
失いたくないものなど、作るべきじゃあない。
ああ、でも、こんなにも幸せなんだ。
先日二人で見に行った向日葵畑を彷彿とさせる善逸のきいろい頭に、まだまだ暑いけれど秋になったのかと気づく。
立秋。
金木犀の季節が近づいて来る。
「……お前が帰って来るまでには決めておく!」
「ありがとう、善逸。それじゃあ、行ってきます」
「ちょ!ちょっと待って!!」
「?」
ぐいっと手を引っ張られ、真っ赤な顔の善逸が羽毛のような柔らかい力で頬に手を当てて、そっと顔を傾け目を伏せた。
重なった唇のその感触に、耳が熱くなる。
善逸の睫毛が光に透き通って綺麗で、近くて。
軽く啄まれると、思わず揺れた肩に合わせていた善逸の唇がふっと笑ったのが分かって、頬に熱がたまる。
「……へへ、名前、可愛いなあ」
「い、行ってくる」
「うん、行ってらっしゃあい」
屋敷から出ると、頬をぴしゃりと叩いた。
こんなだらしない顔をしていたら、師範に怒られてしまう。
熱が取れない頬と耳は、どうしようもなかった。
季節が巡る。時が過ぎる。愛おしい横顔に手を伸ばし、────。
ぱちり。
目を開けた先には、重たい空気があった。ああ、夢を見ていたのか。
身体があちこち痛い。
ごうごうと風が強く吹き荒れ、家にぶつかり音を立てる。
のろのろ起き上がり、指折って日を数えた。
名前が任務に行って、その後善逸もすぐに任務に出た。三日目で鬼が倒せて、またその後すぐに任務があって……多分、名前と別れて八日は経っていると思う。
怒涛の任務の最後に当たった鬼が強くて、辛うじて倒してそこからの記憶がない。どれだけ寝ていたのだろう。
分かりたくも無かったけれど、この身体の重さと気怠い感じは一日以上寝ている。確実に。
あちこち痛くて、怖くて、善逸は布団を頭から被り溢れ出した涙をそのままに枕を濡らした。
湿気た空気が漂う。
ごおんごおんと音を立てて風が鳴る。
強い風に、吹き飛ばされそうな葉が悲鳴を上げる。
ばらばらと力一杯地面や屋根を叩く雨音。
昼間にも関わらず、暗い部屋の中。
何もかもが怖い。
名前に会いたい。
伸びた髪が、どれだけ彼女と一緒にいたのかを教えてくれる。結える長さになった。出会った頃は結えなかったのに。
「……そうか、処暑になったんだっけ」
そういえば最近、涼しくなってきた。
まだ暑いけれど、夏の終わりを感じる。
秋が来るんだね。
頬をつたっていく涙を拭い、顔だけ布団から外に出した。季節の変化を垣間見ると、#name2#のことを思い出して、そうすると次には彼女のことばかり考えてしまう。
会いたいなあ。
最後に会ったのは、何日前だったか。
「そうだ、名前に買ってきたもの、えっと、……あ、あった!良かったあーー」
誰かが置いてくれたのだろう、名前に買ってきた小刀が枕元にあった。
櫛と迷ったけれど、刃物を贈ることには災いを断ち切り未来を切り開くという意味が込められているらしい。だから、小刀にした。
彫り物が施された、美しいそれを迷うことなく買った。
「早く、帰って来ねえかな」
どうか、名前に降りかかる災いを断ち切り未来が切り開けますように。
ぎゅっと掌で握った小刀に念を込め、再び枕元に置くと気にならなくなった強い風や雨の音を意識の外側に追いやって、布団に入り込んだ。
名前が帰ってくるまでに元気にならなければ。でないと、あいつが悲しんでしまう。
名前、季節がまた変わったよ。
処暑になった。
天気が荒れる時期だから、任務が大変になるな。やだなあ。
木槿っていう花がとても綺麗だから、お前と一緒に見に行きたいんだ。だから、早く帰って来いよ。
目を閉じると、あっさり眠りへと落ちた。
翌日目を覚ましたが、名前は善逸の前に現れなかった。
「っ!!っこの!」
髪がばらりと切れた。
同時に鬼の頸を刎ねることはできたが、髪が短くなってしまった。びゅうびゅうと風が吹き荒れ、弱かったはずの雨足が強くなる。
どうしよう、名前がせっかく髪紐をくれると言ったのに、この髪の長さじゃあ結うことができない。
どうしてか、力が入らない。
そんなに苦戦したわけでもないのに、怪我だって擦り傷程度のもの。なのに、何故だろう、腰が抜けて立ち上がれない。
「っ善逸!!!!どうした!?」
「あ、いや、何か力が入んねえんだ。……手、貸してくれないか」
「あ、ああ」
「あれ、そういえばなんでここに炭治郎がいるんだ?」
「……」
肩を貸してくれて、ゆっくり歩いていた足が止まった。
炭治郎は下を向いて、黙っている。
二人ともびっしょり濡れて、手で前髪をかき揚げたり目を拭いたりしなければ視界がひどく悪い。
耳の調子が良くないのか、炭治郎からの音が聞こえない。
ざあざあと降る、雨の音しか聞こえない。
「……善逸、落ち着いて聞いてくれ」
ゆっくり、ゆっくりと、善逸を慮る足取り。
炭治郎は、相変わらず優しい声で喋るなあ。と思った。
「うん、なに?」
「…………名前さんが、亡くなった」
「へ?」
「……」
「いや、何言ってんの?そんなわけ、」
「善逸」
苦しそうな顔で、それでも俺を真っ直ぐに見つめる炭治郎は、はっきりと俺の心配をする顔をしていた。
季節が巡る。時が過ぎる。
花の香りが変わり、山の色が移り行く。
季節が変わった先に、お前がいた。
お前と一緒に時を過ごした。
花の香りを楽しんだ。
山の色が変わっていく様を名前と共に見つめた。
「……ごめん、一人にしてくれないか」
「しかし、こんなところで、」
「大丈夫。もう鬼は出てこないって」
「……戻ってこなかったら、迎えに来るからな」
「ありがとう、ごめんな、炭治郎」
神様みたいだねって笑った名前が、泡のようにぱちんと弾ける。善逸は、そばにいてくれるだけで私を幸せにするんだ。だから福神様みたいだなって、笑った名前が、泡のようにぱちんと弾ける。
神様なんて、いない。
いたら、こんなにも苦しい世界があるはずが無い。俺が思う神様は、誰一人悲しくて辛い気持ちになることがない世界を司り、お前が隣でずっとずっと笑っているんだ。だから、神様なんているはずがない。
俺が神様ならば、なあ、何で一等大切な人がいなくなるんだ。
短くなった髪の毛を見て、一つ息を飲み呑むと、「馬鹿野郎」と強い風に負ける声で呟いた。名前と共に過ごしてきた時の長さを、伸びる髪で感じていたのに、ああ、散ってしまった。もう、結えない。もう、どうしたって伸ばせないというのに。
お前の隣では、もう、髪の毛を伸ばすことすらできないんだよ。
金木犀の匂いがする。そんな筈がないのに。
懐に入れていた小刀も、無くなっていた。
失いたくないものばかり、先だって消えていく。
なあ、名前、金木犀の香りが懐かしいなあ。
団子を頬張る善逸に、名前は話しかけた。
隣には、いつだって自分には眩しくて仕方のない存在がいるのだと彼女が気付いたのは、彼と過ごす初めての春のことだ。
「善逸、知ってるかい?昔はね、一年を二十四に分けていたんだよ」
「へえーー。そうなの?」
「ああ。一年間を冬至、夏至、春分、秋分の四つに分けて、またさらにそれぞれを六つに等分すると二十四になるんだ」
「ふうん?」
「あ、興味ないな、お前」
「だって、難しいことは分かんねえもん」
途端にぶはっと笑う名前を見て、善逸は眉を寄せた。
そんな笑わなくたっていいだろ。これだから顔がいい奴は……。
そっぽを向いてしまった善逸に、彼女は未だに緩む口元をそのままに「善逸」と彼の名前を呼んだ。
穏やかな音。穏やかな声。
名前と出会ってまだ一月ほどしか経たないが、彼女はいつも春陽のように穏やかだった。出会ってから、ずっとそうだった。
「善逸と出会ったのは確か、金木犀の香りがしたころだったなと思い出したんだ。あの時は秋分で、今の季節は清明って言うんだよ」
「へえ、綺麗な名前だね」
「ふふ、そうだろう」
善逸の言葉に満足げに笑い、頷くと、名前は「金木犀の香りが懐かしいなあ」と迚も焦がれるような声色で呟いた。
善逸と名前が出会った季節。
遠くても、どの花より匂いを運ぶ金木犀の季節。
善逸は指を折り、彼女と出会い共にいる時間を数えてみた。
半年は、経っている。
時間が過ぎる早さに驚き、それと同時に彼女とそれだけの時を共にいるという事実に、かぶりついた団子がより美味しく感じた。
「さあて、私、今日は少し遠い地の任務だからそろそろ行くね」
「ええ、行くの?俺を置いて?本当に?」
「生きて帰ってくるから、大丈夫。帰ってきたら連絡するよ」
立ち上がった名前を見上げ、善逸は微かに潤む目をそのままに、笑う彼女から目を離さない。
泣いてなんかいないのに、優しく目尻を親指の腹で撫でられると文句の一つすら出てこなくなる。一緒に行きたい。けれど、怖い。死にたくない。でも、名前が死ぬのはもっと嫌だ。
矛盾ばかりの心が、どくどくと動く。
それに、きっとついて行っても強い彼女の邪魔になってしまうだけだ。
こんなにも生命に溢れる季節なのに、こんなにも死に近い。
どれだけ花が咲き乱れようと、柔らかな日に当たろうと、善逸達は死に近い場所でもがいている。
「……行ってらっしゃい。あの人、人使い荒いんだから気を付けてよ」
「ふふ、師範はそんなに人使い荒くないよ。大丈夫。大丈夫だよ、善逸」
目尻を未だに撫でる指を取り、自分のに絡めた。行かないで欲しい。ずっと、ずっと、自分の側から離れて欲しくなかった。
ぎゅっと一度だけ強く握ると、ゆっくりゆっくり離した。
二人でいる時はあんなにも暖かくて、嬉しいのに。逃げることのできない任務が伝えられる度に、今生の別れをどこかで考えている。
名前は、沈んだ善逸の様子に困ったように眉を寄せて、出来る限り善逸が安心するようにと明るい声を出した。
「ほら、何暗い顔をしているの。私は風柱の継子だよ、そう簡単に死にません」
「……うん」
「美味しいもの、食べに行こうね。じゃあ、行ってきます」
手を何度か振ると、背を向け歩き始めた名前の背中を見つめて、残り一つの団子を口に放り込んだ。
「……美味しくない」
名前の背が見えなくなるまでの間、彼女との出会いを善逸は思い出していた。
金木犀の香りと、ああそういえば、彼岸花が咲き乱れていた気がする。
「君、我妻善逸?」
出会いは、語るほど大したことがないものだった。
宇髄さんとこで、ちょいとお世話になったことがあってね。君のことよく話で聞いていたんだと笑う、自分と同じ歳の髪の短いその子がゆらゆらと揺れた。
秋分が終わりを告げる、夕暮れ時だった。
「そ、そうだけど……。君、誰?」
「あ、ごめん。先に名乗るべきだったね。私は椿名前っていうんだ。風柱のとこの継子をさせてもらってるよ。宜しくな」
軽々しく、図々しく勝手に自己紹介を始める彼女に最初は頭を抱えた。
男か女の子か分からないような、けれど迚も綺麗な顔をした名前と名乗る人。
女の子といえば女の子に見える。男といえば男に見える。
……うん、どっちだ。
難しい顔をしている善逸を見て、何を考えているのかわかった名前がからからと笑う。
彼女にとって、男か女か間違われるのはよくあることだ。
「女だよ。こんななりしているがね」
「……綺麗な顔、してるんだな」
「そうかい?照れるなあ、ありがとう」
「……ふっっっざけんな!!!なんだお前!!!」
「えっ」
短い黒髪が、艶やかに揺れる。
善逸よりも、少し高い位置にある肩。
綺麗な顔を睨みつけ、善逸は宇髄天元を思い出していた。
あいつといい、こいつといい、なんなの。
綺麗な顔しやがって!!!!
初対面にも関わらず、名前に善逸が掴みかかったのは、金木犀が香る秋分のある一日のことだった。
今でも、金木犀の香りが忘れられない。
今も偶に思い出して、不思議になる。初対面で突っかかってしまった俺が悪いけれど、あんな絡み方をしてよく嫌われなかったな……。いや、本当に思う。よく嫌われなかったな……。
名前の姿が見えなくなってしまった町に、ため息をついた。
名前は戻ってきてくれる。生きて、帰ってきてくれる。
善逸は何度も何度も自分に言い聞かせて、その言葉を飲み込むと、団子の上に乗っていた餡子の味がした。
「……帰ろ」
一人で帰る。
二人で来たのに。
隣に、名前はいない。
初めは隣にいたのに。
追いついた背丈に、どれほど喜んだかあいつは知らないのだろうなあ。
目を閉じて、どんなに耳を澄ませても聞こえない名前の音に少しだけがっかりしたが、優しく木々の葉を揺らす風、擦れ合う葉や揺れる花、楽しそうに笑う人の声が、善逸の耳に触れる。
清明。清く、明るい季節。
命を降り注ぐ太陽が、一番優しく慎重になる季節。
だから、こんなにも和やかなんだね。
思い切り、息を吸った。
なんだか、なんでだろうね、涙が出た。
別れてから、十日後に名前は戻ってきた。
突然、ひょこりと現れて善逸を驚かせる。
善逸の耳の良さをすり抜けて、彼女はいつの間にか彼の目の前に来ては「やあ、久しぶり。帰ってきたよ」などと宣うのだから、感動の再会になるはずも無い。
会えた喜びも、会えなかった期間の寂しさも善逸から全て吹っ飛んだ。
「あのさ、連絡するって言ってたよね!?!?」
「いやあ、師範から逃げてきたからそんな暇なかったんだよ」
「えっ、何したの」
「色々あってね。……さて、どこか行くにはちと遅いな。お話しないかい?」
「いいけど、……えっ、話逸らした?」
「この前の話の続きしようよ」
「えっ?」
名前は、風柱の継子だ。
馬鹿にされないように、継子として舐められないように、髪を短く切って伸ばさない。いつも背筋を伸ばし、しゃんと前を向いている。任務の話は一切しない。辛い、しんどい、苦しい、悲しい、と彼女の口から聞いたことがない。涙を、見たことがない。
いつも穏やかだから、風柱の継子だなんて、最初は信じられなかった。怖い印象しかない彼の継子?本当に?嘘だろ。そう思った。
けれど、実際、彼女は風柱の継子だ。迷いなく、力強く放たれる剣筋は明らかに風の呼吸のそれだ。
弱音を、苦しさを、何も分けてくれない。それが、ひどく寂しくて仕方がない。
十日ぶりに見た名前の顔は、傷だらけだった。嫁入り前の女の子なのに、と叫び出したい気持ちに駆られたが、──実際、駆られて叫んだこともあったが、名前は名誉の傷だと笑うだけだった──名前は、気にもしないのだと思う。
今回は、激しい闘いだったのだろうか。
聞きたいことをぐっと飲み込み、惚ける名前に手を引かれるまま縁側にことりと座る。二人の間にあいた掌一枚分には、善逸の恐れが座りこんだ。
踏み込みすぎたら、嫌われてしまうのではないかという、善逸の恐れが。
人の感情に敏感である名前は、二人の間にある掌一枚分に気がつくと、ゆっくりと腰を上げて座り直すことによって埋めた。
「善逸、大丈夫だったろう?私は生きているよ。いつもお前は気にしているけど、いつ死ぬか分からないのなら、なるだけ笑顔でいたいんだ。だから、そう気にしないで」
「……お前は、いつも、何も言わなさすぎなんだよ」
「そうかなあ。善逸には、色んなことを喋っている方だけど、足りない?」
「足りない。……もっと、名前が背負ってるもん分けて欲しい。俺、お前が大切なんだ」
びっくりしたことで吹っ飛んだ諸々が、ゆっくりゆっくり戻ってくる。会えて嬉しい。生きてて、良かった。でも、でもね、寂しかった。こうして、いつもこさえた怪我を見ることしかできない自分が酷く、不甲斐ないのだと思い知らされる。
こんなにも、愛おしくてたまらないのに。
大切で仕方がないのに。
朗らかに笑う名前の眉が下がった。
「泣かないで、善逸。ごめんな、ごめん。違うんだよ。お前といる時はいつも楽しくて、嬉しくて、任務が辛いことも苦しいこともどうだってよくなるんだ。善逸が私に笑いかけてくれるだけで、全部全部、我慢できるんだ」
俯く善逸を下から覗き込み、両頬を包んで涙を親指で拭う。
ぼろぼろと流れ続ける涙に、名前は益々眉毛を下げた。
すると、ぱらぱらと雨が降り始めた。
優しい雨音がする。
ああ、気が付けば季節が変わっていたのか。
「ぐずっ、そんなこと言われても、ぜっだいほだざれないからな!おれだっで、名前といると嬉しくてじがだないのに、なんで、なんでだよおおお」
「わっ」
腕を引かれると、善逸の腕の中でぎゅうぎゅうと抱きしめられた。
ぐすぐす泣きながら、名前の首筋に頭を擦り付けて、回した腕の力を強くする。
あったかい。穏やかな音。名前の音。
寂しくて仕方がなかったから、名前が言っていた二十四節気を調べた。涙まじりの声のまま、善逸は「今は、穀雨っていうんだろ」と呟いた。
優しい春の雨が降る季節。
皆が田畑の準備をする季節。
そうだよ、お前がいない間に季節は変わっていたんだよ。
「そうだよ。ふふ、調べたの?」
「……そうだよ、調べた」
「ほらほら、そろそろ泣き止んで」
「このまま、抱きしめさせていてくれるんだったら、考える」
「仕方ないなあ。いいよ」
仕方ないだって。名前、全然仕方なさそうじゃない。寧ろ、喜んでる音がする。
ぱちぱちと弾ける雨音は、青く萌える山々を想像させた。
「またもう少ししたら立夏になる。夏に入るね」
「立夏の次は、小満だろ?それから芒種、夏至、小暑、大暑」
「そうそう。そうしたら秋が来る。立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降」
「冬が来たら、立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒で一年が終わる」
「よく覚えてるね、善逸。凄い」
「ふふん。凄いでしょ」
「うん、凄いよ」
凄いね。凄いよ。
この時だって、名前はゆったりと太陽の光を一心に受けて輝く海のように、綺麗で美しい音をさせていた。
「好きだよ、善逸」
「俺も、好き。名前のことが、好き」
ああ、なんて、幸せなのだろう。
爽やかな風が吹く。
緑が萌える。
振り向けば、名前がいることで、善逸は胸が踊った。
嬉しくて嬉しくて、吸い込んだ空気を肺一杯に溜め込んだ。美味しい。美味しいなあ。君がいるだけで、空気が美味しくなるんだ。
柔らかな眼差しを向けられて、完成した花冠を彼女の頭に乗せた。
「名前、どうぞお」
「ありがとう。善逸は本当に花冠を作るのが上手だなあ。ふふ、ほら見てご覧。私の花冠はぐちゃぐちゃになってしまった」
「風柱の継子様もできないことがあるんだな」
「はは、そりゃあね。ちっぽけな人間だからねえ」
剣を握っていない名前の手は、何故だか小さく見える。
確かに、彼女が作った花冠の出来栄えは上手とは言えない。それを手の中に落ち着かせ、じっと見つめる名前が、どこかに消えていきそうだった。
鍛錬を欠かさず、厳しい任務をこなし、弱音を吐かない彼女が手にした力。最高位の柱に見染められた剣の能力を持ちながら、彼女はまだ力を欲していた。
名前は、炭治郎のように、鬼殺隊の多くの人のように、大事な人を亡くした訳ではない。
善逸と同じく、捨て子だった。
家族を知らない。
愛情を知らない。
善逸は、震える手で名前に抱きついた。
「名前、俺が花冠の作り方教えてあげる」
「?ありがとう。ふふ、善逸は教えるのが上手だからなあ。宜しくお願いします」
「任せろって」
爽やかな風が吹く。
緑が萌える。
お前が隣にいてくれるだけで、私は幸せなんだよ。
夏が始まるね。
「善逸、幸せだね」
「……うん。幸せだな、名前」
自分が作った花冠を頭に乗せ、ゆらゆらと揺らめく愛しい人の笑顔の美しさに、胸が詰まった。
絡めあった指先には、確かに愛があったんだ。
ぐずりと、鼻が鳴る。
涙が止まらない。
二日経っても目を覚さない名前が横たわる布団から、動けなかった。目を瞑り、眠っている。何度も何度も、呼吸をしているか確かめたくて耳をすませた。
彼女の師範である不死川実弥曰く、ヘマしたらしい。どんなことがあってこんな重症になったのか、聞いても名前は教えてくれないのだろう。
「ゔゔっ、名前、起きてよお……」
小満になったんだよ。
花が迚も綺麗で、散歩するのが楽しいんだよ。
ねえ、一緒にお散歩しようね。
べそべそと泣く善逸が、名前の手を握る力を強めた。
泣いてばかりいる。
彼女のそばにいると、自分は泣いてばかりだった。
名前は、笑ってばかりだというのに。
「ん、……あれ、ぜんいつ?」
「!名前っ、そう、善逸だよ!やっと、やっと起きた……!!!起きて良かった、良かったよおお」
仰向けの名前に抱きつき、おいおい善逸が泣くと彼の背中に名前が腕を回してぽんぽんと優しく叩く。
大丈夫。大丈夫だよ。
何も大丈夫じゃないのに、彼女は優しくそう言う。
「名前、お散歩しようね。ぐずっ……美味しいもの、食べに行こうね。二人で、いたいよお」
「うん、うん。行こうか。善逸がしたいこと、私もしたい。善逸が食べたいもの、私も食べたいなあ。私も、善逸と二人で時間を過ごしたい」
「そんなに泣いてばかりいたら、いつか目が溶けてしまう」と、善逸が泣く原因が言う。お前のせいだ、馬鹿野郎。そう言いたかったのに、うっかり飲み込んだその言葉が、もう口からは出てこない。出てこなかった。
代わりに、善逸は包帯だらけの名前の頬をそっと撫で、唇を落とした。涙の味がする。
額を合わせて、唇を離すと名前が善逸の頬を掌で包み込んだ。ぽたりと、彼の涙が名前の目の近くに落ちる。
小満になったね。
小満は、太陽の光を浴びて、命が満ちる季節って言われているんだ。
こうして、お前が手を握ってくれるだけで、私の幸せは手から溢れるほど増えるんだよ。
傷だらけの掌が、普通の女の子とは違う、かたくて傷跡ばかりの指先が、善逸の頬を、目尻を撫でる。
「名前、好きだよ。好き」
「私も、善逸が好きだよ。愛おしくて、たまらないんだ」
太陽の光を浴びて、命が満ちる季節、小満。ああ、だけれども、どうしたって名前達は太陽の光を浴びようとも、死が満ちる夜で足掻くしかなかった。
夜が光を飲み込む。
こんな世界、全て夢ならばいいのにね。
梅雨に入った。
このごろずっと、雨が降っている。
一年で一番昼が長くて、夜が一番短い日。
雨の音。雨が地面に落ちて弾ける音。水溜りの一部になる音。耳を澄ませて聞こえてくる音を楽しみながら、名前の足音を探す。もうそろそろで、帰ってくる筈なんだ。
善逸は、巡る二十四の季節の移り変わりをいつの間にか楽しんでいた。季節が変わるたびに彼女に会えることを期待して、夏が始まると美しく萌える緑に目を張り、芒種になり農家が忙しなく田植えをする一面に広がる水田を眺め、梅雨入りすると雨の音を聞いた。
「夏至だあ」
「夏至だね」
「…………はっ!?!?名前!?!?」
「名前だよ。それはそうと善逸、腕の具合はどうだい?」
「だあから!!!!……はあ、もういいや。痛い、凄い痛い」
「ん、大丈夫そうだな」
「どこがだよ!!!?」
「善逸、元気そうで良かった」
伸びた善逸の髪の毛に指を通し、ふふふと笑う。相変わらず短いままの名前の黒髪が、揺れた。
耳が良い筈なのに、何故名前が来ることに気が付かないのか。善逸は、またひょっこりと現れた名前に考えるだけ無駄だと、思考を放棄することにした。
それに、今は嫋やかに微笑む彼女を見つめていたい。
「久しぶり、だな。……怪我、してない?」
「ああ。この通りさ。この頃何かと任務が入ってしまってね。一緒にいる時間が減ってすまない」
「……寂しかった。腕痛いし、全然、……会えなかったし」
「私も、寂しかったよ。善逸が怪我してるって聞いたから、急いで帰ってきたんだ」
「ぇ、」
何もなくて、よかった。
元気そうで、良かった。
任務が終わると、すぐに任務が入るの繰り返しをして欠伸が止まらなくなった頃、知らせは来た。頭が真っ白になった。耳がキーンと鳴る。
駄目だ、それは駄目だ。引っ掴まれた心臓が痛くて、思わず壁についた手が震えていて笑ってしまった。
失いたく無いものなんて、作るべきじゃあない。失いたく無いものなんて、無かった。皆に、周りの人に馴染めなかったから、ただ剣の才があったから、ここにいる。本当は、本当はね、善逸。全部全部、どうだっていいんだよ。誰が死んだって、喰べられたって、泣き叫んだって、どうでもいい。私はここにいる人達のように、誰かの為にと生きていくことはできない。ただ居場所がなくて、それでも生きていくために鬼の頸を刎て給金を貰っていただけ。
とんだ薄情者だ。
なのに、なあ。宇髄さんからお前の名前が出てきて、話を聞いたら会ってみたくて仕方がなくなったんだ。そうしたら、お前がいた。きいろい頭が嬉しそうに揺れていたから、思わず覗き込んだ先で善逸が美味しいそうに団子を頬張っていて笑ってしまった。
声をかけるつもりなど無かったのに、かけてしまった。光に集まる虫のように、我妻善逸という眩しくて暖かい光に寄っていく、死に行くしかない自分が酷く滑稽で、それでもどうしたって彼に関わることをやめられなかった。
その結果、これだ。
好意を伝え、恋仲になった。
善逸が怪我をしただけで、この動揺っぷり。
「馬鹿だな、お前」と、嘲った声が響いて、その声がまた震えていて笑うことしかできなかった。
名前が、ぎこちなく笑う。善逸の頬を包んで、目尻を撫でる。彼は泣いてなどいないのに。
だから、それをされたら文句一つ出てこないんだって。
「名前、大丈夫。大丈夫だよ。俺は、怖かったし痛かったけど、……ほら、生きてるし」
いつも、彼女が善逸に言っている言葉を、名前に言い聞かせるように、ゆっくりと口に出す。
大丈夫。大丈夫だよ。
右腕が折れてしまっているから、左手を彼女の後頭部に回して額と額を合わせた。
夏至だね、名前。雨ばかりで嫌になる。だけど、雨の音は好きなんだ。はは、おかしいだろ。俺も、そう思う。
それに、夜が一番短い日なんて最高だ。お前と、こうしていられる時間が増えるんだから。あいつらに、任務に邪魔されない。
深い緑色が、揺らめく。ぐっと寄せられた眉が、徐々に緩むと首筋に顔を埋められた。
「え、なに!?ど、どうしたの、名前?」
「怖かった。……駄目だ、お前は、善逸は失いたくない。頼む、頼むから……」
「名前……?」
痛々しい音が、びきびきと何かが割れる音が、鼓膜を揺らす。初めて聞いた音。聞いているこっちが悲しくなるような、泣きたくなるような音。
顔は見えないけれど、名前が泣いている気がした。慌てて彼女の頭を撫でて、艶やかな髪の毛に指を通し名前を二、三度呼んでやる。
「泣かないで、泣かないでよお……」
「泣いてない」
「嘘つくなよぉ、なあ、名前、俺は生きてるよ、泣かないでってばあ……」
貰い泣きをし始めた善逸の、折れた腕を気にしつつ名前は背中に手を回して抱きしめた。暖かい。生きている。
夏至だな、善逸。どうか、どうかお前は死なないでくれ。
「名前、名前、好き、大好きだよ」
「私も、好きだよ」
ああ、この時間を、君を失いたくない。
私の神様は、出会った頃から善逸なんだよ。
縁側に座り、しゃくりと音を鳴らして西瓜にかぶりつく。甘くて水々しい西瓜に、目を細めては空を見上げて夏を実感する。汗が垂れて、腕で拭った。
「暑いいいいい」
「ほら、汗拭いて」
「ん、む、ありがとう」
しゃくりしゃくり。
額の汗を拭ってくれる名前にお礼を言い、またかぶりつく。美味しいなあ。
善逸の横に座り、西瓜が美味いとにこにこ笑う善逸の横顔を見つめて名前がふふふと笑う。可愛いなあ。愛おしいなあ。
なんて、幸せな時間なのか。
青い空が、にっこり笑う。
小暑になったよ、善逸。
西瓜、美味しいね。
「ふふ、善逸蝉みたいだな。暑い暑い言う善逸と、ミンミン鳴く蝉。うん、似てるよ」
「……どこがだよ!!ほんっと、いきなり訳わかんないこと言わないでくれる!?」
「そうかい?」
「似ているけどなあ」と首を傾げる名前にもう一度「似てないから!」と善逸が目を見開いて反論する。
肩をすくめて西瓜を食べ始めた名前を横目に、善逸は西瓜を抱えた手を膝の上に置き空を見上げた。青い青い空。雲一つなく、青色とちかちか輝く太陽だけの空。
「善逸?食べないのかい?」
「食べるよ。ちょっとぼうっとしてただけ」
「そう?」
小暑だね、名前。
新しい季節をお前と迎えられることが、嬉しくてたまらないよ。
「善逸、では行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
「もう、ほら、大丈夫さ。大丈夫だから」
「……」
目尻を指の腹がなぞる。
結えている善逸の髪に気が付いた名前が、酷く嬉しそうな顔でにっこりと笑う。
「髪、伸びたんだな。ふふ、髪紐、贈ってもいいかい?」
「……くれるのか?俺に」
「ああ。どんなのにしようかなあ」
「名前がくれるんだったら何でも嬉しい。ずっと、毎日付ける。俺も名前に何か贈りたいんだけど何がいい?」
「私は、お前がいてくれるだけでいいんだ」
「もおおおお!そういうことじゃなくてさあああ!」
「ふふ、ごめんごめん。そうさなあ、……善逸が決めてくれ。私に何を贈りたいのか決めて」
「えっ……難しいこと言うなよ……」
途端に考え始めた善逸を、優しく見つめて、名前は口角を緩める。
失いたくないものなど、作るべきじゃあない。
ああ、でも、こんなにも幸せなんだ。
先日二人で見に行った向日葵畑を彷彿とさせる善逸のきいろい頭に、まだまだ暑いけれど秋になったのかと気づく。
立秋。
金木犀の季節が近づいて来る。
「……お前が帰って来るまでには決めておく!」
「ありがとう、善逸。それじゃあ、行ってきます」
「ちょ!ちょっと待って!!」
「?」
ぐいっと手を引っ張られ、真っ赤な顔の善逸が羽毛のような柔らかい力で頬に手を当てて、そっと顔を傾け目を伏せた。
重なった唇のその感触に、耳が熱くなる。
善逸の睫毛が光に透き通って綺麗で、近くて。
軽く啄まれると、思わず揺れた肩に合わせていた善逸の唇がふっと笑ったのが分かって、頬に熱がたまる。
「……へへ、名前、可愛いなあ」
「い、行ってくる」
「うん、行ってらっしゃあい」
屋敷から出ると、頬をぴしゃりと叩いた。
こんなだらしない顔をしていたら、師範に怒られてしまう。
熱が取れない頬と耳は、どうしようもなかった。
季節が巡る。時が過ぎる。愛おしい横顔に手を伸ばし、────。
ぱちり。
目を開けた先には、重たい空気があった。ああ、夢を見ていたのか。
身体があちこち痛い。
ごうごうと風が強く吹き荒れ、家にぶつかり音を立てる。
のろのろ起き上がり、指折って日を数えた。
名前が任務に行って、その後善逸もすぐに任務に出た。三日目で鬼が倒せて、またその後すぐに任務があって……多分、名前と別れて八日は経っていると思う。
怒涛の任務の最後に当たった鬼が強くて、辛うじて倒してそこからの記憶がない。どれだけ寝ていたのだろう。
分かりたくも無かったけれど、この身体の重さと気怠い感じは一日以上寝ている。確実に。
あちこち痛くて、怖くて、善逸は布団を頭から被り溢れ出した涙をそのままに枕を濡らした。
湿気た空気が漂う。
ごおんごおんと音を立てて風が鳴る。
強い風に、吹き飛ばされそうな葉が悲鳴を上げる。
ばらばらと力一杯地面や屋根を叩く雨音。
昼間にも関わらず、暗い部屋の中。
何もかもが怖い。
名前に会いたい。
伸びた髪が、どれだけ彼女と一緒にいたのかを教えてくれる。結える長さになった。出会った頃は結えなかったのに。
「……そうか、処暑になったんだっけ」
そういえば最近、涼しくなってきた。
まだ暑いけれど、夏の終わりを感じる。
秋が来るんだね。
頬をつたっていく涙を拭い、顔だけ布団から外に出した。季節の変化を垣間見ると、#name2#のことを思い出して、そうすると次には彼女のことばかり考えてしまう。
会いたいなあ。
最後に会ったのは、何日前だったか。
「そうだ、名前に買ってきたもの、えっと、……あ、あった!良かったあーー」
誰かが置いてくれたのだろう、名前に買ってきた小刀が枕元にあった。
櫛と迷ったけれど、刃物を贈ることには災いを断ち切り未来を切り開くという意味が込められているらしい。だから、小刀にした。
彫り物が施された、美しいそれを迷うことなく買った。
「早く、帰って来ねえかな」
どうか、名前に降りかかる災いを断ち切り未来が切り開けますように。
ぎゅっと掌で握った小刀に念を込め、再び枕元に置くと気にならなくなった強い風や雨の音を意識の外側に追いやって、布団に入り込んだ。
名前が帰ってくるまでに元気にならなければ。でないと、あいつが悲しんでしまう。
名前、季節がまた変わったよ。
処暑になった。
天気が荒れる時期だから、任務が大変になるな。やだなあ。
木槿っていう花がとても綺麗だから、お前と一緒に見に行きたいんだ。だから、早く帰って来いよ。
目を閉じると、あっさり眠りへと落ちた。
翌日目を覚ましたが、名前は善逸の前に現れなかった。
「っ!!っこの!」
髪がばらりと切れた。
同時に鬼の頸を刎ねることはできたが、髪が短くなってしまった。びゅうびゅうと風が吹き荒れ、弱かったはずの雨足が強くなる。
どうしよう、名前がせっかく髪紐をくれると言ったのに、この髪の長さじゃあ結うことができない。
どうしてか、力が入らない。
そんなに苦戦したわけでもないのに、怪我だって擦り傷程度のもの。なのに、何故だろう、腰が抜けて立ち上がれない。
「っ善逸!!!!どうした!?」
「あ、いや、何か力が入んねえんだ。……手、貸してくれないか」
「あ、ああ」
「あれ、そういえばなんでここに炭治郎がいるんだ?」
「……」
肩を貸してくれて、ゆっくり歩いていた足が止まった。
炭治郎は下を向いて、黙っている。
二人ともびっしょり濡れて、手で前髪をかき揚げたり目を拭いたりしなければ視界がひどく悪い。
耳の調子が良くないのか、炭治郎からの音が聞こえない。
ざあざあと降る、雨の音しか聞こえない。
「……善逸、落ち着いて聞いてくれ」
ゆっくり、ゆっくりと、善逸を慮る足取り。
炭治郎は、相変わらず優しい声で喋るなあ。と思った。
「うん、なに?」
「…………名前さんが、亡くなった」
「へ?」
「……」
「いや、何言ってんの?そんなわけ、」
「善逸」
苦しそうな顔で、それでも俺を真っ直ぐに見つめる炭治郎は、はっきりと俺の心配をする顔をしていた。
季節が巡る。時が過ぎる。
花の香りが変わり、山の色が移り行く。
季節が変わった先に、お前がいた。
お前と一緒に時を過ごした。
花の香りを楽しんだ。
山の色が変わっていく様を名前と共に見つめた。
「……ごめん、一人にしてくれないか」
「しかし、こんなところで、」
「大丈夫。もう鬼は出てこないって」
「……戻ってこなかったら、迎えに来るからな」
「ありがとう、ごめんな、炭治郎」
神様みたいだねって笑った名前が、泡のようにぱちんと弾ける。善逸は、そばにいてくれるだけで私を幸せにするんだ。だから福神様みたいだなって、笑った名前が、泡のようにぱちんと弾ける。
神様なんて、いない。
いたら、こんなにも苦しい世界があるはずが無い。俺が思う神様は、誰一人悲しくて辛い気持ちになることがない世界を司り、お前が隣でずっとずっと笑っているんだ。だから、神様なんているはずがない。
俺が神様ならば、なあ、何で一等大切な人がいなくなるんだ。
短くなった髪の毛を見て、一つ息を飲み呑むと、「馬鹿野郎」と強い風に負ける声で呟いた。名前と共に過ごしてきた時の長さを、伸びる髪で感じていたのに、ああ、散ってしまった。もう、結えない。もう、どうしたって伸ばせないというのに。
お前の隣では、もう、髪の毛を伸ばすことすらできないんだよ。
金木犀の匂いがする。そんな筈がないのに。
懐に入れていた小刀も、無くなっていた。
失いたくないものばかり、先だって消えていく。
なあ、名前、金木犀の香りが懐かしいなあ。
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