ゆうしゃのおバカ

終 勇者のおバカ

 転移装置から降りた後、夜の崖を慎重かつ速攻で下り、洞窟をくぐれば、すぐに毛玉の顔が見られると思っていた。しかし、そこにはおじいさましかいなかった。

「毛玉はどこに?」

「あの子ならまだ戻ってきておらん」

「もう夜ですよ」

「うむ。魔界の夜は危険じゃからな」

 魔界の夜は危険? そんなことを聞いてしまえばいても立ってもいられなかった。洞窟の入り口を引き返し、おじいさまの声も聞かずに飛び出した。

「毛玉、どこだ、どこにいる?」

 毛玉では崖を上ることはできない。つまりは洞窟の周辺にいるはずだ。崖下からうめき声が聞こえて、もしや毛玉ではと一瞬考える。まさか、崖から落ちて無事でいられるはずがない。そう思い、無視を決めたのだが、「ゆうしゃのバカ」の声でとどまった。

 闇が手伝って崖下の様子は見えない。しかし、声だけは届いた。

「ゆうしゃのおバカ。『初恋』の意味を知らなかったんだもん。嫌だ。ゆうしゃが帰ってこないなんて」

 どうやら毛玉は『初恋』の意味も知らずに了承したらしい。俺が帰ってこないことにあれほど嫌がるなんて顔がゆるみそうになる。そんな場合ではない。毛玉を助けなければ。

「おい! 大丈夫か!」

「えっ? あれ? ゆうしゃなの? わーい!」

 喜んでいる場合か、突っこみたくなるが、彼女の弾む声に嬉しさを隠しきれない。

「今、どこにいる?」

「えっと、崖から落ちたの。でも、ちょうど、出っ張ったところがあって、そこに座ってる。上がろうと思ったんだけど、わたしの力じゃ無理そう」

「そうか」

 声は近い。的を絞るために小降りな石を落とすことにした。石の落ちる音で大体の高さがわかるはずだ。そして、おそらく、近い距離で音がすれば、出っ張りが見つかる。彼女の場所がわかるだろう。

 何とか出っ張りを見つけて、彼女のもとへ降りられた。

「ゆうしゃ、ごめんなさい」

「いいんだ。俺も悪かった」

 毛玉の腰を抱き寄せる。肩口に顔をうずめて、ふわふわとした感触を楽しむ。このぬくもりは、しあわせと言ってもいいかもしれない。

「初恋はどうなったの?」

「終わった、完全に」

「終わったの?」

「ああ」

 毛玉は満面に笑みを浮かべて俺の腰に腕を回す。

「もう帰ってこないかと思っちゃった」

「言っただろう。一生、そばにいると」

 毛玉にはこの意味もわからないかもしれない。だとしても、俺は決めた。彼女から離れることはしない。

「わたしもそばにいるよ」

 彼女から返ってきた言葉に、同じ気持ちを抱いてくれているのではないかと錯覚する。期待でも勘違いでもいい、俺は彼女が好きだ。

「泣いてるの、勇者?」

 生まれてから一度も泣きたいなんて思わなかった。勇者としての役目を果たすためにサリアを諦めたときも。魔界に行けば帰ってこれないかもしれないと知ったときも。俺は泣こうともしなかった。ただそうかと受け入れた。

 彼女の手が俺の頬に触れる。その優しさがますます胸を震わせて困る。俺は彼女の手をとり、毛玉におのれの顔がめりこむくらいに強く抱き締めた。

 それからどうなったかと語れば、とても照れ臭い。照れすぎて自爆しそうだ。だから、あまり語りたくない。

 言えるのは相変わらず洞窟に帰れば、愛すべき毛玉とおじいさま(長生きだ)がいるということ。そして、もう1つ。

「あなた、お帰りなさい」

「おかえりなしゃい」

 母譲りの小さな毛玉も迎えてくれるようにもなった。それまでの俺の涙ぐましい苦労は適当に想像してくれると嬉しい。

おわり
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