槍とカチューシャ(1~50)
第35話『お帰りなさい』
離してほしいという願いが叶えられたのは、しばらく経ってからのことだった。長かったような短かったような、密着しすぎて獣臭いことも途中からどうでもよくなっていた。
団長さんはわたしを解放すると、ベンチの右側に音を立てて座った。立ち去ることもなく、こうやってベンチに座るということは、まだ用でもあるのだろうか。
わたしと団長さんの間にはバスケットがある。こちらはバスケットのなかの食事が気になるけれど、そうもいかないよなあと思う。
「あの~、団長さん?」
思いきって団長さんに声をかけてみるけれど、彼は腕を組んで目をつむっていた。これといって反応はないし、眠りかけているようにも見える。たぶん、疲れたのだろう。だったら、自分の部屋で休めばいいのに。そちらのほうがゆっくりできるはずだ。
こういうときは何と言えばいいのか、マリー先生も教えてくれなかった。どうしたものかと頭を巡らせていたら、横から「ぐーきゅるる」なんて盛大な音がする。これはお腹の音だ。わたしではないということは、もちろん隣の方。
「お腹、空きました?」
シャーレンブレンドの言葉でたずねてみたけれど、団長さんからの答えはなかった。でも、耳の先が赤く色づいているから恥ずかしがっているのかもしれない。
――何だ、起きているんじゃない。おかしくて笑いをこらえつつ、団長さんの黒い上着をベンチに置いてから、バスケットのなかのサンドイッチを取り出した。
ベンチから腰を上げる。わたしの気配を感じたのか、団長さんは瞼を開けた。相変わらず綺麗な緑色の瞳に向かってわたしは微笑みつつ、首を傾げた。
「食べます?」
おすそわけのつもりで団長さんの目の前に差し出した。まだ3つも残っているし、1つくらいはあげてもいいだろう。
彼はサンドイッチをじーっと見つめた。その視線はサンドイッチに穴が空いてしまいそうなほど強かった。別に毒なんて入っていない。ハムとチーズが挟まっているだけのシンプルなサンドイッチだ。
「美味しいですよ?」
まだ食べていないけれど、サンドイッチは外れが少ないはずだ。
「もし良かったらどうぞ」
もう一度、団長さんの前に差し出してみた。それでも何の反応もない。やっぱり、シャーレンブレンドの人の口に合わないのか。それとも、かなりの潔癖でわたしの手から受け取りたくないのか。無理強いはしたくない。
仕方なく手を引っこめようとした瞬間、突然、手首が掴まれた。
「あっ、ちょ」
戸惑うわたしをよそに勢いよく引っ張られる。バランスを崩したせいで団長さんの膝に足を置いてしまった。離れようと思ったのに腕に抱えられて、逃げられそうにない。顔が近寄ってくる。
――まさか、キス!
身構えたら、団長さんの顔がそれた。口を大きく開けて、サンドイッチをわたしの手から食べる。まるで、わたしが餌付けしているみたい。むしゃむしゃと顎を動かすひげ面が憎い。変な想像をしてしまったじゃないか。でも、ホッとした。
「まったく」
結局、食べ切るまでわたしは解放されないのだろう。しかも、どさくさに紛れて、わたしの腰から下を撫でているし、セクハラもいいところだ。本当にこの人はどこにいても変わらない。
団長さんはサンドイッチを食べ切ると、わたしを丁重にベンチに降ろしてくれた。くれたって抱き上げたのは団長さんだけれど、まあいい。ベンチにかけておいた黒い上着を肩に羽織ると、わたしの肩に手を置く。
「美味かった」
彼の舌に合ったのだ。それはそれで嬉しい。セクハラされたことをすっかり忘れて、うっかり嬉しいなんて思ってしまうのだから、自分のことながら単純だと思う。
そして、今更だけれど、中庭を後にしようとする大きな背中に言い忘れたことがあった。
「お帰りなさい!」
団長さんは足を止めることなく、手だけを掲げて行ってしまう。だけどきっと、その顔は笑っている気がした。
離してほしいという願いが叶えられたのは、しばらく経ってからのことだった。長かったような短かったような、密着しすぎて獣臭いことも途中からどうでもよくなっていた。
団長さんはわたしを解放すると、ベンチの右側に音を立てて座った。立ち去ることもなく、こうやってベンチに座るということは、まだ用でもあるのだろうか。
わたしと団長さんの間にはバスケットがある。こちらはバスケットのなかの食事が気になるけれど、そうもいかないよなあと思う。
「あの~、団長さん?」
思いきって団長さんに声をかけてみるけれど、彼は腕を組んで目をつむっていた。これといって反応はないし、眠りかけているようにも見える。たぶん、疲れたのだろう。だったら、自分の部屋で休めばいいのに。そちらのほうがゆっくりできるはずだ。
こういうときは何と言えばいいのか、マリー先生も教えてくれなかった。どうしたものかと頭を巡らせていたら、横から「ぐーきゅるる」なんて盛大な音がする。これはお腹の音だ。わたしではないということは、もちろん隣の方。
「お腹、空きました?」
シャーレンブレンドの言葉でたずねてみたけれど、団長さんからの答えはなかった。でも、耳の先が赤く色づいているから恥ずかしがっているのかもしれない。
――何だ、起きているんじゃない。おかしくて笑いをこらえつつ、団長さんの黒い上着をベンチに置いてから、バスケットのなかのサンドイッチを取り出した。
ベンチから腰を上げる。わたしの気配を感じたのか、団長さんは瞼を開けた。相変わらず綺麗な緑色の瞳に向かってわたしは微笑みつつ、首を傾げた。
「食べます?」
おすそわけのつもりで団長さんの目の前に差し出した。まだ3つも残っているし、1つくらいはあげてもいいだろう。
彼はサンドイッチをじーっと見つめた。その視線はサンドイッチに穴が空いてしまいそうなほど強かった。別に毒なんて入っていない。ハムとチーズが挟まっているだけのシンプルなサンドイッチだ。
「美味しいですよ?」
まだ食べていないけれど、サンドイッチは外れが少ないはずだ。
「もし良かったらどうぞ」
もう一度、団長さんの前に差し出してみた。それでも何の反応もない。やっぱり、シャーレンブレンドの人の口に合わないのか。それとも、かなりの潔癖でわたしの手から受け取りたくないのか。無理強いはしたくない。
仕方なく手を引っこめようとした瞬間、突然、手首が掴まれた。
「あっ、ちょ」
戸惑うわたしをよそに勢いよく引っ張られる。バランスを崩したせいで団長さんの膝に足を置いてしまった。離れようと思ったのに腕に抱えられて、逃げられそうにない。顔が近寄ってくる。
――まさか、キス!
身構えたら、団長さんの顔がそれた。口を大きく開けて、サンドイッチをわたしの手から食べる。まるで、わたしが餌付けしているみたい。むしゃむしゃと顎を動かすひげ面が憎い。変な想像をしてしまったじゃないか。でも、ホッとした。
「まったく」
結局、食べ切るまでわたしは解放されないのだろう。しかも、どさくさに紛れて、わたしの腰から下を撫でているし、セクハラもいいところだ。本当にこの人はどこにいても変わらない。
団長さんはサンドイッチを食べ切ると、わたしを丁重にベンチに降ろしてくれた。くれたって抱き上げたのは団長さんだけれど、まあいい。ベンチにかけておいた黒い上着を肩に羽織ると、わたしの肩に手を置く。
「美味かった」
彼の舌に合ったのだ。それはそれで嬉しい。セクハラされたことをすっかり忘れて、うっかり嬉しいなんて思ってしまうのだから、自分のことながら単純だと思う。
そして、今更だけれど、中庭を後にしようとする大きな背中に言い忘れたことがあった。
「お帰りなさい!」
団長さんは足を止めることなく、手だけを掲げて行ってしまう。だけどきっと、その顔は笑っている気がした。