ヤメ騎士さんとわたし

第1話『平和な朝』


 頭の上で鳥のさえずりが聞こえてくる。たぶん、感覚的には朝の9時くらいなんだろうけれど、なまけ者のわたしは、もう1時間は寝ておきたい。

 言い訳として、昨日の夜は寝るのが遅かった。ベッドの上で、だらだらとスマホで漫画を読んでいたら、あっという間に時間が過ぎていた。明日は土曜日だし、休みだと開き直っていたのだ。

 だから、今は寝る。大した予定もない。昼から朝ご飯だとしても構わないだろう。

 ダメ人間的な思考をしつつ、寝返りを打った。打ったものの、頬がちくちく痛い。手のひらに滑りのいいシーツの感じがない。じゅうたんの毛よりも荒く、湿った感触がある。

 これはもしかしたら、ベッドではない気がした。どちらかといえば、草に近い感触がする。

 草って何だよと思いながら、わたしは重い瞼を開けた。うつぶせの体勢だったから、片目が完全に開かなかった。不細工な顔だとしても、この際、どうでもいい。

 確かに、ここはベッドの上ではなかった。辺りはじゅうたんの毛のようにぎっしりと草に覆われていた。体を起こすと、わたしが寝ていた付近だけ、ミステリーサークルみたいにへこんでいた。

 本当にミステリーだ。起きたら変な場所で寝ていたなんて。酔っ払った人特有のものだと思っていた。それとも、記憶にないだけで、実はお酒をしこたま飲んだとか。

 自分の記憶を疑い出して、お腹をさすると、モコモコのルームウェアの感触がした。これは夜眠る前に着ていたものだ。

 ずぼらでも、着替えくらいはしていた。これを着ているってことは、やっぱり、家の外に出た記憶はない。しつこいけれど、ベッドで寝ていたはずなのだ。

 それなのに、どうして、草原なんかに来てしまったのだろう。誰かのドッキリだとしたら、笑えない。無理やり連れてきたとして、わたし相手では意味のない行為だろう。

 理由がどうだとしても、とにかく、ここがどこなのか、位置だけでも確かめたいと思う。寝る前まで握っていたスマホが近くにあるはずだ。

 確認のために、腹や腰の辺りを遠慮がちに叩いてみた。ポスッと乾いた音が、ひとり空しく鳴る。この服にはポケット自体ない。どこもそんな感じで、つまりは何もなかった。

「マジか」

 独り言があまりにも小さく出た。それが日常的によく使っている言葉で、こんな状況でも出てくるのかと、少し笑えてしまう。

 改めて見ても草原の周りは木々に囲まれている。ここから動いても動かなくても、遭難はまぬがれない。

 どうするべきか。何度も繰り返し考えた。そして、やっぱり、動かないとダメだと思った。ちょうど、少し離れたところで、動く鹿を見つけた。

 どこかの物語では、うさぎを追いかけたら、次の世界が広がっていった。わたしの場合はどうだろうか。何の変哲もない鹿を追いかけたら、どんな世界に繋がっていくのだろうか。ちょっと、わくわくしてきた。

 両方の足は靴下すらはいていない状態だけれど、わたしは我慢して立ち上がった。

 鹿に逃げられないように一定の距離を取って、追いかけていく。森のなかを突き進む鹿は、器用に木々を避けながら、わたしを奥へと誘っていく。

 足裏へのダメージを考えて慎重に道のりを進んでいくと、川の流れる音が近づいてきた。どうやら、鹿は川までの道のりを教えてくれたらしい。何も口に入れていなかったから、水が飲めるのは素直に嬉しい。

 なんて、喜んでいられたのは、そこまでだった。川を前にした瞬間、風を切る音がした。

 羽のついた矢は、わたしの目前を通り過ぎる。鹿の頭部に突き刺さった。矢を受けた鹿はバランスを崩して、立ち上がることもできなくなった。

 さっきまで動いていたものが、一瞬にして動かなくなる。死んだら最後で、こちら側に戻ってくることはない。揺れ動かしても、切れた脈は繋がりようがない。死ぬというのはこういうことなんだと教えられたようだった。

 気が動転していたわたしは、その場から身動きが取れなくなった。鹿から目を反らすことができない。

 背後から枝が折れた音がした。

 後ろを振り返ると、弓を構えた熊がいた。しかし、髭のない肌を見つけると、大男というほうが正しかった。獣の皮からなめした服を着ていて、太い足のブーツも革で艶があった。青い瞳がわたしを見つめてくる。

 猟師さんに会ったのははじめてだった。

「あの」

 声を絞り出して話しかけてはみたものの、猟師さんはすぐにわたしから視線を外した。

 どうやら、完全に無視を決めたらしい。仮にもひとりの女が軽装で森に突っ立っているのだ。「大丈夫ですか?」とか、「恐い思いをさせてごめんなさい」とか、声をかけてくれてもいいと思うけれど……。

 そんなものはなく、猟師さんは、弓をベルトに引っかけてから、銀色のナイフを取り出した。わたしを避けて、鹿の前にしゃがみこむ。

 倒れた鹿の体を川まで引きずっていき、ナイフを突き立てた。皮膚を引き裂いて、血を流させる。

 水を染める大量の血を見たのははじめてで、胃の辺りからこみ上げてくるものがあった。慌てて目をそらしたものの、口元に手を当てていないと、うっかり漏らしてしまいそうになる。

 血を出しきった後で、猟師さんは鹿を肩に担いだ。突き刺さっていた矢もわたしが目をそらしていた間に回収したらしい。

 血生臭い風が吹いてきた。獣の遠吠えも聞こえてきた気がする。首の後ろから背中にかけて寒気も走った。猟師さんは森の奥へ消えようとしている。このまま見失ったら終わりだ。

 ここにひとりでいるのは嫌だと思った。だとしたら、選べる行動はひとつしかない。

 わたしは猟師さんを追いかけることにした。
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