槍とカチューシャ(101~end)
第113話『ジェラールさん』
シャーレンブレンドに来て、こんな経験をするとは想像していなかった。昨日の今日で馬車に乗るのは仕方ないにしても、朝早くからコルセットで腰を絞られるなんて経験がない。
その上、ネイビーブルーのドレスを着せられた。以前、団長さんからもらったリボンの色にそっくりの深い青だ。白いフリルの線が腰の辺りから裾の先まで斜め下に2本流れている。
髪の毛は自分でやった。ひとつにまとめた髪をふたつに分けてねじって、くるっとお団子にした。あとはピンでとめるだけ。あんまり派手な飾りは、落ち着いたネイビーのドレスに合わない気がしたからだ。
お化粧はおまかせした。外見だけは成人式よりも華やかな装いだった。とはいっても、本当の成人式には出られなかったけれど。
部屋を出て階段のところまで来ると、団長さんが待っていた。騎士団の服を纏っていた。でも、全体的に黒くない。白い。髪の毛もちゃんと後ろに撫でつけられている。ちゃんとした騎士だった。
「どうした?」
「えーっと、おじさんにも衣装だなあと思いまして」
うっかり格好いいなんて思ってしまう自分が恥ずかしくて、隠すようにわざと「おじさん」と言った。団長さんが明らかにムッとする。
「ふん、お前もな」
そんな子どもっぽい反論も、慌ててつけ足した「よ、よく似合ってる」なんてどもりまくった言葉で帳消しになった。本当に嬉しかった。単純だと思われてもにやけるのをやめられない。
「団長さんもお似合いですよ。格好いいです」
わたしが誉めると「うっ」と胸の辺りを押さえる。心配になったけれど、「大丈夫だ」と言われ、そうかと納得した。そらされた顔がこちらに戻ってきて、捕まれと言うように手を差し出される。わたしは手をそえた。
馬車の中まで手を握ったまま、向かい合って座るときにはさすがに「やめてください」と抵抗した。それに対して、団長さんは不服そうだった。
馬車の中は思ったより快適だった。相乗り馬車には満足に椅子もなかったりするし、何より、団長さんと向かい合っているのがツボにはまった。まるで、旅行みたいだ。
小さい窓から動き出す景色を眺めていると、咳払いが聞こえた。
「……あれだ」
「あれ?」
「名だ」
単語しか言わない団長さんに首を傾げると、「だから、団長と呼ぶのはやめろ」と不機嫌な感じで言われた。そういえば、結婚するのに「団長さん」は変かもしれない。でも、今まで染み付いた呼び方には愛着がある。
「アイミ、お前は俺の名だけは呼ばないだろう。他のやつは呼ぶくせに」
団長さんのことだから、名を呼んでくれないと気にして眠れない夜を過ごしたかもしれない。言葉にそんな切実な気持ちがこめられている感じがした。
「じゃあ、呼びましょうか。覚悟はいいですか?」
「あ、ああ」
緊張しているみたいな強ばった顔の団長さんが少しおかしい。緑色の瞳をまっすぐに見た。
「ジェラールさん」
「ジェラール様」とかのほうがいいかなと思いながら、でも、「団長さん」からでは「ジェラールさん」のほうが言いやすかった。だから、「ジェラールさん」にしたのだけれど。
「ジェラールさん?」
今回の固まり具合が長くて、心配になる。もう一度、呼んでみようかと口を開きかけたとき、「アイミ」と先を越された。
しかも、あの団長さんがニヤッとしている。さわやかな笑みというよりかは、本当に顔が崩れてしまったという感じだ。いつも頑なに動かない頬がゆるみ、眉間のしわがやわらいでいる。
「アイミ」
どれだけ恥ずかしくても馬車のなかに逃げ場所なんてなかった。緑色の瞳に捕らわれて、わたしは無言の答えに気づく。団長さんは何度だってわたしなんかに呼ばれることを望んでいる。それなら、望み通りにしてあげたい。
「ジェラールさん」
もう一度、呼べば、団長さん――ジェラールさんの太い腕がわたしに伸ばされた。すぐに、腕のなかに引き寄せられた。
ジェラールさんの固い胸板に頬を押しつけたまま考えた。いつだって嘘をつかないでいてくれるジェラールさんに、わたしもこのときくらいは素直になってみようかと思う。
「わたし、アイミって呼ばれるのがとても嫌だったって話しましたよね。でも、最近、呼ばれても嫌じゃないんです。むしろ、呼んでほしいというか。それはきっと、ジェラールさんが呼んでくれたからです。だから、ありがとう」
わたしが自分の名前を嫌わないようになったのも、ジェラールさんが「アイミ」と呼んでくれたからだ。
「いや、礼には及ばない。俺もお前のおかげで自分の名が好きになった。ありがとう」
どちらもありがとうとか、何なんだこのやりとり。まるで、バカップルみたいな会話におかしくなって笑ったら、ジェラールさんもつられたように笑ってくれた。
シャーレンブレンドに来て、こんな経験をするとは想像していなかった。昨日の今日で馬車に乗るのは仕方ないにしても、朝早くからコルセットで腰を絞られるなんて経験がない。
その上、ネイビーブルーのドレスを着せられた。以前、団長さんからもらったリボンの色にそっくりの深い青だ。白いフリルの線が腰の辺りから裾の先まで斜め下に2本流れている。
髪の毛は自分でやった。ひとつにまとめた髪をふたつに分けてねじって、くるっとお団子にした。あとはピンでとめるだけ。あんまり派手な飾りは、落ち着いたネイビーのドレスに合わない気がしたからだ。
お化粧はおまかせした。外見だけは成人式よりも華やかな装いだった。とはいっても、本当の成人式には出られなかったけれど。
部屋を出て階段のところまで来ると、団長さんが待っていた。騎士団の服を纏っていた。でも、全体的に黒くない。白い。髪の毛もちゃんと後ろに撫でつけられている。ちゃんとした騎士だった。
「どうした?」
「えーっと、おじさんにも衣装だなあと思いまして」
うっかり格好いいなんて思ってしまう自分が恥ずかしくて、隠すようにわざと「おじさん」と言った。団長さんが明らかにムッとする。
「ふん、お前もな」
そんな子どもっぽい反論も、慌ててつけ足した「よ、よく似合ってる」なんてどもりまくった言葉で帳消しになった。本当に嬉しかった。単純だと思われてもにやけるのをやめられない。
「団長さんもお似合いですよ。格好いいです」
わたしが誉めると「うっ」と胸の辺りを押さえる。心配になったけれど、「大丈夫だ」と言われ、そうかと納得した。そらされた顔がこちらに戻ってきて、捕まれと言うように手を差し出される。わたしは手をそえた。
馬車の中まで手を握ったまま、向かい合って座るときにはさすがに「やめてください」と抵抗した。それに対して、団長さんは不服そうだった。
馬車の中は思ったより快適だった。相乗り馬車には満足に椅子もなかったりするし、何より、団長さんと向かい合っているのがツボにはまった。まるで、旅行みたいだ。
小さい窓から動き出す景色を眺めていると、咳払いが聞こえた。
「……あれだ」
「あれ?」
「名だ」
単語しか言わない団長さんに首を傾げると、「だから、団長と呼ぶのはやめろ」と不機嫌な感じで言われた。そういえば、結婚するのに「団長さん」は変かもしれない。でも、今まで染み付いた呼び方には愛着がある。
「アイミ、お前は俺の名だけは呼ばないだろう。他のやつは呼ぶくせに」
団長さんのことだから、名を呼んでくれないと気にして眠れない夜を過ごしたかもしれない。言葉にそんな切実な気持ちがこめられている感じがした。
「じゃあ、呼びましょうか。覚悟はいいですか?」
「あ、ああ」
緊張しているみたいな強ばった顔の団長さんが少しおかしい。緑色の瞳をまっすぐに見た。
「ジェラールさん」
「ジェラール様」とかのほうがいいかなと思いながら、でも、「団長さん」からでは「ジェラールさん」のほうが言いやすかった。だから、「ジェラールさん」にしたのだけれど。
「ジェラールさん?」
今回の固まり具合が長くて、心配になる。もう一度、呼んでみようかと口を開きかけたとき、「アイミ」と先を越された。
しかも、あの団長さんがニヤッとしている。さわやかな笑みというよりかは、本当に顔が崩れてしまったという感じだ。いつも頑なに動かない頬がゆるみ、眉間のしわがやわらいでいる。
「アイミ」
どれだけ恥ずかしくても馬車のなかに逃げ場所なんてなかった。緑色の瞳に捕らわれて、わたしは無言の答えに気づく。団長さんは何度だってわたしなんかに呼ばれることを望んでいる。それなら、望み通りにしてあげたい。
「ジェラールさん」
もう一度、呼べば、団長さん――ジェラールさんの太い腕がわたしに伸ばされた。すぐに、腕のなかに引き寄せられた。
ジェラールさんの固い胸板に頬を押しつけたまま考えた。いつだって嘘をつかないでいてくれるジェラールさんに、わたしもこのときくらいは素直になってみようかと思う。
「わたし、アイミって呼ばれるのがとても嫌だったって話しましたよね。でも、最近、呼ばれても嫌じゃないんです。むしろ、呼んでほしいというか。それはきっと、ジェラールさんが呼んでくれたからです。だから、ありがとう」
わたしが自分の名前を嫌わないようになったのも、ジェラールさんが「アイミ」と呼んでくれたからだ。
「いや、礼には及ばない。俺もお前のおかげで自分の名が好きになった。ありがとう」
どちらもありがとうとか、何なんだこのやりとり。まるで、バカップルみたいな会話におかしくなって笑ったら、ジェラールさんもつられたように笑ってくれた。