ヤメ騎士さんとわたし

第35話『懐かしい声』


 頭上の木々に鳥が骨休みしている。白い息が吐き出され、ダリヤはゆっくりと動き出した。たき火は下火になっている。ベンチに座り直すと、本に突っ伏したモニクを眺める。徹夜していたのだろう。起こすのもためらうくらい、やすらかな寝息が聞こえてきた。

「起きているか、セーラ?」

 ――「起きてる」変な会話だけれど、起きてはいた。

「今日中にロルフのもとに行くから、心構えだけはしておきな」

 とうとう、だった。ロルフさんに会う。いつかは来ると思っていた。会いたい、でも、会いたくない気持ちもある。

 再会の場面を想像したら、ちょっと気になることが出てきた。体はわたしだとしても、心はダリヤなのだ。ダリヤがロルフさんに対して、わたしらしく振る舞えるとは思えない。むしろ、印象を悪くしかねない。

 ――「考えたんだけど、ロルフさんの前では話さないってことは、できない?」

 黙っていれば、ロルフさんと話さなくても済む。あの人もわたしが言葉を理解できることを知らないはずだ。セブランさんが言っていない限りは。

「なるほど、それはいいかもな。わたしもあんたみたいな話し方ができるとは思えないし」

 ダリヤは納得してくれた。声を抑えて話していたものの、「あ、あれ」と、モニクは顔を上げた。起こしてしまったらしい。

「腹ごしらえしてから、行くよ」

 ダリヤはナイフを手に、村に自生する果物をいくつか採ってきた。赤いけれど、皮が厚くてみかんに近い。モニクは何度も感謝を述べながら、皮をむいて口に入れた。ダリヤが果物を食べると、甘酸っぱい果汁が広がっていく。お腹は多少、ふくれた。

 村の外に出るときに、ダリヤは一度だけ後ろを振り返った。ローブとドレスの裾が風のままに踊る。モニクは風で乱れた髪の毛を少し直し、一足先に村を出た。

「もう、来ることはないだろうね」

 その言葉に含まれる重さをわたしは知らない。だけど、きっと、淋しいのだろう。ダリヤが魔女だとしても、生まれ育った場所に別れを告げるのは覚悟がいるのだろう。そんな当たり前のことが、想像できた。

 ダリヤとモニクは、背中を向けた。目指すのは街道だ。そして、その先にある森のなかへと進む。ロルフさんに会う。

 街道まで引き返し、宿場町にやってきた。かつて、ロルフさんと来た場所だ。訪れる人の顔ぶれ以外に景色は変わらず、売っている品物までそっくりだった。

 屋台の前を通ると、食べた覚えがあるお菓子が売っていた。ワッフルに似ているそのお菓子は、塩気があって、固いパンみたいだったのを覚えている。

 わたしはこの後に何が起こるかも知れずに、能天気に食べていた。懐かしさに胸が痛むのは、まだロルフさんに対して諦められていないためだと思う。

 宿場町を抜けて、道沿いをたどっていく。でこぼこした道に土ぼこりが増えてきた。行き交う馬車は減り、集落が近づいていることを知る。

 ロルフさんを歓迎した集落は、今まで通りの日常のなかにあるのだろうか。もし、ロルフさんが血迷って、わたしを選んでいたら、集落の人たちは、ダリヤの村と同じような風景にさらされていたのだろうか。自分のせいで、人々が殺されていたら、ダリヤと同じ罪の重さに生きていけただろうか。わたしは途端、恐くなった。

 結局、ロルフさんの選択は正しかった。正しかったのに、また、わたしが現れたら、どうなってしまうのだろう。会わない方が幸せなのではと思っても、ダリヤは手加減してくれない。疲れた様子のモニクの体を気づかわず、とにかく、前へ進んだ。

 空は曇り、格段と冷ややかな空気になってきた。雨が肩に落ちた。服に触れると、染みに変わる。

 集落は見えてきたものの、寄らなかった。極力、人目は避けたかった。白馬ゼオライトで駆けた草原は、枯れかけていた。冬の入れ換えを待っているのだ。春になれば、また生えてきて顔を出す。それまでこの世界にいるとは思えなかった。

 森も葉を落とし、見上げると空に隙間ができていた。落ちた葉を靴で踏みしめていく。雨で濡れた葉はしっとりとして、滑りやすかった。モニクは何度か転げそうになり、「あんたは、まったく」とダリヤに助けられる場面があった。

 魂だけになったわたしもここまで来れば、心音が鳴りそうだ。緩やかな坂に行き当たった。ごつごつした石が減ってきて、切り株もいくつか見えてくる。木々の間が広がってきた。それはロルフさんが木こりをして、定期的に切っているからだ。

 坂を半分くらい登ったところで、木で作られた家が見えてきた。屋根に石造りの煙突が立っていて、壁は丸太が横に組まれていた。ずっと、思い描いていた景色が目の前に広がる。使い古された井戸や小屋、馬小屋。雨足が強くなっていく。はじめてここに来たことを思い出す。わたしはいちいち涙が出そうになるのをこらえた。魂だけになったくせに。

 雨だからか、外には誰もいなかった。ダリヤは無遠慮に家に近づいたりはしなかった。しそうなのに、わたしに配慮してくれているのかもしれない。代わりにモニクが家に近づきだした。もうちょっと、感傷に浸らせてほしかったけれど、わたしの気持ちを知るわけもなく、行ってしまった。

 モニクは扉をノックする。反応はなし。窓をのぞきこんでみる。しかし、ダリヤの方に振り返って、首を横に振った。どうやらいないらしい。いったいどこに?

 疑問に思っているところに、重そうな水を含んだブーツの音が聞こえてきた。しかも、背後から、だ。ロルフさんは坂を上っているのだろう。すぐにひとりの女がたたずんでいることに気づくだろう。

「来た……のか」

 懐かしい声に胸が締めつけられる。今にでも泣き出して、ロルフさんの胸に飛びつきたかった。だけど、わたしにはできない。ダリヤの目を通して、ロルフさんの姿を確かめることしかできない。それが、今のわたしだった。
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Clap