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金魚鉢の外の二人




 真面目な男は苦労すると誰かが言った。

 未成年の飲酒も、順番を守らない異性のお付き合いも嫌いなもので、世の中の女子からは相当うっとおしがられているに違いない。

 なんて、女子に直接聞いたことがないから被害妄想でしかないけど。

 路上に座り込んでおしゃべりを始めた女子高生を横目に、俺は自分をいましめる呪文を心の中で唱える。

「関係ない、関係ない」

 女子高生が股を開いて座っているとか、それがももがむき出しになるほどのミニだとか、本当にどうでもいいことだ。関係ない。

 でも、通り過ぎたあとで、激しくもやもやした気持ちに陥ってしまう。本当は注意したかった。

「お前ら、男の気持ち、少しは理解してんのかよ」

 代弁者が現われてくれたと喜びつつ、後ろを振り返ったら、注意したであろう男も一緒に座っていた。

「ああいうモテナイ男の餌食にされんだ」

 女子高生はやだぁと甘い声を出しつつ、歩行者に視線を向けている。足を止めてしまった俺にも向けられそうになったので、逃げるようにその場を後にするしかなかった。

「ふざけんなよ」

 確かにもてないけど、あんなのを餌食になんかしない。餌食にするならもっと……。

「おかえり」

 部屋の奥から知った声が俺を出迎えた。浴室とキッチンの間を抜ければ、見事に服の数々が散らばった部屋に辿り着く。

 部屋の真ん中には二つのダンボール箱。それぞれのダンボール箱に書かれてあるのは、「いるもの」「いらないもの」の二文字。

「ただいま、何やってんだ?」
「何って、いるか、いらないか、仕分けしてるの」
「あんたが片付け?」
「まあね」

 愛用の赤ジャージに身を包んだ女は、いつもは風になびかせるほどの長い髪を二つに結んでいる。

 ふんふんと何やら怪しい鼻歌を歌いながら、明日雨が降りそうな不気味な仕分けを続けている。自分の服を摘みながら「いる」の箱に入れた。

「これ、全部やるのか?」

 ざっと見れば、ダンボール箱には入らないほどの服が散乱している。しかも、境界線として作ったものを越えて、俺のスペースにまで服が飛び散っているし。さらに、口に出すのは少し照れる下着類も仕分けするってどういうことだ?

「あんたのことだから、仕分けが終わらないで散らかったままにすんじゃねえの」

 あながち嘘じゃないだろう。

「そうなったら、一緒に片付けてくれるでしょ」

 首を傾げて、唇をとがらせる仕草は、別に可愛らしいとか、そういうんじゃない。

 でも、股を開きながら話し込む女子高生たちよりも、男心がそそられるのも確かで。頬が熱くなるのを隠したくて、横にいる金魚の鱗八の様子を伺うふりをした。



 誰が言ったか知らないが、天才は自らを天才だとは思っていないらしい。ならば、隣にいる変人も、自らを変人だとは思っていないのかもしれない。

 他のジャージは基本放置なのに赤ジャージだけは洗濯したりする。

 赤ジャージが無いときは、かろうじて綺麗な状態を保っているキャミソールで腕をさらす。思ったより華奢な肩に細い腕は、女が女であることを示していて、見ていると照れる。

 雑誌を見る振りをしながら、意識は女の腕にいっているのは気のせいだろう。

「今日も雨、明日も雨。いつになったら、赤ジャージに辿り着けるのか」

 女は頬を膨らませながら、窓の外を眺める。外は灰色のカーテン。雨音が途切れることはない。

「着る服がないなら、普通の服を着ればいいだろう?」
「落ち着かないの」

 女が、外の世界では普通の人を通しているのは知っている。でも、タンスの一番下にある普通の服を取り出すとき、女はとても苦い顔をする。

「それに普通のは私の戦闘服だから、家で着るのは変でしょ」

 ほらな。変人はそんな理解不能な話を真面目な顔で語る。同じ人間より、金魚の鱗八のほうが理解できるかもしれないなあと思っていると、女の頬が赤く染まった。

「どうした?」
「な、な、そんな優しい目で見つめないでよ!」

 見つめていたつもりではないのだが、しかも鱗八のことを考えていたし。

 それにしても、優しい目と言われて恥ずかしくなり、頬が熱くなるのは、俺もよっぽどの変人だということだろう。



 「おはよう」と呼び掛けた俺に、鱗八は挨拶を返すように金魚鉢の中をくるりと一回りした。

 透明な隔たりを通して、愛くるしい目で見てくる彼は、本当に優秀なペットだと思う。

 窓の右横にある小さなテーブルの上が彼のスペースであり、これ以上はみ出してきたりしないのだ。本当にあの女に爪のあか、いや、金魚のえらのあかでも舐めさせてやりたい。

 左端には敷いたはずの布団が放置されたままで、女は俺が貼りつけた境界線テープのど真ん中で、大の字に寝てやがる。昨夜、布団の中で寝たなら、かなりの寝相の悪さだろう。

 大きく広げられた両腕の片方が、俺の体にかけてあった毛布の端を掴んでいる。どうも寒いと思ったら、女に奪われていたんだな。

 それにしても、前髪が後ろに流れて、形のいいおでこが見える。いつ手入れしているのかバランスの取れた眉、目を伏せているときのまつ毛は意外と長いので驚いた。鼻は少しだけ低いんだけど、小顔には合っているのかもしれない。

 下に視線を移していくと、目の端に赤いものが見えた。でも、直視はできなくて、すぐに俯いた。

 何だろう、この恥ずかしさは。好きでもない女の唇一つに動揺するなんておかしいだろう。いつも隣にいる赤ジャージの女じゃないか。

 いやいや、と首を横に振りまくった。いつも隣にいるなんていう表現もおかしい。不本意だが、一緒にいることになったのだ。

 意地でも、女の唇を直視してやる。何とも思っていないことを証明してやる。俺は覚悟を決めて、正面を向いた。

 思っていたより、唇の手入れは行き届いていた。かさかさではなく、下唇はぷにぷにとやわらかそうに膨らんでいる。どんどん女の唇が目一杯に広がっていく。鼻息が間近に感じられるほど、吸い寄せられていることに気付いたときには、自分のしでかした失態に頭を抱えた。

 おはようと間延びした女の挨拶が聞こえるまで、俺は自分の行動の真意がわからなくて、悶えなければならなかった。



 あの人は鱗八くん(金魚)を穏やかな表情で見ている。いつもは仏頂面で、さも真面目なことを言いたそうにしているのに、鱗八くんといるときは自然体で、笑い混じりの冗談まで言っている。

 金魚ではなく、人間の彼のことを知ったのは先輩の話を聞いてから。

「うちの弟。未だに彼女ができないんだよね。真面目すぎるのがいけないと思っているんだけど。しかも、鱗八とかいう金魚が唯一の親友らしいし。姉としては心配なのよ」

 と、聞かされて、数日後には一緒に住むことになるなんて思いもしなかった。ルームシェア先を探していたわたしは、先輩から「信用できる人」を紹介された。それが彼であり、彼の方も先輩から何も聞かされていなかったに違いない。いきなり押し掛けたわたしを怪訝な表情で迎えたから。

「姉貴にはめられた!」

 わたしの話を聞いた途端、彼の声が爆発したっけ。

「あんたもそうなのか?」

 一つ頷けば、彼は腕を組んで考えごとをはじめた。ようやく落ち着いて見られた彼の横顔は、聞いた話より涼しげに見えた。後ろについた寝癖も、顔立ちも、先輩の話から想像したものとまったく違っていた。

「まあいいや。あんた何している人?」
「社会人です」
「俺は大学生……です」

 彼からおずおずと差し出された手。触れてもいいのかな。わたしは少しだけ緊張していて、ゆっくりと指の先で触れるのがやっとだった。

「よろしく」と彼。
「よろしくお願いします」

 それから、翌日にはもう、わたしの化けの皮ははがれてしまった。愛用の赤ジャージを身につけて床に転がることも。掃除や料理ができないことも。

 すべてが彼になら見せられる特別な……それでも自然体なわたしの姿なんだ。絶対、わかってくれないけど。



「こういう娘、いいよな」

 めずらしく、人差し指まで差して、声を上げたのは鱗八くんのご主人様。てっきりスマホを眺めていると思ったら、テレビを観ていたようだ。

 骨ばった長い指が差した先には、テレビの画面があって、ゴールデンの番組がやっていた。トークが展開され、ソファーの中央におとなしく座った小柄な女の子が、お笑い芸人の話に上品よく笑っている。

「家事全般ができそうだし、可愛いし、いい」
「そんなのわからないよ。本当はできないかも。テレビだけじゃ判断できないこともあるし」
「この娘、料理本も出しているんだから、間違いない」

 彼は何でこんなに、この娘のことをかばうんだろう。わたしもイライラするんだろう。

「絶対、彼氏いるし」

 怒るかと思ったら「そりゃそうだ」と、彼の意識はテレビから興味を失ったように、スマホへと向いてしまった。少しホッとする自分がいる。

「料理かぁ」

 一人つぶやいた。テレビのあの娘は料理の良さについて語っている。わたしにできないもののの一つとして数えられる料理。やればできるのかな。愛があればおいしくなるのかな。誰かのために挑戦しようと思ったのは、これがはじめてかもしれない。

 彼がバイトに出かけてしまってから、夕飯時になった頃に、内緒の計画を練る。黒いエプロンを首に通して、紐を腰に巻きつける。着なれたジャージに、着なれないエプロンはかなり変な感じ。

 キッチンで何がいいかなぁとあれこれ考えて十分。冷蔵庫のなかを見て、ようやく決めたのはチャーハンで、作り方を思い出してみた。

「炒めるんだよなぁ、たぶん」

 ピーマンとか、たまごとか、色んな具が入っていたから、野菜を切ってみよう。包丁はほとんど持ったことがないから、ひやひやもの。

 でも、ていねいにやってみれば案外うまいことかたちになって、嬉しい。たまごも殻が入らないように慎重に。冷やご飯は、いつも彼がラップをして冷蔵庫に入れてくれているから、それを使った。

 炒めて、具材も入れて、また炒めて、完成した。練習にしてはうまくいったかもしれない。お皿に移して、味見はしたほうがいいかなと思ったとき、がしゃがしゃとキーを回す音を聞いた。キッチンからのぞいたら、鱗八くんのご主人様がいつもの真面目顔で立っていた。すぐに眉をひそめて、「何やってんだ」と聞いてくる。目線はどうやら皿のほうに行っているみたい。

「何って、料理」
「その物体は何だ?」
「チャーハン」
「チャーハンにしてはべっちょりしてるし、薄い色してんな。炒めたのか?」
「うん、一応」

 ほら、と彼の目の前に突きつけてやる。まだ練習だけど、味見もまだだけど、作ったことはつくった。

「まあ、確かに」

 彼は苦笑いしながら、わたしの横をすり抜けた。バッグを部屋の隅に置き、折り畳み式のテーブルを広げて、皿を置くように言う。わたしは自分の皿に残りを盛りつけて、スプーンと一緒にテーブルに置いた。

 スプーンを受け取った彼は、背筋を伸ばして「いただきます」と手を合わせる。わたしも向かい合って座って、「いただきます」をした。

 でも、彼の反応が気になってしまって、スプーンを握ったものの、食べられない。なんて言ってくれるんだろう。

 彼は一口分をスプーンですくって唇に持っていった。口を開けて、わたしのチャーハンを放りこむ。もぐもぐと顎を動かして、しばらくして喉仏が上下した。

 沈黙だった。心臓は忙しなく高鳴っていたけど、彼とわたしの間は静寂のなかにあった。

「ど、どう?」

 勇気を振り絞って聞いてみたのに、彼からの答えは返ってこない。ただ、スプーンがまた動きだして、チャーハンを平らげようとしていた。美味しいのか、まずいのか、はっきり言ってほしい。

「いいよ、はっきり言って。まずいんでしょ?」

 彼は無言で首を横に振った。

「じゃあ、美味しい?」

 何も言わなかった。でも、彼の前にあったチャーハンは姿を消して、皿だけになっていた。

「ごちそうさま」

 彼は染み付いた習慣のように皿とスプーンをシンクまで持っていく。背中を見送りながら、少し冷めてきたはずの自分のチャーハンを思い出した。スプーンを手に取り、いざ、食べてみる。

「ひ、ひどい」

 味がなかった。美味しくもまずくもないチャーハン。彼はどんな思いで食べきったのかな。目頭が熱くなってきて、チャーハンを食べるしか気が紛れないことに気づく。

「あんたの料理、俺以外には食べさせないほうがいい」

 驚いて顔を向けると、彼が屈託のない顔で笑いかけてくれていた。

「かなり微妙だから」

 意地悪な言葉で締めようとした彼だけど、わたしは知っている。本当はかなりの照れ屋さんで、鱗八くんの体の色と同じくらい耳が赤くなること。今もほら、耳が真っ赤に染まっている。

「ありがとう」

 また、料理に挑戦してみようって思う。そんな決意を口にしたら、彼は「今度は俺が教えてやる」と、これまた、照れたように言ってくれた。



 彼女は俺にとって友人以下の、ただの同居人のはずだった。女として意識しなかったわけではないが、白い肌や唇は、男として勝手に反応しただけだと思う。修行が足りないのだと。

 しかし、帰路とは逆の方へ足が向いているのは何でだろう。俺はどこへ向かっているのか。ひどく混乱している。

 彼女がある人物に抱き締められていた。マンションの前。背広を着た会社帰りらしき男が、いやらしい手つきで背中なんかさすって、俺の目には下心が見えた。

 思わず、間に入って密着したふたりをはがそうと足が動きかけたけど、すんでのところで止めた。

 だって、見てしまった。彼女は幸せそうに微笑んで男の片に頬を寄せていた。目の端には涙が光っていて、不本意だが綺麗だった。

 男が彼女を女の顔にしているのだと思うと、見ていられなくなって。目をそらした瞬間、気づいたら逃げ出していた。いつの間に、こんな気持ちが育っていたのかなんて考えもしなかった。

「恋か……」

 気づいた瞬間に失うぐらいなら、いっそのこと気づかなければよかった。鈍感な男のままでよかった。

 陳腐だと思っていた恋愛ドラマの主人公も、痛みをともなった片想いを載せた音楽も、今では勇ましいものに映る。

 俺は好きだったんだ、彼女のことを。俺は好きだった。

 これからのことでたった一つ言えることは、もう一緒にはいられないってことだけだ。



 今日の部屋は雨音しかしない。せっかく憧れの先輩に告白できたと浮かれていたのに、お天気の崩れとともに気分は底に沈んだ。

 鱗八くんを放っておいて無断外泊なんて、彼らしくない。何かあったに違いない。

 事故かもしれない。もし彼が死んでしまったらどうしよう。ただちょっと考えてみただけなのに、不安が沸き上がってきて、周りがかすんで見えた。

 ただの同居人。友達以下だもの。

 好きだったのかな。

 先輩からの誘いを断ったのも。今日一日、外に出られなかったのも。彼の帰りを待ちたいからなのかもしれない。

 スマホの冷たいボディに頬を押しつけて、画面の向こう側にいる先輩に今の気持ちをぶつける。

 姿は見えないのに、何度も頭を下げて。「ごめんなさい」と言い続けた。

 彼がいなくなってはじめてわかること。小雨の音でもはっきりと聞き取れる。



 友達は鱗八以外にもいる。ところかまわず男を引っかける姉貴には、もちろん話してなどいない。もし親友のやつが義理の兄貴になったら、面倒くさいからだ。

 芝生のような坊主頭のやつは言う。

「それで、のこのこと逃げてきたわけだ。淡い恋心がどす黒い嫉妬心に変わる前に」

 偉そうに腕まで組んで、説教しようというのか。

「うるせえ」
「顔を合わせて、どうしたらいいのかわからない。嫉妬して傷つけてしまうのが恐い、と」

 何で悟りを開いているように目を細めているのか。

「うるせえ」
「図星かぁ」

 男ふたり、こたつに入って、みかんの実を口に運ぶ。甘酸っぱい。

「言っちまえば楽なのに」
「こっちが楽になっても、相手が楽になるわけじゃない」
「お前なりの愛ってやつか」

 愛なのか。逃げ出す口実なのか。俺にはわからない。

「そういや、愛しのペットは置き去りのままか?」
「あ、忘れてた」

 鱗八のことをすっかり忘れていた。あの女はきちんと世話をしてやっているだろうか。

 料理も満足にできないあの女が、他人の食の世話なんてできるか疑問だ。だんだん不安になってきた。

「俺、帰るわ」
「はあ?」

 何かわめいている声が聞こえてきたが、俺は構わず靴を履いた。

「傘、借りていく」

 ビニール傘を持ち、外へと飛び出した。彼女に会ったら何を話そうかなんて考えないまま。



 鱗八くんにエサをやりながら、彼のことを考えていた。いつも優しい目で鱗八くんを眺める。太陽の光のように、金魚鉢の外から暖かい眼差しで包みこむ。やわらかい声で話しかけ、頬をゆるませる。

「鱗八くん、きみは愛されてたんだね」

 でも、わたしにだって、彼からもらった優しさがあるんだ。ぶつぶつ不満をこぼしながらも掃除を手伝ってくれたことも。カップラーメンに侵食された食生活を心配してくれたことも。お母さんみたいに。

 料理を失敗しても怒らないでいてくれた。きちんとアドバイスをくれて、次からは失敗しないように。わたしから料理にチャレンジする機会を取り上げないで見守ってくれた。

 わたしはいつも出されたエサに食らいついていただけで、お返しもできていない。まだ、何もやれていないんだ。

 急に力がみなぎってきて、彼を捜そうと思い立つ。部屋を飛び出そうとしたところで、一足早く扉が開いた。

 持っていかれる手、カラダ。ドアノブから手を離したのが悪かった。気づいたときには誰かの固い胸板に飛びついてしまっていた。

「ごめんなさい」

 慌てて顔を上げたら、誰かの顔はそらされた。“誰か”は何十年も会っていなかったのような懐かしさと、わたしの心臓を打ち鳴らす。

 鱗八くんの体の赤にそっくりな顔色。耳まで真っ赤っかに染まっている。

 彼はわたしの肩に手を置いて支えてくれていた。「離してくれていいよ」なんて言ってみたら「何で」と不機嫌そうな声が返ってきた。

 ようやく彼の目がわたしを見てくる。

「恥ずかしいから」

 彼は辺りを見回して、外に出ていたことに気づいたらしい。「うわっ」と後ろに飛び退いた。彼の足元に転がっていたビニール傘が靴の先に当たる。

「雨……」

 雨のことなんてすっかり忘れていた。

「雨、上がったみたいだな」
「うん」
「あいつ、誰だ?」
「あいつって?」
「マンションの前であんたをその……」

 彼は言いにくそうにうつむいた。驚いた。あの時、見られていたんだ。

「好きだった人。でも、ダメだった……」
「そうか」

 彼ははにかんだあと、すぐに気がついた様子で顔を曇らせた。今日の彼はよく顔色を変える。

「あの、さ」
「うん?」
「鱗八のエサは」
「あげたよ」
「じゃあさ、どこか行かないか? せっかく晴れたんだし」

 気をつかってくれている? わたしが失恋したと思っているのかもしれない。

「そうだね」話に乗ってあげることにした。

「あ、でも、この格好じゃ外に出られないかな」
「へえ、俺といるときはいつもそれなのに」
「だって、デートでしょ」

 赤ジャージで出歩くなんて恥ずかしい。さらに部屋以外の場所でふたり並んで歩くのが一番恥ずかしい。

 彼の耳が真っ赤に染まる。いつものちょっとした寝癖。手を伸ばせば、すぐに届く。

 そんな位置に、これからもいたい。

おわり
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