ヤメ騎士さんとわたし
第53話『元の世界』
ベッドの上で目を覚ましたのは、スマホのアラームが鳴る直前だった。
――何度目だろう、この夢を見るのは。
目尻からこめかみにかけて涙が流れている。
涙を指で拭いながら、先程の夢の断片を思い起こす。スマホを握りしめたまま眠り、地名もわからない世界に行ってしまう夢だ。猟師さんと出会い、城に捨てられたり、魔女との出会いが運命を変えたりする。ひとつの物語のようだった。
確かにこの夢を見た初回は、革の服を着ていた。ああ、本当にあったことなのだと確信が持てた。でも、日に日に、疑い始めている。
地名はわからなくても、人名だけは何度も聞いたから、『ロルフ・シュバルフォレ』をスマホで検索したことがあった。だけど、ワインの画像が出てきたりして、その人にはたどり着かない。「いないのか」と、結果にがっかりした。
しかも、登場人物の姿が、夢を見るたびにぼんやりしてきている。それがますます、疑いの色を深めている。ロルフさんという人が青い瞳だったのは思い浮かべられる。けれど、他はモザイクがかっていた。どんな姿をしていただろう。特に、魔術師の弟子やリージヤは、あいまいになってきていた。
夢を見ているうちに、夢自体も消えてしまうのだろうか。薄くなって、二度と見られないものになるのだろうか。現実から遠くなっている。
忙しい朝は深く考えている暇はない。すべての考えを頭から払って、ベッドから起き上がった。わたしはモコモコのルームウェアを脱ぎ捨てた。今日も仕事だ。
仕事から帰ってきて、寝るまでの時間を過ごす。頭のなかの思考を整理しようとするのだけれど、残された時間が短すぎてダメだった。夢に入る前に疑問を並べただけで、すぐに寝てしまう。
わたしはまた、夢の中で、「わたしも想っていていいですか?」なんて、顔も忘れた人に嘘をついた。夢の時だけしか、想っていないくせに、平気で嘘をつくのだ。
日曜日が来た。じとじととした外の雨を眺めながら、掃除なんてしたくない。梅雨の後の夏のさわやかな歌も聞きたくない。梅雨の真っ只中は、いつもこんな感じだ。
テーブルの下で仰向けになりながら、わたしはボーッとしていた。黒い画面のスマホにも触れずに、通知の音がたまに鳴るのを聞く。それ以外は、大雨の音を聞いている。
瞼を下ろすと、映像が浮かんだ。猟師さんを追いかけたときのこと。切り株に腰かけて、空を見上げたこと。家に入れてもらったこと。ふいに名前が浮かんだ。
「ロルフさん」
改めて声に出しただけで、瞼を開けた視界がぼやける。天井が揺れる。目頭が熱くなり、とろけて涙があふれる。しゃくりあげる声が情けない。
涙が全部落ちてしまっても、わたしはどこにも行かなかった。異世界なんてどこにもないのだ。「ロルフさん」なんて人は、この世界にはいないのだ。
「ロルフさん!」
大声で呼んだところで、誰に届くというのだろう。結局、空しくひとりの声が響くだけだ。
腕で顔を覆い、バカみたいに泣いた。こんなに泣いたのは、いつぶりだろう。記憶をたどったら、ロルフさんに捨てられた日が最後だった。また、ロルフさんを思い出して泣けてきた。
悔しいくらい胸が痛い。どれだけロルフさんという存在が特別で、大事だったのか、やっとわかった。
「何、やってんだろ」
自分が自分で悲しくなる。会えるわけない。スマホで検索したって、本を読んだって、あちらの世界に行けるわけがない。それでも、やってみるけれど、無駄だった。
――魔力って何だ? 魔法ってどうやって使うの? 答えは見つからない。
頼みの綱は、わたしのなかにいるはずの魔女だと思う。唯一、魔力や魔法と繋がっている存在で、夢の中でも登場する魔女だ。
「名前は……」
なぜか、名前が出てこない。確か、3文字くらいだった。頭文字はタ、ダ? もう一度、夢を見れば、思い出せるのかもしれない。
わたしはしばらく、タとダを使って言葉を作った。タイヤ、ダイヤ。もう少しでたどり着きそうな感覚がする。
「ダラヤ。ダリ……ヤ」
名前が言葉として出た時、目の前が光で満ちた。その光のなかで、ダリヤの姿がはっきりと浮かんできたのだ。
――「おかえり、セーラ」
耳元で声がした。懐かしいセーラの響きに、わたしは泣き笑いになっていた。
――「目をつむって。あいつを思い浮かべるんだよ」
わたしは、魔女の言うとおりにした。一番大事で大切な「あいつ」といわれる人をはっきりと思い浮かべた。