槍とカチューシャ(51~100)
第85話『弱いもの』
部屋に突撃したときから一変して、和やかな雰囲気が流れている。しかも、リーゼロッテ様を相手にして緊張が解けたのは、もしかしてはじめてのことかもしれない。
「あの、そろそろ仕事に戻らなければ……」
目的は済んだので頭を下げて失礼しようとすれば、リーゼロッテ様が「お待ちなさい」と引き留めた。まだ、何か用があるのだろうか。リーゼロッテ様は微笑を浮かべているものの、彼女の瞳は真剣そのものだった。
「マキ……人の心とは弱いものです。たとえ完璧だと思っている人にも、何かしら欠落を抱えている。わたくしもそうでしたよ、マキ」
何を伝えたいのか、わたしにはさっぱりわからない。それでも、話を聞くよりかは仕方ないと思い、次の言葉を大人しく待った。
「……わたくしには父親の記憶がありません。家柄は良い方でしたが、父が死ぬと家は傾いたそうです。母は体が弱く、働くことはできませんでした」
リーゼロッテ様の突然の告白に驚いたけれど、わたしにはその状況がすんなり飲みこめた。自分だって同じだった。生まれたときから父はいなくて、家には母しかいなかった。その母も死に物狂いで働き、結果、命を落とした。過去の自分の姿と重なった。
「そんなとき、親戚のツテでこのお屋敷に使用人として働くことになりました。
すべてのお給金を母に渡しましたわ。わたくしはたったひとり母のために働いたのです。
必死に働いたかいあって、奥様付きの使用人まで上り詰めました。
しかし、その頃、母が死んだという知らせを聞いたのです。
わたくしはうちひしがれました。母のために生きてきたので、今さらどうしたらよいのか? まったくわからなくなりました。生きているのが辛かった」
確かにわたしも母が死んだとき、地球のどこに立っているのかもわからなくなった。幸いだったのが、変な親戚に預けられずに済んだ点だ。自分で働くという選択肢があったから生きてこられた。
「迷っていた頃、奥様はわたくしに声をかけてくださいました。
『リーゼロッテ、あなたは良くしてくれている。わたしはあなたがいないと困るのよ。だから、ここにいてね。そして、この屋敷を守って』と。
わたくしは奥様のために喜んで働きました。メルビナお嬢様がお生まれになってからというもの、お屋敷はますます明るくなっていったのです。しかし……」
リーゼロッテ様はふっと息を吐いて、顔をうつむかせた。
「奥様は命を落としました。病でなんて冗談ではありません。奥様は前日までお元気でした。奥様の水に毒が仕こんであったのでしょう」
「毒……」まさにお嬢様と重なった。病で寝たきりという噂も嘘だった。
「わたくしにはわかっていましたわ。旦那様……いえ、ラザナスの愛人が殺したのだと。あの女は使用人にやらせたのです。もちろん、証拠はないですが」
リーゼロッテ様の視線は遠くだけを見ていた。もう彼女はわたしと話しているという感覚はないのかもしれない。
「リーゼロッテ様?」
「お嬢様にまで手を出すなんて、許せないことです。あの女とともにこの家を汚したラザナスも殺さなくてはなりません」
リーゼロッテ様の言葉を理解するのに時間がかかった。まさか、本気ではないだろうと思っていたから。
それなのに、リーゼロッテ様はちっとも笑っておらず、暗い影を抱えていた。怖い。怖すぎる。でも、このままにしておけない。何とか、思いとどまってほしい。
「リーゼロッテ様、ダメです! そんなことをしたら、リーゼロッテ様が犯罪者に!」
「いいのです」
「犯人は捕まりましたし、これ以上、お嬢様が傷つくことはありません!」
「いえ、ラザナスはまた新たな女を連れてきます。そして、お嬢様を傷つける。ラザナスを殺さなくてはずっとこういうことが続くのです。すべてはスウェイト家とお嬢様のためです」
「でも!」
「邪魔をするつもりですか?」
「そんなの間違っていると思います!」
「間違っているかどうかなど、わたくしにはどうでもいいのです。あなたなら理解していただけると思ったのですが、どうも意見が合わないようですね」
リーゼロッテ様は一切乱れのない動作で机から回りこみ、改めてわたしと向かい合った。今まで知っていたリーゼロッテ様とは違う。
「心苦しいのですが、仕方ありません。なるべく痛みのないようにいたしましょう」
意味を問う前にわたしの首の裏に衝撃が走った。何が起きたのか、まったくわからない。ただ、目の前が暗闇の幕に落とされて、自分の体の感覚が完全に抜けたのがわかった。
部屋に突撃したときから一変して、和やかな雰囲気が流れている。しかも、リーゼロッテ様を相手にして緊張が解けたのは、もしかしてはじめてのことかもしれない。
「あの、そろそろ仕事に戻らなければ……」
目的は済んだので頭を下げて失礼しようとすれば、リーゼロッテ様が「お待ちなさい」と引き留めた。まだ、何か用があるのだろうか。リーゼロッテ様は微笑を浮かべているものの、彼女の瞳は真剣そのものだった。
「マキ……人の心とは弱いものです。たとえ完璧だと思っている人にも、何かしら欠落を抱えている。わたくしもそうでしたよ、マキ」
何を伝えたいのか、わたしにはさっぱりわからない。それでも、話を聞くよりかは仕方ないと思い、次の言葉を大人しく待った。
「……わたくしには父親の記憶がありません。家柄は良い方でしたが、父が死ぬと家は傾いたそうです。母は体が弱く、働くことはできませんでした」
リーゼロッテ様の突然の告白に驚いたけれど、わたしにはその状況がすんなり飲みこめた。自分だって同じだった。生まれたときから父はいなくて、家には母しかいなかった。その母も死に物狂いで働き、結果、命を落とした。過去の自分の姿と重なった。
「そんなとき、親戚のツテでこのお屋敷に使用人として働くことになりました。
すべてのお給金を母に渡しましたわ。わたくしはたったひとり母のために働いたのです。
必死に働いたかいあって、奥様付きの使用人まで上り詰めました。
しかし、その頃、母が死んだという知らせを聞いたのです。
わたくしはうちひしがれました。母のために生きてきたので、今さらどうしたらよいのか? まったくわからなくなりました。生きているのが辛かった」
確かにわたしも母が死んだとき、地球のどこに立っているのかもわからなくなった。幸いだったのが、変な親戚に預けられずに済んだ点だ。自分で働くという選択肢があったから生きてこられた。
「迷っていた頃、奥様はわたくしに声をかけてくださいました。
『リーゼロッテ、あなたは良くしてくれている。わたしはあなたがいないと困るのよ。だから、ここにいてね。そして、この屋敷を守って』と。
わたくしは奥様のために喜んで働きました。メルビナお嬢様がお生まれになってからというもの、お屋敷はますます明るくなっていったのです。しかし……」
リーゼロッテ様はふっと息を吐いて、顔をうつむかせた。
「奥様は命を落としました。病でなんて冗談ではありません。奥様は前日までお元気でした。奥様の水に毒が仕こんであったのでしょう」
「毒……」まさにお嬢様と重なった。病で寝たきりという噂も嘘だった。
「わたくしにはわかっていましたわ。旦那様……いえ、ラザナスの愛人が殺したのだと。あの女は使用人にやらせたのです。もちろん、証拠はないですが」
リーゼロッテ様の視線は遠くだけを見ていた。もう彼女はわたしと話しているという感覚はないのかもしれない。
「リーゼロッテ様?」
「お嬢様にまで手を出すなんて、許せないことです。あの女とともにこの家を汚したラザナスも殺さなくてはなりません」
リーゼロッテ様の言葉を理解するのに時間がかかった。まさか、本気ではないだろうと思っていたから。
それなのに、リーゼロッテ様はちっとも笑っておらず、暗い影を抱えていた。怖い。怖すぎる。でも、このままにしておけない。何とか、思いとどまってほしい。
「リーゼロッテ様、ダメです! そんなことをしたら、リーゼロッテ様が犯罪者に!」
「いいのです」
「犯人は捕まりましたし、これ以上、お嬢様が傷つくことはありません!」
「いえ、ラザナスはまた新たな女を連れてきます。そして、お嬢様を傷つける。ラザナスを殺さなくてはずっとこういうことが続くのです。すべてはスウェイト家とお嬢様のためです」
「でも!」
「邪魔をするつもりですか?」
「そんなの間違っていると思います!」
「間違っているかどうかなど、わたくしにはどうでもいいのです。あなたなら理解していただけると思ったのですが、どうも意見が合わないようですね」
リーゼロッテ様は一切乱れのない動作で机から回りこみ、改めてわたしと向かい合った。今まで知っていたリーゼロッテ様とは違う。
「心苦しいのですが、仕方ありません。なるべく痛みのないようにいたしましょう」
意味を問う前にわたしの首の裏に衝撃が走った。何が起きたのか、まったくわからない。ただ、目の前が暗闇の幕に落とされて、自分の体の感覚が完全に抜けたのがわかった。