ヤメ騎士さんとわたし

第14話『思い出の声』


 さすがに断られると思っていた。

 いつもの紳士的なロルフさんなら、「バカ言うな」と言わんばかりに、わたしの要求をやんわりと断る。聞き分けのない子どもにするように苦笑して、頭をぽんで終わる。今回はそれがなかった。

 抱っこもしてもらわなかった。自分からベッドの奥まで歩いた。同じベッドの端と端。扉の方に横たわるのはロルフさん、部屋の奥側がわたしの位置となった。

 望んだのはわたしだ。緊張する必要なんてない。これまでだって間違いは起きなかった。わたしが強く意識してしまうだけだ。

 馬に乗った時だって、わたしだけがバカみたいに緊張していた。結局、慣れるまでに家から森へ出るくらいの時間が必要だった。

 ロルフさんに背中を向けて横たわり、別のことを考える。考えなければ、すぐに後ろを意識してしまう。だから、清潔なシーツのことだとか、みがかれた窓のことだとか、どうでもいいことばかりに目を向けた。

 次第に、薄暗い壁が木目に変わってきた。ロルフさんの家を思い浮かべていた。

 ほつれたシーツに、固めのマット、そこがわたしの寝室だった。どんなに洗濯しても手触りは変わらなかった。でも、あれはあれで、心地は良かった。窓から真っ先に差しこむ光に瞬きをするのが、好きだった。

 こっそり抜け出してロルフさんの寝顔を見に行ったこともある。まだ、髭があった頃だ。髭に触ろうとした。ずっと、もさもさ顔についているものだから、触り心地を確かめたかった。

 ロルフさんにしてみれば、あんまり気持ちのいいものではないのかもしれない。

 すんぜんで止めた。自分がいったい何をやろうとしたのかと、後悔で頭を抱えた。そういうときに限ってロルフさんに見られる。

 そして、寝ぼけたような瞳を瞬かせる。目の端にくしゃっとしわができて笑われた。かすれた声で「セーラ」と呼ばれる。その顔と声は、きっと忘れない。

 だけど、もう、二度とその時は来ない。ここまで来てしまった。帰る家はない。必死に考えないようにしてきた、ロルフさんと離れることを。泣くなんてわたしらしくない。そう思っても感情はあふれてくる。

 離れ離れになった家族のこともそうだ。

 父親は会社員で、母親はパートをしていた。姉がいて、いつもわたしと喧嘩ばかりしていた。友達も、会社の同僚も、全部。忘れた気になっていた。ちゃんと、頭のなかでは覚えている。話したこと。笑ったこと。怒ったこと。

 シーツに涙を落としてしまった。手で拭こうとするけれど、どんどん涙が流れていく。子どもじゃないのにしゃくりあげてしまった。わたしに向けて、思い出の声たちが語りかけてきた。

 ――「あんたって、バカね」この性格はお母さんに似たんだ。

 ――「まったく、もう子どもじゃないだろ」お父さんだって、プラレール集めているくせに。

 ――「男なんて他にもいるでしょーが」お姉ちゃんが何年も片思いしている人がいるのは、知っている。ちなみに、わたしは男のために泣いているんじゃない。この人はいつもずれている。

 いつもの日常だった。それがもうない。どこにも、わたしの手の届かない場所に行ってしまった。

 家族は今、どうしているのだろう。わたしを探そうとしてくれているのだろうか。行方不明となった娘を探す親。姉。友だち。彼氏はいなかったけれど、わたしを支えてくれた人たちがどうしているのか知りたい。

 ロルフさんもわたしから離れていく。きっと、届かない場所に。それがいつになるのか、すぐ先にあるのか、わたしにはわからない。だからこそ、怖い。

 いきなり、「さよなら」となったら、わたしは何を支えに生きていけばいいのだろう。何もない。絶望がまた、わたしの感情を揺さぶった。

 よっぽどひどい泣き方をしていたのかもしれない。

「セーラ」

 ロルフさんはわたしの肩に手を置いた。振り向きたくなかった。ひどい顔だ。真っ赤で、涙だか鼻水だかわからない状態だろう。

 ロルフさんの太い腕がわたしの顎下を通る。背中にぬくもり。つまりは片腕で抱きしめられていた。

 また、優しくされる。それがまた、涙を誘うことをロルフさんは知らない。だけど、この人らしいから、憎めなくて困る。わたしが好きになったのは、きっと、そういう優しさだったから。

 わたしは泣いた。たぶん、自分が思っているよりも長く泣いた。ロルフさんは最後まで付き合ってくれた。ずっと、抱きしめてくれた。

 おぼれそうな涙のなかで、わたしはロルフさんの腕にすがる。そうするしか、なかった。振り向いて胸を借りなかった自分を褒めたい。どうしてもできなかった。ただ感情が涙に落ちて、溶けていくのを待った。

 朝起きたとき、ロルフさんはすでに部屋にいなかった。大きめなベッドにひとり残された。

 窓から差す日の光だけが暖かい。ろうそくの明かりが無くても、部屋のすべてが見通せた。

 昨夜はわからなかったけれど、色あせたじゅうたんが敷かれている。家具は焦げ茶色で統一されていた。どれだけ暖かみのある色でも、わたしひとりだと冷たい。暖炉の火も小さくなっていて、ますます冷たく感じた。

 ノックがされる。扉の先から現れたのは昨日のメイドさんだった。彼女はわたしの顔を見て、目を丸くさせた。

 ――ああ、そうか。わたしの顔がはれぼったくてひどいから、驚いたのだろう。彼女はぎこちなく腰を落とした。挨拶だろうか。わからないけれど、頭だけは下げた。

 お湯の入った盆と、布がテーブルに置かれる。おそらくだけれど、体を拭けということなのかもしれない。メイドさんは早々に部屋を出た。昨夜と違って、まったく名残惜しそうではなかった。足早だったかもしれない。

 体を拭く前に、布をお湯に浸して、腫れた目を温めた。泣きすぎた。しかも、ロルフさんの前で。どんな顔をして会えばいいのか、わからない。わかってもきっと、できない。

 とりあえず、体を拭こう。シャツの前を開ける。パンツも下ろす。治りかけの擦り傷と、薄くなったあざばかりの足がさらされた。久しぶりに下着も取り替えよう。さらし姿のままでベッドから降りた。

 降りたはいいものの、いつの間に靴音が近づいてきていたのか。ノックなしにノブが回る。扉が開いた。

「マジか」

 体を隠す前に、青い瞳と見つめ合う。

 ――何でこう、間が悪いんだろう。
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Clap