結ばれない日記
番外編『笑顔』
朝の散歩の時、ボリスラフとふたりきりになった。庭園のなかを並んで歩く。花の匂いに包まれながら、お互いの歩幅を合わせていく。
ボリスラフの気持ちを知る前は、ふたりきりでも、騎士として斜め後ろの位置に立っていた。だから、わたしたちにとって、並んで歩くということはかなりの進歩だ。
さすがに手を繋ぐことはなかったけれど、お互いの存在を間近に感じられたと思う。それが嬉しくて、つい言葉がころっと落ちた。
「ボリスラフ、わたしずっと、あなたとこうしていたい。ふたりで並んで歩いていきたいの」
会話なんて無くても、一緒にいるだけでいい。こうやって、お互いの存在を意識しているだけで、満足だった。
「わたしもです」
そう口にしたボリスラフの顔といったら、もう言葉では表せないくらい。咲いている花よりも輝いて見えた。そして、わたしに衝撃と創作意欲をもたらした。
――これは、絵を描かなくちゃ。描かなければ、衝動をおさえきれない。
ボリスラフを庭園に残して、絵画用の部屋に飛びこんだ。急いで、筆を取る。威勢は良かったのだけれど。
「描けない」
ダメだった。掴みかけたデッサンが消えてしまった。真っ白になってしまった。こうなってしまえば、もう描けない。どうやっても、無理だ。
絶望で立ち尽くしていると、ボリスラフが部屋に入ってきた。
「まったく、何をやっているんですか?」
わたしはボリスラフの方を振り向いた。
「絵を描こうと思ったの。だって、ボリスラフの笑顔よ。見たことないもの。だから、絵に残しておかなくちゃって。でも、描けないの」
「別に描かなくてもいいでしょう」
でも、描きたくて仕方なかった。ボリスラフは滅多に笑ってくれないし、きっと、これからもそんな機会はない。
ボリスラフの笑顔を思い浮かべるためにも、やっぱり描いておきたい。もしかしたら、ボリスラフを見ながらだったら、描けるかもしれない。そう思って、ふたたびキャンバスに向かった。
なのに、筆が音を立てて落ちた。
背中から抱き止められたのだ。こうされたら、もう描けない。
「あなたは馬鹿ですか。そんなものは描かなくてもいい。笑顔なんて、好きな時に見せてあげますよ。だから、こちらを向いて」
耳元でそんなことを言われたら、振り向かないといけないと思ってしまう。わたしは抱きこんでいる腕に自分の手を重ねた。顔もうずめる。
「は、恥ずかしいから、嫌」
「また、そんな子どもみたいなことを」ボリスラフの呆れ声は最もだと思う。
「たぶん、顔が真っ赤だし」
「可愛いからいいでしょう」
「か、可愛い?」ますます、顔が熱を持ってきた。頭にまで上って、ついには倒れてしまうのではないかと思った。
「ええ、このまま、振り向かないと、もっと恥ずかしいことを言いますよ。いいのですか?」
「や、やめて」
耐えきれなくて、振り向いた。そこには、ボリスラフが待っていた。またしても、衝撃がやってくる。いつも無表情なのに、眉尻が下がって、細目になっている。口の端が上がって、白い歯を見せた。どう見ても、笑っていた。
「描かなくても、これから何度でも見る機会ができますよ。エミーリヤ」
近づいてくる笑顔に、わたしは瞼を閉じた。瞼の裏には、ちゃんとボリスラフの笑顔がそこにあった。
もっと、笑顔を見ることができたら。描かなくてもいつでも思い浮かべられるかもしれない。これからは、ボリスラフの笑顔を引き出していきたい。好きだって気持ちを伝えていく。だから、笑って――。
まさか、ボリスラフが自分を見ないで絵に走るわたしにすねていたこと。絵より自分を見ていて欲しかったこと。そんな情けなくて、微笑ましい話をしてくれたのは、わたしたちが正式に夫婦になった後だった。
おわり
朝の散歩の時、ボリスラフとふたりきりになった。庭園のなかを並んで歩く。花の匂いに包まれながら、お互いの歩幅を合わせていく。
ボリスラフの気持ちを知る前は、ふたりきりでも、騎士として斜め後ろの位置に立っていた。だから、わたしたちにとって、並んで歩くということはかなりの進歩だ。
さすがに手を繋ぐことはなかったけれど、お互いの存在を間近に感じられたと思う。それが嬉しくて、つい言葉がころっと落ちた。
「ボリスラフ、わたしずっと、あなたとこうしていたい。ふたりで並んで歩いていきたいの」
会話なんて無くても、一緒にいるだけでいい。こうやって、お互いの存在を意識しているだけで、満足だった。
「わたしもです」
そう口にしたボリスラフの顔といったら、もう言葉では表せないくらい。咲いている花よりも輝いて見えた。そして、わたしに衝撃と創作意欲をもたらした。
――これは、絵を描かなくちゃ。描かなければ、衝動をおさえきれない。
ボリスラフを庭園に残して、絵画用の部屋に飛びこんだ。急いで、筆を取る。威勢は良かったのだけれど。
「描けない」
ダメだった。掴みかけたデッサンが消えてしまった。真っ白になってしまった。こうなってしまえば、もう描けない。どうやっても、無理だ。
絶望で立ち尽くしていると、ボリスラフが部屋に入ってきた。
「まったく、何をやっているんですか?」
わたしはボリスラフの方を振り向いた。
「絵を描こうと思ったの。だって、ボリスラフの笑顔よ。見たことないもの。だから、絵に残しておかなくちゃって。でも、描けないの」
「別に描かなくてもいいでしょう」
でも、描きたくて仕方なかった。ボリスラフは滅多に笑ってくれないし、きっと、これからもそんな機会はない。
ボリスラフの笑顔を思い浮かべるためにも、やっぱり描いておきたい。もしかしたら、ボリスラフを見ながらだったら、描けるかもしれない。そう思って、ふたたびキャンバスに向かった。
なのに、筆が音を立てて落ちた。
背中から抱き止められたのだ。こうされたら、もう描けない。
「あなたは馬鹿ですか。そんなものは描かなくてもいい。笑顔なんて、好きな時に見せてあげますよ。だから、こちらを向いて」
耳元でそんなことを言われたら、振り向かないといけないと思ってしまう。わたしは抱きこんでいる腕に自分の手を重ねた。顔もうずめる。
「は、恥ずかしいから、嫌」
「また、そんな子どもみたいなことを」ボリスラフの呆れ声は最もだと思う。
「たぶん、顔が真っ赤だし」
「可愛いからいいでしょう」
「か、可愛い?」ますます、顔が熱を持ってきた。頭にまで上って、ついには倒れてしまうのではないかと思った。
「ええ、このまま、振り向かないと、もっと恥ずかしいことを言いますよ。いいのですか?」
「や、やめて」
耐えきれなくて、振り向いた。そこには、ボリスラフが待っていた。またしても、衝撃がやってくる。いつも無表情なのに、眉尻が下がって、細目になっている。口の端が上がって、白い歯を見せた。どう見ても、笑っていた。
「描かなくても、これから何度でも見る機会ができますよ。エミーリヤ」
近づいてくる笑顔に、わたしは瞼を閉じた。瞼の裏には、ちゃんとボリスラフの笑顔がそこにあった。
もっと、笑顔を見ることができたら。描かなくてもいつでも思い浮かべられるかもしれない。これからは、ボリスラフの笑顔を引き出していきたい。好きだって気持ちを伝えていく。だから、笑って――。
まさか、ボリスラフが自分を見ないで絵に走るわたしにすねていたこと。絵より自分を見ていて欲しかったこと。そんな情けなくて、微笑ましい話をしてくれたのは、わたしたちが正式に夫婦になった後だった。
おわり
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