短編
拝啓 跡部景吾様
春冬ようやくゆるむ候、いかがお過ごしでしょうか。
こちらは1番の冬の寒さも落ち着き、少しずつ春の息吹を感じ出しています。真冬には鼻を真っ赤にして道場に通っていた門下生の子供たちも道場の庭にあるぽつぽつと芽のふくらんだ桜の木を見て心を弾ませている様子です。
俺はといえば、相も変わらず実家の道場で兄を手伝っています。
門下生の子供たちを見る度に跡部さんと、そして先輩方とテニス部で駆け抜けた日々が懐かしく感じます。
ーーー
「日吉」
頭上から声をかけられて顔を上げると、滝さんが心配そうに俺を見下ろしていた。
「もうすぐ着きそうだけど」
「ありがとうございます」
コートのポケットを漁り、切符を探し出す。少し離れたところでは宍戸さん達が電車の外の景色を眺めながら談笑しているようだった。
「ねえ、本当に来てよかったの?」
「…ええ」
「でも日吉、」
ーー〇〇駅、〇〇駅に到着しました
滝さんが何か言いかけるが、目的の場所に電車が止まり続きは聞けなかった。何か言いたげな視線を寄越す滝さんを後目に椅子から立ち上がりドアへと向かった。
ーーー
あんたと付き合い始めたのは、丁度全国大会が終わった頃でしたね。あの時、俺に告白してきた跡部さんのバリカンで不揃いに刈られた髪から見える耳が真っ赤だった事を今でも鮮明に覚えています。あの頃からあんたはふてぶてしくてナルシストだったけど、中学生らしい可愛さもあったな、なんて思います。
俺が跡部さんの告白に頷くと、跡部さんは俺を思いっきり抱きしめましたよね。正直、いきなり抱きつくのは如何なものかと思います。それも中学生らしさと言われればそうなのかもしれませんが。
それから高校生になっても俺達は変わらず部活の先輩と後輩だったし、俺にとっては下剋上する相手でした。ただひとつ変わったのは、恋人としての時間が増えた事でしょうか。
あの頃は本当に楽しかったです。まだ部員が残っている部室でこっそりキスしたり、誰もいない道で手を繋いでみたり。あの時の俺は怒っていたけれど、本心ではまんざらでもなかったんですよ。まあ、青春ですよね。今思えば可愛らしい戯れです。
ーーー
「っは〜!やっぱさみぃなあ!」
「そりゃあ、冬やしなぁ」
「山奥ですしね」
改札を抜けて駅から出た先輩達が口々に寒い寒いと言いながらタクシー乗り場まで歩いていく。
今日俺は、氷帝学園の元正レギュラーの面々ととある山奥に行くことになっている。跡部さんと樺地はここにはいないが、宍戸さんや鳳、滝さんに芥川さん。それに忍足さんと向日さん。
この面子が集まるのは実に3年ぶりで、皆が浮き足立っているのが分かる。
駅前にも関わらずお世辞にも栄えているとは言い難いそこには2台だけタクシーが止まっていて、俺達はそれに2手に分かれて乗ることになった。
4人と3人に分かれてタクシーに乗り込む。俺は荷物があったから、3人乗りの方に。4人乗りの方に乗ることになった向日さんなんかはブツブツと文句を言っていたが、忍足さんに引っ張られて車内へと消えていった。
「その薔薇、綺麗だC〜」
ちゃっかりこちら側に乗り込んだ芥川さんが俺が持っている花束を見て言った。
真っ赤な薔薇は、跡部さんが1番好きだった花だ。風呂に浮かべたり、部室に飾ったり。跡部景吾と薔薇の花は切っても切れない物だったように思う。
「そう言えば景吾くん、日吉に薔薇の花をプレゼントした事あったよね」
「そうそう!確か高校生の時だったかな、あれは凄かったよね〜」
「まだ覚えてたんですか、そんな事」
「そりゃあね、だってまさかコートいっぱいに薔薇の花を敷き詰めるとは思わないから」
「跡部は日吉にメロメロだったよね」
助手席に座る滝さんの言葉に芥川さんが懐かしそうに頷く。恥ずかしい。全く、昔から跡部さんはやることなすこと大袈裟だから困ってしまう。それでこうして俺が恥ずかしい思いをするのだから、こちらの事も考えて欲しいものだ。
「あれが景吾くんにとっての愛情表現だったんだよ」
「それはそうですが……もう少し限度ってものを知って欲しいです」
「遠慮する跡部なんてちょっと気味悪いC!」
「それは……ふふ、そうですね」
殊勝な跡部さんを想像しようとして、どうしても想像出来なかった。その代わりにいつもの如く高笑いする跡部さんの姿を想像し、思わず笑ってしまう。やはり跡部さんは堂々としているのが相応しい。
ーーー
あんたが高校を卒業したらイギリスに行くって知った時は、「ついにその時が来たか」って思いました。それと同時に、鳳や先輩方に過剰なくらい「日吉大丈夫?」って心配されて。
俺としては全然大丈夫なつもりでした。けれどやっぱり、寂しさは日々膨れ上がっていって。そんな時あんたはいつだって俺に電話をくれましたよね。忙しいだろうに、電話越しに毎回毎回俺を安心させるように大袈裟なまでに愛を囁いて。俺はあんたから愛の言葉を貰う度にすげない態度を取っていたけれど、本当は凄く嬉しかったんですよ。
ーーー
「……日吉、元気そうだね」
笑う俺を見て芥川さんが安心したように微笑む。
「跡部が……えっとさ、ああなっちゃった3年前は、日吉すごく落ち込んでたから」
「うん、本当に。見るからに辛そうだったから。こうやって笑えるようになるなんてね」
「……その節は、ご心配をおかけしました」
先輩方に気を遣わせていた事と、当時の自分を思い出して顔を下げる。膝の上に乗せた花束がかさりと小さく音を立てた。
シン、と車内に静寂が降りる。そんな空気を掻き消すように、芥川さんが明るい声色で薔薇を指さして言った。
「薔薇って確か、本数で花言葉が決まるんだよね?これ、何本?」
「1、2、3……9本か。9本って何だったっけ?」
「……さあ、知りませんね」
「あー!日吉、その顔は絶対知ってるC〜!」
ーーー
高校を卒業してからも俺達の遠距離恋愛は変わらず、年に数回日本に帰ってくる跡部さんを待つ日は続いていて。
跡部さんは大学を卒業してそのままイギリスで働き出してしまって更に会う機会が減る中で、たまに会える時には毎回、真っ赤な薔薇の花束を持ってきましたよね。しかもかなり大量に。あれ、毎回置く場所に困っていたんですよ。俺がそうやって苦言を呈すれば跡部さんは「薔薇は本数で花言葉が変わるんだぜ」だなんて言っていたけれど、バラバラになって空のペットボトルやバケツにとりあえず入れられる薔薇はなんというかちょっとマヌケでした。それに、今どき100本の薔薇の花束だなんて、クサすぎですよ。
ーーー
タクシーはうねった急な山道を登り、桟橋の前に止まった。ここから先は車は通れず、徒歩で行かなければならない。タクシーを降りザク、と3月の雪を踏みしめた。
「雪で滑りやすいから気を付けろよ」
暖かそうなウェアを着込んだ宍戸さんが言う。宍戸さんは運動がてらここに来ることが度々あるそうで、道案内してくれる事になっていた。
「うわ、ちょっと怖いなあ」
「でもここ、すげえ景色が綺麗なんだぜ」
山道を登りながら進む。意外にも道が舗装されているお陰で難なく進む事が出来た。一面真っ白な雪で包まれた山道は壮観とも言えよう。息を吸えば冬特有のキンとした空気が肺を満たした。寒いけれど天気は良くて、気持ちのいい日だった。
ーーー
「若、俺と結婚してくれ」
そう言って俺の前で膝をついて小さな箱の中に入った指輪を差し出してきた跡部さんの顔は一生忘れられません。自信家なあんたが、唇を結んで真剣な顔で結婚してくれだなんて言うんだから。しかもあれ、海外出張から帰ってきてすぐでしたよね。玄関先でいきなりプロポーズだなんて、跡部さんにしては随分と余裕が無いというかなんというか。まさか今まで散々派手な事をし続けていた跡部さんがあんなにシンプルなプロポーズをしてくるとは思いませんでした。
俺は全く心の準備が出来ていなかったから、本当にびっくりしたんですよ。驚いて声も出ない俺に、あんたは「返事は今すぐじゃなくていい。明日俺が帰ってきたら教えてくれ」って言って。自分も緊張している癖に余裕ぶって。それなのに。
ーーー
しばらく山道を登ると、開けた場所に出た。「キャッチアンドリリース」「自然を大切に!」と古びた看板がいくつか立つそこは、懐かしさを感じるに十分な所だった。中学生の時から変わらない場所だ。
「……ここだな」
「あとべがよう来よった場所やな。人少ないのに魚が釣れる穴場やったらしいわ」
「へぇ。確かに水も綺麗だしいいかもね」
「……近くには滝壷もあるんですよ」
「ふーん、日吉詳しいじゃん」
「ええ、まあ。来たことありますからね」
ーーー
まさか、プロポーズの次の日に跡部さんが亡くなるなんて思いもしませんでした。ひとりでフライフィッシングに行ったあんたが足を滑らせて川に落ちたと聞いた時、本当に耳を疑いました。現場に行けばそこは俺が中学生の時に跡部さんに連れられて行った川で。その時の俺の気持ちが分かりますか?本当に、本当に辛かった。
次の日には朝のニュースはどこも跡部さんが不慮の事故で亡くなった事を伝えていて。跡部景吾の訃報は日本中を席巻したんですよ。死んでからもみんなの注目を集めるだなんて、本当に跡部さんらしいと思います。俺達は付き合っている事を親しい人達にしか伝えていなかったから、俺はあんたの葬式の時もただの「学生時代の後輩」として呼ばれただけでした。
だからこそ、今日先輩達はあの川に俺を連れて行ってくれるんだと思います。あの時俺は跡部さんに対して何も出来なかったから。骨を拾う事も、あんたが眠る棺桶に縋りついて泣き喚くことすらも。
ーーー
「もう3回忌だなんて早いなぁ」
「そうだな」
全員で黙祷を捧げた後は皆思い思いに川を眺めたり話し込んでいた。そんな中俺の隣に鳳が立って話しかけてきた。それに頷くと、それきり会話は無くなって。しばらく川の流れを眺めていると、鳳が穏やかな声色で呟いた。
「……いい所だね」
明るい太陽の下で水辺がキラキラと輝いている。澄んだ青い空の色と雪で覆われた山々が溶け合って美しい。遠くから聞こえる滝の音に耳を澄ませながら鳳の言葉に頷く。握りしめた薔薇の花束が白い景色に色を加えている姿が、跡部さんそのもののようだった。どんな所でも華やかに生きた、あの人のようで。
ーーー
ひとつだけ、ずっと後悔している事があります。俺はついぞあんたに「好き」だって伝えられなかった。あんたはいつだって俺に言葉と態度で愛を示してくれてたのに。
ーーー
「日吉ー!そろそろ帰るよー!」
気が付けば陽が大分落ちていた。まだ夕方と言うには早い時間だが、夜の山は危ないもので、皆帰る準備を始めていた。
「先に戻っておいてくれ」
「分かった、じゃあ、橋のところで待ってるからね」
そう言って皆山道を降っていく。先輩達の姿が見えなくなった所で、滝壷に向かう。ドドドドド、と轟音を立てるそこは跡部さんが落ちた所だ。確かに、こんな所に落ちてしまえばひとかたもないだろう。そんな事を考えながら、俺は足を踏み出した。
ーーー
今日、俺もそちらに行きます。あんたは怒るかもしれないけれど、あんたがいないこの3年間は味気ないもんでした。だってそうでしょう?あんたは俺にとって光だった。あんたしか見えてなかったんです。今の俺は暗い世界で1人きりだ。もう一度、会いたい。跡部さんに会って、愛してるって言いたい。どうか、待っていてください。
ーーー
水面には薔薇の花束がひとつ浮いていた。それは雪で真っ白な渓流の景色に鮮烈な赤色をもたらしていたのだった。
春冬ようやくゆるむ候、いかがお過ごしでしょうか。
こちらは1番の冬の寒さも落ち着き、少しずつ春の息吹を感じ出しています。真冬には鼻を真っ赤にして道場に通っていた門下生の子供たちも道場の庭にあるぽつぽつと芽のふくらんだ桜の木を見て心を弾ませている様子です。
俺はといえば、相も変わらず実家の道場で兄を手伝っています。
門下生の子供たちを見る度に跡部さんと、そして先輩方とテニス部で駆け抜けた日々が懐かしく感じます。
ーーー
「日吉」
頭上から声をかけられて顔を上げると、滝さんが心配そうに俺を見下ろしていた。
「もうすぐ着きそうだけど」
「ありがとうございます」
コートのポケットを漁り、切符を探し出す。少し離れたところでは宍戸さん達が電車の外の景色を眺めながら談笑しているようだった。
「ねえ、本当に来てよかったの?」
「…ええ」
「でも日吉、」
ーー〇〇駅、〇〇駅に到着しました
滝さんが何か言いかけるが、目的の場所に電車が止まり続きは聞けなかった。何か言いたげな視線を寄越す滝さんを後目に椅子から立ち上がりドアへと向かった。
ーーー
あんたと付き合い始めたのは、丁度全国大会が終わった頃でしたね。あの時、俺に告白してきた跡部さんのバリカンで不揃いに刈られた髪から見える耳が真っ赤だった事を今でも鮮明に覚えています。あの頃からあんたはふてぶてしくてナルシストだったけど、中学生らしい可愛さもあったな、なんて思います。
俺が跡部さんの告白に頷くと、跡部さんは俺を思いっきり抱きしめましたよね。正直、いきなり抱きつくのは如何なものかと思います。それも中学生らしさと言われればそうなのかもしれませんが。
それから高校生になっても俺達は変わらず部活の先輩と後輩だったし、俺にとっては下剋上する相手でした。ただひとつ変わったのは、恋人としての時間が増えた事でしょうか。
あの頃は本当に楽しかったです。まだ部員が残っている部室でこっそりキスしたり、誰もいない道で手を繋いでみたり。あの時の俺は怒っていたけれど、本心ではまんざらでもなかったんですよ。まあ、青春ですよね。今思えば可愛らしい戯れです。
ーーー
「っは〜!やっぱさみぃなあ!」
「そりゃあ、冬やしなぁ」
「山奥ですしね」
改札を抜けて駅から出た先輩達が口々に寒い寒いと言いながらタクシー乗り場まで歩いていく。
今日俺は、氷帝学園の元正レギュラーの面々ととある山奥に行くことになっている。跡部さんと樺地はここにはいないが、宍戸さんや鳳、滝さんに芥川さん。それに忍足さんと向日さん。
この面子が集まるのは実に3年ぶりで、皆が浮き足立っているのが分かる。
駅前にも関わらずお世辞にも栄えているとは言い難いそこには2台だけタクシーが止まっていて、俺達はそれに2手に分かれて乗ることになった。
4人と3人に分かれてタクシーに乗り込む。俺は荷物があったから、3人乗りの方に。4人乗りの方に乗ることになった向日さんなんかはブツブツと文句を言っていたが、忍足さんに引っ張られて車内へと消えていった。
「その薔薇、綺麗だC〜」
ちゃっかりこちら側に乗り込んだ芥川さんが俺が持っている花束を見て言った。
真っ赤な薔薇は、跡部さんが1番好きだった花だ。風呂に浮かべたり、部室に飾ったり。跡部景吾と薔薇の花は切っても切れない物だったように思う。
「そう言えば景吾くん、日吉に薔薇の花をプレゼントした事あったよね」
「そうそう!確か高校生の時だったかな、あれは凄かったよね〜」
「まだ覚えてたんですか、そんな事」
「そりゃあね、だってまさかコートいっぱいに薔薇の花を敷き詰めるとは思わないから」
「跡部は日吉にメロメロだったよね」
助手席に座る滝さんの言葉に芥川さんが懐かしそうに頷く。恥ずかしい。全く、昔から跡部さんはやることなすこと大袈裟だから困ってしまう。それでこうして俺が恥ずかしい思いをするのだから、こちらの事も考えて欲しいものだ。
「あれが景吾くんにとっての愛情表現だったんだよ」
「それはそうですが……もう少し限度ってものを知って欲しいです」
「遠慮する跡部なんてちょっと気味悪いC!」
「それは……ふふ、そうですね」
殊勝な跡部さんを想像しようとして、どうしても想像出来なかった。その代わりにいつもの如く高笑いする跡部さんの姿を想像し、思わず笑ってしまう。やはり跡部さんは堂々としているのが相応しい。
ーーー
あんたが高校を卒業したらイギリスに行くって知った時は、「ついにその時が来たか」って思いました。それと同時に、鳳や先輩方に過剰なくらい「日吉大丈夫?」って心配されて。
俺としては全然大丈夫なつもりでした。けれどやっぱり、寂しさは日々膨れ上がっていって。そんな時あんたはいつだって俺に電話をくれましたよね。忙しいだろうに、電話越しに毎回毎回俺を安心させるように大袈裟なまでに愛を囁いて。俺はあんたから愛の言葉を貰う度にすげない態度を取っていたけれど、本当は凄く嬉しかったんですよ。
ーーー
「……日吉、元気そうだね」
笑う俺を見て芥川さんが安心したように微笑む。
「跡部が……えっとさ、ああなっちゃった3年前は、日吉すごく落ち込んでたから」
「うん、本当に。見るからに辛そうだったから。こうやって笑えるようになるなんてね」
「……その節は、ご心配をおかけしました」
先輩方に気を遣わせていた事と、当時の自分を思い出して顔を下げる。膝の上に乗せた花束がかさりと小さく音を立てた。
シン、と車内に静寂が降りる。そんな空気を掻き消すように、芥川さんが明るい声色で薔薇を指さして言った。
「薔薇って確か、本数で花言葉が決まるんだよね?これ、何本?」
「1、2、3……9本か。9本って何だったっけ?」
「……さあ、知りませんね」
「あー!日吉、その顔は絶対知ってるC〜!」
ーーー
高校を卒業してからも俺達の遠距離恋愛は変わらず、年に数回日本に帰ってくる跡部さんを待つ日は続いていて。
跡部さんは大学を卒業してそのままイギリスで働き出してしまって更に会う機会が減る中で、たまに会える時には毎回、真っ赤な薔薇の花束を持ってきましたよね。しかもかなり大量に。あれ、毎回置く場所に困っていたんですよ。俺がそうやって苦言を呈すれば跡部さんは「薔薇は本数で花言葉が変わるんだぜ」だなんて言っていたけれど、バラバラになって空のペットボトルやバケツにとりあえず入れられる薔薇はなんというかちょっとマヌケでした。それに、今どき100本の薔薇の花束だなんて、クサすぎですよ。
ーーー
タクシーはうねった急な山道を登り、桟橋の前に止まった。ここから先は車は通れず、徒歩で行かなければならない。タクシーを降りザク、と3月の雪を踏みしめた。
「雪で滑りやすいから気を付けろよ」
暖かそうなウェアを着込んだ宍戸さんが言う。宍戸さんは運動がてらここに来ることが度々あるそうで、道案内してくれる事になっていた。
「うわ、ちょっと怖いなあ」
「でもここ、すげえ景色が綺麗なんだぜ」
山道を登りながら進む。意外にも道が舗装されているお陰で難なく進む事が出来た。一面真っ白な雪で包まれた山道は壮観とも言えよう。息を吸えば冬特有のキンとした空気が肺を満たした。寒いけれど天気は良くて、気持ちのいい日だった。
ーーー
「若、俺と結婚してくれ」
そう言って俺の前で膝をついて小さな箱の中に入った指輪を差し出してきた跡部さんの顔は一生忘れられません。自信家なあんたが、唇を結んで真剣な顔で結婚してくれだなんて言うんだから。しかもあれ、海外出張から帰ってきてすぐでしたよね。玄関先でいきなりプロポーズだなんて、跡部さんにしては随分と余裕が無いというかなんというか。まさか今まで散々派手な事をし続けていた跡部さんがあんなにシンプルなプロポーズをしてくるとは思いませんでした。
俺は全く心の準備が出来ていなかったから、本当にびっくりしたんですよ。驚いて声も出ない俺に、あんたは「返事は今すぐじゃなくていい。明日俺が帰ってきたら教えてくれ」って言って。自分も緊張している癖に余裕ぶって。それなのに。
ーーー
しばらく山道を登ると、開けた場所に出た。「キャッチアンドリリース」「自然を大切に!」と古びた看板がいくつか立つそこは、懐かしさを感じるに十分な所だった。中学生の時から変わらない場所だ。
「……ここだな」
「あとべがよう来よった場所やな。人少ないのに魚が釣れる穴場やったらしいわ」
「へぇ。確かに水も綺麗だしいいかもね」
「……近くには滝壷もあるんですよ」
「ふーん、日吉詳しいじゃん」
「ええ、まあ。来たことありますからね」
ーーー
まさか、プロポーズの次の日に跡部さんが亡くなるなんて思いもしませんでした。ひとりでフライフィッシングに行ったあんたが足を滑らせて川に落ちたと聞いた時、本当に耳を疑いました。現場に行けばそこは俺が中学生の時に跡部さんに連れられて行った川で。その時の俺の気持ちが分かりますか?本当に、本当に辛かった。
次の日には朝のニュースはどこも跡部さんが不慮の事故で亡くなった事を伝えていて。跡部景吾の訃報は日本中を席巻したんですよ。死んでからもみんなの注目を集めるだなんて、本当に跡部さんらしいと思います。俺達は付き合っている事を親しい人達にしか伝えていなかったから、俺はあんたの葬式の時もただの「学生時代の後輩」として呼ばれただけでした。
だからこそ、今日先輩達はあの川に俺を連れて行ってくれるんだと思います。あの時俺は跡部さんに対して何も出来なかったから。骨を拾う事も、あんたが眠る棺桶に縋りついて泣き喚くことすらも。
ーーー
「もう3回忌だなんて早いなぁ」
「そうだな」
全員で黙祷を捧げた後は皆思い思いに川を眺めたり話し込んでいた。そんな中俺の隣に鳳が立って話しかけてきた。それに頷くと、それきり会話は無くなって。しばらく川の流れを眺めていると、鳳が穏やかな声色で呟いた。
「……いい所だね」
明るい太陽の下で水辺がキラキラと輝いている。澄んだ青い空の色と雪で覆われた山々が溶け合って美しい。遠くから聞こえる滝の音に耳を澄ませながら鳳の言葉に頷く。握りしめた薔薇の花束が白い景色に色を加えている姿が、跡部さんそのもののようだった。どんな所でも華やかに生きた、あの人のようで。
ーーー
ひとつだけ、ずっと後悔している事があります。俺はついぞあんたに「好き」だって伝えられなかった。あんたはいつだって俺に言葉と態度で愛を示してくれてたのに。
ーーー
「日吉ー!そろそろ帰るよー!」
気が付けば陽が大分落ちていた。まだ夕方と言うには早い時間だが、夜の山は危ないもので、皆帰る準備を始めていた。
「先に戻っておいてくれ」
「分かった、じゃあ、橋のところで待ってるからね」
そう言って皆山道を降っていく。先輩達の姿が見えなくなった所で、滝壷に向かう。ドドドドド、と轟音を立てるそこは跡部さんが落ちた所だ。確かに、こんな所に落ちてしまえばひとかたもないだろう。そんな事を考えながら、俺は足を踏み出した。
ーーー
今日、俺もそちらに行きます。あんたは怒るかもしれないけれど、あんたがいないこの3年間は味気ないもんでした。だってそうでしょう?あんたは俺にとって光だった。あんたしか見えてなかったんです。今の俺は暗い世界で1人きりだ。もう一度、会いたい。跡部さんに会って、愛してるって言いたい。どうか、待っていてください。
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水面には薔薇の花束がひとつ浮いていた。それは雪で真っ白な渓流の景色に鮮烈な赤色をもたらしていたのだった。
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