短編
外からはけたたましい蝉の鳴き声や車のエンジン音が聞こえた。昨年の今頃に電柱の下に捨てられていた「ご自由に持って帰ってください」と書かれた段ボールの中から拾ったボロっちい扇風機は、一週間ほど前から珍妙な音を立ててぎこちなく首を振っていた。急に気絶する様に止まったり、はたまたへべれけに酔ったかの様に急回転する青い5枚の羽を見つめながら頼むから耐えてくれと思う。何せ今年の夏は暑いのだ。まるであの夏の様に。
「全く、嫌になりますよね」
傍で寝そべる跡部さんに語りかける。陶器の様に蒼白くシミひとつない頬に指を滑らせた。
「俺、寒いの苦手ですけれど、暑すぎるのも苦手です」
伏せた瞳の中の青が見れないのが残念で、身近な青を探す。ギシギシと音を立てながら首を振る扇風機の青い羽を見て、そのみずぼらしくくすんだ青色に一層跡部さんの綺麗な青を見たいと思った。
身をかがめ跡部さんの顔を覗き込むが、相も変わらず目を開くことはなく、強い日差しで伏せた瞳に長い睫毛の翳が落ちていた。今日も陽射しが強い。抜ける様な雲ひとつない青空に浮かぶまばゆい太陽が狭いワンルームを照らしていて、電気を付ける必要はないな、なんて思いながら窓の外を見た。
ボロくて古い木造アパートの庭には、誰が植えたんだと言いたくなる様なたくさんの草花が茂っていた。色とりどりの花々は窓から見える景色をカラフルにしてくれるのだが、弊害として虫が多い。この時期、本当ならば窓を開けて少しでも風を入れたい所だが虫が部屋に入ってくる事を考えるととてもじゃないが窓を開ける事など出来なかった。せめて庭先に猫でも出没してくれれば動物好きの跡部さんも喜ぶし、俺としても心の癒しになるのだろうと思うけれど、生憎野良猫が気にいる様な庭でもないらしくこの庭で猫を見かけた事など一度もなかった。
テーブルの上には庭から摘んできたのであろう白や黄色の綺麗な花がコップに無造作に挿さっていた。匂いを嗅いでみるとかすかに甘い匂いがした。
いつだったか、跡部さんに後悔していないのかと聞いた事がある。地位も名誉も、家柄も全てを捨てて狭くてボロい隣の住人の咳払いすら聞こえるアパートで、安い賃金をもらいながら働くこんなみずぼらしい生活に耐えることが出来るのかと。その度に跡部さんは呆れた様に笑って言うのだ。
『若がいればそれでいい』
と。
「これ貰いますよ」
花が挿さったコップの傍ら、テーブルの上に置かれた跡部さんが飲んでいたのであろう水を拝借する。何せ暑いのだ、今日も。干からびた身体に流れ込む温い水は、まるで甘露の様に俺のこころと身体に潤いをもたらした。実際には温くなったただの水道水なのだが、ほのかな甘味すら感じる。飲み干したコップをテーブルに置く。安いコップのでこぼこした側面越しに跡部さんの姿が無数に写っていた。
「……ゴミは捨ててくださいっていっつも言っているのに」
テーブルの上には、たくさんの薬のシートもあった。殆ど飲み尽くされたそれは、ここ最近身体の調子が悪い跡部さんが飲んでいたものだった。きっと慣れない庶民生活に身体を壊したのだろう。だって跡部さんと言えば、氷帝学園1の大金持ちだったのだから。
そんな跡部さんと東京を離れ、こうやって誰も知らない土地に来たのは大体1年前。2人きりで知らない土地に降り立った時は、不安と、それよりも大きな期待や開放感でこころが震えたものだった。
「もう、全く。いくら暑いからって床で寝るなんて駄目ですよ。身体バッキバキになっちゃいますから」
そう言いながら跡部さんの横に寝転がる。俺も暑くて仕方がないのだ。ひんやりとした床は火照った身体に心地よく、頬をフローリングに押し付けながら傍らに寝転がる跡部さんの手を握った。ひんやりとした手に指を絡めながら言葉を紡ぐ。
「身体弱ってんですから、ちゃんと布団で寝てくださいよ。煎餅布団じゃ寝つけないのは分かりますけど。……でもまあ、大分この生活にも慣れたでしょう。最初の頃なんて、跡部さんこの部屋見て『マルガレーテの小屋より小せえじゃねえの』だなんて言ってたでしょう」
少しずつ落ちる陽が、跡部さんの日本人離れした金の美しい髪をきらきらと輝かせる。あの頃は学園中の女子達をきゃあきゃあと沸かせていた金の髪も、今では世間に敬遠されてしまうだけの厄介なものだと跡部さんが言っていたのを思い出す。なんでも、跡部さんの華やかすぎる見目は派手すぎて仕事先では敬遠されているのだとかなんとか。その話を聞いたときは俺の大好きな金の美しい髪をそんな風に扱うだなんてと憤りを感じたものだが、まあそれも跡部さんが体調不良で退職した今となっては些細な事である。
「……あの頃、俺たち必死で全国優勝狙ってましたよね」
ふふ、とあの頃を思い出して笑う。テニス。俺たちの全ての始まり。俺たちを巡り合わせた奇跡。けれど、結局俺たちは全国優勝を果たすことは無かった。あの夏も今も、決して失敗だなんて思わない。不器用で前を見て走ることしか出来ない俺たちの『結果』だ。
「ねえ、跡部さん、」
綺麗すぎる跡部さんの顔を見ながら言葉を紡ぐ。
「俺って不器用で無愛想でつっけんどんだから、いつも素直になれなくって」
俺が悪態を吐く度に苦笑しながら優しく頭を撫でるその手を強く握った。跡部さんは握り返してはくれないけれど。
「ふふ、」
きっといつだって、俺は許されていた。
「もっと早く、素直になれてればよかったですかね」
俺も、跡部さんの事を許せるのに。
「俺、身体丈夫だからバイトだって増やせたんですよ?だから、気に病む事なかったのに」
全く、と小さく呟く。何にも縛られず2人で生きていこうと俺に手を差し出したのは跡部さんだったのに。
「俺、あんたといられるならどんな場所だって幸せなんですよ?」
跡部さんはどうだったのだろうか。俺と同じだと嬉しいのだが。
外から溢れる陽は燃える様なオレンジ色で、俺達の身体を赤く染め上げた。やがて陽は落ち、夜が来るだろう。
俺も寝ようか。ああ、そうだ。最後に。
「ねえ俺、景吾さんの事愛してますよ」
不器用だけれど賢明に羽を動かしていた扇風機が、静かに止まった。
「全く、嫌になりますよね」
傍で寝そべる跡部さんに語りかける。陶器の様に蒼白くシミひとつない頬に指を滑らせた。
「俺、寒いの苦手ですけれど、暑すぎるのも苦手です」
伏せた瞳の中の青が見れないのが残念で、身近な青を探す。ギシギシと音を立てながら首を振る扇風機の青い羽を見て、そのみずぼらしくくすんだ青色に一層跡部さんの綺麗な青を見たいと思った。
身をかがめ跡部さんの顔を覗き込むが、相も変わらず目を開くことはなく、強い日差しで伏せた瞳に長い睫毛の翳が落ちていた。今日も陽射しが強い。抜ける様な雲ひとつない青空に浮かぶまばゆい太陽が狭いワンルームを照らしていて、電気を付ける必要はないな、なんて思いながら窓の外を見た。
ボロくて古い木造アパートの庭には、誰が植えたんだと言いたくなる様なたくさんの草花が茂っていた。色とりどりの花々は窓から見える景色をカラフルにしてくれるのだが、弊害として虫が多い。この時期、本当ならば窓を開けて少しでも風を入れたい所だが虫が部屋に入ってくる事を考えるととてもじゃないが窓を開ける事など出来なかった。せめて庭先に猫でも出没してくれれば動物好きの跡部さんも喜ぶし、俺としても心の癒しになるのだろうと思うけれど、生憎野良猫が気にいる様な庭でもないらしくこの庭で猫を見かけた事など一度もなかった。
テーブルの上には庭から摘んできたのであろう白や黄色の綺麗な花がコップに無造作に挿さっていた。匂いを嗅いでみるとかすかに甘い匂いがした。
いつだったか、跡部さんに後悔していないのかと聞いた事がある。地位も名誉も、家柄も全てを捨てて狭くてボロい隣の住人の咳払いすら聞こえるアパートで、安い賃金をもらいながら働くこんなみずぼらしい生活に耐えることが出来るのかと。その度に跡部さんは呆れた様に笑って言うのだ。
『若がいればそれでいい』
と。
「これ貰いますよ」
花が挿さったコップの傍ら、テーブルの上に置かれた跡部さんが飲んでいたのであろう水を拝借する。何せ暑いのだ、今日も。干からびた身体に流れ込む温い水は、まるで甘露の様に俺のこころと身体に潤いをもたらした。実際には温くなったただの水道水なのだが、ほのかな甘味すら感じる。飲み干したコップをテーブルに置く。安いコップのでこぼこした側面越しに跡部さんの姿が無数に写っていた。
「……ゴミは捨ててくださいっていっつも言っているのに」
テーブルの上には、たくさんの薬のシートもあった。殆ど飲み尽くされたそれは、ここ最近身体の調子が悪い跡部さんが飲んでいたものだった。きっと慣れない庶民生活に身体を壊したのだろう。だって跡部さんと言えば、氷帝学園1の大金持ちだったのだから。
そんな跡部さんと東京を離れ、こうやって誰も知らない土地に来たのは大体1年前。2人きりで知らない土地に降り立った時は、不安と、それよりも大きな期待や開放感でこころが震えたものだった。
「もう、全く。いくら暑いからって床で寝るなんて駄目ですよ。身体バッキバキになっちゃいますから」
そう言いながら跡部さんの横に寝転がる。俺も暑くて仕方がないのだ。ひんやりとした床は火照った身体に心地よく、頬をフローリングに押し付けながら傍らに寝転がる跡部さんの手を握った。ひんやりとした手に指を絡めながら言葉を紡ぐ。
「身体弱ってんですから、ちゃんと布団で寝てくださいよ。煎餅布団じゃ寝つけないのは分かりますけど。……でもまあ、大分この生活にも慣れたでしょう。最初の頃なんて、跡部さんこの部屋見て『マルガレーテの小屋より小せえじゃねえの』だなんて言ってたでしょう」
少しずつ落ちる陽が、跡部さんの日本人離れした金の美しい髪をきらきらと輝かせる。あの頃は学園中の女子達をきゃあきゃあと沸かせていた金の髪も、今では世間に敬遠されてしまうだけの厄介なものだと跡部さんが言っていたのを思い出す。なんでも、跡部さんの華やかすぎる見目は派手すぎて仕事先では敬遠されているのだとかなんとか。その話を聞いたときは俺の大好きな金の美しい髪をそんな風に扱うだなんてと憤りを感じたものだが、まあそれも跡部さんが体調不良で退職した今となっては些細な事である。
「……あの頃、俺たち必死で全国優勝狙ってましたよね」
ふふ、とあの頃を思い出して笑う。テニス。俺たちの全ての始まり。俺たちを巡り合わせた奇跡。けれど、結局俺たちは全国優勝を果たすことは無かった。あの夏も今も、決して失敗だなんて思わない。不器用で前を見て走ることしか出来ない俺たちの『結果』だ。
「ねえ、跡部さん、」
綺麗すぎる跡部さんの顔を見ながら言葉を紡ぐ。
「俺って不器用で無愛想でつっけんどんだから、いつも素直になれなくって」
俺が悪態を吐く度に苦笑しながら優しく頭を撫でるその手を強く握った。跡部さんは握り返してはくれないけれど。
「ふふ、」
きっといつだって、俺は許されていた。
「もっと早く、素直になれてればよかったですかね」
俺も、跡部さんの事を許せるのに。
「俺、身体丈夫だからバイトだって増やせたんですよ?だから、気に病む事なかったのに」
全く、と小さく呟く。何にも縛られず2人で生きていこうと俺に手を差し出したのは跡部さんだったのに。
「俺、あんたといられるならどんな場所だって幸せなんですよ?」
跡部さんはどうだったのだろうか。俺と同じだと嬉しいのだが。
外から溢れる陽は燃える様なオレンジ色で、俺達の身体を赤く染め上げた。やがて陽は落ち、夜が来るだろう。
俺も寝ようか。ああ、そうだ。最後に。
「ねえ俺、景吾さんの事愛してますよ」
不器用だけれど賢明に羽を動かしていた扇風機が、静かに止まった。