ヤメ騎士さんとわたし

第17話『忘れる』


 その場にしゃがみこんだ。拭っても拭っても、涙はこぼれてくる。鼻をすすり過ぎて、頭も痛くなってきた。

 泣いてもしょうがないのに。ロルフさんを責めてもどうにもならないことはわかっているのに、諦めきれない気持ちが残っている。

 ロルフさんと一緒にいたかった。できるなら、もう少し、あたたかい手に触れていたかった。でも、無理だった。

 今あるのは雨と涙で冷えきった手だった。荷物をお腹に抱える。両手を握ってみても、あたたかくはならない。

 セブランさんは立ち上がろうとしないわたしを、ただ見下ろしていた。腕を組んで、苛立たしげに人差し指でリズムを刻んでいる。

 無理矢理にも連れていかれないのはありがたかった。もしそうなったら、ここから動きたくないと抵抗していただろう。

 わたしは涙をひかせようと、必死に目元を手で拭った。涙がこぼれ落ちないように、ぎゅっと強く瞼をつむる。心を落ち着かせるために、呼吸を繰り返す。

 ――大丈夫。遅かれ早かれ、ロルフさんと離れると思っていた。少しだけ早くて驚いただけだ。あの人・・・のことは忘れる。あの人が望んだのだから。

 そうだ。泣いている場合じゃない。わたしはこれからどうなるのか。その方が重要だ。

 震える膝をかばいながら、両足で立った。

 セブランさんは「セーラ」とわたしの名を呼んだ。あの人が話したのかもしれない。わたしについてのことを、先程の短い時間で。

 わたしはうなずき、セブランさんの話に耳を傾けた。白い顔から表情を見ようとした。けれど、瞳と唇しか動きのない顔からでは難しい。

 話が終わると、セブランさんはわたしに背中を向けた。ゆっくりと城に向けて歩き出す。何歩か歩いた後に足を止めて、こちらを振り返った。奥の方に腕を指し示された。わたしも行かなければならないらしい。

 フードを深くかぶった。腰の曲がった老婆のように、セブランさんの歩き出すブーツのかかとを追った。

 ざあざあ降りとなった。濡れた地面の臭いがする。でも、森にいた時には、もっと、強く臭っていた。隣にはあの人もいて。

 どうにか振り払ったけれど、こんなに自分が未練がましいなんて知らなかった。森のことは忘れていいのだ。もう必要ない。

 お城に踏み入れると、臭いもあまり感じなくなった。雨音は小さくなり、博物館のような静けさに心細くなる。

 お城のなかに入れてもらったというのに、特にプラスの感情はわかなかった。石壁のゴツゴツした肌が木目の壁に劣るように見えたこと、とか。床も固くて土の上を歩くより足が疲れること、とか。そのくらい。

 人がいないわけではなかった。セブランさんが歩いている間は、他の人たちが道を譲る。言葉を発しない。セブランさんは鎧やマントを身にまとっているし、お偉い人なのかもしれない。

 何より、びしょ濡れのわたしが床を汚すことが惨めだった。

 出会う人はみんな、サイズのあった綺麗な服を着ている。セブランさんもだ。わたしだけ、借り物の服とぶかぶかのブーツで通路を歩く。汚ならしいものを見る目で、少し後ろに下がる人たちの姿は、かなりきついものがあった。

 ずいぶん奥まった場所に行くのだなと思った。お城の通路と繋がっているものの、離れへと進んでいく。この辺りまで来ると、人がいなくなった。

 通路が右と左のふたつに別れた。セブランさんは、立ち止まることなく右を選び、部屋の扉の前まで来た。

 そこにいたのは恰幅のいい女性だった。お腹のせいか、白いエプロンの裾が短い。赤毛を編みこんで後ろでひとまとめにしている。セブランさんはわたしをこの人に託したらしい。すっかり用事をこなした後、挨拶代わりに片手を上げて、いなくなった。

 女性に案内されて入った部屋のなかは、昼間だというのに薄暗い場所だった。部屋の中央に四つ足の白いバスタブがある。湯気も出ている。湿気を帯びた石の床に、ブーツからの泥水が筋を作った。どうやら、ここは浴室らしい。

 女性はわたしの目の前に立つと、ローブの裾を両手で掴み、まくり上げた。どうも脱がそうということらしい。人の手で脱がされるより、自分の手でやってしまったほうがいい。

 わたしは後ろに下がって、勢いよく脱いでいった。かごがあったので、そこにローブを投げ入れる。座りこんで、足を投げ出した。紐を手早く解いて、ブーツを脱ぎ捨てる。

 服のあれこれを見ていると、あの人の思い出がちらついてくる。自分を急かしながら脱いでいった。

 服もさらしも全部脱ぐと、女性から背中を向けて、しゃがみこんだ。桶があったので、勝手に湯船からお湯をすくって、体にかけた。

 しかし、女性も負けてはいない。布を取り出し、わたしの腕をこする。あんまり強い力でこすってきたなら、抵抗しようかと思ったけれど、案外、優しい手つきなのだ。流れで、髪の毛も洗われた。最終的にはすべて任せてしまった。

 こんなにさっぱりできたのは久々だった。頭からお湯をかぶり、湯槽に浸かり、汚れの落ちた自分の肌を見た。足にできた擦り傷は、治りかけていた。あの人がマッサージしてくれたことを思い出し、鼻の奥がつんと痛くなる。

 わたしは泣く前に、お湯を顔にかけた。考えてはいけない。もう終わったことだ。

 湯槽から体を上げて、わたしは女性にしたがった。布とは違う、タオルに似た生地で水気を取ってもらう。髪の毛もまあまあ乾いて、上出来だった。

 木綿の生地でできた白い服は、腕をすっぽりと包み、袖は広がっていた。首が隠れて、ちょっとしたシスターみたい。でも、頭は出ていた。腰は紐できゅっと絞られて、裾は足元まであって、長めだった。靴まで揃っている。

 ますます、ここに来た目的がわからなくなった。何のために、わたしはここにいるのだろう。これから、どこへ行くのだろう。

 女性は知っているようだった。両手を前で組んだまま、姿勢よく歩き出した。

 先程通った道を引き返し、反対側の通路に入った。扉を開けて、暗い部屋のなかに足を踏み入れた……はずだった。

 入ってみても、通路が続いているような感覚がする。奥まで明かりが連なっている。背の高いトーチが両側に整列を作っている。まるで、この先に何かがあると言っているように。

 女性の腕が先を示した。トーチの明かりを受けた顔は、何を考えているのか、想像もつかない。しかし、腕が指し示している通り、先に進まなければいけないらしい。

 足がすくむことはなかった。ここまで来たら、一緒だと思った。もう何も失うものはない。どうにでもなれ。ある意味、投げやりだった。

 わたしはトーチの間をひとりで歩き出した。
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Clap