ヤメ騎士さんとわたし
第8話『家の掃除』
ロルフさんは森のなかに入っていこうとしていた。今回はナタを持っている。出会った頃のわたしだったら、真っ先に物騒な考えを浮かべていたはずだ。弓矢を構えたロルフさんも結構、恐かったし。
何をするつもりだろうか、好奇心がうずく。気にはなったものの、追いかけるのはためらわれた。
先程の気まずさを乗り越える強さをわたしは持っていない。朝はバカみたいにくっついていた癖に、今は近寄る勇気が出なかった。
今回は大人しくゼオライトと帰りを待った方が無難だろうと思った。だけど、ひとつだけ言っておきたい言葉がある。ロルフさんの国の文化にあるかは知らないけれど、ちゃんと送り出したい。気持ちを持って腰を上げた。
「ロルフさん、いってらっしゃい!」
大きな背中に向かって叫んだ。ロルフさんに言葉は届いたらしく、片手を上げて応えてくれた。見えないかもしれないけれど、わたしも手を振ってみる。大きな背中が森の奥に消えていくまで、わたしはそうしていた。
ひとりになると、改めて木の家と向き合った。本当によくできている。
考えてみれば、ロルフさんも案外不用心だ。会ったばかりの、知り合いでもない、小娘を家に上げたうえに、ひとりにしていくのだから。
でも、わたしは盗みなんてしたことがないし、これからする予定もない。その点では、ロルフさんには人を見る目があるのかもしれない。
ぐるっと家の周りを歩いていると、薪が積まれた棚とか、道具が置かれていそうな簡素な倉庫とか、生活感がすごく残っている。
ただ、ロルフさんが暮らしている姿があるだけで、他の人の気配がない。ロルフさんはずっとひとりでこの家に住んでいるのだろうか。森の奥で誰とも会わずに、狩りをして生きてきたのだろうか。
わたしだったら考えられない。会社とか、実家とか街とか、どこにいても人がいる。ひとりだとしてもスマホを通じて誰かと繋がっている。生活していくには自分の力だけではなくて、色んな人の仕事によって生きている。すべてにおいて、たったひとりで生きていくには無理がある。
それなのに、ここには人の関わりがない。あるのは、ロルフさんとゼオライトと動物たちだけ。ロルフさんが望んでこうしているのか、それとも追い詰められてこの森まで来たのか。想像するには色々足りない。
ただ、深い事情がありそうな気がした。外見は近寄りがたいけれど、あんなに優しい人を周りが放っておくわけない。
考えがいつの間にか、違う方向に行きかけている。気晴らしに掃除でもしようかと思いついた。とりあえず、自分が汚したと思われる木の床を磨こう。床を拭くぐらいだったら、怒られる心配はないだろう。
木のバケツに水を移して、布を浸した。そこそこ寒い外では、濡れた手をさらに赤くさせた。
学校の掃除以来かもしれない。ずぼらなわたしが部屋の掃除をひんぱんにするわけがなく、彼氏もいないので、ますますやる気から遠ざかっていた。そんな自分が床を拭いている。布の端を持って、力を入れてゴシゴシ拭いている。すごくいいことをしている気分に浸りながら、鼻歌まで垂れ流した。
布を変えて、家のなかのテーブルや椅子も拭きまくった。もう勝手なことをしているのはわかっているけれど、やる気が出てしまって自分では止められない。あっちもやりたい、こっちもやりたい。何もやることのない人間は、仕事を与えられると結構、頑張れるらしい。
ますます調子が良くなったとき、「セーラ」と低い声が耳に届いた。掃除の手が止まる。
帰ってきてしまった。入り口に視線を向けると、目を丸くさせたロルフさんがわたしを見ていた。四つん這いになって拭いたままの体勢が恥ずかしい。土下座をする勢いで手を突いて、ロルフさんの方に体ごと向けた。
「ごめんなさい! 勝手なことをして!」
頭を下げたら完全に土下座になった。静まり返った家のなか、瞼を開けると自分がみがいた床と対面した。結構、綺麗にみがけたかも。なんて、現実逃避に向かう。
顔を上げると、ロルフさんの位置がわたしと割りと近いところにあった。長く太い足をたたんで正座をしているためだ。ナタのない両手を膝に置いて、真面目な顔でこちらを見ている。同じような体勢で向かい合う。端から見たわたしたちを想像したら、おかしかった。
笑ったら悪い気がして、こらえてみるけれど、これが難しい。くしゃみをこらえるよりもたちが悪い。笑いだしたら止まらない。大口を開けて笑ってしまう。
「セーラ」
ロルフさんの腕が伸びる。わたしの頭を一撫でする。特に何を言うわけでもない。青い瞳が細められる。
――やっぱり子ども扱いされている気がする。
ちょっとだけ、いらっとして口を閉ざした。外国人にしたら、日本人は少し幼く見えたりするのだろうか。こちらもセクハラ紛いのことをしたけれど、これも似たようなものだろう。
でも、ほめられているのだとしたら、嬉しいのも事実だ。はじめて認められた。布を取り上げられなかったから、掃除を続けていいのだろう。どんどん自分のいいように解釈する。
ロルフさんはまた入り口へと戻っていく。家の外に用事がまだ用事があるらしい。何となく自分の頭に手を置いてみた。だけれど、短い間のできごとだったからか、手のひらのぬくもりはすっかり残っていなかった。