魔王の妻は服が脱げない

第2話
『魔王城に春が来た』


 魔王城の庭に怪物の花が咲く頃、人間の世界でいう春が訪れる。

 怪物花は毒々しい色をしていて、一見すると危険で不気味な感じがする。口がついていて、虫が近づくと大きなベロが現れる。花びらをよく見ていると目のようにも見えてくる。

 ずっと観察していると、花の顔が可愛く思えてくる。

 城にいる魔物たちも見慣れると怖くない。触らなければ危害を与えてこないし、ほんの少し近寄りがたい見た目をしているだけだ。

 はじめに怖くないと思わせたのはもちろん、魔王さまであるけども。

 最近の魔王さまといったら、ますます素敵さに磨きがかかっている。

 お食事をご一緒するとき、取りとめないお話をはじめたとき、きゅーっと胸が甘く締めつけられる。魔王さまに見つめられたとき、逃げたくなるのに、それでも目が離せない。

 ひょっとしたら、そうなのかしら? と思うが、気恥ずかしくてその先は考えない。

 ――魔王様のお手に自分の手を重ねたらどうなっちゃうのかしら?

 そんなことをうっかり考えては、寝台の上で悶絶する夜を過ごしている。



 ある日、来客の知らせを受けた。謁見の間にて、王妃のわたしもそろって出席することになった。

 魔王さまが選んでくれたドレスは、椅子に座ると膝がむき出しになるくらい、裾が短い。足を斜めに倒さないと、見えてしまいそうになる。

 そのことに気を配りつつ、隣の魔王さまに目を移した。

 白銀の長い髪の毛は背中を通っている。たくましい上半身はいつも通り。肌は毒々しい色をしているのに、精悍な顔つき。うっかり口元に目がいってしまい、慌てて顔をそらした。

 口づけを想像するなんて、はしたない。

 邪な心を隠すように、早急に話題を探した。

「ほ、本日はどういった方が来られるのですか?」

 事前に何も知らされていなかったので、恐れながら魔王さまにたずねてみた。

「我も詳しくは知らぬ。軍隊長の知り合いということまでは聞いた」
「軍隊長さまの……」
「ふむ。何か我らに進言したいことがあると」

 軍隊長さまといえば、牛の顔を持ち、体は人の形をしておられる。重そうな斧をいつも肩にかついでいるので、「肩こりは大丈夫ですか」と声をかけたことがある。

 その時に「肩こり? それは何でしょうか?」と首を傾げられていたから、肩こりとは無縁の方なのだろう。

 しかし、魔王さまが詳しくは知らないことなど、これまでなかった。魔王城の隅々まで知っておられる方だった。そんなこともあるのかと疑問に思いながらも、魔王さまが嘘をつく意味はない。

 不思議ではあったけど、わたしは「そうなのですね」と納得した。



 謁見の間に現れたのは、妖艶な美女だった。

 魔物らしく肌が薄紫色をしていて、角や牙が生えている。大きな二つの山が膨らみ、腰は締まっているから、体の凹凸がしっかりしていた。平坦なわたしの体とはまるで違う。着てる服も際どい。スリットから大胆に太ももを晒している。踊り子を思わせる衣装が、彼女の体によく似合っていた。

 彼女は恭しく一礼した。

「魔王さま、王妃さま、ご機嫌うるわしゅうございます」
「ふむ、よく来た。早速だが、軍隊長の知り合いであるとか」
「いかにも。わたくしは軍隊長殿との許嫁でございます」

 驚きの声を上げるのを耐えるために口元を手で隠した。許嫁というのは、ロマンス小説で読むような婚約者だろう。魔王さまのもとにすぐ嫁いだわたしには、経験していない立場だった。響きだけでも憧れる。

 妖艶な笑みを浮かべる彼女は、「わたくしは夢魔です」と話を続けた。

「恐れながら申し上げます。魔王さまと王妃さまはいまだ閨事を遂げていないと耳にいたしました」

 夢魔さんの言葉で謁見の間の温度が一気に下がった。わたしは体が燃えるように熱くなったが、隣の魔王さまは冷え冷えとしていた。よほど、触れられたくない話題なのだろう。
 
「これは我と王妃が考えるべきことである。他の何者が触れていい話題ではない」

 はじめて聞いたような地を這うような声は、本当に地震を起こしているかのように低く、床下から響いた。わたしに言われたら怖くて怯みそうになるが、夢魔さんは怪しく微笑んでいる。

「閨事とは何も恥ずかしいことではありません。子を成すためには誰しもが通る道です。お見受けしたところ、王妃さまは魔物の体がどういった構造をしているか、お知りにならない。いきなり閨事で、とは酷というものです。事前に準備をされ、心構えをしたほうが万事とどこおりなく進むでしょう」
「我が教えることだ」
「恐れながら、魔王さまが女性側の心構えを知っているのでしょうか?」

 夢魔さんの言葉に痛い部分を突かれた気がした。

 実は急いで魔王さまの元に来てしまい、閨事の勉強をおこたっていた。人間同士でもどういったことをして子を成すのか、詳しくは知らない。

 魔王さまは反対するかもしれないが、わたしは夢魔さんから教えを請いたかった。きちんと学んで、魔王さまを受け入れたい。だから、お隣の魔王さまに耳打ちした。

「わたし、夢魔さんに教えを請いたいのですけど」
「本心か、姫?」
「はい、だって、その、ちゃんと、そういうときにはこの体で魔王さまを受け入れたいんです」

 恥ずかしくて顔が熱くなった。そんな顔を見られたくなくてうつむく。「ふむ」と小さく思案するような声を聞いた。後は、魔王さまがどう判断されるかだ。

 しばらく待つと「わかった」と、いくらかやわらいだ声が了承を告げた。

「夢魔。王妃には触れない、嫌がることはしない、卑猥なことを言ってからかわない、それから……」

 魔王さまはいくつも規則を並べ立てる。夢魔さんはすべてにうなずき、了承した。

 早速、次の週の頭から勉強会が開かれることになった。魔王さまは一緒に参加したがっていたが、わたしは「恥ずかしいのでやめてください」とお願いした。最後には「姫の通りに」と聞いてくれた。

 心の底から安心した。魔王さまに何にも知らないところを見られたくなかったからだ。夢魔さんに心置きなく知らないことを聞きたかった。



 魔王城の奥まった部屋は、普段から使われていなかった。特設された部屋の中は、ふたりで寝転がっても余裕がありそうな、大きな寝台が存在感を示している。後は寝台を照らすように松明が吊るされているだけで、余計な家具は取り払われている。

 寝台の横には夢魔さんと魔王さまがいた。わたしは驚きと戸惑いで、不満めいた顔をしたと思う。声も出た。

「魔王さま、来ないでと言ったのに」

 夢魔さんは「ふふふ」と妖艶に笑った。

「王妃さま。これは魔王さまではありません。魔王さまの形を成した人形です」
「ええっ!」

 わたしは驚いて、人形の周りを見た。姿形は相違ない。よく見ると、目は焦点がなく、うつろだ。紫色の頬もまったく動いていない。手を振ってみても反応はない。そっくり作ったというのが正しい。自立している人形だった。

「精巧な人形でしょう?」
「ええ、素晴らしいです」
「本日はこの人形を使って、お教えしたいと思います」
「は、はい」

 はやる胸を抑えながら、夢魔さんと人形に集中した。

「まずは寝台に横たわる前に、こうやって、お互いの手を取り合うと良いでしょう。言葉はなくとも、お互いの温もりが伝わって、緊張が解けるでしょう」

 夢魔さんの手に人形の手が重なる。ちゃんと人形だと言い聞かせないと、魔王さまと夢魔さんが手を繋いでいるように見える。考えを振り払おうとするが、胸の中がモヤモヤしてきた。

 いったい何事だろう。

 よく考えてみると、わたしと魔王さまはいまだ手を繋いだことがなかった。腕を組んだこともない。

 指と指が隙間なく繋がるように握り直すのを見た。恋人繋ぎというのです、という解説を聞いた。

 繋がれた手を見せつけられて、わたしは暗闇に足を踏み入れたような心地がした。どうしてしまったのだろう。わたしではないみたい。

 遠くの方で夢魔さんの解説が続く。

「そして、優しい口づけから始めましょう」

 口づけ。人間の世界にいるときも、お姉様たちから話を聞いていた。心が通じた者同士の口づけは、何より幸せだという。

 しかしわたしたちのような身分は夫婦となってからはじめて、お互いを知っていく。その中で心が通じるかどうかは、わからない。一生、夫婦であるだけかもしれない。そう考えると、いつも心が重くなって嫌だった。

 自分を守るように、お腹の前で手をきつく結んだ。

 夢魔さんは右手は恋人繋ぎをしたまま、左手を人形の首に手を伸ばす。そして、人形に近づくために背伸びをした。

「口づけは魔王さま主導で行われることでしょう。しかし、王妃さまの方から積極的に口づけをすることも、相手の欲情を促すには効果的です」

 顔が傾けられる。鼻同士がぶつからないためだろう。夢魔さんの魅力的な唇が、魔王さまの唇に重なろうとしている。「姫」と優しくささやいてくる唇が誰かのものになると一瞬、錯覚した。

 もう見ていられなかった。「だめ!」と大声を上げていた。

 我に返って口元を手で覆うが、遅かった。

「す、すみません。どうしても嫌で」

 自分が情けなく思えて、声がどんどん小さくなる。これは本番ではない。魔王さまそっくりの人形だというのに。

 夢魔さんが近寄ってきて、「王妃さま」と声をかけたとき、地震が起きたかのように部屋が震えた。「きゃっ」と体の均衡が崩れて転げそうになる。

 夢魔さんが手を伸ばすよりも先に、壁から二本の腕が生えてきた。まるでわたしを抱きとめるかのように広げられている。恐怖はなかった。わたしはその腕にすがった。腕は離さまいとわたしの腰を優しく抱きとめて、壁の方へと引き寄せた。



 壁にぶつかる衝撃はなかった。体は軽くなり、浮遊感がした。

「姫」

 声に安心して瞼を開けると、魔王さまの執務室にいた。腕の持ち主に抱き締められている。

 壁から生えてきたのは魔王さまの腕だった。とっさに気づいたから、その腕に体を預けたのだ。

 たくましい腕を毎日、見てきた。この腕に抱きとめられたことはなかったが、すがりついたらどんな硬さがあるのかと、想像したことはあった。

 こんなに硬くて、でも硬すぎず、弾力もあるなんて。

 わたしが何の気なしに触り続けていると、「姫、あまり触ってくれるな」と止められた。

「すみません。ずっと前から触ってみたくて」

 素直な気持ちを告げると、魔王さまは顔を背けて咳払いをした。変なことを口走ったかもしれない。顔が熱くなって、うつむいた。長椅子に導かれて、腰を掛ける。

「それよりも先程の声は何だ? 夢魔に何か妙なことをされたのか?」
「いえ、夢魔さんはきちんと教えてくださっていました。でも」
「でも?」

 一度、顔を上げてみるが、魔王さまの視線に耐えきれなくてまた、うつむいた。

「夢魔さんは魔王さまそっくりの人形を相手にして、教えてくれました。しかし、魔王さまが夢魔さんと口づけしているかのように見えて、苦しかったんです! それで『ダメ!』などと大声を出してしまって、わたし、子供みたい」

 実際、話している間にも涙がこみ上げてる。感情の制御ができなくて、本当に子供みたいだと思えた。

 何百年と生きてきた魔王さまと、まだたった十八年しか生きてきていないわたしでは釣り合いが取れない。

 幼子を相手にしているようだから、魔王さまもその気にならないのだろう。初夜のときも「何もせぬ。安心して眠るがいい」と優しく寝かしつけられた。

 その時は安心したが、今は優しさや気づかいが心に痛い。何もする価値がないから安心しろ、という意味だとしたら辛い。そんなの王妃として名ばかりだ。また涙が流れた。

 心では魔王さまはそんな方ではないと否定する。でもどうしても、理由を探してしまう。

「姫。なぜ泣く?」

 魔王さまの指がわたしの目の下に触れた。長い爪が引っ込むのには驚いた。指の腹で涙を拭ってくれる。肌の柔らかい箇所がくすぐったかった。

「大声を出したりして、とっても、子供みたいだから。魔王さまも、あきれているのではないですか?」
「ふむ。呆れているというよりかは、先程の言葉が嬉しくて、頭の中で繰り返し流している」
「先程の言葉ですか?」
「ああ。我と夢魔が口づけをしているかのようで嫌だったと。つまり、姫は嫉妬したのだな?」

 嫉妬というのは、子供の頃したことがある。姉様たちが母様と夜更かし(ハーブティーを飲んでおしゃべり)していたことを聞いたとき、どうしてわたしも入れてくれなかったの? と嫉妬したことがある。わたしの嫉妬の記憶なんて、その程度のものだ。

「嫉妬ですか……」
「ふむ。それだけそなたは我を想っているのだろう。それがわかって、嬉しくなった」

 想っているから嫌だったのかと腑に落ちた。こうして魔王さまの手を繋げるのはわたしだけだと思いたい。頬を撫でる手を掴んで、無理やり恋人繋ぎした。力をこめると、魔王さまの肩がぴくっと動いた。

「姫、これは」
「夢魔さんから教わったんです。こうするとお互いの温もりが伝わって、緊張が解けると」
「いや、それだけではないな」

 魔王さまの声がわたしの耳に伝わりきる前に、額に柔らかいものが当たった。見ると魔王さまの顎が目の前にあった。つまり額に口づけをされたところだった。わたしはその部分を手で押さえた。体が急に熱を持ってきた。

「ま、魔王さま!」
「こうしたくなる」

 両手を恋人繋ぎで塞がれると、額に口づけをされても抵抗できない。せめて目をつむると、今度は頬に受けた。

 夢魔さんから教わっていないことばかりで、頭が熱で溶けそうだ。わたしだけこんなに戸惑っている。悔しくなってきた。だから、わたしもと顎をちょっと上げたとき、ちょうど柔らかいものが口にくっついた。

 目をつむっていたから、開けてみる。そこには目を見開いた魔王さまの顔があった。間の抜けた顔をじっと見つめていると、近くで「姫」と息がかかった。傾いた顔、繋いだ手を少し引かれると、唇が重なる。深く入ろうとすると、牙が当たるのがくすぐったい。

 恋人繋ぎは解かれていて、魔王さまのたくましい腕がわたしの腰に回っていた。わたしからも抱き返すと、ふふっと耳元で笑われた。

「姫。もっと勉強して、その成果を見せてくれ」
「はい。あ、でも、人形は変えていただけないでしょうか」
「いや、そのままでよい」
「え、どうして?」

 わたしがたずねると、耳元でこっそり教えてくれた。

「また嫉妬されたいからそのままでよい。姫の嫉妬が可愛くて仕方ない」――らしい。
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