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短編

どれだけ文字を追いかけても、そこに書かれた内容が上手く頭に入らない。同じ箇所を何度か読み直してみたが、結果は変わらずむしろインクの掠れやコピー紙の微妙な色味の違いを意識してしまう。集中力が切れてしまっているのが自分でも分かった。こうなってしまってはもう、仕方がない。今日はこの辺が引きどころであろうと齧り付いていた書類から顔を上げた。眉間を捏ね、文字を追い続けるのに疲れた眼球を労わってやりながら窓際に目をやれば、ぼうと窓の外を眺める背中があった。窓辺に立っていてもなお、すっと伸びた背筋は日吉らしさに充ちていて、時折吹く冷たい風がするりと指通り良さそうに前髪から項までをさらさらと撫でていた。
「寒いだろう」
「……そうでもないですよ」
そこまで風が強くないとはいえ、もう12月の終わりも近い。終業式を終え、明日から冬休みに入るのである。本来ならば今日は部活もないため午前の終業式が終わったら日吉と2人きりで過ごす手筈であったのだが、予定とは思い通りにはいかないもので、年の終わりにどっさりと生徒会の仕事がなだれ込んできた。生徒会長の
自分がそれを放り出す訳にもいかず、この部屋に籠り仕事を片付けていたのである。折角の午前中終わりだ、日吉には先に帰っても良いと言ったのだが、そう告げた途端今まで俺の前に積まれた書類を見て心配げな表情を浮かべていた顔は険しくなり、眉間には皺が3本刻まれた。そうして見るからに不機嫌そうに生徒会室の窓辺に立ち、俺に背中を向けて「別にいいですから。勝手に待ってますんで」と、窓を開けながら澱んだ冬の空へと言い放った。


ーーー


そうでもないですよ。そう言った日吉の表情は今座っている椅子からは見えることはないが、声の質は随分と無機質で、感情を抑えているのが分かる。分かりやすく不機嫌な様子の恋人にどうしたものかと立ち上がり、日吉の元に歩み寄り顔を覗き込めば、夕と夜の狭間にある真っ赤な日輪が日吉の頬を炙り赤色に染めていた。窓辺の風は思っていたよりもずっと鋭く冷たいもので、日吉の柔らかな頬を刺し、より一層頬を赤く染め上げた。赤ら顔の日吉が寒そうで、思わず両手でそっと頬に触れればおずおずと日吉の瞳がこちらを向く。ほんの数時間目を合わせなかっただけなのに、随分と久しぶりに視線が合った気がしてどきりと心臓が不規則に動いた。
「……やっぱり寒いんじゃねーの」
「…………」
触れた頬は死んだように冷たく、唇は冷たい風に晒されて色を無くしていた。怒られる前の子供のように気不味げに、少し怯えるようにおずおずと俺の顔を見る日吉の頬をさりさりと撫でながら熱を与えてやる。
「嘘つくんじゃねえよ。悪かったな、構ってやれなくて」
「……別に。俺が勝手に拗ねてただけです。あんたが忙しい人なの分かってる筈なのに」
頬を撫でる俺の両腕をそっと掴み、小さな声で日吉が呟く。我儘言って申し訳無いと言わんばかりの態度を少し不本意に思った。
「構わねえよ。お前がそうやって素直に拗ねる事なんて珍しいじゃねーの。嬉しいんだぜ、俺様は。もっと我儘言って欲しいもんだな」
「……ですが、」
頬に添えた片手はそのままに、もう片方の手で細腰を引き寄せ、言葉を紡ごうとする色の無い唇に自分の唇を重ねる。見た目通り冷たいそれを暖めるように、何度も角度を変えながら食む。満足するまで口付けを交わして、顔を離す頃には日吉の唇はどこよりも赤く色付いていた。その頃にはもう、日吉も何かを言う気を無くしてしまったようでごく小さな声で「ずるい人ですね」なんて、唇を尖らせながら言っていた。
「何か言ったか?」
「何も」
「そうか。なあ、もう今日は生徒会の仕事はやめだ。早く帰ろうぜ」
「いいんですか?まだ書類残ってるんじゃないですか」
「なに、もうやる気も失せちまった。どうせ冬休み中も部活だのなんだので来なきゃならねえし、また今度やるさ」
書類の山を見ながら不安そうに日吉が言うが、本当にそうなのだから仕方が無い。それに、今は一刻も早くこの腕の中の恋人を暖めてやりたいのだ。日吉にそう言ってやれば、
「そうですか。でも、机の上くらいは片付けてくださいよ。……俺、待ってますんで」
と分かりやすく恥ずかしそうに早口で言いながら窓辺に立ち、外を眺めだした。寒いだろうに、顔を見られたくないのか俺に背を向け一心不乱に空を眺める恋人に愛おしさを感じながら、机の上に散らばった書類を纏めた。


ーーー


「待たせたな、日吉」
冬の日が暮れるのは早く、書類を纏め終わった俺が日吉に視線を向ける頃にはすっかりと外は深藍色に染まっていて、すうと青白い月明かりが窓辺を照らしていた。相も変わらず静かに立ちつくす後ろ姿に声を掛ければ日吉が振り向く。その瞬間、いっそう強い風が吹き白いカーテンが大きくはためいた。
「……!」
青白い月明かりに照らされた日吉に真白なカーテンがドレスのように纒わり付く。深藍と白の狭間に佇む日吉の姿がやけに幻想的で、儚くて。天使というのはこんな風に現れるのでは無いかと思えた。
一瞬の事であったがその日吉の姿が目に焼き付いて離れない。
「跡部さん?」
声を掛けられハッと日吉の方を見れば、訝しげな視線と目が合った。いつの間にか日吉は俺のごく傍まで来ていて、俺の顔を覗き込んでいた。
「いや、すまねぇ。お前がすげえ綺麗で、天使かと思っちまった」
「……はぁ?急になんですか。もしかして疲れてます?今日はやめますか」
「まさか。本気でそう思ったんだよ」
「……クリスマスだからって浮かれてるんでしょう?変な事言わないでくださいよ」
「……本気なんだがな」
何を言っているんだと言わんばかりの表情をしている日吉の耳を撫でれば、嫌そうに顔を顰めながら手を払われた。そこにはあの手を伸ばせば消えてしまいそうな天使はおらず、仏頂面の小生意気で愛おしい恋人がいるだけであった。
「本当になんなんですか。帰ってもいいですか」
「何言ってやがる。これからだろう?楽しみにしてるんだぜ、お前と過ごすクリスマスを」
「楽しみにしてるって言ったって、俺特にプレゼントも用意してないですよ」
「それはお前自身がプレゼントって事か?」
「……馬鹿なんですか?」
「それ以外に考えられねぇと思ったんだが」
「……まあ、考えておきますよ」
「期待してる」
そう言って、俺の前に舞い降りたたった1人の恋人の色素の薄い髪をかき混ぜた。
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