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悩める白馬の騎士


 騎士のイリダルといえば、城のなかで知らないものはいない。何といっても、第3王女ファイーナの護衛を志願した変わり者である。周りからは「なぜ、お前のような有能な騎士が護衛などするのか」、「他の者でもできるだろう」と言われてきた。

 しかし、イリダルは頑として聞かない。

「ファイーナ様をお守りするために、に……騎士になった。もし、ファイーナ様がやめろとおっしゃるのなら考えて……いや、そんなことは考えたくはない」

 何より、イリダルのすべては、ファイーナだった。「わたくしから離れて」と言われれば、泣く泣くイリダルは離れるだろうが、ファイーナはそうしなかった。

「イリダルはわたくしをどんな時も守ってくれると、約束してくれました。これからもずっと、一緒です」

 ファイーナがそう言えば、イリダルは強面を崩し、胸の内で万感の涙を流す。そこで、ファイーナが自身で縫い上げた刺繍入りのハンカチを渡せば、しばらく呆然と立ち尽す。ようやく気がついたかと思えば、「頂戴したご恩は、わたしの一生をかけてお返しいたします」と、腰を落として頭を下げた。

「イリダルったら、大げさですわね」

 ファイーナはくすくすと笑い、その顔にやられたイリダルがまた硬直する場面も、多々あった。

 ふたりの関係は、出会いからすでに決まっていた。あの森でふたりが出会った頃から、イリダルの人生は決まったようなものなのだ。

 イリダルは、元は人間ではない。長い四つ足、尻からは尾っぽ、なだらかな背中に、たてがみがある。細長の顔は特に表情はない。人間のような意思は持たない、完璧な獣だった。白い毛に覆われた馬だった。

 白馬イリダルは水を飲もうと歩き出していた。獣の本能として、水を求めていた。静かな森にふさわしくない音が聞こえてきたのは、川へ行く道中だった。

「いやです、離して!」

 少女の悲痛な叫び声がする。木々の間を抜け、茂みを越えると、ふたりの人間が言い争っていた。

「離すかよ!」

 イリダルの前で少女の腕に小汚い男の指が触れる。イリダルの足は止まった。本来ならば、音に驚き、逆の方向へ逃げるのが、獣としての本能だろう。それをしないで、黙って人間たちの争いを眺めた。

「触らないでください!」

「こら、暴れんな! 王女さんよ、あんたをおれたちのアジトへ連れていなきゃなんねえ。手荒なことをされたくなかったら、大人しく……」

 パンっと弾くような音がした。男がすべてを言う前に、思い切り頬を叩いたのだ。王女と呼ばれた少女がビンタをかましていた。その瞬間、イリダルの体がぴくっと動いた。

「てめえ、この!」

 男が王女の腕を取り、右手の拳を当てようと構えた。振り下ろされる。まさにその時、イリダルに変化が生まれた。いきなり内側から感情があふれてきたのだ。

  ――たやすく、触れるな!

 それは怒りだった。体が震えるような強い怒りは、白馬の姿を変えた。たてがみが頭の髪に縮み、毛の少ない肌になっていく。四つ足が二足歩行になった。白馬は、全裸の青年イリダルへと姿を変えていたのだ。

「やめろ!」

 しかも、声が出る、人間の話す言葉が。

 悲鳴を置き忘れた王女は全裸のイリダルを前にして、目を瞬いた。殴りかけた男も目を丸めていた。イリダルだけが自分の姿を見られないために、気づいていない。イリダルは全裸姿で、男に飛びかかった。

 筋肉に覆われた腕は屈強だった。先程まで獣として生きてきたためか、男ひとりをねじ伏せることもたやすい。馬乗りになり、拳で何度か殴り付ける。男は抵抗を失う。両手両足をだらりとして、のびた。もう暴力の必要はない。だが、イリダルは殴りつけるのを止めない。

 王女ファイーナは自身の震える指先を一度握ると、イリダルの肩に触れた。

「これ以上は、いけませんわ」

 ファイーナの声にイリダルの拳が止まる。瞳が宙をさ迷ったかと思えば、腕は素直に下ろされた。馬乗りをやめ、イリダルは立ち上がった。荒い息を深呼吸で落ち着けてから、改めて、ファイーナに顔を向ける。

「怪我はないか?」

「この通り、ありませんわ。あなたのおかげです」

 ファイーナはほほえんで、イリダルの手をすくい上げた。そして、血のついた汚い手をハンカチで丁寧にふいていく。

 焦っていたのは、イリダルの方だ。王女の手の温かかさとなめらかさに気づいてしまい、心臓がどくどくと波打つのを感じた。

 抱き締めたい。自分のものにしてしまいたい。イリダルは、はじめて心に宿った気持ちに戸惑っていた。どうしたら良いかわからず、硬直してしまう。その間に、ファイーナは急に手を離し、顔をうつむかせた。目だけをイリダルに向ける姿に、またしても心音が高鳴る。

「服を着ていただけます? 目のやり場に困ってしまいますの」

 全裸がとてつものなく失礼で恥ずかしいものであるということも、この時の抗議で知った。

「服など持っていない」

「まあ、それなら、わたくしの別邸に参りましょう」

 ファイーナは白馬が人間へと変わったというのに、警戒はしていなかった。ただ、イリダルの世話を焼けることが嬉しいというように笑っていた。できるならば、イリダルはファイーナのそばにいたかった。

 ファイーナを好ましく思っていたのだ。しかし、イリダルが自分の気持ちに気づくには、まだ時間が必要だった。芽生えた気持ちを抱えたまま、ファイーナに連れられて別邸へと向かった。

 もちろん、別邸に住みこむ使用人たちを説得するのは骨が折れた。でも、ファイーナは、イリダルがどれほど自分を助けたか力説し、無害であることを語った。

 そのかいもあり、ファイーナの思い通りに、ことは運んだ。イリダルに服を与え、人間としての教育、文化を教えこんだ。どさくさに紛れて、イリダルは約束を取りつけた。

「どんな時もお守りいたします。これからもずっと、一緒です」と。

 ファイーナはこの約束を持って、イリダルを自分のそばに置けますわと、とても喜んだ。


 日々は過ぎ去り、イリダルは騎士となった。騎士という職業は、ファイーナを護衛できる。何より、そばで笑顔を守ることができる。なんと素晴らしい仕事だと、イリダルは思っていた。

 しかし、最近のファイーナは顔色が優れなかった。

「イリダル。わたくし……」

 イリダルは続きを辛抱強く話を待つが、「何でもありません」と言われてしまう。それは、イリダルに言い様のない不安を与えた。まるで、ファイーナが自分の手の届かない遠い場所へと行ってしまうかのようだった。

 夢までも不吉だった。夢のなかのファイーナが「あなたはもう必要ありません」という。

 彼女の隣には、イリダルではない、別の男がいる。顔は黒く塗りつぶされていたが、屈強な騎士とは違い、細身だった。ファイーナが男と体を寄せ合って遠くへ消えていく。イリダルが「ファイーナ様!」、「お待ちください!」と叫ぶ。だが、ファイーナは行ってしまう。何度か繰り返した後に、夢は途切れた。

 イリダルは寝台から起き上がると、荒くなった息を落ち着かせるように深く吐き出した。胸が押し潰されるように痛み、寝間着の上からかきむしる。いっそのこと、心臓を取り出してしまえば、楽になるかもしれない。ファイーナがいないのならば、白馬に戻る方がいいのかもしれない。それができないのは、やはり、ファイーナのそばにいたいということだった。

 嫌な予感の通り、ファイーナの周りが慌ただしくなってきた。隣国の王子がやってくるのだ。それは、ファイーナとの婚約を進めるためという見方が、大半だった。

 イリダルもさぞや落胆しているかと思いきや、彼は動揺していなかった。冷静に仕事に当たっていた。表向きは、ファイーナとの接し方も変わらず、愛情を注ぐだけ注ぐ。ファイーナが転びそうになったとき、寸前に腰を抱き寄せるという芸当もこなした。

 ファイーナは、1日の終わりにイリダルを自室に招いた。もちろん、イリダルは紳士らしく部屋の扉を開けたままにしておいた。この大事な時期に妙な噂が立っては困る。話を手短に済ませ、すみやかに部屋から出なくてはならない。

 悠長な動きで、長椅子に腰を落ち着かせたファイーナは、ため息をこぼした。イリダルは愛しい人の険しい顔に、胸が締めつけられる思いだった。

「ファイーナ様、どうされましたか?」

「今日のことであなたの気持ちがよくわかりましたわ」

「わたしの気持ちですか?」イリダルはファイーナの真意がわからないでいた。

「ええ。あなたは、わたくしがどこの誰かと婚儀をあげても平気なのでしょう。あなたはちっとも、悲しくないのです。わたくしはあなたを、あなたを……」

 ファイーナはついに泣き出してしまう。体を曲げて、子どものように泣きじゃくる。イリダルは差し出そうとした手をどうしたものかと、さ迷わせた。

 平気。そう思われるために、イリダルがどれだけ自分の気持ちを押し潰して来たか。今にもあふれ出しそうなファイーナへの気持ちを隠し通すのは、難しかった。

 しかし、すべてはファイーナが幸せになるなら、と割り切った。自分が身を引くという選択をした。その努力がファイーナを悲しませるというのか。だとすれば、やめたほうがいいのではないか。寸前まで考えてしまうが、ファイーナとイリダルの気持ちは違うのだ。ファイーナの気持ちは親愛から来るものだ。邪ではない。対して、イリダルの想いは邪で、情愛からのものだった。

「わたしはもう、あなたには必要ありません」

 夢のなかで言われた言葉を自分から口にする。どれだけ身を切れば気が済むのか、自分でもわからない。イリダルは錆びた剣で自分の体を傷つけるように、痛みに耐えた。最後まで忠実な騎士として、せめて、口の端を上げた。以前、ファイーナにほめられた精一杯の笑顔だった。

 ファイーナは涙で濡れた顔を歪める。眉を寄せて、瞬きをすると、涙がもうひとつこぼれ落ちた。

「どうして、そんなことを言って、笑えるのですか?  わたくしにはあなたが必要なのに。あなたがそばにいなければ、わたくしは駄目なのに。
ずっと、王女でいることが苦痛でした。でも、あなたを拾った時、わたくしは本当に王女で生まれてきて良かったと思いました。
きっと、あなたを騎士にするために、わたくしは王女になったのですわ。森のなかで、山賊に襲われて、あなたに助けられて。あの日からずっと、わたくしは、あなたが、好きです。好き!」

 だだっ子のように告げたファイーナは、涙を指で拭う。それでは間に合わずに、ぽろぽろと雫が落ちて、ドレスに染みを作る。

「ファイーナ様。顔を上げていただけませんか?」

「嫌です。きっと、ひどい顔ですもの」

 目元は腫れていた。しかし、膝の上に乗せていたファイーナの手に、イリダルの大きな手を重ねる。ぎゅっと握る。ファイーナは顔を上げた。イリダルに視線を注いだ。

「ファイーナ様、わたしはあなたのしあわせのためならば、自分などどうなってもいいと思っています。これからもずっと、その気持ちは揺るがないでしょう」

「わたくしのしあわせは、あなたと、生きていくことです。だから、そばにいて、お願いです!」

 すがりたかったのはイリダルも同じだった。ファイーナの言葉は、イリダルの心を決めさせた。

「やはり、わたしはあなたと離れなければなりません」

「どうして?」ファイーナは悲痛な声を上げた。言葉が足りなかったかもしれない。誤解を受けそうになり、イリダルは言い直した。

「早急に騎士団の団長となりましょう。1年もあれば、十分です。根回しをし、後ろ盾も確保します。そして、改めてあなたをいただきにまいります。それまでお待ちいただけますか?」

 イリダルはファイーナがすべてである。彼女が涙を流し、自分を夫にしたいと(そこまでは言っていないが)願った。ならば、実現させるのが、イリダルの役目だ。身分差として、乗り越えなければならない壁はあるが、イリダルは何度もファイーナの期待にこたえてきた。今回も期待にこたえられる自信がある。

 ファイーナはようやく落ち着いてきた。

「わかりました。絶対に迎えに来てください。お父様には縁談を断っていただくようにと、わたくしの方からお願いします」

「申し訳ありません」

「いいのです。イリダルと一緒に生きていけるなら、わたくしも何だってします」

 ファイーナの頬に手を触れたくなる気持ちを抑えて、イリダルは手を強く握った。滑らかな手は、手袋もなく無防備だ。イリダルは片方の手を取り、その甲に口づけを落とした。それだけでファイーナは顔を赤らめる。彼女がうつむくのは、熱い顔を隠すためだろう。ずっと、その顔が見たいと思っていた。だが、今はここまでだ。

「その先はいずれ」

「え、ええ」

 名残惜しそうに手を離したふたりは、こうして、それぞれの道を歩き出した。その道がふたたび交差する日まで、ふたりは想い合いながら過ごした。

 その後のイリダルは、見事だった。約束通りに、1年という短い間で、後ろ盾を獲得した。騎士団の団長にもなった。ファイーナの父王に何度も頭を下げ、どうにか、ファイーナとの婚約を取りつけた。

 妻となるファイーナの後押しもあった。彼女もただ待つだけではなく、お茶会や舞踏会にて、人脈を広げた。苦手な王女としての公務も積極的にこなし、周りの評価を得たのだ。

 努力のかいもあり、晴れて、ふたりは夫婦となった。3年という月日のなかで、子も生まれた。ふたりの結び付きはますます強くなっていく。その頃になると、しばしば、森の近くでは、白馬の親子とファイーナが目撃された。

「こんな仲間外れは嫌ですわ。わたくしも白馬になれたら、良かったのに」

 妻ファイーナはそう言うが、夫イリダルは、悩んだ。

 ――可愛いげのあるうさぎ……いや、猫もいい。いやいや、人間のままでも十分可愛いではないか。

 端からみればどうでもいい悩みだが、イリダルの頭のなかは、いつだってファイーナで占められている。可愛い我が子も時折、悩みの対象となる。

 白馬の騎士は、これからも一生をかけて、愛しい家族のために悩むのだろう。そして、たったひとつの約束を守り通すのだ。

おわり
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