ヤメ騎士さんとわたし
第50話『言葉よりも』
ロルフさんの腕のなかにいながら、わたしの体はベッドに倒された。横に傾いたロルフさんの顔が近づいてきて、唇が重なる。わたしは太い首にしがみついた。やわらかい感触に、深く、深く、侵食されていく。
ロルフさんの厚みのある手が肌の上をすべっていく。時折、ささくれだった指が肌に引っかかったりする。
わたしは唇が離れた間に、名前を呼ぶことで、「好き」の代わりにならないかと思った。
まるで、はじめて名乗ったときみたいに。お互いの名前しか伝える手段がなかったときみたいに。
わたしが着ていたのは、軽い寝間着みたいな服なので、脱がされるのもあっという間だった。わたしとロルフさんは裸同士で抱き締め合った。どちらも「好き」とか「愛してる」なんて言葉にしなかった。
でも、わかっていた。上り詰めて意識を手放すまで、ロルフさんがくれるすべての感触は、言葉よりもわかりやすく届いた。だからこそ、荒々しく抱かれた痛みにも耐えられたのだと思う。
ふたたび目が覚めた時には、ロルフさんの腕のなかにいた。窓の外の暗闇に目を向けようと、体を横にしたら、声が出た。鈍い痛みも嫌じゃない。
ロルフさんから与えられたものは、どれも嫌じゃなかった。寝顔を見上げながら、わたしは自分の顔がゆるむのを感じた。
気だるさがあっても、眠るのがもったいない。できるだけ、起きていたい。だけど、温かくて、安心できてしまう。今なら髭に埋もれて死ぬのも悪くないかもしれない。そうすれば、離れなくて済むかもしれない。なんて、歪みだした自分の視界に苦笑した。
泣いたって何にも変わらない。わたしはこの世界にいなくていい。ずいぶん前に見たはずだ。ロルフさんの家の窓からのぞいた、日常の風景にわたしはいない。それが正しい。
再び眠ることもできないまま、ただ横たわっていた。しばらくして、ロルフさんが起き出した。わたしがいることを忘れているみたいに、ベッドから抜け出して、窓の前で大きく伸びをする。ルーティーンというやつなのかもしれない。
ただ、筋肉の張った体を直視するのは照れる。あれに抱き締められたとか、固い感触だとか、いちいち考えると、体が火照ったようになってしまう。
こちらを振り返ったときに目が合った。顔だけに目を向けるようにして、「おはようございます」と告げた。一応、笑顔なんて浮かべてみたものの、ロルフさんの反応は鈍い。固まったままの時間が流れる。
ロルフさんはわたしを見つめた後、自分の体を見下ろした。そして、慌てたように服を身につけていく。猟師の姿になったロルフさんは、「待っていろ」と部屋を出ていった。
しばらくして、お湯の入った桶を抱えて戻ってきた。丸いふちには布がかかっている。昨日は体を拭いたりしなかったからだと思う。
「大丈夫か」と世話を焼いてくれるロルフさん。わたしが自分で体を拭こうとしたのに、布を奪われてしまう。
「寝てしまってすまなかった」
わたしは首を横に振る。さらさらになった肌に服を身につければ、恥ずかしさも多少マシになる。目に焼きつけるみたいにロルフさんの顔を見つめていたら、名前を呼ばれた。すくいあげるようにキスをされる。わたしは恥ずかしくて、終わったらすぐに顔をうつむかせる。
こんなにしあわせな時間があったなんて、知らなかった。だけど、わたしはこの時間に浸れない。決めたことを実行する。もう、後戻りはできない。
そして、わたしのなかで一番、言いたくない言葉を探した。
「ロルフさん。わたし、元の世界に戻ろうと思います」
目はそらした。奥にひそむ感情を見せるわけにはいかなかった。
「モニクには今日、頼むつもりです。早ければ早い方が良いと思うので」
息継ぎをしている間に、ロルフさんの言葉が返ってきそうで、わたしは意味のない言葉を繰り返した。
「帰ります。それが一番いいと思うので。帰らないと……」
言い終える前にロルフさんの腕がわたしの背中に回った。抱き締められているというよりかは、しがみつかれているような感覚に近い。
「戻ってくると思っては駄目か? 待っては駄目だろうか?」
ダメじゃない。でも、戻って来れる保証もなかった。元の世界にあったしがらみや繋がりを断ち切って、こちらの世界に戻ってこれるのか、わたしにはわからなかった。
正直に伝えると、「そうだな」とロルフさんは呟いた。腕が解かれて、大きな体が離れていく。わたしは引き止められずに、ただベッドの上でへたりこんでいた。部屋から出ていくロルフさんに声をかけられなかった。
「ずっと、この世界にいていいですか」と言えば良かったのか。「そばにいさせてください」とでも言えば、温かい気持ちのままでいられたかもしれない。だけど、どれも違う気がした。
わたしは戻らないといけない。戻った世界には、わたしの大切な家族や同僚、友人。おそらく淋しさを感じさせないものが、たくさん存在している。
ただ足りないのは、ロルフさんがいないことだけだ。そのひとりが、わたしにとってどれだけ大事で素晴らしかったか。元の世界に戻ってから強く感じるに違いなかった。