ヤメ騎士さんとわたし

第11話『外へ』


 朝起きると、体が重かった。きっと、寝不足のせいだろう。目の下にクマができている気がする。

 でも、この家には幸い、鏡になるようなものはなかった。あるのは水桶くらいなもので、見ないようにすれば大丈夫だと思う。

 ロルフさんに見せることになるけれど、こればっかりは仕方ない。開き直って、堂々としていよう。ロルフさんのことは気にしないように。

 ベッドから起き上がると、すでにスープの香りが漂ってきた。キッチンではロルフさんが食事の準備をはじめていた。昨晩のじゃがいもと肉入りのスープと顎が疲れるくらいの固いパン。最後だと知っているからか、今はごちそうに見える。パンが歯茎にくっついても、今日くらいは笑って許せそうだ。

「おはようございます」

 声をかければ、ロルフさんはわたしを見て、ほほえんだ。いつもは髭で隠されていた笑顔がちゃんと表れる。剃り跡の赤い斑点はもう消えていた。

 ただでさえ、抱っこの件で目を合わせられないと言うのに、さらに髭がなくなってロルフさんの顔をまともに見られない。

 今は呼ばないで欲しいのに、「セーラ」と唇が動く。動きをしっかりこの目で見てしまった。うわ、ダメだ、思い出してしまう。あの唇でキスされると勘違いしたのだ。

 結局、昨夜は抱っこ以上のことはしなかった。ロルフさんにとって、恋人にする抱っこじゃなかったのだろう。むしろ、可哀想だと思われて、同情心でされたという方がありえそうだ。ロルフさんだったら、やりかねない。いつだって親切な人だから。

 立ち尽くしているわけにもいかず、わたしは席に着いた。いつもの決まった場所に、お互い向かい合って座る。

 食事が済むと、暖炉の前へと移った。新しい薪を追加していないためか、暖炉の火が小さくなっている。テーブルには昨日まとめたわたしの荷物――布の袋に入れられた――とローブが2着があった。やっぱり、どこかへ行くつもりらしい。

 茶色のローブを受け取って胸の前に持ってくると、体からはみ出た。頭からすっぽり被ると、伸ばした袖は長くて指が出ない。股も隠れるし、元々、男物なのかもしれない。腰をねじって後ろを見るけれど、くびれもお尻も覆い隠された。

 ロルフさんはもう一回り大きいローブを被っていた。けれど、サイズは合っていて、ちゃんと旅人として見えるのがうらやましかった。

 準備が済むと、ロルフさんは外から木のバケツとスコップを持ってきた。どちらも片手ずつなのが、力持ちのロルフさんらしい。わたしは手を出せずに眺めるだけになった。

 ロルフさんは暖炉のなかの灰をスコップですくうと、水のなかに入れる。灰に残っていた火がじゅっと消える音がする。何度か繰り返すと、暖炉の口は真っ黒にぽっかり開いた。

 おそらくわたしがここに来てはじめて、家の火が消えた。冷たくなっていく家。そして、気づいてしまった。当分の間、ロルフさんもここには戻らないのだと。戻らないから、家中の火を完全に消したのだ。

 ロルフさんとわたしは荷物を抱えて、扉の外に出た。仰げば、空はどんよりとした灰色の雲に覆われている。わたしの心も重苦しく垂れ下る。これから何が待つのだろう。ロルフさんはどこへ連れていこうとしているのだろう。

 当のロルフさんは馬小屋に入ると、ゼオライトの手綱を持って現れた。ゼオライトの横には足をかけるための輪っかみたいなものと、背には革の平べったい椅子がついていた。

 椅子の後ろのところに、わたしの荷物もくくりつけられる。ロルフさんはひと足先にゼオライトの背に乗ると、わたしの前に手を差し出した。

 まさか、馬に乗るなんて思わなかった。子どもの頃に、馬の背に乗ったかもしれないけれど、画だけの記憶だ。感覚は残っていない。

 大丈夫だろうか。ロルフさんを見上げたわたしは、相当情けない顔をしていたのかもしれない。優しく「セーラ」と名前を呼んでもらった。不安がっている場合ではない。もうここにはいられないのだ。

 どうにでもなれ。わたしはロルフさんの手に自分の手を重ねた。そして、強い力で引かれ、腰を持たれて、ロルフさんの前に座った。後ろから抱きこまれるような体勢になる。顔が熱くなるのがわかった。慌てて、自分の気持ちを落ち着ける。手汗をローブの裾で拭いた。

 ――ロルフさんは手綱を持っているだけだ。わたしの腰に腕を回しているわけではない。もう一度、言い聞かせる。抱っこではない。

 それなのに、緊張して肩が強ばった。ロルフさんにもたれかからないように背を正す。それが最後の抵抗だった。絶対に体を預けてはならない。預けたらたぶん、緊張で息ができなくなる。

 けれど、いざ馬が動き出すと、体が安定しなかった。ふらふらになってしまう。ひとりの力では無理だ。今度は自分の意志で、ロルフさんの腕を掴む。

 それしか、すがるものがなかった。仕方ない。詰めていた息をゆっくりと吐き出した。跳ねてしまいそうな胸を、呼吸でどうにか落ち着かせた。
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Clap