中編
厚ぼったい深い夜の闇の中で薄ぼんやりと光る白い月明かりだけが光源だった。
跡部は、月の光に照らされて楽しそうな表情で舞う日吉を苦悩の表情で見つめながら手の中の拳銃を握りしめた。
『夜が明けるまで踊らせて、それがダメなら貫いて』
日吉が跡部に別れを告げたのは、跡部が高校を卒業したその日の事だった。
2人は恋人同士であった。中学時代、中学テニス界の歴史に残る件の全国大会の後より付き合い始めた2人は、順風満帆な日々を送っていた。
少なくとも跡部はそう思っていた。元より闘争心が強く跡部に対して下剋上を掲げていた事もあり天邪鬼で素直じゃない物言いが多かった日吉であったが、恋人同士になってからはぎこちなくも跡部に甘える言動が少しずつ増え、その度に跡部は日吉への愛おしさを募らせた。部活の帰り道、2人だけの夜道で服の袖を引かれ俯きながら遠慮がちに手を差し出される度、跡部の囁く愛の言葉に耳まで赤くしながらごく小さな声で答えてくれる度。跡部は幸福感で胸をいっぱいにさせた。幸せだった。ただただ、幸せな日々だった。
だからこそ日吉が別れたい、と言い出した時には跡部は相当驚き、そして今までに無いほどに動揺した。
何故かと問い詰めれば日吉は俯き跡部の顔を見る事もせずにこれからの環境の変化に耐えられない、とただそれだけ口にした。
確かに跡部は高校卒業後イギリスの大学に進学する事になっていた。日吉は日本に残るので、必然的に遠距離恋愛になる。けれどその事は2人で事前に話し合っていた事だったし、日吉も納得していた。こまめに連絡を取り合い、長期休暇の度に日本に帰る事を約束していた。大学を卒業したら日本に戻るつもりでいたし、4年間だけの辛抱だと日吉も笑いながら言っていた。「あんたがいない平穏な日々を今のうちに楽しんでおきますよ」だなんていつもの憎まれ口も忘れずに。
それだというのに日吉は、跡部の高校卒業の日に別れを切り出した。跡部が女子生徒達から死守した制服の第二ボタンを日吉に渡そうとした時の事で、跡部は驚きのあまり手の中の第二ボタンを地面に落としてしまった。地面に散った桜の上に音も立てずに転がり落ちたそれは日吉の靴にコツンと当たり、日吉はそれを拾い上げ跡部に無言で渡した。そしてただ一言「さようなら」と言い、跡部の前から去ってしまった。去りゆく日吉の背中は跡部の一切を拒絶していて、跡部は日吉を追いかける事が出来なかった。
それからすぐに跡部はイギリスに渡英した。けれどどうしても別れが納得できなくて、日吉に連絡を入れた事もあった。日吉の家まで行ってみたり、鳳に日吉に会えるよう説得して欲しいと頼んだ事もあったが、日吉は頑なで結局その後一度も会う機会は無かった。日吉がもう跡部とは顔も合わせたく無いのならば無理強いは出来ないと痛む心臓を抱えながら跡部は日吉への想いを募らせたまま、日吉との関係を終わらせることに決めた。
イギリスに渡英して、2年目の事だった。
イギリスの大学を卒業した跡部は日本に戻り、家業を継いだ。跡部の経営者としての手腕は素晴らしいもので、跡部が総裁となった後も跡部財閥は依然として繁栄していたし、そこには一つの陰りもなかった。
事件が起きたのは、跡部と日吉が別れた13年後。跡部が31歳を迎えた約1ヶ月後の事だった。
「跡部さん、あの、いきなりすみません。今来られますか……!」
鳳から電話がかかってきたのは、いよいよ本格的な冬が来ようという11月の下旬の事だった。鳳から連絡が来たのは数年ぶりだったが、酷く焦りの色の滲むその声に懐かしさを感じる余裕は無かった。何か嫌な予感を感じ、跡部は緊張を声に滲ませながら鳳に言葉を返した。
「どうしたんだ、鳳。何があった」
「日吉が、日吉が……!」
鳳からの電話により病院に駆けつけた跡部が見たのは、変わり果てた日吉の姿だった。鳳の話によると日吉は事故に遭ったらしい。道場に通う子供達に配るおやつの買い出しから帰っている時の事だった。車に引き摺られたという下肢はボロボロに引き千切れ、全身を酷く強く打ちつけた所為で身体中どこもかしこも傷だらけであったという。たまたま休日で日吉の実家に遊びに来ていた鳳は日吉が忘れ物をしている事に気が付き、日吉の後を追いかけ、そこで事故に遭った日吉を見てしまったのだそうだ。とてもじゃないが直視できるような状況じゃなかったと待合室の椅子に座った鳳が項垂れながら弱々しい声で言う。跡部からはICUのベッドで眠る日吉の姿は顔だけしか見れなかったが、それでも痛々しい傷にまみれて沢山の管に繋がれた日吉の姿に跡部の心は酷く痛んだ。鳳は事故の一部始終を目撃してるのだから、相当精神的なダメージが酷いだろう。
それなのに鳳は日吉が事故に遭ってすぐ、跡部に連絡をしてきた。普通であれば10年以上も関わりの無い跡部に連絡しようなんて思わないはずだ、と跡部は鳳の行動を不思議に思った。
「……どうして俺に連絡して来たんだ」
「跡部さんに知らせないとって思ったんです。どうしてでしょうね。でも、跡部さんに知らせないときっと後悔するって。俺だけじゃない。日吉も、跡部さんも。みんなきっと後悔するって」
そう言って鳳が両手で顔を覆う。
「日吉の足はもうどうしようもないって言われました。古武術も、テニスも、もう、もう……」
そう言ってすすり泣く鳳に、かける言葉は見つからなかった。
その日の夜中、時計の針が明け方4時過ぎを指す頃の事だった。病院近くのホテルに宿泊する事にした跡部はベッドに入ったもののまんじりともせず夜も過ごしていたが、強い違和感に目を開けた。鳳から電話がかかってきたのは、それと同タイミングだった。
「今すぐ病院に来てください! 日吉が!」
跡部が病院に着いた時には、もう日吉は息をしていなかった。全ての管を外されて白い顔で横たわる日吉は、最後に会った高校時代よりもいくらか大人びた顔付きをしていて、そういえば俺も若ももう三十路なんだったな、だなんてあまりにも場違いな事を跡部は思った。
日吉の両親らしい初老の女性が肩をふるわせて泣いていた。その女性の肩を抱き締める初老の男性もまた、拳をきつく握り締め俯いていた。
跡部は泣く事も日吉に駆け寄る事もせず、呆然と立ち尽くすしていた。
泣き腫らし真っ赤になった目をしばたたかせる鳳と共に病院の外に出た。真っ暗な夜闇の中、刺すような冬の夜の冷たい風が2人の頬を撫でた。
「……明日になったらまた色々しなきゃいけませんね。お通夜も、……お葬式、も」
「……そうだな」
「……跡部さんは、冷静ですね」
「……。…分からないんだ、どうすればいいのか」
「……そう、ですよね。俺もいきなりすぎて、どうしたらいいのか……今日はとにかく、一旦帰りましょう」
今何時だろう。そう言ってスマホの画面を開いた鳳が、え、と小さく声を上げた。
「どうした、鳳」
「いえ、これ……」
鳳が跡部に見せたスマホの画面には、7時48分と表示されていた。7時48分。もう朝といってもいい時間だ。けれど、辺りは深い闇に包まれており、とてもじゃないが朝だとは思えない。跡部も自分のスマホを取り出して時間を確認するが、鳳のスマホの画面に表示されている時刻と寸分代わりのないものであった。
どういう事だ。混乱しながらスマホを仕舞おうと上着のポケットに手を入れた跡部は、ポケットの中につるりとした冷たく硬いものが入っているのに気が付いた。
そして、跡部は理解した。
跡部が向かったのは氷帝学園だった。いきなりタクシーを呼び出した跡部に驚いた鳳は跡部にどうしたのかと問い詰めたが、跡部は険しい顔で黙りこくり、ただ一言鳳に「ついてくるか?」とだけ聞いた。跡部の尋常じゃない様子に思わず頷いた鳳だったが、氷帝学園に連れてこられていよいよ訳が分からないと頭を抱えた。こんな時にどうして。けれど跡部はそう問いかける鳳を無視して校門の柵を乗り越え学園内に駆け出していった。
跡部が止まったのは、氷帝学園のテニスコート前だった。跡部達の青春の象徴と言っても過言ではないそこには、鳳の予期せぬ人物がおり、鳳はいよいよパニックになった。
「日吉……?」
コートの中心には、日吉がいた。
正確には中学生の姿をした日吉が、だ。氷帝学園のレギュラージャージに身を包んだその姿は酷く懐かしいものだった。薄ぼんやりとした月に照らされた日吉は、ゆるく目を瞑り演武を舞っていたが跡部の姿に気が付くと目を開き跡部を見た。
「跡部さん、お久しぶりです」
「……ああ」
「いい夜ですね」
そう言ってほのかに微笑む日吉に、跡部は胸が締め付けられる思いで言葉を返した。
「そうだな」
ーーーーー
跡部は一度だけ、日吉が演武を踊っているのを見た事があった。演武テニスではない、純粋な演武だ。
跡部が中学3年生の時だ。全国大会の少し前、日吉のテニススタイルに興味が湧いた跡部は、ぜひ演武を見せて欲しいと日吉に頼んだ。一体この成長目まぐるしい後輩はどのようにして〝演武テニス〟なんてスタイルを確立させたのだろうと。
最初は嫌がっていた日吉だったが、部長として部員のプレイスタイルを知るのは当然の務めだと言って日吉を言いくるめた。
そして、日吉の演武を目の当たりにした跡部は日吉に恋をした。
あの時の事を跡部は一生忘れられないだろうと思う。普段生意気な事ばかり言い、じっとりとした視線を寄越す後輩の澄んだ眼差し。凛としてしなやかに、そして力強く鮮やかに舞う姿。美しい、と思った。まるで馬鹿馬鹿しい考えだが、神の使いのようだとすら跡部には思えたのだ。
それから跡部は何度か日吉に演武を見せて欲しいと頼んだのだが、結局跡部が日吉の演武を見ることが出来たのはその1度切りだった。
ーーーーー
「跡部さん、これは一体」
「見てわかるだろう?」
「っ、分かりませんよ! なんで日吉が!? ねえ日吉! 日吉!」
状況が全く理解できない鳳がコートの外から日吉に呼びかけるが反応は無い。まるで聴こえていないとでも言うように鳳の言葉を無視し、踊り続ける。
「ねえ、日吉ってば!」
「無駄だ」
え?と鳳が驚いて跡部の方を見れば、跡部は真っ直ぐ日吉を見据えていた。
「俺の声しか、若には届かない」
「何でそんな事分かるんですか?」
「分からない」
「分からない……って」
「けど、分かるんだ。俺には、どうしようもないくらいにな」
「何ですか、それ……」
どうして。そう鳳が言おうとした時、足音が聞こえた。2人が振り向くと黒いスーツに身を包んだ男が焦った様子でコートに向かってきていた。男は日吉の姿を認めると、信じられないといった表情で叫んだ。
「そんな事がある訳が無い! SCP -1917-JPは女性に限定するはずだ!」
「SCP……?」
「おい、あんたは誰だ?」
何か事情を知っている様子のスーツ姿の男に跡部が声をかける。男は動揺した様子であったが跡部の顔を見ると目を見開き声を上げた。
「……あなたは跡部財閥の! ……失礼いたしました、私はSCP財団のエージェントです。財団の事はご存知でしょう」
「SCP財団……」
SCP財団。跡部には聞き覚えがあった。この世界の自然法則に反した存在を取り扱う組織だ。確保、収容、保護に基づき世界全土で活動している、必要に応じ財団の所有する施設内でそれらの存在ーーオブジェクトを保護したり、あるいは保護できないものに関しては監視をしているという。
跡部財閥は財団に出資をしており、その存在を認知をしてはいたものの、実際に財団のエージェントと接触したのは初めてのことであった。
なぜ、その異常な存在を扱う財団のエージェントがここに。まさか、そんな。
信じたくない、けれど分かり切った質問を跡部は財団のエージェントに投げかける。
「まさか、若がSCPになっちまったと言うのか」
ーーーーー
アイテム番号: SCP-1917-JP
オブジェクトクラス: Keter
特別収容プロトコル: SCP-1917-JPの出現は財団の世界監視システムによって即座に発見、同定が行われます。SCP-1917-JPの発生が確認された場合、即座に近隣の都市部を閉鎖、住民の速やかな避難を誘導してください。また、これに並行してSCP-1917-JP-A対象者の同定、確保及びEクラス職員としての臨時雇用を行ってください。確保されたSCP-1917-JP-A対象者がSCP-1917-JPの殺害に成功したことを確認した場合、SCP-1917-JP-A対象者には簡易インタビュー及び事実確認を行ったのち、軽度の記憶処理を行ってください。
説明: SCP-1917-JPは世界全土において、夜間不定期に出現する人型実体です。
現在までの出現事案全てにおいて、SCP-1917-JPは10代女性の姿を取り、容姿は出現場所付近で24時間以内に死亡した女性の少女期と一致します。また、SCP-1917-JPは出現と同時に何らかの踊りを行い続けます。踊りの内容はクラシックバレエ、民族舞踊、ブレイクダンス、創作ダンスなど多種にわたり一貫性は確認されません。
SCP-1917-JPが踊りを継続した場合、周囲の生物は夜明けを知覚することが不可能になります。影響を受けた人物、生物はこれにおおむね肯定的、順応的であり、夜が継続する状況に混乱する様子は見られません。この異常性の範囲は指数的に拡大することが確認されており、最終的にはAK-クラス:世界終焉シナリオに移行すると仮定されています。
SCP-1917-JPとのコミュニケーションは後述するSCP-1917-JP-A対象者によるものを除き成功していません。SCP-1917-JPは現在財団が保有するすべての処置、攻撃に対し高い耐性を得ており、SCP-1917-JP-A対象者以外の干渉を受けません。
SCP-1917-JP-AはSCP-1917-JPにおける容姿のオリジナルとなった人物の関係者に発生する現象です。対象となった関係者のもとには1丁の自動拳銃が出現します。対象者は拳銃の出現に伴い、SCP-1917-JPの現在位置を正確に知覚できることが可能になり、SCP-1917-JPを殺害する必要性があると知覚します。SCP-1917-JP-Aの発生基準は明確ではありませんが、多くの場合オリジナルの人物と非常に親密な関係の人物が選ばれる傾向にあり、両親、配偶者、恋人などが対象に選ばれる傾向にあります。
この異常性からSCP-1917-JP-A対象者はSCP-1917-JPに接近、殺害を行います。この殺害においては現在時点で全員が成功していますが、その関係性から過半数のSCP-1917-JP-A対象者は逡巡し、最長で25時間SCP-1917-JPの殺害を躊躇った例が確認されます。
殺害されたSCP-1917-JPは同質量の生理食塩水に置換されます。また、SCP-1917-JPの影響下にあった人物はSCP-1917-JPの消滅と同時に夜明けを知覚し、急速に影響下の記憶を忘却していくことが確認されています。この忘却現象はSCP-1917-JP-A対象者には発生せず、記憶処理を行ってもSCP-1917-JPを殺害した、という記憶が失われることはありません。
ーーーーー
跡部が財団のエージェントから渡された端末にはSCP-1917-JPの情報が記載されていた。そこには随分と物騒な事柄がいくつも載っていて、その突飛さに眩暈がした。日吉を殺さなければ夜が明けない?世界終焉シナリオ?
けれど、それが紛れもない真実である事を、跡部のポケットの中の拳銃と目の前で舞い続ける日吉の姿が証明していた。
「つまりは俺は臨時的にEクラス職員となり、若をこの拳銃で殺害しないといけないって訳か」
「理解が早くて助かります」
「……もし、殺したくないと言ったら?」
「それが許されない事だと言うのはあなたも分かっているでしょう?」
「……そうだな」
「殺す……? 跡部さんが、日吉を……? どう言う事ですか?」
「それに書いてある通りだ。俺が若を殺さないと、世界は終わっちまうらしい」
跡部がポケットから拳銃を取り出して言った。
「……しばらく、若と2人きりにさせてくれ。なに、きちんと殺すぜ」
日吉と対峙した跡部は、目尻に皺を寄せ懐かしむように日吉の舞う姿を見つめた。
「久しぶりだなあ。何年ぶりだ?」
「13年ですよ」
「そうか。年月が経つのは早いな」
「老けましたね」
「そりゃあな、もう三十路だ。お前は変わりないようだが」
跡部の言葉に日吉は答えなかった。ただ視線だけ一瞬跡部に寄越し、直ぐに戻して踊り続けた。
「懐かしいな、演武。また見てみたかったんだ」
「あぁ、あんた踊れってしつこかったですもんね」
「こんな時でも相変わらず憎まれ口なんだな」
「不愉快ですか?」
「……いや、嬉しいぜ。すごくな」
そう言うと跡部は黙り込み、演武をする日吉を目で追いかけた。ひとときも見逃さないとでも言うように、網膜に焼き付けようとするように、瞬きもせずひたすらに日吉を見つめた。
「なあ、若」
「なんですか、跡部さん」
「どうして俺なんだ。もう13年も会っていない、会おうともしなかった俺なんだ」
「簡単な事ですよ」
跡部の問いに日吉がかすかに微笑んで言う。
「ずっと、ずっと跡部さんの事が好きだから」
そう言う日吉の横顔は、白い月明かりに照らされて、日吉が舞う度にさらさらの髪の毛が月明かりを透かしてきらきらと輝いた。本当に美しかった。世界なんて捨ててずっと見ていたい程に。
「だが、夜が明けない事は許されない」
「……そうですよね。あんたは陽の光の下で生きていくべき人だ。世界は朝を迎えるべきだ」
「そうだ。それが世界の正しい姿なんだ。分かっているんだ。だが、俺はお前の事を……」
「いいえ、跡部さん。さあ、俺を撃ち抜いてください。身勝手な俺を。俺はあんたに殺されたい」
校門の前で鳳は待機していた。エージェントはどこかと連絡を取らねばいけないと鳳から離れた所で何者かと通話をしている様子であった。機密情報であろう事をそんなに何でも話してしまっていいのかと聞くと、今回の事は記憶処理を施すので大丈夫、だなんて物騒な返事をされてしまった。一瞬逃げ出そうかとも思ったが、どうやら鳳の考えは筒抜けのようで「外にも財団の者が複数待機しておりますので」と言われて諦めた。どの道鳳は一切日吉に干渉できないのだから跡部が日吉を殺さない限りはどうしようもならない。ただ明けない夜を過ごすだけだ。
時計を見るともうとっくに時刻は昼を回っていて、それなのに夜は明けないこの不思議な状況に、もしかしたら夢かもしれないなあ、なんてぼんやりと思った。そうだったらどんなにいいだろう、とも。
けれど、これはどうしようもなく現実なのだ。日吉の死も、世界の異変も。
せめて俺の言葉が日吉に届いたらなあ。そんな事を考えながら校門の壁にもたれて頭をかく。静かな空間に、エージェントが何やら話している小さな声と鳳が鼻を啜る音だけが聞こえていた。
ターン、と遠くで音がして鳳は空を見上げた。そして、あ、と小さな声で呟く。
いつの間にか辺りは時刻相応に明るくなっており、コートを暖かな太陽が照らしていた。
そしてそれはSCP-1917-JPが消滅した事の、何よりの証明でもあった。
ーーーーー
雑踏の中、跡部は暗闇を歩いていた。か細く白い月がぼんやりと照らす世界はもう、跡部にとって見慣れたものであった。
冬が終わり、春になり、それも過ぎた初夏の頃だった。すれ違う人々は皆額の汗を拭いながら歩いている。中には日傘や帽子を被った人間もいた。
そんな中跡部はただ寒々しい夜闇の中を歩いている。ふと跡部が空を見上げると、深い夜闇の中唯一世界を照らしていたあの日から寸分変わらない月と目が合った。
ーーーーー
補遺: SCP-1917-JPを殺害した全SCP-1917-JP-A対象者が夜明けを知覚できなくなっていることが確認されました。対象者はその状態を異常であると理解していますが、そのうえで許容していることが確認されています。この異常性は記憶処理では回復しないことが判明しています。
ーーーーー
月の光に照らされて踊る日吉の、夜の闇と混じり合ってキラキラと輝いていた美しい栗色の髪を思い出す。
「あぁ、綺麗な月だ」
夜明けは、来ない。
跡部は、月の光に照らされて楽しそうな表情で舞う日吉を苦悩の表情で見つめながら手の中の拳銃を握りしめた。
『夜が明けるまで踊らせて、それがダメなら貫いて』
日吉が跡部に別れを告げたのは、跡部が高校を卒業したその日の事だった。
2人は恋人同士であった。中学時代、中学テニス界の歴史に残る件の全国大会の後より付き合い始めた2人は、順風満帆な日々を送っていた。
少なくとも跡部はそう思っていた。元より闘争心が強く跡部に対して下剋上を掲げていた事もあり天邪鬼で素直じゃない物言いが多かった日吉であったが、恋人同士になってからはぎこちなくも跡部に甘える言動が少しずつ増え、その度に跡部は日吉への愛おしさを募らせた。部活の帰り道、2人だけの夜道で服の袖を引かれ俯きながら遠慮がちに手を差し出される度、跡部の囁く愛の言葉に耳まで赤くしながらごく小さな声で答えてくれる度。跡部は幸福感で胸をいっぱいにさせた。幸せだった。ただただ、幸せな日々だった。
だからこそ日吉が別れたい、と言い出した時には跡部は相当驚き、そして今までに無いほどに動揺した。
何故かと問い詰めれば日吉は俯き跡部の顔を見る事もせずにこれからの環境の変化に耐えられない、とただそれだけ口にした。
確かに跡部は高校卒業後イギリスの大学に進学する事になっていた。日吉は日本に残るので、必然的に遠距離恋愛になる。けれどその事は2人で事前に話し合っていた事だったし、日吉も納得していた。こまめに連絡を取り合い、長期休暇の度に日本に帰る事を約束していた。大学を卒業したら日本に戻るつもりでいたし、4年間だけの辛抱だと日吉も笑いながら言っていた。「あんたがいない平穏な日々を今のうちに楽しんでおきますよ」だなんていつもの憎まれ口も忘れずに。
それだというのに日吉は、跡部の高校卒業の日に別れを切り出した。跡部が女子生徒達から死守した制服の第二ボタンを日吉に渡そうとした時の事で、跡部は驚きのあまり手の中の第二ボタンを地面に落としてしまった。地面に散った桜の上に音も立てずに転がり落ちたそれは日吉の靴にコツンと当たり、日吉はそれを拾い上げ跡部に無言で渡した。そしてただ一言「さようなら」と言い、跡部の前から去ってしまった。去りゆく日吉の背中は跡部の一切を拒絶していて、跡部は日吉を追いかける事が出来なかった。
それからすぐに跡部はイギリスに渡英した。けれどどうしても別れが納得できなくて、日吉に連絡を入れた事もあった。日吉の家まで行ってみたり、鳳に日吉に会えるよう説得して欲しいと頼んだ事もあったが、日吉は頑なで結局その後一度も会う機会は無かった。日吉がもう跡部とは顔も合わせたく無いのならば無理強いは出来ないと痛む心臓を抱えながら跡部は日吉への想いを募らせたまま、日吉との関係を終わらせることに決めた。
イギリスに渡英して、2年目の事だった。
イギリスの大学を卒業した跡部は日本に戻り、家業を継いだ。跡部の経営者としての手腕は素晴らしいもので、跡部が総裁となった後も跡部財閥は依然として繁栄していたし、そこには一つの陰りもなかった。
事件が起きたのは、跡部と日吉が別れた13年後。跡部が31歳を迎えた約1ヶ月後の事だった。
「跡部さん、あの、いきなりすみません。今来られますか……!」
鳳から電話がかかってきたのは、いよいよ本格的な冬が来ようという11月の下旬の事だった。鳳から連絡が来たのは数年ぶりだったが、酷く焦りの色の滲むその声に懐かしさを感じる余裕は無かった。何か嫌な予感を感じ、跡部は緊張を声に滲ませながら鳳に言葉を返した。
「どうしたんだ、鳳。何があった」
「日吉が、日吉が……!」
鳳からの電話により病院に駆けつけた跡部が見たのは、変わり果てた日吉の姿だった。鳳の話によると日吉は事故に遭ったらしい。道場に通う子供達に配るおやつの買い出しから帰っている時の事だった。車に引き摺られたという下肢はボロボロに引き千切れ、全身を酷く強く打ちつけた所為で身体中どこもかしこも傷だらけであったという。たまたま休日で日吉の実家に遊びに来ていた鳳は日吉が忘れ物をしている事に気が付き、日吉の後を追いかけ、そこで事故に遭った日吉を見てしまったのだそうだ。とてもじゃないが直視できるような状況じゃなかったと待合室の椅子に座った鳳が項垂れながら弱々しい声で言う。跡部からはICUのベッドで眠る日吉の姿は顔だけしか見れなかったが、それでも痛々しい傷にまみれて沢山の管に繋がれた日吉の姿に跡部の心は酷く痛んだ。鳳は事故の一部始終を目撃してるのだから、相当精神的なダメージが酷いだろう。
それなのに鳳は日吉が事故に遭ってすぐ、跡部に連絡をしてきた。普通であれば10年以上も関わりの無い跡部に連絡しようなんて思わないはずだ、と跡部は鳳の行動を不思議に思った。
「……どうして俺に連絡して来たんだ」
「跡部さんに知らせないとって思ったんです。どうしてでしょうね。でも、跡部さんに知らせないときっと後悔するって。俺だけじゃない。日吉も、跡部さんも。みんなきっと後悔するって」
そう言って鳳が両手で顔を覆う。
「日吉の足はもうどうしようもないって言われました。古武術も、テニスも、もう、もう……」
そう言ってすすり泣く鳳に、かける言葉は見つからなかった。
その日の夜中、時計の針が明け方4時過ぎを指す頃の事だった。病院近くのホテルに宿泊する事にした跡部はベッドに入ったもののまんじりともせず夜も過ごしていたが、強い違和感に目を開けた。鳳から電話がかかってきたのは、それと同タイミングだった。
「今すぐ病院に来てください! 日吉が!」
跡部が病院に着いた時には、もう日吉は息をしていなかった。全ての管を外されて白い顔で横たわる日吉は、最後に会った高校時代よりもいくらか大人びた顔付きをしていて、そういえば俺も若ももう三十路なんだったな、だなんてあまりにも場違いな事を跡部は思った。
日吉の両親らしい初老の女性が肩をふるわせて泣いていた。その女性の肩を抱き締める初老の男性もまた、拳をきつく握り締め俯いていた。
跡部は泣く事も日吉に駆け寄る事もせず、呆然と立ち尽くすしていた。
泣き腫らし真っ赤になった目をしばたたかせる鳳と共に病院の外に出た。真っ暗な夜闇の中、刺すような冬の夜の冷たい風が2人の頬を撫でた。
「……明日になったらまた色々しなきゃいけませんね。お通夜も、……お葬式、も」
「……そうだな」
「……跡部さんは、冷静ですね」
「……。…分からないんだ、どうすればいいのか」
「……そう、ですよね。俺もいきなりすぎて、どうしたらいいのか……今日はとにかく、一旦帰りましょう」
今何時だろう。そう言ってスマホの画面を開いた鳳が、え、と小さく声を上げた。
「どうした、鳳」
「いえ、これ……」
鳳が跡部に見せたスマホの画面には、7時48分と表示されていた。7時48分。もう朝といってもいい時間だ。けれど、辺りは深い闇に包まれており、とてもじゃないが朝だとは思えない。跡部も自分のスマホを取り出して時間を確認するが、鳳のスマホの画面に表示されている時刻と寸分代わりのないものであった。
どういう事だ。混乱しながらスマホを仕舞おうと上着のポケットに手を入れた跡部は、ポケットの中につるりとした冷たく硬いものが入っているのに気が付いた。
そして、跡部は理解した。
跡部が向かったのは氷帝学園だった。いきなりタクシーを呼び出した跡部に驚いた鳳は跡部にどうしたのかと問い詰めたが、跡部は険しい顔で黙りこくり、ただ一言鳳に「ついてくるか?」とだけ聞いた。跡部の尋常じゃない様子に思わず頷いた鳳だったが、氷帝学園に連れてこられていよいよ訳が分からないと頭を抱えた。こんな時にどうして。けれど跡部はそう問いかける鳳を無視して校門の柵を乗り越え学園内に駆け出していった。
跡部が止まったのは、氷帝学園のテニスコート前だった。跡部達の青春の象徴と言っても過言ではないそこには、鳳の予期せぬ人物がおり、鳳はいよいよパニックになった。
「日吉……?」
コートの中心には、日吉がいた。
正確には中学生の姿をした日吉が、だ。氷帝学園のレギュラージャージに身を包んだその姿は酷く懐かしいものだった。薄ぼんやりとした月に照らされた日吉は、ゆるく目を瞑り演武を舞っていたが跡部の姿に気が付くと目を開き跡部を見た。
「跡部さん、お久しぶりです」
「……ああ」
「いい夜ですね」
そう言ってほのかに微笑む日吉に、跡部は胸が締め付けられる思いで言葉を返した。
「そうだな」
ーーーーー
跡部は一度だけ、日吉が演武を踊っているのを見た事があった。演武テニスではない、純粋な演武だ。
跡部が中学3年生の時だ。全国大会の少し前、日吉のテニススタイルに興味が湧いた跡部は、ぜひ演武を見せて欲しいと日吉に頼んだ。一体この成長目まぐるしい後輩はどのようにして〝演武テニス〟なんてスタイルを確立させたのだろうと。
最初は嫌がっていた日吉だったが、部長として部員のプレイスタイルを知るのは当然の務めだと言って日吉を言いくるめた。
そして、日吉の演武を目の当たりにした跡部は日吉に恋をした。
あの時の事を跡部は一生忘れられないだろうと思う。普段生意気な事ばかり言い、じっとりとした視線を寄越す後輩の澄んだ眼差し。凛としてしなやかに、そして力強く鮮やかに舞う姿。美しい、と思った。まるで馬鹿馬鹿しい考えだが、神の使いのようだとすら跡部には思えたのだ。
それから跡部は何度か日吉に演武を見せて欲しいと頼んだのだが、結局跡部が日吉の演武を見ることが出来たのはその1度切りだった。
ーーーーー
「跡部さん、これは一体」
「見てわかるだろう?」
「っ、分かりませんよ! なんで日吉が!? ねえ日吉! 日吉!」
状況が全く理解できない鳳がコートの外から日吉に呼びかけるが反応は無い。まるで聴こえていないとでも言うように鳳の言葉を無視し、踊り続ける。
「ねえ、日吉ってば!」
「無駄だ」
え?と鳳が驚いて跡部の方を見れば、跡部は真っ直ぐ日吉を見据えていた。
「俺の声しか、若には届かない」
「何でそんな事分かるんですか?」
「分からない」
「分からない……って」
「けど、分かるんだ。俺には、どうしようもないくらいにな」
「何ですか、それ……」
どうして。そう鳳が言おうとした時、足音が聞こえた。2人が振り向くと黒いスーツに身を包んだ男が焦った様子でコートに向かってきていた。男は日吉の姿を認めると、信じられないといった表情で叫んだ。
「そんな事がある訳が無い! SCP -1917-JPは女性に限定するはずだ!」
「SCP……?」
「おい、あんたは誰だ?」
何か事情を知っている様子のスーツ姿の男に跡部が声をかける。男は動揺した様子であったが跡部の顔を見ると目を見開き声を上げた。
「……あなたは跡部財閥の! ……失礼いたしました、私はSCP財団のエージェントです。財団の事はご存知でしょう」
「SCP財団……」
SCP財団。跡部には聞き覚えがあった。この世界の自然法則に反した存在を取り扱う組織だ。確保、収容、保護に基づき世界全土で活動している、必要に応じ財団の所有する施設内でそれらの存在ーーオブジェクトを保護したり、あるいは保護できないものに関しては監視をしているという。
跡部財閥は財団に出資をしており、その存在を認知をしてはいたものの、実際に財団のエージェントと接触したのは初めてのことであった。
なぜ、その異常な存在を扱う財団のエージェントがここに。まさか、そんな。
信じたくない、けれど分かり切った質問を跡部は財団のエージェントに投げかける。
「まさか、若がSCPになっちまったと言うのか」
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アイテム番号: SCP-1917-JP
オブジェクトクラス: Keter
特別収容プロトコル: SCP-1917-JPの出現は財団の世界監視システムによって即座に発見、同定が行われます。SCP-1917-JPの発生が確認された場合、即座に近隣の都市部を閉鎖、住民の速やかな避難を誘導してください。また、これに並行してSCP-1917-JP-A対象者の同定、確保及びEクラス職員としての臨時雇用を行ってください。確保されたSCP-1917-JP-A対象者がSCP-1917-JPの殺害に成功したことを確認した場合、SCP-1917-JP-A対象者には簡易インタビュー及び事実確認を行ったのち、軽度の記憶処理を行ってください。
説明: SCP-1917-JPは世界全土において、夜間不定期に出現する人型実体です。
現在までの出現事案全てにおいて、SCP-1917-JPは10代女性の姿を取り、容姿は出現場所付近で24時間以内に死亡した女性の少女期と一致します。また、SCP-1917-JPは出現と同時に何らかの踊りを行い続けます。踊りの内容はクラシックバレエ、民族舞踊、ブレイクダンス、創作ダンスなど多種にわたり一貫性は確認されません。
SCP-1917-JPが踊りを継続した場合、周囲の生物は夜明けを知覚することが不可能になります。影響を受けた人物、生物はこれにおおむね肯定的、順応的であり、夜が継続する状況に混乱する様子は見られません。この異常性の範囲は指数的に拡大することが確認されており、最終的にはAK-クラス:世界終焉シナリオに移行すると仮定されています。
SCP-1917-JPとのコミュニケーションは後述するSCP-1917-JP-A対象者によるものを除き成功していません。SCP-1917-JPは現在財団が保有するすべての処置、攻撃に対し高い耐性を得ており、SCP-1917-JP-A対象者以外の干渉を受けません。
SCP-1917-JP-AはSCP-1917-JPにおける容姿のオリジナルとなった人物の関係者に発生する現象です。対象となった関係者のもとには1丁の自動拳銃が出現します。対象者は拳銃の出現に伴い、SCP-1917-JPの現在位置を正確に知覚できることが可能になり、SCP-1917-JPを殺害する必要性があると知覚します。SCP-1917-JP-Aの発生基準は明確ではありませんが、多くの場合オリジナルの人物と非常に親密な関係の人物が選ばれる傾向にあり、両親、配偶者、恋人などが対象に選ばれる傾向にあります。
この異常性からSCP-1917-JP-A対象者はSCP-1917-JPに接近、殺害を行います。この殺害においては現在時点で全員が成功していますが、その関係性から過半数のSCP-1917-JP-A対象者は逡巡し、最長で25時間SCP-1917-JPの殺害を躊躇った例が確認されます。
殺害されたSCP-1917-JPは同質量の生理食塩水に置換されます。また、SCP-1917-JPの影響下にあった人物はSCP-1917-JPの消滅と同時に夜明けを知覚し、急速に影響下の記憶を忘却していくことが確認されています。この忘却現象はSCP-1917-JP-A対象者には発生せず、記憶処理を行ってもSCP-1917-JPを殺害した、という記憶が失われることはありません。
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跡部が財団のエージェントから渡された端末にはSCP-1917-JPの情報が記載されていた。そこには随分と物騒な事柄がいくつも載っていて、その突飛さに眩暈がした。日吉を殺さなければ夜が明けない?世界終焉シナリオ?
けれど、それが紛れもない真実である事を、跡部のポケットの中の拳銃と目の前で舞い続ける日吉の姿が証明していた。
「つまりは俺は臨時的にEクラス職員となり、若をこの拳銃で殺害しないといけないって訳か」
「理解が早くて助かります」
「……もし、殺したくないと言ったら?」
「それが許されない事だと言うのはあなたも分かっているでしょう?」
「……そうだな」
「殺す……? 跡部さんが、日吉を……? どう言う事ですか?」
「それに書いてある通りだ。俺が若を殺さないと、世界は終わっちまうらしい」
跡部がポケットから拳銃を取り出して言った。
「……しばらく、若と2人きりにさせてくれ。なに、きちんと殺すぜ」
日吉と対峙した跡部は、目尻に皺を寄せ懐かしむように日吉の舞う姿を見つめた。
「久しぶりだなあ。何年ぶりだ?」
「13年ですよ」
「そうか。年月が経つのは早いな」
「老けましたね」
「そりゃあな、もう三十路だ。お前は変わりないようだが」
跡部の言葉に日吉は答えなかった。ただ視線だけ一瞬跡部に寄越し、直ぐに戻して踊り続けた。
「懐かしいな、演武。また見てみたかったんだ」
「あぁ、あんた踊れってしつこかったですもんね」
「こんな時でも相変わらず憎まれ口なんだな」
「不愉快ですか?」
「……いや、嬉しいぜ。すごくな」
そう言うと跡部は黙り込み、演武をする日吉を目で追いかけた。ひとときも見逃さないとでも言うように、網膜に焼き付けようとするように、瞬きもせずひたすらに日吉を見つめた。
「なあ、若」
「なんですか、跡部さん」
「どうして俺なんだ。もう13年も会っていない、会おうともしなかった俺なんだ」
「簡単な事ですよ」
跡部の問いに日吉がかすかに微笑んで言う。
「ずっと、ずっと跡部さんの事が好きだから」
そう言う日吉の横顔は、白い月明かりに照らされて、日吉が舞う度にさらさらの髪の毛が月明かりを透かしてきらきらと輝いた。本当に美しかった。世界なんて捨ててずっと見ていたい程に。
「だが、夜が明けない事は許されない」
「……そうですよね。あんたは陽の光の下で生きていくべき人だ。世界は朝を迎えるべきだ」
「そうだ。それが世界の正しい姿なんだ。分かっているんだ。だが、俺はお前の事を……」
「いいえ、跡部さん。さあ、俺を撃ち抜いてください。身勝手な俺を。俺はあんたに殺されたい」
校門の前で鳳は待機していた。エージェントはどこかと連絡を取らねばいけないと鳳から離れた所で何者かと通話をしている様子であった。機密情報であろう事をそんなに何でも話してしまっていいのかと聞くと、今回の事は記憶処理を施すので大丈夫、だなんて物騒な返事をされてしまった。一瞬逃げ出そうかとも思ったが、どうやら鳳の考えは筒抜けのようで「外にも財団の者が複数待機しておりますので」と言われて諦めた。どの道鳳は一切日吉に干渉できないのだから跡部が日吉を殺さない限りはどうしようもならない。ただ明けない夜を過ごすだけだ。
時計を見るともうとっくに時刻は昼を回っていて、それなのに夜は明けないこの不思議な状況に、もしかしたら夢かもしれないなあ、なんてぼんやりと思った。そうだったらどんなにいいだろう、とも。
けれど、これはどうしようもなく現実なのだ。日吉の死も、世界の異変も。
せめて俺の言葉が日吉に届いたらなあ。そんな事を考えながら校門の壁にもたれて頭をかく。静かな空間に、エージェントが何やら話している小さな声と鳳が鼻を啜る音だけが聞こえていた。
ターン、と遠くで音がして鳳は空を見上げた。そして、あ、と小さな声で呟く。
いつの間にか辺りは時刻相応に明るくなっており、コートを暖かな太陽が照らしていた。
そしてそれはSCP-1917-JPが消滅した事の、何よりの証明でもあった。
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雑踏の中、跡部は暗闇を歩いていた。か細く白い月がぼんやりと照らす世界はもう、跡部にとって見慣れたものであった。
冬が終わり、春になり、それも過ぎた初夏の頃だった。すれ違う人々は皆額の汗を拭いながら歩いている。中には日傘や帽子を被った人間もいた。
そんな中跡部はただ寒々しい夜闇の中を歩いている。ふと跡部が空を見上げると、深い夜闇の中唯一世界を照らしていたあの日から寸分変わらない月と目が合った。
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補遺: SCP-1917-JPを殺害した全SCP-1917-JP-A対象者が夜明けを知覚できなくなっていることが確認されました。対象者はその状態を異常であると理解していますが、そのうえで許容していることが確認されています。この異常性は記憶処理では回復しないことが判明しています。
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月の光に照らされて踊る日吉の、夜の闇と混じり合ってキラキラと輝いていた美しい栗色の髪を思い出す。
「あぁ、綺麗な月だ」
夜明けは、来ない。