すべての元凶はあなた

第53話『お兄ちゃん』

 わかっていた、もう二度と「絵茉」と呼ばれないことは。優しく頭を撫でてくれることもない。だけれど、嫌な現実を簡単には受け入れたくなくて、瞼を固くつむった。できるなら、このまま眠り続けていたい。現状どこで寝ているのかについては深く知らないけれど、逆らいたかった。

 それなのに、わたしの気持ちをよそに、現実は黙ってわたしを寝かせておいてはくれない。「エマ様!」と、ローラントの切羽つまったような声が耳元で響く。目を覚まさないわたしを心配してくれているのだろうか。だとしたら、胸が痛む。激しく肩を揺り動かされると、無視できなかった。

 瞼を開けると、ささやかな月明かりと、音をすました夜の森が広がっていた。いつの間にか、わたしはぶっ倒れて横たわっていたようだ。よくこんなところで寝ていたものだ。

 ローラントの腕がわたしの首の後ろに回っていた。どうりでローラントの声がうるさいくらい間近に聞こえたわけだ。

「いきなり倒れられてしまって、神殿のほうに戻ろうかと思っていました」

 それは申し訳ないと素直に思った。せっかくの夜の散歩が無駄になってしまうところだった。精神的には結構きついけれど、身体的には大丈夫。

 あまり心配をかけたくなくて、すみやかに上体を起こそうとしたとき、遅れて気がついた。聖霊くんーーお兄ちゃんはやっぱり、もういないんだ、どこにも。

「エマ様、どうされたのですか?」

 声は聞き取れるのに。聖霊くんに会うことはもうない。熱い涙腺から目の端へと冷たい涙がこぼれて落ちていく。

「せっかく会えたのに、もう会えなくなっちゃった」

 情けない声とともに肩が震えてきた。視界がぼやけてくる。瞬きすると、何度も涙がこぼれてきた。抑えきれずに、嗚咽も漏れた。手で口を押さえても出るもんは出る。こうなったら途中で泣くのをやめるなんて無理だ。枯れるまで泣くしかないと思った。ローラントにとったらうっとうしいかもしれないけれど、許してほしい。せめて、みっともない泣き顔が見られないように、わたしは両手で顔を覆った。

 そんなわたしをローラントは何も言わずに、自分の腕のなかに引き寄せてくれた。頬や肩に触れる温かみに安心を覚えながら、涙が枯れるのを待つ。まるで、ローラントがお兄ちゃんみたい。そんなバカなことを考えたらまた、お兄ちゃんを思い出して涙が出た。

 涙がおさまってきた頃、「落ち着きましたか?」とたずねられた。呼吸も普通にできるようになってきたから、うなずいて返すと、「良かったです」と嬉しそうに答えてくれた。体を起こしてふたり並んで座りこむ。

「ローラント、ヤサシイ」

 ダメな救い主だとしても、ずっと、かたわらで支えてくれた。ウィルとは大違い……とは、もう言えなくなってきたけれど。

「わたしは自分ができる限りのことをしようとしただけで、優しいなどとは」

「ヤサシイ」食いぎみで言った。

「もし、わたしがあなたに優しくできたのなら、相手があなただからです」

 暗すぎてじっと見つめても、眼鏡の奥の表情はわからない。こんなこと、前にもあったかもしれない。

「わたしはあなたを」

 何だかその先を聞いてはならない気がした。だから、「ローラント」とさえぎったんだ。

「ローラント、兄、ワタシニ、トッテ?」

「わたしがあなたにとって、兄。そう、ですね。それがしっくり来ます。この気持ちが恋ではないかと疑った時期もありましたが、違っていました。助けられなかった妹をあなたと重ねていたのかもしれません」

 あれ? 愛の告白じゃなかったの? 「わたしはあなたを妹のように思っています」と言いたかったということ? すごい恥ずかしい。泉に顔をつっこんで熱を冷やしてやりたい。

「元の世界に戻っても、あなたの幸せを願っています。この世界の兄として」

「ワタシモ、願ウ」

「気恥ずかしいですね」

 ま、確かに。互いに顔を見合わせると、本当に恥ずかしかった。でも、この恥ずかしさも夜に溶けて消えていく。

 すぐそこに迫っていた、二人目のお兄ちゃんとのお別れも。
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