すべての元凶はあなた
第54話『元気で』
とうとう、こちらの世界にとどまる最後の日がやってきた。目を覚ましたら、夜の散歩の余韻もなく、憂うつ感が全身を包みこむ。
気だるさに体を起こすのが面倒になるのは、いつものことだ。ダメなわたしを起こしにやって来るのは、決まってミアさんだった。
今や着慣れてきたナイトドレスを脱いで、ミアさんが用意してくれたまっさらなワンピースに着替える。フード付きのローブを羽織り、前の裾を合わせてブローチで留める。鏡の前にたたずむ姿は、さながら闇の魔導師みたいだ。まあ、こちらの世界でも魔導師みたいな人を見たことがないけれど。
どうもわたしのローブ姿は、ちぐはぐに見えておかしい。やっぱり、ここの世界の住人ではないのだ。こんなどうでもいいことを考えるのも最後かと思った。
鏡の前に座ると、ミアさんがわたしの髪の毛にブラシを入れて整えてくれる。
「こうやって、救い主様のお世話をさせていただくのも最後ですね」
ミアさんも同じ事を思ってくれるのかと嬉しかった。鏡ごしに対峙してみると、ミアさんの笑顔がますます心に染みる。
この優しい笑顔に迎えてもらえるのも、もう最後だ。改めて最後なんだと思ったら、ぐっときてあと少しで涙が出かかった。けれど、何とか顔に力を入れてこらえた。ちょっとでも泣いたら、止められる自信がない。
「初めてお会いしたときのことがとても懐かしく思えます」
わたしも、そうだった。救い主としてこちらの世界に来てから、ミアさんは不甲斐ないわたしをずっと支えてくれた。でも、懐かしさに瞼を閉ざすことはしない。
「……行きましょうか」
断る理由もなかった。よし、と心のなかで弾みをつけて、腰を上げる。もう、この部屋に思い残すものはない。わたしの荷物も、心も、部屋から運び出してしまおう。
振り向くことなく部屋を出れば、光を背負ったローラントが、わたしを守る騎士らしく、堂々と迎えてくれた。
「おはようございます、エマ様」
くすぐったくなるこの「エマ様」を聞くのも、最後になるのか。最後だと思うと、日常の挨拶ですら一文字一文字を頭のなかに反復させて、一秒一秒を目に焼きつけておきたくなる。そんなことはできるはずもなく、その場を笑顔で終わらせるくらいしかできなかったりする。
「アリガトウ」
良い言葉はまったく頭に浮かばずに、無難な言葉をかける。手を差し出したのは指の感触なら忘れない気がしたからだ。
剣を振るう強い手は、今まで誰かの命を奪ってきたのかもしれない。大事な人を助けられなかったかもしれない。ローラントの手とわたしの手とが重なる。胸の奥が痛みだした。だけど、これでわたしはローラントを忘れない。胸の痛みがローラントを忘れないでいてくれる。そんな予感があった。
「わたしが乗るはずの竜が遅れているようなので、エマ様とはここでお別れです」
ローラントは大きくため息を吐いた。それは意外と早いお別れだった。正直言えば、もうちょっと、側にいてほしかった。でも、思い出は振り返らないと決めた。一度でも振り返ったら、帰りたくなくなってしまう。
「どうか元の世界に戻られてもお元気で」
最後までわたしを気づかってくれるのは、さすがだと思う。ウィル相手なら、こんな穏やかにはいかないだろう。
わたしは「ローラントも、ね」と返す。ちゃんと、笑顔が作れているだろうか。言葉を交わして、わたしたちは握手を解いた。
とうとう、こちらの世界にとどまる最後の日がやってきた。目を覚ましたら、夜の散歩の余韻もなく、憂うつ感が全身を包みこむ。
気だるさに体を起こすのが面倒になるのは、いつものことだ。ダメなわたしを起こしにやって来るのは、決まってミアさんだった。
今や着慣れてきたナイトドレスを脱いで、ミアさんが用意してくれたまっさらなワンピースに着替える。フード付きのローブを羽織り、前の裾を合わせてブローチで留める。鏡の前にたたずむ姿は、さながら闇の魔導師みたいだ。まあ、こちらの世界でも魔導師みたいな人を見たことがないけれど。
どうもわたしのローブ姿は、ちぐはぐに見えておかしい。やっぱり、ここの世界の住人ではないのだ。こんなどうでもいいことを考えるのも最後かと思った。
鏡の前に座ると、ミアさんがわたしの髪の毛にブラシを入れて整えてくれる。
「こうやって、救い主様のお世話をさせていただくのも最後ですね」
ミアさんも同じ事を思ってくれるのかと嬉しかった。鏡ごしに対峙してみると、ミアさんの笑顔がますます心に染みる。
この優しい笑顔に迎えてもらえるのも、もう最後だ。改めて最後なんだと思ったら、ぐっときてあと少しで涙が出かかった。けれど、何とか顔に力を入れてこらえた。ちょっとでも泣いたら、止められる自信がない。
「初めてお会いしたときのことがとても懐かしく思えます」
わたしも、そうだった。救い主としてこちらの世界に来てから、ミアさんは不甲斐ないわたしをずっと支えてくれた。でも、懐かしさに瞼を閉ざすことはしない。
「……行きましょうか」
断る理由もなかった。よし、と心のなかで弾みをつけて、腰を上げる。もう、この部屋に思い残すものはない。わたしの荷物も、心も、部屋から運び出してしまおう。
振り向くことなく部屋を出れば、光を背負ったローラントが、わたしを守る騎士らしく、堂々と迎えてくれた。
「おはようございます、エマ様」
くすぐったくなるこの「エマ様」を聞くのも、最後になるのか。最後だと思うと、日常の挨拶ですら一文字一文字を頭のなかに反復させて、一秒一秒を目に焼きつけておきたくなる。そんなことはできるはずもなく、その場を笑顔で終わらせるくらいしかできなかったりする。
「アリガトウ」
良い言葉はまったく頭に浮かばずに、無難な言葉をかける。手を差し出したのは指の感触なら忘れない気がしたからだ。
剣を振るう強い手は、今まで誰かの命を奪ってきたのかもしれない。大事な人を助けられなかったかもしれない。ローラントの手とわたしの手とが重なる。胸の奥が痛みだした。だけど、これでわたしはローラントを忘れない。胸の痛みがローラントを忘れないでいてくれる。そんな予感があった。
「わたしが乗るはずの竜が遅れているようなので、エマ様とはここでお別れです」
ローラントは大きくため息を吐いた。それは意外と早いお別れだった。正直言えば、もうちょっと、側にいてほしかった。でも、思い出は振り返らないと決めた。一度でも振り返ったら、帰りたくなくなってしまう。
「どうか元の世界に戻られてもお元気で」
最後までわたしを気づかってくれるのは、さすがだと思う。ウィル相手なら、こんな穏やかにはいかないだろう。
わたしは「ローラントも、ね」と返す。ちゃんと、笑顔が作れているだろうか。言葉を交わして、わたしたちは握手を解いた。