ヤメ騎士さんとわたし

第4話『セーラとロルフ』


 戸惑っていたのは最初だけで、猟師さんからパンを目の前に差し出されたら、止まらなかった。

 スポンジかというくらい固いパンをちぎり、スープをすくって食べる。肉やじゃがいもはスプーンに乗せて、どんどん口に運んだ。もう夢中だった。

 朝から何も食べていなかったお腹がすっかり満たされた頃、ようやくわたしは猟師さんの存在を思い出した。

 向かい合うようにして腰かけた猟師さんは、なぜか、じっとこちらを見ていた。スプーンを握ったまま、皿の中のスープはまったく減っていなかった。

 もしかして、わたしの食べ方が下品だったのだろうか。あまりにもひどかったので食欲を失ったとか。顔を見られているのは、食べかすでもついているからなのか。慌てて口元を拭う。

 「ふ」と、小さく漏れるような声がした。出どころは目の前にいる猟師さん。わずかだけど、ひげの口が上がっている。笑うんだ。
変な感心をしている。猟師さんでも笑うんだ。

 この人が同じ人間なのだと思ったら、どうしても知りたくなった。

「あの、あなたのお名前を知りたいです」

 と言ったところで、通じないのはまあまあわかっている。でも、引き下がるわけにはいかない。猟師さんの名前を知りたいのだから。

「わたしは、ヒイラギ、セイラ」

 漢字で書くと「柊木犀良」。お母さんが「ヒイラギモクセイに似ている名前で素敵でしょ」と言っていた気がする。当の本人は何が素敵なのか、いまいちわかっていなかった。特に、「犀良」の部分が書きにくいとしか思っていなかった。

 胸の辺りを軽く叩きながら、「ヒイラギ、セイラ」を繰り返す。とりあえず、「セイラ」だけでもいいやと思い直し、ずっと、口にした。

 何回か繰り返した。でも、猟師さんからのリアクションはなく、とうとう、わたしは諦めて口を閉じた。

 猟師さんに伝わらなかった。熱意があれば、言葉は海を越えるのではなかったのか。ただ、「セイラ」を連呼する変な人間だと思われていないといいな。無理だろうけれど。

「セーラ」

 いきなりだった。心臓が飛び上がるというより、確実に椅子から腰が浮いた。詳しくは「セイラ」。なんて細かいことは言いたくない。わたしは今から「セーラ」だ。「セーラ」になろう。

「セーラ?」少し困っている感じだ。早く安心させなくては。

「はい! わたしはセーラです!」

 嬉しくて笑ってしまう。猟師さんの目には、だらしなく顔を緩ませた女が映っているだろう。

 見るのが耐えられないくらい変だとしても、許してほしい。子どもの頃、「お前の笑い方、おかしい」と指摘されてから、気にかけてはいた。

 だけど、こればかりは直せないのだ。案の定、猟師さんは、伏せ目がちになってしまった。

 笑わなければ良かった。せっかく名前を伝えられて、いい雰囲気だったのに、自分でぶち壊してしまった。目を伏せるのはわたしの番だった。

「ロルフ……」

 小さな声を聞いた。猟師さんはわたしがしたみたいにスプーンを置いた手で、胸を叩いた。すぐに猟師さんの名前が「ロルフ」だとわかった。わかったけれど、口に出すまで時間がかかる。

「ロルフさん」

 正面を向いたら、ロルフさんはうなずいてくれた。やっと、言葉で通じたような気がする。また、笑ってしまいそうになって、わたしは口元を手で覆った。ロルフさんは、ようやくスプーンを口に運んだ。

 人の食事シーンなんて興味なかったのに、他に見るものがないからなのか、じっと見ていられた。

 ロルフさんは大きい身体でも背筋が伸びていて、食べる動作にも無駄がなかった。スマホとかで猫背気味のわたしとはまるで違う。どこかの貴族だったりして。まさか、そんな貴族が森の深くで暮らしているなんて、ありえない。

 ロルフさんが食べ終わると、わたしは率先してお皿を持った。持ってキッチンまで運んだものの、シンクがないことに改めて気づいた。桶に水がためられているけれど、どうやって皿を洗ったらいいかわからなかった。

 ロルフさんに助けを求めると、「セーラ」と話かけられた。さっそく呼ばれたことに嬉しく思う。

 ロルフさんは大樽の横にあった桶を手に取ると、水面をすくった。そして、桶を床に置いた。もうその辺りから察しはついた。

 わたしの手から皿を1枚取ると、そこに浸す。後はヘチマみたいなたわしを使ってお皿をくるりと回して洗った。水を切ったお皿を布で拭えば、できあがりだ。なるほど、やり方はわかった。

 「セーラ」と呼ぶ声と肩に置かれた冷たい手で、「やってみろ」と言われた気がした。たったこれだけのことでも任されたような気持ちになるのだ。気分が良かった。

 わたしは「はい!」なんて元気よく返事をして、ロルフさんと同じように皿を洗った。もうやる気しかなかった。

 窓の外は、すっかり暗闇に落ちていた。

 ロルフさんは暖炉の前のソファーで縫い物をしている。

 わたしは外にも出られずに、ただ暖炉の番をしていた。見よう見まねで薪を足したり、引っかき棒で火の辺りをいじってみたり。おそらく、そんなに役には立っていない。

 少し瞼が重くなってきた。ずっと歩いていたからか、一度目をつむったら、すぐには起きられない気がしている。敷かれたふかふかじゅうたんが憎い。

 わたしは肘掛けに頭を預けた。ロルフさんは相変わらずチクチク針仕事をしている。けれど、眠いわたしにはもう無理だ。

 瞼を閉じてから、ふわふわしていたところに耳元で声が降ってきた。それが「セーラ」と優しく聞こえたのは、すでにわたしが夢の中にいたからだったのかもしれない。
4/56ページ
Clap