結ばれない日記
第4話
儀式部屋に入ったのは、今日がはじめてだった。入ってみての印象は、陰気でかび臭い場所というところか。
部屋は幕に覆われていて、たやすく明かりが透けないようになっている。かろうじて、部屋の四隅に置かれた背の高い燭台だけが、小さな明かりを放っていた。
棚に置かれた短剣は、いったいどういう使われ方をするのか、さっぱりわからない。大鍋ものぞいてみても、底の見えない暗闇だった。
魔術とはこんなに暗いものだったのか。少し怖じ気づいていると「そこに寝ていただけますか?」と、魔術師様から指示を受けた。
燭台に囲まれた台座の上に横たわれという。いよいよだ。今になって、緊張してきた。幼い頃の自分の思いつきで魔術師様と約束をした。それを果たすときが来るなんて。
わたしが横になると、魔術師様はお香をたきはじめた。決して花の香りがするわけではない。ただの煙のような胃が悪くなるような臭い。
吸いこもうとはしていないのに、肺を通して勝手に入ってくる。瞼が重くなってきた。寝てはダメだと思うのに、意識を保っていられない。
意識を失いかけたその時、心の奥底から聞こえてくる声があった。
「エミーリヤ様」
何でここで、ボリスラフの声なのだろう。
しかも、瞼の裏に映ったのは、白い歯をのぞかせて笑うボリスラフだった。きっと、これは偽者だ。ボリスラフが笑った顔を見たことがなかった。わたしの前ではただの一度も。
ずいぶん長く眠った気がする。昼寝を途中で切ったかのように、頭が重い。どのくらいの間、眠ってしまったのか。体を起こすと、魔術師様が迎えてくれた。
「エミーリヤ様、お体のご加減はどうですか?」
「頭が重いです。何だか、ボーッとします」
「それは後遺症です。しばらくすれば、良くなるでしょう」
魔術師様が言うなら、きっとそうなのだろう。疑う余地もない。上体を起こして、台座の隅に腰をかける。
「もう少しここでお休みになられてから……」
「嫌です。ここに、ひとりでいたくはありません」
暗いし、もう一度寝るなんてゴメンだ。台座から両足を下ろして立ち上がろうとするけれど、床がぐらつく。棚に手を突いて、自分の体を支えなくては立てない有り様だった。魔術師様がわたしの腕を取る前に、部屋の扉が勝手に開かれた。
「エミーリヤ様!」
ボリスラフの声が聞こえる。幻聴だろうか。ボリスラフの幻覚も見える。これも術の副作用なのか。でも、魔術師様がボリスラフを睨み付けているのが見えて、わたしの幻覚ではないのだと確信した。
「ここは魔術師の神聖な場所である。騎士風情が足を踏み入れてはならぬ」
魔術師様の指摘にボリスラフは「しかし」と渋る。わたしが出ない限り、騎士として任務に忠実な男が退くことはないだろう。
「ボリスラフ。わたしは大丈夫。すぐ部屋から出ます」
そうは言っても足元が定まらないでふらつく。ふらふらしながら明かりを求めて部屋から出ると、ボリスラフのしかめっ面があった。これは「この王女、面倒を起こしやがって」という表情かしら。
悪かったわねと、少しだけ腹が立って、あからさまに巨体から避けようとしたら、体がよろける。
「危ない!」
柱が目前に迫っていたはずなのに、ぶつからなかった。ぶつかる寸前で、ボリスラフのたくましい腕がわたしの体を抱き留めたのだ。
抱えられた体勢で、必然と近づいた顔に心臓が飛び上がりそうになる。騎士、ボリスラフをこんな至近距離で眺めたことはなかった。
こうしてみると、案外、顔が整って見えなくもない。まあ、怖い顔を相変わらずしているけれど。唇はいつものように怒りを描いて歪んでいる。当の本人は知らないはずだけれど、笑ったらもっと素敵に見えるはずだ。
じっくり見つめていたら、「エミーリヤ様」とさえぎられた。危ない。見つめすぎた。
「離しなさい」
いつも通りの冷たい声を取り戻すと、ボリスラフはわたしを起こして腕を離してくれた。自分で言ったはずなのに、離れてしまった温もりが無くなるのが淋しい。ずっと抱き締めていてほしかった。そんなことを思う、わけのわからない自分がいる。
「エミーリヤ様」と呼ばれるだけで胸が震える。ボリスラフと視線を合わせるだけで、胸が苦しい。顔も熱い。ボリスラフ相手にこんな感情はおかしかった。まるで、ボリスラフが好きみたいな。それはあり得ない。首を横に振る。
「エミーリヤ様?」
「放っておいて!」
まさか、まさか、考えたくない。魔術師様の術で、わたしがボリスラフに恋をしてしまったなんて、あるわけがない。あったところで、この恋が結ばれることはないのだから。
儀式部屋に入ったのは、今日がはじめてだった。入ってみての印象は、陰気でかび臭い場所というところか。
部屋は幕に覆われていて、たやすく明かりが透けないようになっている。かろうじて、部屋の四隅に置かれた背の高い燭台だけが、小さな明かりを放っていた。
棚に置かれた短剣は、いったいどういう使われ方をするのか、さっぱりわからない。大鍋ものぞいてみても、底の見えない暗闇だった。
魔術とはこんなに暗いものだったのか。少し怖じ気づいていると「そこに寝ていただけますか?」と、魔術師様から指示を受けた。
燭台に囲まれた台座の上に横たわれという。いよいよだ。今になって、緊張してきた。幼い頃の自分の思いつきで魔術師様と約束をした。それを果たすときが来るなんて。
わたしが横になると、魔術師様はお香をたきはじめた。決して花の香りがするわけではない。ただの煙のような胃が悪くなるような臭い。
吸いこもうとはしていないのに、肺を通して勝手に入ってくる。瞼が重くなってきた。寝てはダメだと思うのに、意識を保っていられない。
意識を失いかけたその時、心の奥底から聞こえてくる声があった。
「エミーリヤ様」
何でここで、ボリスラフの声なのだろう。
しかも、瞼の裏に映ったのは、白い歯をのぞかせて笑うボリスラフだった。きっと、これは偽者だ。ボリスラフが笑った顔を見たことがなかった。わたしの前ではただの一度も。
ずいぶん長く眠った気がする。昼寝を途中で切ったかのように、頭が重い。どのくらいの間、眠ってしまったのか。体を起こすと、魔術師様が迎えてくれた。
「エミーリヤ様、お体のご加減はどうですか?」
「頭が重いです。何だか、ボーッとします」
「それは後遺症です。しばらくすれば、良くなるでしょう」
魔術師様が言うなら、きっとそうなのだろう。疑う余地もない。上体を起こして、台座の隅に腰をかける。
「もう少しここでお休みになられてから……」
「嫌です。ここに、ひとりでいたくはありません」
暗いし、もう一度寝るなんてゴメンだ。台座から両足を下ろして立ち上がろうとするけれど、床がぐらつく。棚に手を突いて、自分の体を支えなくては立てない有り様だった。魔術師様がわたしの腕を取る前に、部屋の扉が勝手に開かれた。
「エミーリヤ様!」
ボリスラフの声が聞こえる。幻聴だろうか。ボリスラフの幻覚も見える。これも術の副作用なのか。でも、魔術師様がボリスラフを睨み付けているのが見えて、わたしの幻覚ではないのだと確信した。
「ここは魔術師の神聖な場所である。騎士風情が足を踏み入れてはならぬ」
魔術師様の指摘にボリスラフは「しかし」と渋る。わたしが出ない限り、騎士として任務に忠実な男が退くことはないだろう。
「ボリスラフ。わたしは大丈夫。すぐ部屋から出ます」
そうは言っても足元が定まらないでふらつく。ふらふらしながら明かりを求めて部屋から出ると、ボリスラフのしかめっ面があった。これは「この王女、面倒を起こしやがって」という表情かしら。
悪かったわねと、少しだけ腹が立って、あからさまに巨体から避けようとしたら、体がよろける。
「危ない!」
柱が目前に迫っていたはずなのに、ぶつからなかった。ぶつかる寸前で、ボリスラフのたくましい腕がわたしの体を抱き留めたのだ。
抱えられた体勢で、必然と近づいた顔に心臓が飛び上がりそうになる。騎士、ボリスラフをこんな至近距離で眺めたことはなかった。
こうしてみると、案外、顔が整って見えなくもない。まあ、怖い顔を相変わらずしているけれど。唇はいつものように怒りを描いて歪んでいる。当の本人は知らないはずだけれど、笑ったらもっと素敵に見えるはずだ。
じっくり見つめていたら、「エミーリヤ様」とさえぎられた。危ない。見つめすぎた。
「離しなさい」
いつも通りの冷たい声を取り戻すと、ボリスラフはわたしを起こして腕を離してくれた。自分で言ったはずなのに、離れてしまった温もりが無くなるのが淋しい。ずっと抱き締めていてほしかった。そんなことを思う、わけのわからない自分がいる。
「エミーリヤ様」と呼ばれるだけで胸が震える。ボリスラフと視線を合わせるだけで、胸が苦しい。顔も熱い。ボリスラフ相手にこんな感情はおかしかった。まるで、ボリスラフが好きみたいな。それはあり得ない。首を横に振る。
「エミーリヤ様?」
「放っておいて!」
まさか、まさか、考えたくない。魔術師様の術で、わたしがボリスラフに恋をしてしまったなんて、あるわけがない。あったところで、この恋が結ばれることはないのだから。