戦神王子と男装兵士
第1話
自然の奥地に別荘があった。誰も使わなくなった別荘に、ひとりの兵士が護衛についていた。
ノアは別荘の護衛をしながらあくびをひとつした。ぼーっとした顔も、ゆったりとした仕草も、自然のなかで暮らしているためだろう。
ノアが苦労して兵士になってから3年。能力もつてもないノアは、別荘の見回りで十分だと思っていた。ほとんど使われなくなった王家の別荘は獣さえおとなしく、平穏そのものである。退屈といえば退屈で、使用人のローナとの世間話がノアの楽しみだった。
今日もローナはやってきた。森を抜けたところにローナの家があるのだ。長い距離を歩くために足は痛み、いつも愚痴をこぼすのだが、今日にいたってはなかった。
大概、こんなとき、話したいという欲が先にある。大きく見開かれた目がますますその気持ちを表していて、ノアは槍の手をゆるめた。ローナは案の定、落ち着くより先に口を開いた。
「の、ノア、ノア」
名前を繰り返すローナに、ノアは頭を傾げた。
「どうかした?」
「王子が、来る、やって来るよ、病で、この別荘に療養のため、来るんだって」
なるほど王子とは。きっと第3王子のことだろう。生まれもって体が弱いという噂が流れている。ローナが慌てるのもうなずけるなと、ノアは思った。今までこんな大きな事件はなかったぐらいだ。
しかし、いくらなんでもお付きの兵士もいるだろうし、ローナやノアには荷が重すぎる。しばらくは暇をもらえるかもしれない。そう楽観視していた。けれど、事態は思うより甘くなかった。
「でも、第3王子じゃないんだ。次期国王の、ダニール様」
「ダニール様だって!」
ダニール王子を知らない人はいない。筋肉隆々、戦場では武神と呼ばれて崇められている。どんな田舎出身でも、国中のだれもがあの方にあこがれる。ノアが兵士になったのもダニール王子の肖像画――本物は手に入らないので贋作――に見惚れたからだ。
折り重なった敵の上で剣を天に向かってかざす姿は、瞼の裏でもしっかり焼き付いている。
「しかし、あのお方は病とは無縁では?」実際の姿を目にしたことはないが、病などかかるはずがない。その考えを疑っていなかった。
「いや、そうでもないらしくて。医学でも魔術でも治せないっていうんだから、ダニール様も人間ということね」
この頃には落ち着いてきたローナがどっかりと花壇のふちに腰を落とした。フリルのついたエプロンと金色の髪の乱れを直していたが、彼女の視線は真剣な横顔に向けられていた。それでも当の本人は気付かない。
――ダニール様が不治の病? 簡単には信じられない。ノアはおよそ人生のなかではじめて、ローナの言葉を疑った。目は険しく細くなる。
「ちょっと、その顔は何なの! 本当よ! あたしがノアに嘘をついたことがある?」
ムキになるローナに、ノアは申し訳なく思った。ローナは嘘を吐かない。どれだけ真面目な頭でも、嘘と冗談の区別くらいはついた。
「そうだね。きみは嘘を吐いたりしない」
ノアがさわやかにほほえむと、ローナの顔は火照ってしまう。それはローナの想いの表示なのだが、ノアは気付かない。もう頭はダニール王子のことでいっぱいだった。
――だけど、この噂がどうか嘘でありますように。ノアは自分の存在など知らない相手に祈りをささげた。
自然の奥地に別荘があった。誰も使わなくなった別荘に、ひとりの兵士が護衛についていた。
ノアは別荘の護衛をしながらあくびをひとつした。ぼーっとした顔も、ゆったりとした仕草も、自然のなかで暮らしているためだろう。
ノアが苦労して兵士になってから3年。能力もつてもないノアは、別荘の見回りで十分だと思っていた。ほとんど使われなくなった王家の別荘は獣さえおとなしく、平穏そのものである。退屈といえば退屈で、使用人のローナとの世間話がノアの楽しみだった。
今日もローナはやってきた。森を抜けたところにローナの家があるのだ。長い距離を歩くために足は痛み、いつも愚痴をこぼすのだが、今日にいたってはなかった。
大概、こんなとき、話したいという欲が先にある。大きく見開かれた目がますますその気持ちを表していて、ノアは槍の手をゆるめた。ローナは案の定、落ち着くより先に口を開いた。
「の、ノア、ノア」
名前を繰り返すローナに、ノアは頭を傾げた。
「どうかした?」
「王子が、来る、やって来るよ、病で、この別荘に療養のため、来るんだって」
なるほど王子とは。きっと第3王子のことだろう。生まれもって体が弱いという噂が流れている。ローナが慌てるのもうなずけるなと、ノアは思った。今までこんな大きな事件はなかったぐらいだ。
しかし、いくらなんでもお付きの兵士もいるだろうし、ローナやノアには荷が重すぎる。しばらくは暇をもらえるかもしれない。そう楽観視していた。けれど、事態は思うより甘くなかった。
「でも、第3王子じゃないんだ。次期国王の、ダニール様」
「ダニール様だって!」
ダニール王子を知らない人はいない。筋肉隆々、戦場では武神と呼ばれて崇められている。どんな田舎出身でも、国中のだれもがあの方にあこがれる。ノアが兵士になったのもダニール王子の肖像画――本物は手に入らないので贋作――に見惚れたからだ。
折り重なった敵の上で剣を天に向かってかざす姿は、瞼の裏でもしっかり焼き付いている。
「しかし、あのお方は病とは無縁では?」実際の姿を目にしたことはないが、病などかかるはずがない。その考えを疑っていなかった。
「いや、そうでもないらしくて。医学でも魔術でも治せないっていうんだから、ダニール様も人間ということね」
この頃には落ち着いてきたローナがどっかりと花壇のふちに腰を落とした。フリルのついたエプロンと金色の髪の乱れを直していたが、彼女の視線は真剣な横顔に向けられていた。それでも当の本人は気付かない。
――ダニール様が不治の病? 簡単には信じられない。ノアはおよそ人生のなかではじめて、ローナの言葉を疑った。目は険しく細くなる。
「ちょっと、その顔は何なの! 本当よ! あたしがノアに嘘をついたことがある?」
ムキになるローナに、ノアは申し訳なく思った。ローナは嘘を吐かない。どれだけ真面目な頭でも、嘘と冗談の区別くらいはついた。
「そうだね。きみは嘘を吐いたりしない」
ノアがさわやかにほほえむと、ローナの顔は火照ってしまう。それはローナの想いの表示なのだが、ノアは気付かない。もう頭はダニール王子のことでいっぱいだった。
――だけど、この噂がどうか嘘でありますように。ノアは自分の存在など知らない相手に祈りをささげた。
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