槍とカチューシャ(1~50)
第1話『ここはどこ?』
どうやってもあの夜は階段を踏み外すしかなかった。
傘を忘れたことでずぶ濡れになったことも。ブーツが滑り、真っ逆さまになったことも。
最後に瞼を閉じたとき、わたしは生きることを諦めていた。死ぬのだと、わかっていた。
◆◆◆
わたしはもうこの世のものではない。いわば、肉体を失った魂だ。魂にはもう光熱費やら食費やら家賃やらを気にする必要もない。あてのないお先真っ暗な将来を考える意味もない。汚いものばかり見てきた目を閉じるだけだ。
それなのに、体が揺り動かされている。こちらは眠りたいのに放っといてはくれないらしい。
――いいよ、起こさないで。もうこちらは完全に諦めているんだから。
そう思っても、体が揺れる。本当にしつこい。このしつこさに負けるのはしゃくだけど、ずっと揺らされているのはもっと嫌だ。仕方なく瞼を開けることにする。
瞬きを数回すると、ぼやけた影がはっきりしてきた。残念なことに、ちゃんと目が見えている。影は人の顔のかたちをしていた。
「誰?」
かすれた声も出る。やっぱり、わたしは性懲りもなく生きている。
ようやく視界がはっきりしてきて、目の前の顔をじっくり観察できた。汗にまみれているのか濃い金色の髪の毛、その下には長い睫毛に縁取られた目、見慣れない青い瞳がこちらをずっと見ていた。着ている服は上下が繋がっていて、腰の辺りで紐を巻いているだけの簡素なものだ。
しかも、しゃがみこんでいるから白い太ももまで見えてしまう。首輪や足かせってどんなファッションだ? あんまり見すぎて変態だと思われるのは嫌なので、顔をそらした。
とりあえず、コミュニケーションをとらなくては。
わたしも英語なら多少できるけど、堪能というわけではない。せめて、義務教育程度だ。ない頭をひねって、英語に言い直してたずねてみる。確か、英語は20億人が話せるという話だったけど本当に通じるだろうか。
『あなた、誰?』
試しに聞いてみたら、男の目が瞬く。まつ毛がうらやましいくらいに長いなあ。そんなことを思っていたら、かたちのいい唇が開く。
「夏希」
「へっ?」
何とも日本的な名前で変な声が上がってしまった。思わず青い瞳の奥を見る。
「……僕は木谷夏希と申します。あなたは?」
ふつうに日本語を話している。しかも、丁寧な言葉だ。日本語が堪能な外人か、それとも日本人か。ひとまず、言葉は通じるようで安心した。眠ったまま自己紹介するのは失礼な気がして、上体を起こす。
「わたし、牧愛美」
「アイミさん」
「愛美」。美しい愛なんて、わたしにはまったく合わない名前だ。この名前にどんな想いをこめられているのかは知らないが、わたしは好きじゃない。
「名前で呼ぶのはやめて。マキでいい」
「マキさん」
さん付けも恥ずかしいけれど、「アイミ」よりかはマシだから黙ることにした。ちょっと目線を落としたとき、「ん?」今さらながら、股下が涼しい。
わたしの体を見下ろすと、意識を失う前に着ていた服を身につけていなかった。肩は出ているし、布を押し上げようとする大きな胸が少しきつい。あまり細くない太もももさらされている。それに下着もはいていない股下の解放感がうらめしかった。
「夏希くん。わたしの服はどこ? あなたが着替えさせたの?」
「えーとまあ、そうです。濡れていたので」
なるほど。裸も見られたというわけか。まあ、濡れたままだったら風邪をひいてしまうかもしれないし、仕方ない。夏希もわたしの体を見ても大した変化もないみたいだし、いいか。減るものではないし。いったん忘れることにした。
「で、ここはどこ?」
顔を左横に向けると鉄格子があった。天井や壁は薄汚いし、部屋というよりかは廃墟に近い。幽霊とか不良が入り浸りそうな場所に見える。しかもこんなところで寝ていたなんて、衛生的にも悪そうだ。
「えっと、まず、ここは日本ではありません」
「そうなの?」
ここが日本ではないなんて、まったく信じられない。というか、そんな嘘、子供だって信じない。
「信じていませんね」
「そりゃそうでしょ。目が覚めたら別の国ってありえないって」
「あなたもここへ来る前、命を失いそうになったのではないですか?」
「まあ、確かにそうだけど」
階段から足を踏み外して、頭から地面に落ちた……はずだった。でも、後頭部に手をやって目の前に戻しても、血はついていない。そもそも痛みもないし。
「僕の場合は交通事故でした。でも、怪我1つしていない。あなたと同じです。その代わり、日本ではない別の国……いえ、地球とは違う別の世界へやってきてしまったのです」
ついていけない。日本ではないということも受け入れられないのに、別の世界って何だ? わたしは死ぬ代わりに別の世界に飛ばされてしまった? まったく説明がついていないし、わけがわからない。
「ごめん、悪いけど、意味わからない。そんな冗談、つまらないし」
「そうですよね。僕も聞かされたとき、そう思いました。でも、そのうちわかります」
そのうち、わかる。まるで下手な占い師のような言葉だ。何だか嫌な予感もするし、一生わかりたくない。
ふたりの間に沈黙が落ちたときに、鉄格子の先にある通路の奥から、床を踏みつける重い音が響いてきた。
どうやってもあの夜は階段を踏み外すしかなかった。
傘を忘れたことでずぶ濡れになったことも。ブーツが滑り、真っ逆さまになったことも。
最後に瞼を閉じたとき、わたしは生きることを諦めていた。死ぬのだと、わかっていた。
◆◆◆
わたしはもうこの世のものではない。いわば、肉体を失った魂だ。魂にはもう光熱費やら食費やら家賃やらを気にする必要もない。あてのないお先真っ暗な将来を考える意味もない。汚いものばかり見てきた目を閉じるだけだ。
それなのに、体が揺り動かされている。こちらは眠りたいのに放っといてはくれないらしい。
――いいよ、起こさないで。もうこちらは完全に諦めているんだから。
そう思っても、体が揺れる。本当にしつこい。このしつこさに負けるのはしゃくだけど、ずっと揺らされているのはもっと嫌だ。仕方なく瞼を開けることにする。
瞬きを数回すると、ぼやけた影がはっきりしてきた。残念なことに、ちゃんと目が見えている。影は人の顔のかたちをしていた。
「誰?」
かすれた声も出る。やっぱり、わたしは性懲りもなく生きている。
ようやく視界がはっきりしてきて、目の前の顔をじっくり観察できた。汗にまみれているのか濃い金色の髪の毛、その下には長い睫毛に縁取られた目、見慣れない青い瞳がこちらをずっと見ていた。着ている服は上下が繋がっていて、腰の辺りで紐を巻いているだけの簡素なものだ。
しかも、しゃがみこんでいるから白い太ももまで見えてしまう。首輪や足かせってどんなファッションだ? あんまり見すぎて変態だと思われるのは嫌なので、顔をそらした。
とりあえず、コミュニケーションをとらなくては。
わたしも英語なら多少できるけど、堪能というわけではない。せめて、義務教育程度だ。ない頭をひねって、英語に言い直してたずねてみる。確か、英語は20億人が話せるという話だったけど本当に通じるだろうか。
『あなた、誰?』
試しに聞いてみたら、男の目が瞬く。まつ毛がうらやましいくらいに長いなあ。そんなことを思っていたら、かたちのいい唇が開く。
「夏希」
「へっ?」
何とも日本的な名前で変な声が上がってしまった。思わず青い瞳の奥を見る。
「……僕は木谷夏希と申します。あなたは?」
ふつうに日本語を話している。しかも、丁寧な言葉だ。日本語が堪能な外人か、それとも日本人か。ひとまず、言葉は通じるようで安心した。眠ったまま自己紹介するのは失礼な気がして、上体を起こす。
「わたし、牧愛美」
「アイミさん」
「愛美」。美しい愛なんて、わたしにはまったく合わない名前だ。この名前にどんな想いをこめられているのかは知らないが、わたしは好きじゃない。
「名前で呼ぶのはやめて。マキでいい」
「マキさん」
さん付けも恥ずかしいけれど、「アイミ」よりかはマシだから黙ることにした。ちょっと目線を落としたとき、「ん?」今さらながら、股下が涼しい。
わたしの体を見下ろすと、意識を失う前に着ていた服を身につけていなかった。肩は出ているし、布を押し上げようとする大きな胸が少しきつい。あまり細くない太もももさらされている。それに下着もはいていない股下の解放感がうらめしかった。
「夏希くん。わたしの服はどこ? あなたが着替えさせたの?」
「えーとまあ、そうです。濡れていたので」
なるほど。裸も見られたというわけか。まあ、濡れたままだったら風邪をひいてしまうかもしれないし、仕方ない。夏希もわたしの体を見ても大した変化もないみたいだし、いいか。減るものではないし。いったん忘れることにした。
「で、ここはどこ?」
顔を左横に向けると鉄格子があった。天井や壁は薄汚いし、部屋というよりかは廃墟に近い。幽霊とか不良が入り浸りそうな場所に見える。しかもこんなところで寝ていたなんて、衛生的にも悪そうだ。
「えっと、まず、ここは日本ではありません」
「そうなの?」
ここが日本ではないなんて、まったく信じられない。というか、そんな嘘、子供だって信じない。
「信じていませんね」
「そりゃそうでしょ。目が覚めたら別の国ってありえないって」
「あなたもここへ来る前、命を失いそうになったのではないですか?」
「まあ、確かにそうだけど」
階段から足を踏み外して、頭から地面に落ちた……はずだった。でも、後頭部に手をやって目の前に戻しても、血はついていない。そもそも痛みもないし。
「僕の場合は交通事故でした。でも、怪我1つしていない。あなたと同じです。その代わり、日本ではない別の国……いえ、地球とは違う別の世界へやってきてしまったのです」
ついていけない。日本ではないということも受け入れられないのに、別の世界って何だ? わたしは死ぬ代わりに別の世界に飛ばされてしまった? まったく説明がついていないし、わけがわからない。
「ごめん、悪いけど、意味わからない。そんな冗談、つまらないし」
「そうですよね。僕も聞かされたとき、そう思いました。でも、そのうちわかります」
そのうち、わかる。まるで下手な占い師のような言葉だ。何だか嫌な予感もするし、一生わかりたくない。
ふたりの間に沈黙が落ちたときに、鉄格子の先にある通路の奥から、床を踏みつける重い音が響いてきた。
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