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穴の中の有多子さん
2020/01/18 19:55ホラー👻
朝起きたら、壁に小さな穴があった。昨日までなかったはずの穴が、壁にぽっかりと開いてしまっている。
棚か何かで塞ごうかとは一瞬、考えた。考えたが、やめた。そこは男だ。隣人が女性だったら、何だか嬉しい。AVの数だけ邪な気持ちは持っている。もし、女性でなければ、黙って穴を塞ぐ。とりあえず、確かめるだけだ。
僕は床にしゃがみこむ。見やすいように指で丸を作って、そこからのぞきこんだ。
穴を通して隣の部屋と繋がった瞬間、僕の心臓は飛び上がった。実際、叫びそうになって、口に手を当てたぐらいだ。
家具の少ないワンルーム。そこに女がいた。壁を背にして、膝を抱えながら、座っていた。彼女の位置は穴から少しずれていて、右に寄っている。そして、彼女は僕に気づいていないようだった。ならばと、観察する余裕が出てきた。大胆に視線を送る。
僕は彼女に有多子という名をつけた。意味は特にない。響きで「ウタコ」にして、適当に漢字をあてた。
有多子は髪の長い女性だ。おそらく僕が今まで見た人間のなかで一番長い。頭頂部から肩まで真っ直ぐに流れ、背中を経由して、床につく、足元に髪のたまりをつくる。それほどの長さだ。
前髪はない。だから、彼女が正面を向いている限り、額から下の顔つきは見て取れる。
彼女は白眼の少ない黒い瞳で反対側の壁を見ている。ノースリーブのえんじ色のワンピースを着ている。膝を抱える指には爪がなく、血の気もない。膝も同じく青白い皮膚に包まれている。彼女はずっと、顔を動かさずに一点を見つめている。
カーテンのない窓からピンクと紫の怪しい光が床を照らした。特に有多子の体にかかるものだから、青白い肌がまだらに染まった。しかし、彼女は瞬きもせず、穴の外側だけが時間を進めていく。
さすがに外側にいる僕も腹が減ったり、便意に襲われたりして、穴から離れた。穴へ戻ってきても、有多子は一ミリも動いていないように見えた。
暗闇がやってきた。光が漏れてしまわないように、僕の部屋の明かりをしぼった。しかし、有多子はまるで動かない。とうとう膝を抱えたまま、一日を過ごしてしまった。
有多子の影を見つめているのも飽きてしまった。しかし、無駄にした時間を考えると、意地が生まれてくる。有多子が動く瞬間をこの穴からのぞきたい。バカだと思われようともしたいのだ。
その前に腹ごしらえでもしようか。夕飯のカップラーメンを思い浮かべたとき、扉の向こうから足音が聞こえてきた。靴のすれた音が止まると、鍵の回る音がする。うちと同じ音がして、扉が開く。隣人が帰ってきたらしい。大きなものが床に落ちる音が聞こえた。
やがて、穴のなかに、もう一人の人物が加わった。顔はよく見えないが、男のようだ。幅の広いジーンズをだらしなく穿いている。でも、なぜか、スニーカーは履いたままで部屋のなかを歩いている。手には縄を持っている。男は有多子の前で足を止めた。穴の方に背を向ける。
そのままいつまで経っても、男は動かなかった。何かを話しているようでもない。男と気味の悪い女が向かい合っているだけだ。またこの調子で時間が流れていくのだろうか。それはつまらない。今度こそ見るのをやめるか。
ふと、男が動き出した。そうだ、それでいい。こちらは何かが起きるのを期待している。この気味の悪い女を裸にしてくれてもいいのだ。
期待はずれだった。男は穴の範囲から外れたところに行ってしまった。また、穴には有多子だけになってしまう。
だが、一つ違っていた。有多子の顔がぎこちなく、動き出したのだ。僕は瞬きをした。その間に有多子は立ち上がった。首がすわっていないかのように横にかくつかせながら、男の方へ進んでいく。黒髪が後を追って筋を作った。足音はなかった。有多子には足がないのだ。
穴のなかにはもう誰もいない。誰かのうめき声が聞こえてきた。ぎゅっと何かが絞られる音。床と衣服の擦れる音。ジーンズを穿いている足が投げ出された。暴れる。
男が殺される、あの有多子に。僕はスマホを掴みかけた。通報しなければと思った。しかし、ゲーム機や充電器と繋がっている延長コードが邪魔をした。もたついている間に音は無くなった。足は静かに床に降りた。そして、穴は真っ黒に染まった。完全な黒ではなく、線状にできた闇に。
有多子には前髪はない。彼女が正面を向いている限り、額から下の顔つきは見て取れる。つまり、彼女がうつむけば、闇の線ができる。その間から、より一層の暗い瞳を見つけた。僕は……。
――ここまで書いて、僕は手を止めた。パソコン横に置いたスマホの画面を見ると、一時間が経っていた。充電もない。スマホ用の充電ケーブルを手に取った。
パソコンの画面を眺めて、ため息を吐く。どうもつまらない話になってしまった。こう、もっと、人を食らうくらいの化け物にしたほうが迫力があった。恐怖も感じただろう。しかも、足のない幽霊がどうやって人を絞め殺すのか。その辺りも曖昧だ。まったくもって、ものを書く技術が足りない。
そういえば、この話を思いついたのは、自分の部屋の壁に穴が開いたためだった。話の主人公と同じく、なぜだか、開いてしまった穴だ。さすがに一軒家だから、隣人をのぞき見ることはできない。見えるとすれば、書斎の隣の寝室くらいのものだろう。
だが、改めて穴を眺めると、気になった。もし、穴の先に有多子がいたとしたらどうだろう。人を殺しはじめたらどうしようか。そんな想像に笑ってしまった。有多子などいるわけもない。書くことに没頭し過ぎて、想像と現実が混ざる現象はよくある。これもそういうことだろう。
話の主人公に乗っとって、穴をのぞきこんだ。
穴は真っ暗。もともと分厚い壁だ。隣の部屋の壁にまで穴が貫通していると思う方がおかしい。特にこれといって、話と同じように面白くもなかった。時間を無駄にした。一時間で書いた話の出来も悪いことだし、ますます空しくなった。僕には才能も技術もないらしい。今日は酒でも飲むか。有多子も何もかも忘れてしまおう。
穴から離れようとしたとき、闇にちらほら白線が見えた。どうも細い線が集まって闇に見えていたらしい。その白い部分が広くなり、闇の間から黒い丸がのぞいた。
頭が真っ白になる。
睫毛のない瞼は閉じることなく、開いたままでいる。僕は驚きすぎて、瞬きを忘れた。耳鳴りがした。心音が脳を駆け巡る感覚。
『僕は……』の後、話の主人公はどうなったのだろう。穴の隣人のように絞め殺されたのか。わからない。ただ、有多子はそうやって穴を繋げて、部屋から部屋へと渡っていく。消えた足を音もなく滑らせて。そして、僕の手には充電ケーブル。おかしい。充電したはずなのに。おかしい。もう何も考えられない。僕h
棚か何かで塞ごうかとは一瞬、考えた。考えたが、やめた。そこは男だ。隣人が女性だったら、何だか嬉しい。AVの数だけ邪な気持ちは持っている。もし、女性でなければ、黙って穴を塞ぐ。とりあえず、確かめるだけだ。
僕は床にしゃがみこむ。見やすいように指で丸を作って、そこからのぞきこんだ。
穴を通して隣の部屋と繋がった瞬間、僕の心臓は飛び上がった。実際、叫びそうになって、口に手を当てたぐらいだ。
家具の少ないワンルーム。そこに女がいた。壁を背にして、膝を抱えながら、座っていた。彼女の位置は穴から少しずれていて、右に寄っている。そして、彼女は僕に気づいていないようだった。ならばと、観察する余裕が出てきた。大胆に視線を送る。
僕は彼女に有多子という名をつけた。意味は特にない。響きで「ウタコ」にして、適当に漢字をあてた。
有多子は髪の長い女性だ。おそらく僕が今まで見た人間のなかで一番長い。頭頂部から肩まで真っ直ぐに流れ、背中を経由して、床につく、足元に髪のたまりをつくる。それほどの長さだ。
前髪はない。だから、彼女が正面を向いている限り、額から下の顔つきは見て取れる。
彼女は白眼の少ない黒い瞳で反対側の壁を見ている。ノースリーブのえんじ色のワンピースを着ている。膝を抱える指には爪がなく、血の気もない。膝も同じく青白い皮膚に包まれている。彼女はずっと、顔を動かさずに一点を見つめている。
カーテンのない窓からピンクと紫の怪しい光が床を照らした。特に有多子の体にかかるものだから、青白い肌がまだらに染まった。しかし、彼女は瞬きもせず、穴の外側だけが時間を進めていく。
さすがに外側にいる僕も腹が減ったり、便意に襲われたりして、穴から離れた。穴へ戻ってきても、有多子は一ミリも動いていないように見えた。
暗闇がやってきた。光が漏れてしまわないように、僕の部屋の明かりをしぼった。しかし、有多子はまるで動かない。とうとう膝を抱えたまま、一日を過ごしてしまった。
有多子の影を見つめているのも飽きてしまった。しかし、無駄にした時間を考えると、意地が生まれてくる。有多子が動く瞬間をこの穴からのぞきたい。バカだと思われようともしたいのだ。
その前に腹ごしらえでもしようか。夕飯のカップラーメンを思い浮かべたとき、扉の向こうから足音が聞こえてきた。靴のすれた音が止まると、鍵の回る音がする。うちと同じ音がして、扉が開く。隣人が帰ってきたらしい。大きなものが床に落ちる音が聞こえた。
やがて、穴のなかに、もう一人の人物が加わった。顔はよく見えないが、男のようだ。幅の広いジーンズをだらしなく穿いている。でも、なぜか、スニーカーは履いたままで部屋のなかを歩いている。手には縄を持っている。男は有多子の前で足を止めた。穴の方に背を向ける。
そのままいつまで経っても、男は動かなかった。何かを話しているようでもない。男と気味の悪い女が向かい合っているだけだ。またこの調子で時間が流れていくのだろうか。それはつまらない。今度こそ見るのをやめるか。
ふと、男が動き出した。そうだ、それでいい。こちらは何かが起きるのを期待している。この気味の悪い女を裸にしてくれてもいいのだ。
期待はずれだった。男は穴の範囲から外れたところに行ってしまった。また、穴には有多子だけになってしまう。
だが、一つ違っていた。有多子の顔がぎこちなく、動き出したのだ。僕は瞬きをした。その間に有多子は立ち上がった。首がすわっていないかのように横にかくつかせながら、男の方へ進んでいく。黒髪が後を追って筋を作った。足音はなかった。有多子には足がないのだ。
穴のなかにはもう誰もいない。誰かのうめき声が聞こえてきた。ぎゅっと何かが絞られる音。床と衣服の擦れる音。ジーンズを穿いている足が投げ出された。暴れる。
男が殺される、あの有多子に。僕はスマホを掴みかけた。通報しなければと思った。しかし、ゲーム機や充電器と繋がっている延長コードが邪魔をした。もたついている間に音は無くなった。足は静かに床に降りた。そして、穴は真っ黒に染まった。完全な黒ではなく、線状にできた闇に。
有多子には前髪はない。彼女が正面を向いている限り、額から下の顔つきは見て取れる。つまり、彼女がうつむけば、闇の線ができる。その間から、より一層の暗い瞳を見つけた。僕は……。
――ここまで書いて、僕は手を止めた。パソコン横に置いたスマホの画面を見ると、一時間が経っていた。充電もない。スマホ用の充電ケーブルを手に取った。
パソコンの画面を眺めて、ため息を吐く。どうもつまらない話になってしまった。こう、もっと、人を食らうくらいの化け物にしたほうが迫力があった。恐怖も感じただろう。しかも、足のない幽霊がどうやって人を絞め殺すのか。その辺りも曖昧だ。まったくもって、ものを書く技術が足りない。
そういえば、この話を思いついたのは、自分の部屋の壁に穴が開いたためだった。話の主人公と同じく、なぜだか、開いてしまった穴だ。さすがに一軒家だから、隣人をのぞき見ることはできない。見えるとすれば、書斎の隣の寝室くらいのものだろう。
だが、改めて穴を眺めると、気になった。もし、穴の先に有多子がいたとしたらどうだろう。人を殺しはじめたらどうしようか。そんな想像に笑ってしまった。有多子などいるわけもない。書くことに没頭し過ぎて、想像と現実が混ざる現象はよくある。これもそういうことだろう。
話の主人公に乗っとって、穴をのぞきこんだ。
穴は真っ暗。もともと分厚い壁だ。隣の部屋の壁にまで穴が貫通していると思う方がおかしい。特にこれといって、話と同じように面白くもなかった。時間を無駄にした。一時間で書いた話の出来も悪いことだし、ますます空しくなった。僕には才能も技術もないらしい。今日は酒でも飲むか。有多子も何もかも忘れてしまおう。
穴から離れようとしたとき、闇にちらほら白線が見えた。どうも細い線が集まって闇に見えていたらしい。その白い部分が広くなり、闇の間から黒い丸がのぞいた。
頭が真っ白になる。
睫毛のない瞼は閉じることなく、開いたままでいる。僕は驚きすぎて、瞬きを忘れた。耳鳴りがした。心音が脳を駆け巡る感覚。
『僕は……』の後、話の主人公はどうなったのだろう。穴の隣人のように絞め殺されたのか。わからない。ただ、有多子はそうやって穴を繋げて、部屋から部屋へと渡っていく。消えた足を音もなく滑らせて。そして、僕の手には充電ケーブル。おかしい。充電したはずなのに。おかしい。もう何も考えられない。僕h