毛玉とダイエット

2 毛玉のごはん

 胸の痛みはあのときだけだった。結局、何だったのか、わかんない。まあ、いっか。考えこまないのがわたしの癖だ。

 洞窟の穴をのぞいてみても、勇者はまだ戻ってこない。今日は崖を登ってくると言っていた。あんな崖を登れるの? と、心配になってたずねたら、「勇者だからな」とあっさり返された。なるほど勇者ってすごいな~と感心したものだ。わたしだったら落石と同じように転げるだけだもの。

 お夕飯は何にしようかなと考え始めた頃、勇者は戻ってきた。崖を登っても朝と同じ格好を保っている。ただ、勇者の髪の毛は青みがかった黒をしている。ちょっとだけ汗にまみれて重たそうだ。いつものつんつん頭もいいけど、降りた髪の毛もなんかいい。なんて、見惚れている場合ではなかった。

「おかえりなさい、あなた」

「ああ、ただいま」

 これは人間がよくするあいさつらしい。「あなた」と呼ぶと勇者は顔をほころばせる。いつもはきりっとしているのにこのときばかりは目尻を下げて、笑うのだ。でも、すぐにしかめ面に戻って、壁際を背に座りこむ。もっと笑顔を見たかったのに、残念だけど仕方ない。

 わたしは勇者のごはんを作るために、魔とかげの串刺しをこんがり焼いていた。勇者は人間だから、とかげの生焼けはお腹を壊すだろう。だから、頭からしっぽまでしっかり焼かないとならない。薪を燃やし、洞窟のごつごつ壁に明かりが照らされる。

 ちょっと焦げ臭くなったら、とかげを火のなかから取り出す。乾いた葉っぱの上にとかげを置き、その回りに崖でとれたキノコを盛りつければ完成だ。

 勇者の前に「めしあがれ」と差し出せば、彼は「よし」となぜか気合いを入れたみたいだった。聞いた話によれば、人間は草とか肉とかをよく食べるらしい。草や肉にもいろんな種類があって、彼らはわざわざ育てているのだという。すごいなと漠然と思う。

 勇者は豪快にとかげの頭を噛みちぎった。むしゃむしゃと食べてごっくん。喉には通ったらしい。

「んまい」

「本当!」

「ああ」

 魔ねずみや(ここのところ大量な)魔こうもり。いろんなものを料理して差し出してきたけど、んまいと言われたのはこれがはじめてだった。わたしは嬉しさのあまり飛び跳ねる。だけど結局、自分の体を支えられずに地面に転がってしまうんだ。

「大丈夫か?」

「ん、大丈夫」

 どんくさいわたしにいつも手を差し伸べてくれる。勇者の手は毛なんて生えてなくて、でも岩みたいにごつごつしている。わたしは起き上がっても勇者の手を離そうとは思わなかった。ごつごつした感触をもう少し味わいたくて、彼の手を毛先でくすぐるように撫でる。

「おいっ」

 勇者は慌てたような声で手を引こうとした。でもまだダメ。満足していないもの。わたしは勇者の手を自分の頬に寄せた。

「勇者」

 そう呼びかけたとき、勇者は固まった。手に力がこもる。あまり力をこめられると、毛が抜けてしまいそうだけど。何か悪いことをしてしまったのだろうか。こちらからの手をゆるめる。

「ご、めんね」

 でも、気がついたときにはわたしは地面に転がされていた。勇者はものすごい怖い顔でわたしを見下ろしてくる。

「ゆ、うしゃ?」

 もしかして勇者はわたしを殺そうとしているの? わたしが魔物だから、勇者は殺すの? 何だ、そっか。おじいちゃんも言っていたっけ。人間は魔物を見ると襲いかかってくる。理由なんて特にないって。

「他の人間なら嫌だけど、勇者ならいいよ」

 勇者なら殺されてもいいや。本気でそう思って言ったのに、勇者はますます顔を強ばらせていく。

「わかって言っているのか?」

「わかってるよ」

「わかっているようには思えないが」

 勇者は時々、上から目線だ。ちょっとだけイラッと来てしまって、頬をふくらませた。

「わかってる。勇者なら何をされてもいいの!」

 強く言ってみれば、勇者は目をまん丸にした。

「そ、そうか、なら遠慮なく」

 そう言った勇者がなぜか、喉を鳴らして唇を近づけてくる。あれ? 殺すんじゃなかったの? わけがわからないでいると、勇者は体を密着させてくる。手がわたしの胸の辺りをさまよった。

 唇が毛に埋もれようとしたとき、わたしの体の奥が震えた。これってどういった感情なんだろう。勇者の瞼を見ていられなくて閉じたら。

 洞窟に響くくらいの「帰ったぞ!」という大きな声がした。この洞窟に帰ってくるのは勇者とおじいちゃんだけ。とうとう帰ってきたのだ。
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Clap