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文アル

 痩せぎすの胴にあばら骨が浮いていた。だから抱けなかった。
 そんなつもりはなかったのに、ベッドの上で服を脱いだ直木の痩躯は、暗闇では病的にすら見えてしまった。白いシーツに沈んだ腕は今にも折れそうだった。大の男相手にばかばかしいと菊池は頭の冷静なほうで思ったが、なにせ菊池寛は彼の死に際を一度見ていた。月明かりに直木の生白い顔がうっすらと浮き上がっていて、両目は猫のように光り菊池を見つめていた。
 その視線にあてられた菊池は、今更引き返すものかと平静を装おうとした。しかし手はどこにも伸ばせなかったし瞳はまばたきのたびに泳いでいたので、直木がとうとう「やっぱ今日やめとこうぜ」と助け舟を出す始末だった。

 暖房の乾いた空気が部屋を支配していた。ふたりにダブルサイズのベッドはあまりに狭かった。
「別にさ、そこまで落ち込むこたないだろ」
 直木は背を向けながらひらひら手を振った。それが余計に菊池の気後れを煽った。放埒な人間が気まぐれに見せる同情より重いものはない。
「ていうか腹減ったんだけど。なんか食っていい?」
 直木は返事を待たず、ベッドを抜けて備え付けの小さな冷蔵庫のほうへ向かった。肉のついてない脚と艶の無い癖毛が病んだけもののようだった。夜は駄目だった。月と星では直木のかたちを昼間のようには照らせなかった。菊池の姿だって、直木にはいつもと違うように見えているのだろう。きっといくらかしおらしく。
「げ、なんもねーじゃん」
 菊池の死角から声だけが聞こえてきた。勝手に漁っておいて何を手前勝手なことを、と少し腹を立て、挙げ句に聞こえよがしにため息をつかれたものだから、菊池は失態とか、少しどうでもよくなった。
「あ〜しゃあねえ、なあ今からコンビニ行くけどオマエなんか要る?」
「……いや、俺も行く」
「よっしゃ、奢ってくれ」
 直木の軽口に菊池はばか、とため息をついた。さきほどの生白い肌が、こんなしょうもない応酬や夜灯に埋もれていくことを願っていた。

 夕方、雨が降っていたせいか、外は湿った草のにおいがした。歩道に草履の引きずるような足音と革靴の硬い底の音がばらばらに響いていた。さみしげな街灯のせいか、直木の猫背はどこかの角で曲がってしまえばそのまま見失いそうな感じがした。
 菊池の前を直木はまっすぐに歩く。皺だらけの羽織の背中がさまざまな夜の明かりで照らされたり暗闇に溶けたりする。その歩みは、傷心を引きずった体と並んで歩くには少し速かった。
 おいていくなよ。子供の泣き言みたいな言葉は曖昧なまま菊池の中で混ざって溶けた。

 コンビニは街路で真っ白に光を放っている。行き場をなくした夜に流れつく先はいつもぎらぎら輝いている。
 自動ドアと短い音楽が走行音の行き交う夜を隔離した。店内には話題の漫画の宣伝やどこかで聞いた曲が空々しく流れている。そのポップさが夜からこの空間を浮き上がらせていて、人間は人形のようで、内装はすべて戯画的だった。直木の顔は白い照明にあてられて憂鬱に青ざめていた。さらには前髪が濃い影を作って、目を鉛のように曇らせていた。
「アンタ、もう少し休んだほうがいい」「そっくりそのまま返すぜ」
 皮肉げに細められた下瞼に隈が透けていた。
 直木がスナックを物色しにレジ前へ赴く。そのそばの狭いホットドリンクコーナーで、菊池はブラックコーヒーを選んだ。日付は変わったばかりで、戻ったところで二人には大人しく眠る以外のことはできそうにないが、その程度の自暴自棄が菊池のささくれ立った心をヤスリのように均した。
 直木は、その一部始終を横目に見ていた。その感傷を学生のようだと笑い飛ばすのは簡単だった。しかし直木はそうはしなかった。他人の心のくすぐったいところと本当に痛いところとの境界線をきちんとわかっているのだ。わかっているから、わざとそれを踏み越えたものを書いたりする。
「直木、決まったか」
「ん、とっくに。オマエ待ちだぜ」
 店員と客の間の白い板の上に缶コーヒーが置かれた。「あと竜田揚げ」と直木が付け加えた。しめて三百二十三円。菊池の革の小銭入れから出てきたのは三百三十円。
「あ、袋はそこで食べるからいい」
 直木がそう言った。店員はレジに目をやったまま、伏目がちに「はい」と頷いた。新人らしい。
 コーヒーと紙に包まれた竜田揚げと一緒に、レシートに包まれた小銭が帰ってくる。菊池がそれを受け取り、店員の覚束ない挨拶を背に二人は店内の席へ向かった。
 窓際の席には他人たちの背中が不規則に並んでいる。その間には、まるで地球の終わりを待っているかのような憂鬱さと自棄が静かに充満していた。
 その間をかき分け、示し合わせたかのように二人は一番奥の席に座り込む。
 菊池は缶コーヒーのタブをひねる。カフェインのためのコーヒーは安物の味がした。直木が竜田揚げの包装を破り、衣を噛む音が流行りの歌をかき消した。普段はことあるごとにこってりしたものが食べたいとぼやく菊池だったが、今は見ているだけで胸焼けがしそうだと思った。
「なんでやめたんだよ」
 テーブルの上に横たわっていた沈黙へ、直木が乱暴に切り込んだ。度胸九十六点なりに心の準備してたんだぜ。冗談めかした声だが、窓の向こうを見つめる目もとは笑っていなかった。言葉にした端から夜に呑まれるかのように、何もかもが面白くない。
「アンタの体が折れそうだったんだ」
「生娘相手でもそんなこと滅多に思うかよ」
 オマエ、めんどくさいな。そう切り捨てたのと同じ口で、国語便覧の白黒写真とは似ても似つかぬ顔の青年に「ヒロシ」と呼びかけることが、彼らがいかにめんどくさい生き物として生まれついたかをあらわしていた。
「だってアンタを俺は……」
「男相手に勃たなかったくらいでそんな大ごとにしなくていいだろ」
 見え見えの顛末を直木が切り捨てた。しかしその刃は無闇に鋭かった。
「そもそもオレのような男を抱きたいなんて気が狂ってるだろ。……いや、恋なんて正気じゃできないな」
 菊池の「俺は」に続いただろう言葉を拒否するように、直木は話を単純にしたがったが、無意味に露悪的な言葉は菊池の心をかすめただけだった。
「違う」
 そのかすり傷が菊池に感情の先行した否定を言わせた。
 直木は、齧ったものを咀嚼しながら、「んあ?」と少し間抜けな相槌を打った。
「気が狂ってようが構わん、俺はアンタが好きだ」
 その言葉は菊池なりの意趣返しのつもりだったが大胆に過ぎて、いきなり現実が恋愛小説の世界になったような自分の吐いた台詞に、脳が動作不良になりそうだった。頬が熱かった。しかしその熱も冷静な思考にすぐさま冷めていく。
「……おう」
「でも、直木だったから、駄目だった」
「親友だから?」
「茶々を入れるなよ、今は違う話だろ」
 直木は口の中で今は、と繰り返した。
「アンタだからだ。俺の記憶が、その身体にアンタの過去を重ねて、着せてしまったんだ」
「……正直なことで」
 直木は自分が振った話のわりに、さして興味がなさそうに頷いた。負い目を隠しているようにも見えたが、先に死んだ死なないを負い目に感じたってどうしようもないのは転成文豪なら誰でも知っていたから、菊池の感じたそれは憶測の箱にしまわれなかったことになった。
「うん、まあ、わかったよ。今日のことは忘れようぜ。それが一番賢い」
「わかってないだろ」
「わからなくていいよヒトサマの事情なんざ」
「アンタから聞いたくせに……。なかったことにはならないぞ」
「なかったことにならなくても、ヒロシは一緒に遊んだり映画作ったり金貸したりしてくれんだろ」
 直木の言葉には疑いのかけらもなかった。だから菊池はやられてしまった。愛も恋も些事のように言ってのけるそれは、恋に射抜かれた心には劇物だった。
「……いや、貸さんよ。まだツケが残ってるだろう」
 その劇物を切り返す返答が、なんとか口から出る。話題と気持ちを逸したかったためのそれに、直木は大げさにため息をついてみせて、それから「フフ」と息をつくように笑った。
「いいじゃねえか、別にこれで。子が欲しいわけでもあるまいに」
 窓の外に等間隔に並んだ街路樹が、暗闇に陰影を失って影絵のようになってざわめいていた。「でも」と菊池は言いかけて、その先の未練がましい言葉が直木に斬り倒されることを思って黙った。何もかもは直木の気まぐれで、残りは好奇心と性欲とあとちょっとの恋心でしかなかったのだ。
「抱いたってセックスしたことあることになるだけだし、失敗してもただセックスできなかったことになるだけ。だろ」
 直木はつとめて冷徹なふうに言ったが、実際は言い聞かせるような理想論で、誰もがささいな事故からさまざまなしがらみに絡まって助けを求めていた。
 二人が話している間にも齧られ続けた竜田揚げは、とうとう最後のひとくちが飲み込まれ、直木は「ごちそうさん」と、菊池を上目使いで見た。
「ヒロシ、まだ腹減ってるか?」
「え、……いや」
「そ。帰ろうぜ、オレもう眠い」
 直木に応えるため、菊池は冷めた一口分のコーヒーを喉に流し込んだ。

 歩道にぎゅうぎゅうに詰まって二人の肩がぶつかるのを、通りすがる車のライトが照らした。直木は冷え性だから、触れる指先が冷たかった。
 あの頃ならこんな関係にはならなかっただろう。しかしあの頃の記憶がなければ、二人は言葉を交わすことすらなかったのではないだろうか。俺たちは何寸か『浮いている』、菊池はそう考えていた。しかし窪んだ鎖骨や青白い爪に、過去の冷たい皮膚が結びつけられてしまった。
 図書館まで近道のあまり人目のない路地に入る。ふと、直木の乾いたくちびるが脂でてらてらと濡れているのを見て、菊池は衝動だけでキスをした。胡椒とか油とかにんにくの味、美味くはなかった。
「うわ、何、今更? 今からとかオレ朝起きられなくなんだけど」
「俺だって今日はもう疲れたさ、というかアンタが朝に起きたためしはないだろう」
 その冗談に直木はいたずらそうに笑ってから、ふと菊池と目を合わせ「よくわかったろ」と子供に聞かせるように言った。
「……なにが」
「オマエがあんなになっちまったのは、まあ、いろいろ間が悪かっただけだって」
 そう言ってから、直木はしおらしく目を伏せた。
「いや、なんつうか、そんだけじゃないのはわかってるぜ。さっき聞いたし。いろいろ迷惑かけたもんな」
 いろいろ、が直木の舌の上で空虚に転がる。直木の雲の色をした光彩と墨色羽織の色とが、菊池の目の中で重なろうとしてぶれた。
「でもさ、違うぜ、ロボットだよオレたちは。うん。オレはオレを直木だと思ってるが、本当は違う。オマエだって、そう」
 確かに直木の言うところの迷惑、をかけ直木三十五は死んで、菊池寛もとうとう死んだ。ここにいる二人は作品と偏見と一欠片の魂をヒト型にして生まれたいきもの。肉体も魂も、彼らのものと断言するには『浮いている』。
 しかしそこにも小指の先ほどの何かは残っていたはずで、ふたりがこうなってしまったのは小指の先ほどの繋がりがねじれた果てだった。
「難しい話だけどな」
「それでも俺はアンタを直木だと思っている」
「きざだね〜オマエ。十点」
「……口説き文句が?」
「わかってんじゃん」
 菊池はため息をついたが、内心少し落ち着いた。菊池は、直木のこういうつぎはぎのような部分が好きかと問われればそうではなかったが、それを理由に直木を嫌いにはなれなかった。惚れた弱みと言ってしまえば簡単だが。
 しかし直木は悪どく笑ったかと思えば、うつむいてこう吐いた。蚊の鳴くような声だったが、たしかに菊地は聞いた。
「……次、しくったら、二度とやんねえからな」
 菊池は背骨に雷が走ったような心地になった。なぜやめたと問われたときに合わなかった目線が全てだった。
 本当と嘘の区別もないような、ましてやプライドの高い直木が、こんなにもあけすけに語ることなどそうない。
「直木、」
「勘違いするなよ。二度もオマエの暴露大会に付き合う義理はないってことだバーカ」
 直木はそう言ってわざとらしく舌を突き出したが、なぜか菊池の心には台風の中心のような清々しさがあった。

「眠い」と言ったとおり、帰ってから直木はすぐに寝てしまった。結露越しの空に金星が輝いていた。菊池はカフェインにやられて眠れないまま空が桃色になるまでを眺めていた。
 空に赤みがさしてからは早いもので、朝はまたたく間に電気のついてない部屋を暗闇から引き揚げ、陽光は直木の髪を透かして、肌を照らした。
 それでも隈は消えなかった。骨の浮いた手首は細かった。菊池がその瞳で直木を照らして見ているかぎり、菊池はあの直木の姿を忘れることはできないだろう。
 それでもまだコイビトでいたいと思った。裸になれなくても。お互いにへんな姿を着せて、ねじれた繋がりで。
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