ヤメ騎士さんとわたし

第54話『また、雨宿り』


 白い光が辺りを包みこみ、体はゴムのようにねじれる。痛みはないものの、この感触には慣れそうにない。

 耳の奥の方で、ダリヤの呪文が聞こえてきたのは気のせいだろうか。意味のわからない配列を理解しようとするのはやめた。

 呪文の声が少しずつ遠くなっていく。足音が遠ざかっていくみたいに、伸ばした手が届かなくなる。

 音が止んだ。代わりに草の香りがした。

 わたしは待っていられずに瞼を開けた。青空だった。風が額をかすめていく。起き上がると、休日の緩んだ長い髪の毛がすくわれていく。

 服もくたくたなフードつきパーカー、足はスウェット。せっかく、戻ってきたのに、これはひどい。色々やる気が感じられない。

 でも、希望はある。ロルフさんは服のセンスなんて知らないはずだ。そう思いたい。裸足で森のなかを歩くなんてはじめてではなかった。鹿に道案内をしてもらわなくても、大丈夫。

 わたしは川を探した。そこから、記憶をたどって歩いていく。ロルフさんの大きな背中が道を先導してくれる。だから、迷わない。緩やかな坂を上り、やがて、丸太で作られた家が現れる。

 運良く、猟に出る前に、ロルフさんと会えたらいいのに。それは叶わなかった。

 先客がいた。ひとりじゃない。4人もいる。ふたり一組で向かい合って、剣を交えている。

 時折、木のぶつかり合う鈍い音がする。男たちのかけ声に、わたしはひるんだ。足を前に出すタイミングをすっかり失ってしまった。

 訓練というのが正しいのかもしれない。わたしは何もできずに呆然と、男たちの光景を眺めていた。

 まさか、ロルフさんはいなくて、他の男の人たちが第一村人だとは、予想外だった。

 それでも、突っ立っているばかりではいられない。ロルフさんに会いたくて、ここに来た。わたしは心に決めて、一番手前の左側にいた人に「あの」と声をかけた。

 剣の音は鳴りやみ、男の人がわたしに気づいた。ひとりが手を止めると、周りの人たちも止めた。

「すみません。ロルフ・シュバルフォレという方を知りませんか? この家に住んでいるはずなのですが」

 日本語に慣れすぎて、こちらの言葉がまた話せるか自信はなかった。だけど、通じたらしい。

 ひとりの人に聞いたはずなのに、いつの間にか、3人とも近づいてきた。ロルフさんの名前を告げただけで、丸い瞳がこぼれ落ちそうなほどに目が見開かれた。3人が3人とも驚いているので、おかしくて、こちらが笑ってしまいそうになる。

「知っているも何も、ロルフ・シュバルフォレは、我々の師匠です」

「師匠?」ダリヤの翻訳機能が狂ったかと思った。

「ええ。我々は騎士を目指しています。いずれ、騎士の試験を受けるつもりです。それまで、師匠のもとで騎士になる訓練を受けているのです」

 他の3人の顔を見ても、うなずいているから違うところはないのだろう。それにしても、ロルフさんのやりたいことが騎士の育成だったなんて。

「ロルフさんはここにいるんですか?」

「ええ、もちろん……」

「おい、訓練はどうした?」

 うなるような低い声に生徒たちの背中が伸びる。わたしは懐かしい声に、胸が震えるのがわかった。甘い痛みも走る。家のドアが開いた。そして、わたしは見つけた。

「セーラ、セーラなのか?」

 髭がなくなっていて、身綺麗なロルフさん。騎士復帰はしなかったけれど、騎士育成の方に回ったロルフさん。わたしを見つけて、口を開けて驚くロルフさん。どれも、わたしが好きなロルフさんの姿だった。

「そうです」涙が浮き上がって、視界がぼやけてきた。

「おかえりと言っていいのか」

 わたわたして近づこうとしないロルフさんに、こちらのほうが堪らなくなった。わたしは距離を詰めた。腕を伸ばせば、すぐに触れられる距離にいる。

「ただいま」

 改めて言ってみると、かなり照れる。

「おかえり」

 戸惑いがちに大きな手がわたしの肩に触れた。触れたことで実物だと確信したのだろう。もう一方の手で引き寄せられた。このぬくもりを感じられて、やっと、戻ってきたのだと実感した。

「すまんが、今日の訓練は中止だ」

 ロルフさんが弟子の人たちに言っているのを聞いて、ふたりだけじゃなかったことに気づいた。あのやり取りを他の人も見ていたのだ。それが恥ずかしくて離れたかったけれど、鍛え上げられた太い腕が身動きを取らせてくれない。弟子の人たちが「失礼します」、「また明日。よろしくお願いいたします」とか口々に言って、森を降りていく。

「ロルフさん、ちょっと離して」

「なぜだ?」不満げな声が耳たぶをくすぐる。

「なぜって、この体勢じゃ話もできないでしょう? 聞きたいことがあるのに」

 あれからみんながどうなったとか、聞きたいことがたくさんある。もちろん、ロルフさん自身の話も聞いておきたい。

「まあ、待て」

「待てません」

「甘えても……いいだろう」

「えっ?」

 今、なんて。ロルフさんの口から「甘えたい」。

「どれだけ待ったと思っているんだ」

 わたしも転移する機会を待っていたけれど、ロルフさんも待っていてくれた。

「ありがとうございます」

「礼はいい。しばらくこうしていたい」

 結局、わたしの方が折れた。自分からもロルフさんの腰に手を回した。それが合図だと勘違いした元猟師さんは、わたしを抱えあげた。

「えっ、ちょっと」しばらくこうしていたいとか言っていたくせに簡単に裏切られた。

「すまん、無理だ」

 無理って何だと問いかけるのは野暮かもしれない。太い首に手を回して、わたしは言葉を探した。あの時は通じなかったけれど、今なら通じるだろう。だから、あの言葉を選んだ。

「雨宿りしてもいいですか?」雨は降っていないけれど。空は晴れ晴れしているけれど。

「ああ、ずっとしていてくれ」

「ずっとって」

 もう笑ってしまう。ロルフさんも珍しくふっと笑った。わたしは久しぶりに家のなかに入っていく。ここに帰りたかったんだ。

 口の開いた暖炉とか、木漏れ日を拾う窓とか、ロルフさんの大きさに合わせたベッドとか、キッチンとか。全部が懐かしかった。

 でも、一番は、この大きな手のひらが懐かしかったんだと、わたしは気づいてしまった。
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