クサいけどいい匂い
第6話
トマへの気持ちを自覚したとしても、わたしは何にもしなかった。好きから付き合うという行動が、直接、結びつかなかった。そういう気持ちをどうやって、どの場面で言えばいいのかわからなかった。わたしはとにかく普通を装った。トマの言葉に感情が動くのを悟られないように、普通に接した。
「じゃあな」
「またね」
トマはわたしから背を向けた。何度もひき止めたいと手を上げようとした。もう少し話がしたくて。でも、片手で押さえつけた。トマはわたしを好きじゃない。期待してはいけない。恋なんてわからない。そう言い聞かせる。
師匠でも恋は教えてくれなかった。みんなどうやって、想いを告げてつき合って、結婚しているのだろう。お父さんとお母さんはどうやってそこに到ったのだろう。聞きたい人はそこにはいない。
その人は突然、現れた。呼び鈴が鳴るとまもなく、作業場の扉が開かれた。ちょうど鍋でぐつぐつと木の実を煮ていたところだった。確か、麻痺を治す薬を作っていたはず。突然のできごとにすべてが頭から吹っ飛んだ。
「ただいま!」
身なりは旅人で薄汚れていたけれど、ひょろりとした細長さは変わらない。フード付きのローブを纏い、こけた頬、くしゃくしゃの赤い髪。丸メガネの奥の優しい目は、わたしの好きな深い青だ。師匠を視界に入れたら、涙があふれて目の前を歪ませていく。安心したというか、張りつめていたものがぷつんと切れたというか。自分のなかで抑えていた感情がすべて流れ出した感じだ。
「師匠、お帰りなさい」
何とか言葉にできたものの、師匠がもう見えない。わたしは師匠に抱きついて泣きじゃくった。頭上から師匠の困ったような声が聞こえた気がするけれど、耳には届かなかった。
涙も落ち着いてきて、顔が腫れぼったく感じた頃、「落ち着きましたか?」と物腰のやわらかい声が聞こえてきた。師匠はわたしの肩に手を置いて、支えてくれている。
「ごめんなさい、泣いちゃったりして」
「久しぶりの再会に感極まってというわけではなさそうですね」
「はい」素直に言ったら、師匠は苦笑した。
「ミラナ、きみが泣くなんてよっぽどのことがあったのでしょう」
理由を口にするのには、ためらいがあった。でも、師匠はいつだってわたしに親身だった。真剣に聞いてくれる。恋の話はしたことはなかったけれど、どうしたらいいのか教えてくれるかもしれない。師匠のほうが長く生きていることだし。
ゆっくりと、トマとのことを話した。出会って、お互いの話をするようになって、好きになったこと。相棒の女性がいつも一緒にいて、強く嫉妬したこと。作業場にいると、このお店にいると、トマの影を探してしまうこと。全部、打ち明けた。
「苦しくて」
わたしの話を最後まで聞いていた師匠は「そうですか」とうなずいた。
「それならばいっそ、ミラナ。一緒にここを離れませんか?」
「えっ?」
「悩んだ時は周りを見るんです。実は店を移したいと考えていて」
店を移したいということは、この店を閉めて、新しくはじめるということ。師匠は準備も進めるために留守にしていたらしい。
「もっと、材料が集まり安いように、港町を考えてます。色んな場所からの依頼も増えるかもしれないし、楽しそうじゃありませんか」
師匠はきらきらした瞳で言う。この人はいつだって夢を語る。絶対におごらない。常に上を見ている。そして、実現してしまうんだ。ずっと、隣で見てきた。わたしだって、ついていきたい。だけれど、すぐにトマの顔が浮かんだ。消えてくれない。
なかなか応えないわたしの頭を師匠は撫でる。子どもの頃よく、撫でてくれた。おぼろになっていく父親の記憶を、師匠と重ねてどうにか繋ぎ止めていた。
「まあ、まだ時間はあります。ゆっくり考えてみてください」
でもきっと、答えは出ている。わたしは口を開いた。
「あの、師匠……」
トマへの気持ちを自覚したとしても、わたしは何にもしなかった。好きから付き合うという行動が、直接、結びつかなかった。そういう気持ちをどうやって、どの場面で言えばいいのかわからなかった。わたしはとにかく普通を装った。トマの言葉に感情が動くのを悟られないように、普通に接した。
「じゃあな」
「またね」
トマはわたしから背を向けた。何度もひき止めたいと手を上げようとした。もう少し話がしたくて。でも、片手で押さえつけた。トマはわたしを好きじゃない。期待してはいけない。恋なんてわからない。そう言い聞かせる。
師匠でも恋は教えてくれなかった。みんなどうやって、想いを告げてつき合って、結婚しているのだろう。お父さんとお母さんはどうやってそこに到ったのだろう。聞きたい人はそこにはいない。
その人は突然、現れた。呼び鈴が鳴るとまもなく、作業場の扉が開かれた。ちょうど鍋でぐつぐつと木の実を煮ていたところだった。確か、麻痺を治す薬を作っていたはず。突然のできごとにすべてが頭から吹っ飛んだ。
「ただいま!」
身なりは旅人で薄汚れていたけれど、ひょろりとした細長さは変わらない。フード付きのローブを纏い、こけた頬、くしゃくしゃの赤い髪。丸メガネの奥の優しい目は、わたしの好きな深い青だ。師匠を視界に入れたら、涙があふれて目の前を歪ませていく。安心したというか、張りつめていたものがぷつんと切れたというか。自分のなかで抑えていた感情がすべて流れ出した感じだ。
「師匠、お帰りなさい」
何とか言葉にできたものの、師匠がもう見えない。わたしは師匠に抱きついて泣きじゃくった。頭上から師匠の困ったような声が聞こえた気がするけれど、耳には届かなかった。
涙も落ち着いてきて、顔が腫れぼったく感じた頃、「落ち着きましたか?」と物腰のやわらかい声が聞こえてきた。師匠はわたしの肩に手を置いて、支えてくれている。
「ごめんなさい、泣いちゃったりして」
「久しぶりの再会に感極まってというわけではなさそうですね」
「はい」素直に言ったら、師匠は苦笑した。
「ミラナ、きみが泣くなんてよっぽどのことがあったのでしょう」
理由を口にするのには、ためらいがあった。でも、師匠はいつだってわたしに親身だった。真剣に聞いてくれる。恋の話はしたことはなかったけれど、どうしたらいいのか教えてくれるかもしれない。師匠のほうが長く生きていることだし。
ゆっくりと、トマとのことを話した。出会って、お互いの話をするようになって、好きになったこと。相棒の女性がいつも一緒にいて、強く嫉妬したこと。作業場にいると、このお店にいると、トマの影を探してしまうこと。全部、打ち明けた。
「苦しくて」
わたしの話を最後まで聞いていた師匠は「そうですか」とうなずいた。
「それならばいっそ、ミラナ。一緒にここを離れませんか?」
「えっ?」
「悩んだ時は周りを見るんです。実は店を移したいと考えていて」
店を移したいということは、この店を閉めて、新しくはじめるということ。師匠は準備も進めるために留守にしていたらしい。
「もっと、材料が集まり安いように、港町を考えてます。色んな場所からの依頼も増えるかもしれないし、楽しそうじゃありませんか」
師匠はきらきらした瞳で言う。この人はいつだって夢を語る。絶対におごらない。常に上を見ている。そして、実現してしまうんだ。ずっと、隣で見てきた。わたしだって、ついていきたい。だけれど、すぐにトマの顔が浮かんだ。消えてくれない。
なかなか応えないわたしの頭を師匠は撫でる。子どもの頃よく、撫でてくれた。おぼろになっていく父親の記憶を、師匠と重ねてどうにか繋ぎ止めていた。
「まあ、まだ時間はあります。ゆっくり考えてみてください」
でもきっと、答えは出ている。わたしは口を開いた。
「あの、師匠……」