ヤメ騎士さんとわたし
第10話『妙な動き』
ようやく1日の流れが掴めた。
ロルフさんは基本、馬小屋に通い、狩りをする。空いた時間に弓やナイフの手入れをしたり、矢を手作りしたり――ナタを手に森に入ったのはこのためだった――、川で飲み水を確保してきたりした。
わたしは部屋を掃除したり、鍋の上からハーブを散らしたり、肉を小さく刻んだりくらいは任せてもらえるようになった。
少しずつ役に立てている喜びが、周りの景色を鮮やかにしていく。よく寝て、起きられるようになった。よく食べて、笑うようになった。
でも、わたしが明るくなる一方で、ロルフさんは目を伏せる場面が増えた。
笑いかけると、じゃがいもが喉に詰まったかのように苦しそうな表情になった。近寄ると、今用事を思い出したかのように、別の場所へと移動はしてしまう。家のなかでも距離を感じた。
暖炉の前で腕を組んでいる姿をよく見かけた。瞼の裏で何を思い、考えているのだろう。それでも声はかけられなかった。窓枠に体を預けながら、炎の色に染まった横顔を眺めるしかできなかった。
ロルフさんの変化の理由を突き止められないまま、また新しい朝が来た。
窓から射しこんでくる明かりとともにベッドから起き出す。ロルフさんは決まってベッドをわたしに譲り、自分はソファーで寝息を立てている。
起こさないようにと、慎重に暖炉の火に薪をくべて、調子よくかまどに火をつける。鍋のなかを木のおたまでかき混ぜて、肉の脂が浮いたスープを温めていく。湯気がたちのぼり、食器棚からお皿を取り出したところで、服と革のソファーとが擦れる音がした。ロルフさんのひげ面がキッチンをのぞきこむ。
「おはようございます」
ここまでは普通だった。いつもならば、ひとこと返ってきて、「セーラ」とつけ加える。わずかに髭が上がって、笑っているのかもしれないと想像すると、胸があたたかくなった。
それなのに、今日はどれもなかった。わたしと目が合ったロルフさんの表情がまるで初対面であるかのように、強張って見えた。目を伏せて、明らかに顔をそらしてくる。「セーラ」と呼ばれない。黙って、椅子に座る。
それが不安だった。もともと、口数は少ないけれど、「セーラ」とだけは呼んでくれたのに。
シャツの胸元をぎゅっと掴んだ。心臓が掴まれたかのように痛い。むしろ、掴み出してくれたら、この痛みは無くなるかもしれない。
そんなことができるわけもない。どうすればいいのか、考えれば考えるほど、わからなくなった。
夜になって、ますます、動きが妙になった。
ざり、ざりと、耳障りな音がする。ロルフさんが自分の髭を剃っていた。床にあぐらをかいて、小ぶりのとがった石で髭を落としていく。足の前に薄い布を広げて、その上に剃った髭を捨てた。すべてを剃るわけではなく、顎の髭の長さを整えていた。
しかし、なぜそんなことを?
わたしの荷物――下着とかさらしの代えくらいしかない――をまとめたのもおかしかった。まるで、どこかへ行こうとしているような動きなのだ。
顎だけ髭を残して、口元があらわになった。やっぱり、シワは少ない。たぶん、年上だとは思うけれど、30歳くらいか。剃った跡が赤く小さな斑点になっていた。
ロルフさんは布を丸めると、それごと暖炉の火のなかに捨てた。ソファーに落ち着き、しばらく時が止まった。
動き出すまで、わたしは窓の外を眺めた。今日は暖炉が照らす明かりよりも、照らされていない闇の方が気になった。星や木々の間の闇に興味がある振りをする。意識はすべて、ロルフさんに向けているのに。
「セーラ」
ようやく呼ばれた。ロルフさんがソファーに沈ませた体を傾けた。振り返って、窓際のわたしを見ている。けれど、顔は険しく、本当に「セーラ」と呼んでくれたのか疑いたくなるほど、口を固く結んでいた。ため息が吐かれた。肩が震えた。
ずっと、この時を恐れていた。「家から出ていけ」と言われるのを。だけど、どうやったらロルフさんを憎めるんだろう。恨めるんだろう。わたしは色んなものをもらった。すがるなんてバカな真似はできない。
おいでと手招かれて、わたしは前に踏み出した。
ソファーに近づき、対面すると、暖炉の炎がふたり分の影を作る。ロルフさんが長くしゃべっていたけれど、わたしはうつむいたまま、ただ聞いていた。耳はすましていた。そのつもりだったけれど、何一つ言葉を理解できない。はじめてロルフさんを他人だと感じた。別の国の人だと思い知らされた。
急におしゃべりが終わった。手を握られた。分厚くて暖炉なんかよりも暖めてくれる手。包みこむようにぎゅっと握ってくれる。
「ロルフさん」
声が震えている。自分じゃないみたいに弱々しかった。ここに来るまでだって、こんなに弱気になったことはない。
「セーラ」
握っていない方の手で頭を撫でられた。慰められているのだと思おう。わたしはロルフさんの温もりを忘れないように、手のひらの線を撫でた。
頭を撫でていた手がするりと左頬まで落ちた。青い瞳が揺れた。以前は髭で隠れていた喉が動くのを見た。
強い力で右手を引かれて、わたしはロルフさんの体の上に崩れ落ちた。たぶん、わたし自身もそちら側に行きたかったのだ。ロルフさんと重なりたかった。
肘掛けを越えて、ロルフさんの足をまたぐ。ソファーがふたり分の重みで軋む。ロルフさんは上体を起こして、指でわたしの髪を後ろに払った。
「セーラ」こんな声を聞いたことがなかった。心音が騒いで、耳の奥を何度も巡った。
青い瞳が瞼に覆われていく。顔が近づいてきて、このままキスされるかと思った。瞼をつむる。けれど、違った。太い腕がわたしを抱き、頭の後ろの方をぽんぽんと軽く叩いた。まるで、慰めるかのように。
体を離した時、ロルフさんは青い瞳を細めて笑った。
でも、わたしは安心できなかった。いつものようにベッドまで抱っこされても、子どもにするように胸の辺りをポンポンされても、不安だった。とうとうロルフさんの寝息が暖炉の方から聞こえてきても、わたしは目を開けたまま寝つけなかった。