ヤメ騎士さんとわたし
第47話『力の制御』
手のなかの炎は本当に熱くなかった。皮膚が水ぶくれを起こすこともない。いつか、ダリヤがやったみたいに炎に顔をうずめてみても、大丈夫だと思う。
それにしても、思ったより小さな炎だった。ダリヤみたいに、もっと、大きくできないかと、力を入れて手のひらを開く。指先がけいれんするまでがんばった。なのに、炎はこれ以上、大きくはならない。きっと、これがわたしの限界なのだろう。
調子に乗りすぎたかもしれない。制御を失った炎が縦に伸びて、天に向かって突き上がった。炎が消えるのと同時に、いきなり体から力が抜けた。立っていられず、隣にいたロルフさんの腕を掴んでしまった。
「大丈夫か?」
ロルフさんに心配される始末だ。ダリヤのようにできない自分が情けない。原因はおそらく、一気に力を出しすぎたせいだ。急激に水のめぐりが良くなって、許容範囲を越えるみたいに。
「大丈夫」といえば大丈夫なのだけれど、ロルフさんの顔が至近距離にあって、緊張する。こんな状況でも、心は正直だった。耳元でささやかれるのは、本当に勘弁してほしい。逃げるように早めに自分の両足だけで立とうとしたのに、またふらついてしまう。ロルフさんの腕のなかに戻った。
前方から「きゃ!」という悲鳴が上がった。
シールドが砕け散ると同時に、モニクの体は吹き飛ばされた。石畳の上に叩きつけられる。「モニク!」と、先に叫んだのは誰だったのか。セブランさんが駆け寄って、モニクの体を抱きとめた。セブランさんの腕のなかで頭を上げようとするモニクは、どうにか無事らしい。そこで、ホッとしたとしても、すぐに背筋が冷たくなった。
シールドが無くなり、わたしは、目の前の男と対峙した。男の目は蛇のように薄くなっていて、こちらの背筋が凍るほどに笑っているようだった。
「あのダリヤを手なずけるとは、大した転移者だ」
「転移者」とは、たぶん、わたしのことだ。何と答えていいか、戸惑う。考えている間にも、男の口は回る。
「いや、ダリヤを殺したというべきか」
「殺すなんてそんな」
「じゃあ、きみにダリヤの声が聞こえるのかい?」
男の問いに答えられなくなってしまう。確かに、どれだけ呼びかけても、ダリヤの声は聞こえない。存在すら感じないのだ。ここでの沈黙は、聞こえないと答えているのと等しい。男は「だろう?」と勝ち誇ったように言った。
「もはや、ダリヤはいない。きみは、力の制御ができないのだろう?」
負けている。すべての面で、わたしが勝つ要素はひとつもない。男の言うとおり、力の制御もできずに、炎を暴走させてしまった。
「力の制御というのは、訓練しなければ、できるものではないよ。このようにね」
男が拳を開くと、闇の口が広がり、そこから玉が生まれた。どくどくと生きているように呼吸する玉は、男の目のように黒かった。
「断言しよう。きみにはできない。なぜならきみは、ダリヤではない。魔女にはなり得ない。俺にひねりつぶされるだけのただの凡人だ」
「凡人……」
何で、こんな言葉がすんなりと入ってくるのだろう。否定できない自分がいた。わたしはどうあがいても凡人だ。ただ、魔女に体を貸すことができたというだけ。それも、ダリヤの気分次第で決まったようなものだった。
「そう、きみには何もできない。この村人たちがどうなろうとも、救うことはできない。だろう?」
男の矛先が村人たちに向けられた。逃げ惑う村人たちのなかに、体を震わせた親子が残された。母親は腰を抜かして動けない。子どもが母親の腕を掴んで、立ち上がらそうとするけれど、弱い力では難しい。
「やめて!」
わたしの叫び声にも、男は気にとめていないようだ。わざわざ頭大くらいに膨らませた玉を、親子に向かって放った。無防備な親子を狙うなんて、ひどい。なぜ、そんなことができるのだろう。
真っ先に反応したのはロルフさんだ。わたしはいきなり支えを無くして、地面にしゃがみこんだ。
ロルフさんは親子と玉との間に立ちはだかった。すぐに母親を肩にかつぎ、子どもを小脇に抱えた。ロルフさんがこんなに素早く動いた場面ははじめて見た。そして、その姿が騎士であった頃のロルフさんを見ているようで誇らしい。
しかし、玉を避けきれなかった。ロルフさんの服が溶けて、背中の皮膚がただれた。
「おお、何と勇敢なことか」
親子を地面に下ろしたロルフさんは後ろを振り返った。その顔は見たことがないほどに怒り狂っていた。猟師とは似つかわしくないくらい、眉と目を吊り上げ、その瞳はわたしの炎なんかよりも熱く燃えていた。たたずまいもロルフさんが立っているだけで、その辺の犯罪者なら静まらせることもできそうだ。
英雄。まさに、そんな言葉が似合うような。
「きみのことは覚えているよ。きみの婚約者のこともね。彼女は馬鹿だったよ。きみが協会に脅されていることを知った彼女は、立場をわきまえずに、このじじいに呪いをかけようとした。しかし、このじじいは役に立つんだよ。だから、俺が返り討ちにするように進言した。きみには悪いことをしたね」
本当に悪いと思っていたら、人は笑ったりしない。もはや、この男は人ではないのだと思えた。
「ロルフ、これを使え!」
セブランさんが剣を投げて寄越した。石畳がめくれて現れた土の部分に剣の先が突き刺さった。ロルフさんは剣に自分の手をなじませた。そして、引き抜き、その剣先を天に向けた。きらめく剣の輝きと、ロルフさんの姿に、わたしは見とれた。振り下ろすと、風を切る音がする。
「行くぞ」ロルフさんの呼びかけに、男も「どこからでもどうぞ」と構えた。