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原神

 そうして、モラクスと若陀龍王は月に降り立った。

 耳が痛くなるようなしじまだった。
 若陀龍王は、見渡す限り続く砂漠を見ていた。砂と小石と塵を被った大地が無感動に広がって、小さくたよりない光をちりばめた暗闇のなかで灰白色に浮き上がっていた。
 そこに浮き出るようにある一筋の足跡を目線で辿ると、その終点にはモラクスがぽつねんと立っており、彼は大きく青い星をながめていた。無風の地に佇むモラクスの背中は錆びついた時計のようで、こんなにもつめたい景色がそう感じさせるのだと、若陀龍王は思った。
「月が、」
「ああ」
「こんなに素っ気のないところとは思わなかった」
 若陀龍王は、月面に転がる砂石を共鳴させて言葉にした。大気がないから声もないのだ。
「最初に言うことがそれか!」
 モラクスは振り返り、若陀龍王の言いように愉快そうに目を細めた。そうしてかろやかな足取りで若陀龍王のほうへ寄り、まるで手を取るように岩のおとがいへ触れる。
「ああ、そうだ、テイワットと比べて月の重力はとても軽い。どうか転ばないでくれ。今の俺では、お前を起こせるかわからない」
 モラクスはそう言うと人間とよく似た小さな身体で、大げさな転ける身振りをした。金剛石のように端麗なかたちで、真面目くさった顔でそういうことをするものだからおかしくて、ふたりはしばらく笑った。
 それからモラクスは訊いた。
「お前の想像では、月はどのような世界だったんだ」
 若陀龍王は気恥ずかしく思いながらも、きらびやかな空想を言葉に換えてみた。
「……そのほうがきれいだ」
 モラクスは心から憧憬を感じてそうこぼすと、足元の静かな砂を見下ろした。
「ここは雨が降ることも、雷槌が落ちることもない。山地のように風が吹くこともなければ、雨林のように草木も育たず、そして恒星のように燃え盛ることもない」
「だからこそ、ここがよかったのだろう」
「そうだな。そうだった。たとえ今から俺とお前が全力で戦ったとしても、遠い星に、浅い穴がいくつか増えるくらいだ」
 モラクスは今一度、ぼんやりと光る星を見た。あの青く光る大気とまだらな雲の内側には、ふたりの愛した極彩色の景色と歴史があったのだ。
「うつくしい星だったな」
「広大な星だった」
「もう吾らには必要ない」
「そうだな。あの世界は俺たちをもう必要としない」
 それから少し考えて、モラクスは、
「さみしいか」
 と、訊いた。
「朋友は既にいない。俺たちの愛したすべてはここにはない。足元に並ぶこの石の欠片すら、お前のきょうだいではないんだ」
 そこまで言ってからモラクスは目を伏せた。
「卑怯な質問だったな。許してほしい」
 時の力とは計り知れないものだ。岩でさえこうも丸くなってしまうのだから。今更どうしようもないことを聞いてくることに、しかし若陀龍王は怒りを感じなかった。月にさえやってきたのだから、なんだか、今ならば過去の宿敵とさえ一杯酌み交わせそうな心地すらしていたのだ。むしろ逆に、こんな果ての地まで道を共にして孤独そうなモラクスに少し憤っていた。
「貴様がいるではないか」
 そんな思いをまとめて、若陀龍王が言うと、モラクスはひととき目を見開いて止まったあと、
「ああ、そうだな。お前がいる」
 と、頷いた。時間すら死に絶えたように見えるまっくろな空を背景にはにかんだ。
「そうなら、いいんだ」
 そうしてモラクスが言葉を止めると、静寂が現れた。すこしぎこちないような静けさだったが、この沈黙以上にこの瞬間をうつくしくする音はないような気がして、若陀龍王は星の間にあるしじまに身を浸した。それから、時間をていねいに暖めるように、ふたりで歩いた。灰色の地平線が続く世界を。ここには宮殿の遺跡もなければ、文明の火種もまだない。
 そうしているうちに、まぶしい珠は遠くへ去り、明かりをなくした砂は影と影を描き、黒はさらに暗くなった。夜が来たのだ。月にさえ昼夜はあった。夜が来てからもしばらく歩いて、かと思えばふいにモラクスが足を止め声を響かせた。
「ここで最後だ」
 理由などないのだろうと半ば思いながら、なぜここなのかと若陀龍王が問うと、モラクスは「そういう気分だったからだ」と答えた。厳格な神だったいきものには、案外そういうところがあった。契約も祈りもなくとも、ほんとうはなんでもひとりで決められた。
「もうすこし歩くか」
「いいや。吾もここがいい。……少し、疲れた」
「俺もだ」
 若陀龍王が振り返ると、ここまで続いた二対の足跡を、星々がうっすらと照らしていた。ここに吹く風はなく、軌跡を消し去ることも、奇跡を連れてくることもない。
「俺は最後の責務を果たそう。そうしたら……俺も休む」
 モラクスはそう言うとヒトならざる異能の籠もった指先で若陀龍王に触れた。途端、往昔に元素と呼ばれていたものが飛び散る。若陀龍王が、すこし、ちいさくなった。外殻が砕け宇宙の塵になって、循環を飛びてて行き場をなくした力は星に留まっていくつも地面に穴を作る。自意識と無意識の境目が一秒毎に曖昧になっていく。それはモラクスも同じで、右腕が石になって内側からばらばらになった。かといってもう何もかもが止まれない。
「モラクス」
「ああ」
「貴様と交わした契約をこうやって終わらせられることを、吾はこの上なく幸福だと思っている」
 若陀龍王がそう言うと、モラクスはやわらかに笑った。
「俺も、お前をもう長過ぎる時間に置き去りにすることがなくて、とても嬉しいんだ」
 そう吐露されたモラクスの心境に、若陀龍王は言葉が出なかった。かつて焼き付いたすべてが今、ひび割れて、新しい感情に書き換わっていく。失われていく自我と一緒に。
「……さようなら」
 しばらくしてから、清らかな一滴の雫を落とすように若陀龍王は言った。
「ああ、さようなら」
 と、モラクスは応えた。
 岩が割れる音、モラクスが最後の責務を果たす音が子守歌のように響く。深淵より暗い本物の空の下で、モラクスの黄金の双眸は夜明けのようにかがやいている。それを目に焼き付けた若陀龍王は、おだやかな気持ちで目蓋を閉じた。
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