槍とカチューシャ(51~100)
第92話『裏切り』
旦那様が震える声で名を呼ぶと同時に、お嬢様も「お義母様!」と叫んだ。旦那様の呼びかけには反応しなかった元の奥様も、お嬢様の叫びには鼻で笑った。
「お義母様? わたしはあんたの母親になった覚えはないわ」
元の奥様はお嬢様を受けつけずに強い言葉で突き返す。
「お前が火を放ったというのか、なぜだ?」
旦那様は衝撃を受けたようでガウンの前が開いているにも関わらず、ふらふらと元の奥様に近づいていった。しかし、かつての愛人は鼻で笑った。
「わかるでしょ。あんたに裏切られたからよ。あんたが殺せっていうから、前の奥さんを殺したのに。そしたらあんた、メルビナに奥さんの面影を見てびびっちゃって、どうにかしてくれって泣きついてきたでしょ。殺すのはまあ、可哀想だったから、部屋から出られないようにしてやった。なのに、あんたはわたしを裏切ったんだ。自分だけ助かろうなんて、わたしは許さない。だから、火を放ったんだ。全部燃えてしまえってね」
彼女はすべてをぶちまけると、高らかに笑い声を上げた。喧騒もない静かなガレーナに場違いな笑い声が響く。
「こ、この女を牢屋に!」
旦那様が慌てたように指示を出しても、誰ひとりとして動かなかった。
「この者を牢屋へ連れていきなさい」
反対にお嬢様が感情を出さずに指示を出せば、周りの使用人たちが動いた。元の奥様を両側で抱えると、あまり使われないガレーナの牢屋へと引きずっていった。その間も彼女は狂ったように笑いながら抵抗しなかった。
残ったのは旦那様だけだ。当然、旦那様の疑いはますます濃くなり、逃げ道はどこにもない。つまり真実を話さなければ、旦那様はどこにもいけない。ずっと、このままだ。
もちろん、お嬢様は追求をやめなかった。実の親子だからこそ、厳しく問いつめる必要があるのだと思う。
「お父様、本当なの? 本当にお母様を殺したの? 答えて」
「メルビナ……それは言えない」
旦那様はお嬢様に詰め寄られて何も言い訳が浮かばないようだ。その態度に疑惑が真実へと変わった。旦那様は奥様を殺し、お嬢様も殺そうとした。
「わたし、ずっと、騙されてきたの?」
「ち、違う!」
「違うなら本当のことを話して!」
後ずさる旦那様の背中が幹にぶつかり、尻餅をつく。なおも迫ってくるお嬢様に「ち、近寄るな」と手で払う仕草を見せた。
「そうね、やっと、わかった。どうしてお父様がわたしのわがままを聞いてくれたのか。それは娘を思う愛情ではなかった。お母様に似ているわたしが恐かったのね。そうなんでしょう?」
「そ、そうだ。お前はモーナに似すぎている。モーナはいつも俺を蔑んでいた。俺よりモーナのほうが領主の素質はあったし、よく口出しもされた。まるで駄目だと何度も言われた。夫婦になる以前、他に男がいたことも知っている。しかし、このガレーナを建て直すために、俺を婿に選んだ。そこに愛情はない」
「だから、殺したって言うの?」
「仕方ないだろう! モーナは俺と離縁すると言い出した。あなたがいれば、屋敷の財産をメルビナに残せなくなると言って。仕方なかった。考え直さないモーナが悪い」
旦那様は両手で顔を覆い、まるで自分が被害者であるかのように肩を震わせた。しかし、一番の被害者は奥様とお嬢様だ。旦那様ではない。
立場は違うけれど、わたしの父親を見ているような感覚だった。あの男も自分が悪いと思っていないのだろうか。母の人生を狂わせたくせに、のうのうと生き続けているのだろうか。わたしにはそんな男の血が流れている。
お嬢様がどんな想いで旦那様の前に立っているのか、わかるような気がした。
「お父様……わかりました。お別れです。もう2度と会うことはないでしょう」
「メルビナ!」
お嬢様は旦那様に背中を向けた。
「娘として言えることはひとつだけ。どうか、罪をつぐなってください」
旦那様はお嬢様の足にすがりつき、情けなくもうめいて泣いた。
やがて、使用人ふたりが旦那様を両側で抱える。旦那様が抵抗を見せるなか、お嬢様は一度たりとも振り返らなかった。ぐっと拳を握り締めて耐えていた。
旦那様が震える声で名を呼ぶと同時に、お嬢様も「お義母様!」と叫んだ。旦那様の呼びかけには反応しなかった元の奥様も、お嬢様の叫びには鼻で笑った。
「お義母様? わたしはあんたの母親になった覚えはないわ」
元の奥様はお嬢様を受けつけずに強い言葉で突き返す。
「お前が火を放ったというのか、なぜだ?」
旦那様は衝撃を受けたようでガウンの前が開いているにも関わらず、ふらふらと元の奥様に近づいていった。しかし、かつての愛人は鼻で笑った。
「わかるでしょ。あんたに裏切られたからよ。あんたが殺せっていうから、前の奥さんを殺したのに。そしたらあんた、メルビナに奥さんの面影を見てびびっちゃって、どうにかしてくれって泣きついてきたでしょ。殺すのはまあ、可哀想だったから、部屋から出られないようにしてやった。なのに、あんたはわたしを裏切ったんだ。自分だけ助かろうなんて、わたしは許さない。だから、火を放ったんだ。全部燃えてしまえってね」
彼女はすべてをぶちまけると、高らかに笑い声を上げた。喧騒もない静かなガレーナに場違いな笑い声が響く。
「こ、この女を牢屋に!」
旦那様が慌てたように指示を出しても、誰ひとりとして動かなかった。
「この者を牢屋へ連れていきなさい」
反対にお嬢様が感情を出さずに指示を出せば、周りの使用人たちが動いた。元の奥様を両側で抱えると、あまり使われないガレーナの牢屋へと引きずっていった。その間も彼女は狂ったように笑いながら抵抗しなかった。
残ったのは旦那様だけだ。当然、旦那様の疑いはますます濃くなり、逃げ道はどこにもない。つまり真実を話さなければ、旦那様はどこにもいけない。ずっと、このままだ。
もちろん、お嬢様は追求をやめなかった。実の親子だからこそ、厳しく問いつめる必要があるのだと思う。
「お父様、本当なの? 本当にお母様を殺したの? 答えて」
「メルビナ……それは言えない」
旦那様はお嬢様に詰め寄られて何も言い訳が浮かばないようだ。その態度に疑惑が真実へと変わった。旦那様は奥様を殺し、お嬢様も殺そうとした。
「わたし、ずっと、騙されてきたの?」
「ち、違う!」
「違うなら本当のことを話して!」
後ずさる旦那様の背中が幹にぶつかり、尻餅をつく。なおも迫ってくるお嬢様に「ち、近寄るな」と手で払う仕草を見せた。
「そうね、やっと、わかった。どうしてお父様がわたしのわがままを聞いてくれたのか。それは娘を思う愛情ではなかった。お母様に似ているわたしが恐かったのね。そうなんでしょう?」
「そ、そうだ。お前はモーナに似すぎている。モーナはいつも俺を蔑んでいた。俺よりモーナのほうが領主の素質はあったし、よく口出しもされた。まるで駄目だと何度も言われた。夫婦になる以前、他に男がいたことも知っている。しかし、このガレーナを建て直すために、俺を婿に選んだ。そこに愛情はない」
「だから、殺したって言うの?」
「仕方ないだろう! モーナは俺と離縁すると言い出した。あなたがいれば、屋敷の財産をメルビナに残せなくなると言って。仕方なかった。考え直さないモーナが悪い」
旦那様は両手で顔を覆い、まるで自分が被害者であるかのように肩を震わせた。しかし、一番の被害者は奥様とお嬢様だ。旦那様ではない。
立場は違うけれど、わたしの父親を見ているような感覚だった。あの男も自分が悪いと思っていないのだろうか。母の人生を狂わせたくせに、のうのうと生き続けているのだろうか。わたしにはそんな男の血が流れている。
お嬢様がどんな想いで旦那様の前に立っているのか、わかるような気がした。
「お父様……わかりました。お別れです。もう2度と会うことはないでしょう」
「メルビナ!」
お嬢様は旦那様に背中を向けた。
「娘として言えることはひとつだけ。どうか、罪をつぐなってください」
旦那様はお嬢様の足にすがりつき、情けなくもうめいて泣いた。
やがて、使用人ふたりが旦那様を両側で抱える。旦那様が抵抗を見せるなか、お嬢様は一度たりとも振り返らなかった。ぐっと拳を握り締めて耐えていた。