槍とカチューシャ(51~100)
第72話『人の気持ち』
お嬢様に追いつくのは案外、簡単だった。なぜなら、彼女は荒い息をさせながら太い幹に捕まっていたからだ。
井戸から今いるお屋敷の裏側までの距離は、さほど離れていない。それでも、体を折ってお疲れのように見えるのは、おそらく運動不足なのだろうと思った。
追いついたはいいものの、このまま慌てて駆け寄ったら逃げてしまう気がすごくする。「待て」と叫んでも追われる人が待ってくれないように、無理やりに従わせることはできない。まずは警戒心を解いてもらい、詳しい話をお聞きして、説得できるならして、それからだ。
一呼吸を置いた。次に、蝶に近づくように慎重な足取りで歩み寄り、「お嬢様、大丈夫ですか?」とたずねてみた。
わたしの声を受けて、荒く上下していた肩が止まる。声をできるだけ落としてみたけれど、驚かせてしまったのかもしれない。ゆっくりと顔が振り向く。
そして、わたしを見上げたお嬢様はほっと息をこぼした。「何だ、あなただったのね」と安心したようにおっしゃった。
「お嬢様、簡単に安心しない方がいいと思いますよ」
わたしはただの使用人のひとりに過ぎない。奥様や先輩使用人に楯突くことはできないし、命令があれば、大抵のことは聞く。人に危害を加える以外のことは何でも。お嬢様はむしろわたしに安心を与えるようににっこり微笑んだ。
「でも、あなたは無理やり連れていこうとはしないでしょ?」
お嬢様にもお嬢様の想いがあるだろうし、わたしが無理やりお連れできるとは思わない。というか、したくないし、できない。
「何でわかるのですか?」
「んー、何となく、人って気持ちがこう、顔に出るから」
お嬢様が自らの顔を指で差して、ますます笑みを深くした。何だか、不思議な人だ。偉い人なのに偉そうじゃない。
奥様に似て、高慢(ちょっと失言)で、使用人の扱いに長けているものだと偏見を持っていた。でも、しゃがんでドレスの裾についた枯れ葉の破片をとってあげると、「ありがとう」と言ってもらった。このやりとりだけで勝手ながら親近感がわいた。
同じ目線になるように立ち上がると、「それで、どこへ行かれる気なのですか?」と一番の疑問をぶつけた。
「言ったら怒らない?」
「場合によっては、怒るかもしれません」
あまりにも子供らしい質問で、わたしも冗談混じりに返した。彼女にも通じたらしく、くすくすと笑ってくれる。平然とジルさんのようでいたかったのに、わたしもうっかり笑ってしまう。だけど、彼女の笑顔が消えたとき、わたしも笑うのを完全にやめた。
「お母様に会いに行きたいの」
「お母様?」
「ええ。わたしが10歳のときに死んじゃったのだけれど。もしよかったらあなたもついてきてくれる?」
お嬢様の八の字に降りた眉は頼りない。視線を下ろすと、彼女が組んでいた指も震えていた。瞳はすがるようで、抵抗はできなかった。わたしは使用人としての立場を考えるまでもなく、「ついていきます」と答えていた。
お嬢様に追いつくのは案外、簡単だった。なぜなら、彼女は荒い息をさせながら太い幹に捕まっていたからだ。
井戸から今いるお屋敷の裏側までの距離は、さほど離れていない。それでも、体を折ってお疲れのように見えるのは、おそらく運動不足なのだろうと思った。
追いついたはいいものの、このまま慌てて駆け寄ったら逃げてしまう気がすごくする。「待て」と叫んでも追われる人が待ってくれないように、無理やりに従わせることはできない。まずは警戒心を解いてもらい、詳しい話をお聞きして、説得できるならして、それからだ。
一呼吸を置いた。次に、蝶に近づくように慎重な足取りで歩み寄り、「お嬢様、大丈夫ですか?」とたずねてみた。
わたしの声を受けて、荒く上下していた肩が止まる。声をできるだけ落としてみたけれど、驚かせてしまったのかもしれない。ゆっくりと顔が振り向く。
そして、わたしを見上げたお嬢様はほっと息をこぼした。「何だ、あなただったのね」と安心したようにおっしゃった。
「お嬢様、簡単に安心しない方がいいと思いますよ」
わたしはただの使用人のひとりに過ぎない。奥様や先輩使用人に楯突くことはできないし、命令があれば、大抵のことは聞く。人に危害を加える以外のことは何でも。お嬢様はむしろわたしに安心を与えるようににっこり微笑んだ。
「でも、あなたは無理やり連れていこうとはしないでしょ?」
お嬢様にもお嬢様の想いがあるだろうし、わたしが無理やりお連れできるとは思わない。というか、したくないし、できない。
「何でわかるのですか?」
「んー、何となく、人って気持ちがこう、顔に出るから」
お嬢様が自らの顔を指で差して、ますます笑みを深くした。何だか、不思議な人だ。偉い人なのに偉そうじゃない。
奥様に似て、高慢(ちょっと失言)で、使用人の扱いに長けているものだと偏見を持っていた。でも、しゃがんでドレスの裾についた枯れ葉の破片をとってあげると、「ありがとう」と言ってもらった。このやりとりだけで勝手ながら親近感がわいた。
同じ目線になるように立ち上がると、「それで、どこへ行かれる気なのですか?」と一番の疑問をぶつけた。
「言ったら怒らない?」
「場合によっては、怒るかもしれません」
あまりにも子供らしい質問で、わたしも冗談混じりに返した。彼女にも通じたらしく、くすくすと笑ってくれる。平然とジルさんのようでいたかったのに、わたしもうっかり笑ってしまう。だけど、彼女の笑顔が消えたとき、わたしも笑うのを完全にやめた。
「お母様に会いに行きたいの」
「お母様?」
「ええ。わたしが10歳のときに死んじゃったのだけれど。もしよかったらあなたもついてきてくれる?」
お嬢様の八の字に降りた眉は頼りない。視線を下ろすと、彼女が組んでいた指も震えていた。瞳はすがるようで、抵抗はできなかった。わたしは使用人としての立場を考えるまでもなく、「ついていきます」と答えていた。