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冤罪の宰相に救いの短剣を

第十三話『宰相の目覚め』


 ヴァルディスは一度、死んだ。エリミーナから渡された短剣を己の心臓に突き立てて、牢獄の中で果てた。享年三十。志半ばだった。

 あの時、確かに息絶えたはずだった。再び目覚めることなど、ありえない。

 ヴァルディス自身も覚悟していたというのに、どういうわけか、目が覚めると自室の寝台の上にいた。

 上体を起こして、爪の生え揃った指を確かめた。寝台横の卓上にあった眼鏡をかけると、両目がはっきり見えた。牢獄で痛めつけられたはずの体には、傷一つなかった。

 ――夢だったのだろうか。

 思案してから、胸の辺りの違和感に気づいた。ガウンの襟を広げて胸元を見ると、剣を突き立てた箇所に乾いた傷跡ができていた。長い間、そこにあったかのように古傷として残っている。

 ――夢ではないのか。

 しかし、現実だとも言い切れなかった。今こうして無事でいることこそ、夢なのかもしれない。

 自分の手の甲をつねってみた。痛みはある。獄中で殴られた時にも、確かに痛みを感じた。

 体だけではなく胸が痛んで仕方なかったのは、エリミーナが自分の姿を見て、静かに涙を零したことだ。彼女はおそらく泣いていたのを自覚していなかっただろう。ヴァルディスが不自由でなければ、涙を拭いたかった。

 婚約者の候補として、条件だけで考えるなら、他にも相応しい家柄の令嬢はいた。エリミーナを選んだのは、ローヴェルト家の系譜書が一番上にあったからだ。

 だが、実は一番下にあったとしても選んでいたのではないか。そう考えて、頭を振る。

 ヴァルディスはエリミーナを恋い慕っていなかったはずだ。

 婚約解消を願う時も苦悩はしなかった。それなのに、死の直前で己の過ちを知った。どんなことがあっても手放してはいけなかった、と。

 幼い頃、エリミーナの母とヴァルディスの母はたいへん仲が良かった。エリミーナとも、よく顔を合わせていて、兄妹のようだった。

 エリミーナが落ち込んでいる時は、ヴァルディスは柄にもなく紳士になり切った。そうすると、エリミーナが目を輝かせて喜んでいるように見えたからだ。

 ヴァルディスが落ち込んでいる時は(もちろん表情には出ていないが)、エリミーナがたどたどしく詩を披露してくれた。自然と気が紛れて、重苦しい気持ちは無くなっていた。

 エリミーナの母が命を落とした時には、ヴァルディスは泣ける場所を作りたくて胸を貸した。泣きじゃくるエリミーナの背中をずっと撫でていたことを覚えている。

 ローヴェルト家が後妻を迎えたことで、疎遠になっていった。

 遠く離れても、存在だけは忘れていなかった。デビュタントの際も覚えている。夜会に舞い降りた白い妖精だと思った。

 その後、エリミーナは見初められて、王太子妃候補となった。

 ヴァルディスは己なりにエリミーナを見守ってきた。

 中庭で肩を落としていたら、声をかけた。愚痴があるなら聞いた。

 短い間の出来事で、大した慰めにはならなかったと思うが、兄としての役目を果たしたつもりだった。この時はまだ兄として接していたはずだ。

 いつから、ヴァルディスはエリミーナを妹としてではなく、女性として見始めたのだろう。気づけば、目で追っていた。

 しかし、邪魔をする気はなかった。

 足を鞭で打たれたエリミーナを発見するまで、本当にそう思っていた。言葉だけではなく、暴力まで振るった王太子を放置できない。ヴァルディスは王太子の失態を告発した。

 それにより憎まれたようだ。ヴァルディス側についていた文官が、次々と牢獄に入れられていった。

 いずれはエリミーナも標的にされるかもしれない。彼女だけは守らなければならない。そう思い、婚約解消を願い出た。

 息絶える時には「どうかこれ以上、私のために泣かないでほしい」と願った。牢獄の中で息絶えたため、エリミーナがどのような結末を迎えたのかは知らない。

 ――幸せかどうか、今になっては確かめようがない。

 家令がやってきて着替えを手伝う。「旦那様」と呼ばれている辺り、まだここの主人らしい。宰相の地位を表す、長いマントを身に着けた。自分で詰襟を正した。

「今日は何か、予定があっただろうか?」

 王城へ行く以外に、という意味だ。ヴァルディスは基本、休暇を取らない。仕事が趣味のようなものだ。

 宰相となってからは、財政の流れを取りまとめ、臣下からの上奏を読み解き、それをいかに国王へ伝えるかを日々考えている。その姿勢を、馬車の移動中ですら欠かさない。

 家令はヴァルディスを呆れたような目で見てきた。この目ができるのは、長年の間、屋敷に勤めた家令だけだ。他の者は、ヴァルディスを恐れているのか、目線すら合わせない。

「ローヴェルト家のご令嬢エリミーナ様とお会いになるのでは?」
「そうだったな」
「本当にようやく、奥様を迎える覚悟をされたのですね! 奥様があの庭園を気に入ってくださるといいのですが」

 家令は未来の婚約者に対して気が早く、奥様と呼んでいた。その響きは悪くない。ヴァルディスも訂正しなかった。

 そして、このやり取りは二度目だった。家令の言葉は一語一句、違わない。つまり、婚約はまだしていない段階だ。おそらく今日は、エリミーナに婚約を申し込む日だった。

 エリミーナが夢の先でどうなったのかは知らない。長く生きられたのか、短命だったのか、ヴァルディスが知る由もない。

 それでも、同じく時間を遡っているのだとしたら、エリミーナの未来を救えるかもしれない。

 どちらも救うというのは、容易ではないだろう。己の運命に抗い、冤罪が起きないように未然に防ぐ。

 成功させるには、王太子をどうやっても破滅させるしかない。

 幸いにもヴァルディスには宰相という地位と、未来を知っているという強みがあった。

 手始めに手元に置く文官を総入れ替えしてみる。そして、王太子が証拠として並べた書類を片っ端から握り潰していく。こちらからも仕掛ける必要があるだろう。

 馬車に乗ったときには、すでに復讐の算段が大方できていた。
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