クサいけどいい匂い

おまけ

 こいつは自覚が足りない。どれだけ臭いを漂わせても、遠くで見る分には、結構、いや、かなり可愛い。

 はじめて会ったとき、驚いた。でもそんな気持ちを悟られたくなくて、「くせえ」と言った。本当はミラナに向けてじゃない。店自体に言いたかったのに、俺はどうもそういう気づかいが下手らしい。

 二度目に会ったときなんか、完全に怒らせちまった。俺は地雷を踏みつけて自爆したようだ。いつもなら誰が相手であろうと、地雷の上であろうと、平気で歩いて来たのに。ミラナ相手だと違う。めちゃくちゃ落ちこんだ。というか、落ちた。考えのなかに。

 何で怒らせたのかを深く考えていくうちに、俺のこれまでの人生まで振り返ってしまった。親が死んで、ひとりぼっちになった俺。ギルドに入る前の生活は、悲惨だった。物ごいをして生きていた。親がいねえって子どもが泣けば、大人は金をくれるんだ。

 ある日、母ちゃんが好きだった紅茶の香りが風に乗って、俺のもとにやってきた。香りに誘われたのか、今でもわからない。でも、確かに俺は香りをたどって、酒場に入った。紅茶をすするドミナスの隣の席に座った。ガキが酒場に来るなんて、とか。小汚いガキだ、とか。ドミナスがとがめることもない。

「きみ、今、暇かな?」

 たったひとことだった。ガキだとか関係なく仕事をもらった。俺はいつしか、ギルドに所属するようになった。

 そういやそうだった。振り返りの途中で見つけた。俺は自分のギルドが作りたい。俺みたいなガキを雇って、そいつらが独立するまで育て上げる。ドミナスが俺にしてくれたように。ガキは次のギルドマスターになって……続いていく。

 その話をした時は、恥ずかしさで死ぬかと思ったが、ミラナが自分の話をしてくれた時は嬉しかった。少しは心を開いてくれたってことだろう。

 アリーサにミラナの存在を知られたときには絶望しかなかった。相棒のアリーサはドミナスの弟子みたいなもんで、腕っぷしが強い。魔王だ。魔王に腕を絞られ、無理やり店まで案内させられた。案の定、ミラナは静かで礼儀正しかった。つまらないほどに。

 その日を境にして、ミラナは変わった。身なりを気にしているらしく、ますます輝いて見えた。俺はミラナの変わりように戸惑った。そして、あれだけ臭いと思っていた店から出たくないと思うようになった。俺は何度となく、ミラナを抱き締めたくなって、その度に自分を否定した。

 ――ミラナが俺を好きになるわけがない。ミラナが好きになるのは、もっと大人で落ち着いた男だ。悔しいがドミナスや、ミラナの師匠みたいな男が良いのだろう。でも考えると、何でかこう、胸がもやもやした。かきむしりたくなった。

 ここまで来てようやく気づいた。俺はミラナが好きだ。初めて、人を好きになった。ただ、それを伝えるには勇気が足りなかった。

 噂が流れた。ミラナの師匠が帰ってきた話だ。俺はいつものように店まで行ったのだが、入る勇気がなかった。ミラナが大事に育てられてきたことは、彼女との会話でわかっている。そして、こんな俺がふさわしくないこともわかっている。だとしても、ミラナに会いたい。

 ちっさい勇気を持って、店の扉を開けた。出てきた知らない顔に、ちっさい勇気はしぼんでマットに落ちた。

「おや、お客さんですか?」

 細身の体に丸メガネ。ミラナが着るような白衣と店の臭いを身につけている。人の良さそうな顔をしているが、安心はできない。いつ俺を排除してくるかはわからない。他人というのはそういうもんだ。

「いや、あの」言葉と一緒に戸惑った。

「あ、きみはもしかして、トマ・シビリルですか?」

「はい、そうです」

 ミラナは俺の話をしていたらしい。緊張は少し解けたものの、どういった話をしたのか、気になった。いい話じゃないのは何となくわかる。

「わたしはドナート。ミラナの父といってもいいでしょう」

 握手まで求められて、俺はおずおずと手を差し出した。

 ミラナの父――ドナートさんは客間まで通してくれた。俺の好きなりんご酒を出してくれる。紅茶は母ちゃんの香りを思い出すから、苦手だった。だけど、紅茶には罪はない。ミラナが出してくれるので飲めるようになった。

 だが、今はりんご酒がありがたい。冷めていく体に熱を入れたかった。熱が入れば、頭が働くだろうし。さっそく何個か思いついた。

「ミラナは出かけているんですか?」

「ええ、今日は挨拶回りに。本当はわたしも行かなければならないのですが、移転の準備で忙しいもので」

「移転?」このときばかりは変な顔をしていたと思う。

「ああ、港町に新しい店を構えるんです」

「それはミラナも行くんですか!」

 俺がぐずぐずしている間に、ミラナは行っちまうのか。伝える前にいなくなっちまうのか。そんなことを考えたくもなくて、俺は感情のまま叫んでいた。

「いや……」

「ミラナはどこに!」

「ドミナスのところのギルド……」

 ドナートさんの話を最後まで聞く前に店を飛び出していた。ミラナが俺の知らないところに行ってしまう。速く見つけて、話をしなければ。

「行かないでくれ」
「好きなんだ」
「頼む」

 俺は走りながら、ずっとそればかりを頭のなかで繰り返していた。柄にもねえのに、一生懸命、走って、ギルドに着いた。そこにはミラナがいた。紅茶の香りを漂わせて、俺の好きなミラナがいた。

おわり
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