ヤメ騎士さんとわたし
第34話『飲み薬』
――「絶対に嫌!」
このどろどろした液体を口から入れるなんて、想像しただけでも無理だった。これまでの体験から、ダリヤの感触はわたしにも伝わることがわかっている。おそらくは食べたものや飲んだものの味も伝わる。液体を口に入れたら、わたしも味わわなくてはならない。
「大丈夫だよ、一気に飲むからさ。その間、気絶でもしておけばいいよ」
そんな都合よく簡単に気絶できるとは思えない。というか、魂が気絶するなんてあり得るのだろうか。さすがに無理だ。
――「何の薬かもわからないし」
「ああ、言い忘れてた。あんたに体を返すにはどうしたらいいかと思ってさ。この薬でふたつの魂を切り替えられたらおもしろいだろ?」
ダリヤのように、おもしろいという感覚はなかった。自分の体を手元に戻せるのは魅力的だけれど、液体を飲むのは抵抗がある。
――「でも、飲まなくてもいいんじゃない? 他に方法があるかもしれないし。それに、飲むと体に悪そうだし」
色々並べてみたけれど、わたしの抵抗は無視された。
「とりあえず、飲んでみるか」まったくわたしの話を聞いていないらしい。
ダリヤは大鍋の液体を木のおたまですくうと、器用に空の瓶に移しかえた。せめて、全部溶かしていれば、飲めそうに見えたかもしれない。でも、固形物が残っていて、それが液体をどろどろとさせていた。瓶のなかに入れて、改めて見下ろしても、飲みたくないのは変わらない。むしろ、ますます、飲みたくない。
飲むよという掛け声もなく、ダリヤは瓶を掴み、口をつけた。ぐいっと上に傾け、口に入れてしまう。舌にどろっと重いものが乗っかる。苦っ、まずっ、を一瞬で体験し、液体が喉に差しかかった。ダリヤはためらいもなく飲みこむ。ごくっと。わたしのなかに液体が入ってしまった。本当に一気だった。
「ああ、目が覚めるわぁ」
ダリヤの言うように眠気はすっかり取れた。本番はこれからだ。薬の効果を少し身構えて待った。体が燃えるように熱くなったり、逆に寒くなったり、変化が起きるか待っていたのだけれど、特にない。何にもない。拍子抜けだ。
「失敗だったか」
ダリヤは腕を組んで、うなった。草を入れてみればあるいは、とか、ぶつぶつ呟いていた。また、薬を1から作るつもりだろうか。それは困る。時間もかかるし、何より、この口に残るイガイガした感じは、しばらく味わいたくない。ダリヤは腕を解くと、ナイフやら手袋を片づけはじめた。
「セーラの体じゃ、あんまり飲み過ぎも良くないだろうし、ここまでにしよう」
ダリヤはまともな判断をしてくれた。残った大鍋の中身はどうするのだろう。なかを洗ったりするのだろうか。ダリヤは大鍋のなかに炎を入れた。そして、大鍋に蓋をする。蓋の上から石で動かないようにする。蓋が震えるほどの爆発がした。これが魔女流の片づけ方らしい。蓋を外すと、大鍋のなかは底が見えるほどの奥行きがあった。空っぽだ。
「そろそろ、モニクの元に戻ろうか。こいつは持っていくかね」
ダリヤは重みのある本を小脇に抱えた。入り口にある壁掛けの燭台の火を消すと、すべての明かりが失われた。
地下室から地上に戻ると、窓から青い闇が見えた。すでに夜が来ていたらしい。ダリヤは地下室の扉を下げて、じゅうたんで隠す。またしばらくの間、この地下室の扉は開けられずにおかれるのだろう。ダリヤが戻るまできっと、そのままだ。
またいつか、来るのだろうか。その時はわたしも、元の世界に戻ることを決断できているのだろうか。
外は相変わらずの静けさで、冷たい風が頬をかすめた。ダリヤのドレスは闇にまみれて、ローブが浮遊しているかのようだ。朽ちたベンチの前でたき火があった。モニクが手をかざして、暖をとっている。モニクは、ダリヤに気づいて顔を上げた。
「お帰りなさい」
「あんたの方は終わったのかい?」
「ええ、ダリヤの方は?」
「終わったよ。それから、あんたにこれを貸しておく
」
地下室から持ってきた赤色の本をモニクの前に差し出す。モニクは本を前にして、手を近づけた。受け取るようなしぐさを見せたものの、表紙に目を向けたまま固まる。
「ダリヤ、これは」
「魔術にはこの本が一番だ。あんたには勉強しておいてもらわないといけない。セーラが元の世界に戻るとき、あんたに儀式をやってもらいたいんだよ。他にもいくつか教えることもあるけどさ、とりあえずはこれだけをみっちり頭に叩きこんでくれ」
ダリヤがそこまで考えてくれたことが、ありがたかった。答える代わりに、モニクは震える手で本に触れた。横から背表紙を持って、表面に手を置く。とても大事そうに。
「わたしのようなものでいいのでしょうか?」と、か細い声を出す。
「あんたなら託しても大丈夫だと思ったから、持ってきたまでだ。それにセーラもあんたを信頼している。わたしにはできないからね。それとも、魔女の頼みはきけないのかい?」
「そんな。でも、できるかどうか」
「やってみればいいんだよ」ダリヤの声が後押しになったらしく、モニクは本に目を落とした。もう一度、顔をダリヤに向けたとき、「はい」とまっすぐな目で答えを出した。
「わたし、やります。やりとげます」
モニクの強い言葉にダリヤはうなずいた。わたしも魂としてうなずいていた。モニクならば、やってくれる。そう思えた。
星空の下で野宿するのは、はじめてだった。家はあったけれど、みんな天井が崩れていて、眠るのは危険だった。ダリヤは広場のベンチの上をベッドにするつもりらしく、横たわった。片膝を立てて、少し格好をつけている。でも、瞼を下ろさず、星空を眺めていた。ずっと、飽きもせず、言葉もなく。
モニクはたき火の番をしながら、本を開いていた。くっついたページをはがして読み進めていく。炎のぼんやりとした明かりで、文字を浮かばせながら、呟いていた。練習をしているのだろう。時折、本から顔を上げて、手のひらを開いたり閉じたりした。
夜はこうして過ぎていく。わたしはダリヤと視線を重ねて、星を眺めた。夜空は元の世界と変わらない。変わらないのに、この下で生活している人たちは、まるで違っていた。魂は眠れるのだろうか。心のなかで瞼を閉ざした。眠れる気がした。